[青森県内観光]
 
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遊歩写真旅!あおもり岬めぐり

下北半島─その17

○なぜ、大間崎に啄木の碑が?

 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて蟹とたはむる
 あまりにも有名な石川啄木(1886─1912)の短歌です。
この歌を刻んだ文学碑が大間町の大間崎に建っています。
 石川啄木の文学碑は、青森県内には5基存在します。
青森市、野辺地町、十和田市、八戸市、そして大間町です。
 青森市は、明治40年5月4日に妹・光子とともにここから船で北海道に渡っています。
文学碑は合浦公園にあり「船に酔ひてやさしくなれるいもうとの眼見ゆ津軽の海を思へば」と刻まれています。
 野辺地町には、僧侶の伯父・葛原対月が同町の常光寺の住職であったことから3度訪れています。
啄木の父・一禎も僧侶で、対月和尚は一禎の師でもありました。
一禎は一時、常光寺に身を寄せたことがありました。
文学碑は同町の愛宕山公園にあり「潮かをる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇よ今年も咲けるや」と刻まれています。
 十和田市は、十和田湖休屋のホテル十和田荘の庭に碑があり、「夕雲に丹摺はあせぬ湖ちかき草舎くさはら人しづかなり」と刻まれています。
この歌は啄木が旧制盛岡中学校4年生のとき、学友とともに十和田湖を訪ねる途中、秋田県鹿角市毛馬内の錦木塚の伝説を知り、詠んだとされています。
歌の中にある「丹摺(にずり)」とは、その伝説に出てくる想う人の戸口に立てかけた錦木の赤い塗色のことだそうです。
 八戸市は、啄木が明治37年9月28日、北海道に渡る途中に当時の尻内駅前の旅館に投宿しています。碑は、現在の八戸駅近くに建ち、そのことを伝える書簡の一節が刻まれています。
 そして、大間町ですが、ここだけは啄木との縁を示す確たる証しがありません。
にもかかわらず、大間崎には立派な文学碑があります。
 3基の石が並んだ歌碑は、正面に向かってまん中の碑には「東海の…」、右の碑には「大海にむかひて一人七八日泣きなむとすと家を出でにき」、左の碑には「大といふ字を百あまり砂に書き死ぬことをやめて帰れ来れり」の歌が刻まれていて、それぞれに英訳も配されています。
 では、なぜ大間崎に啄木の歌碑なのか? 
建立までの経緯には興味深いものがあり、そこには「東海の…」の歌の原風景は大間にあり─という“東海歌・大間説”の存在があります。
「東海の…」の歌は、啄木が滞在したことがある函館説、小樽説のほか、どこの地と定めずに啄木が詩情の湧くままに作った歌という研究者もいるなど、どこの風景を詠んだのか未だにナゾです。
 “東海歌・大間説”は、昭和40年ごろに浮上したもので、これを大間町のY氏をはじめとする有志が、町の活性化につなげようと、平成元年ごろからその裏付けのための調査・研究を始めました。
 大間町には、啄木が大間町に滞在したとする旧地蔵庵住職の証言が残っていて、これが“東海歌・大間説”の端緒になっています。平成7年には、大間町の隣りの旧大畑村の医師・中山梟庵(きょうあん)の「啄木はよも忘れまじ青森県大畑にある正教寺」という歌が発見され、啄木と下北との縁が確認されました。
 このほか大間崎の沖合に浮かぶ弁天島が東海歌の情景にぴったりであること、町内に「白砂海岸」という場所が存在することなどから、ますます“東海歌・大間説”の可能性と気運は高まり、平成10年7月に歌碑は建立されました。真偽のほどは啄木のみぞ知るですが、本州最北端に建つこの歌碑が秘めた“文学ロマン”は魅力的です。



大間崎の突端に建つ石川啄木の石碑


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