[青森県内観光]

「恵雲と辻風の珍探訪」

 

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その5

■四番 紫雲山南貞院(しうんざんなんていいん/弘前市)<1日目>  

○地元民の厚い信仰心で長い歳月支えられてきた村の観音様

観音堂の建物が新しいのに、歴史が古いとなれば、何かしらの紆余曲折があったに違いない。
高杉観世音堂の歴史をたどってみよう。
大同2年(807)、蝦夷征伐(えぞせいばつ)のために攻め入った征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の子・花輪丸(はなわまる)は、岩木山のふもと・長者の森に拠点を置き、制圧に成功した。
その後地元民と国家守護のために聖観音堂(せいかんのんどう)を創設したのが始まりとされている。
一方、南貞院の開基は僧・南貞で、1673〜81年の延宝(えんぽう)年間の創建だとされている。
僧・南貞には後継者がなく、廃寺となったが、その後有志らによって再興し、昭和25年には紫雲山南貞院に昇格したと伝えられている。
聖徳太子作と言われる聖観音像はもともと加茂神社の中に同居していたが、明治の神仏分離令で姿を消した。
しかし、間もなく住民の厚い信仰心により、札所が南貞院の前身・南貞庵に再開されたと伝えられている。
先ほどの位牌らしきものに書かれていた200回忌という数字を検証してみると、開祖が70〜80歳あたりで亡くなったとして、そこから現在まで約250年以上経っている。
一般に亡くなった方の供養は33回忌までと言われているが、丁寧にする場合は150回忌、200回忌、300回忌まで行う場合もあるという。

最初、私たちが間違えて到着した「加茂神社」に、その昔、正観音像が奉納されていたという事実を知って、もしかしたら何かに呼ばれて辿り着いたのかもしれないという神秘的な気分に包まれた。
朱印所は無人で、名前と代金を記帳し、大型の貯金箱に朱印代200円を入れる様式となっている。記載名簿を見ると、ほぼ毎日誰かが訪れており、最近の大口は青森市からの53名の団体で、しめて10,600円也。
確かに団体での参拝になると高額になる。これでは賽銭(さいせん)泥棒も放っては置かないとなれば、朱印所の管理もなかなか大変なものだと感じた。
南貞院の第一印象は、正直に言って「えっ、これが参拝場所か?」と思うほど簡素なたたずまいだった。
境内は人家に囲まれた狭い一角で、近くに自転車などの粗大ごみが山積(さんせき)していて、一見して寺院としての風格が劣るように見えた。
しかし、意外にも古い歴史を持ち、現在も信者が後を絶たないことを知り、もしかしたら、これが現代の札所の継続の形なのかもしれないと思った。
檀家(だんか)のない寺院はおそらく賽銭だけで生計を立てるのは容易ではないし、後継者がいないとなれば廃寺は免れない。
例え蜘蛛(くも)の糸のように細々とした運営であっても、村の有志らによって、札所が継承、維持されていることに信仰の深さを感じた。

そんな思いで改めて見ると、南貞院はつましくも手入れが行き届いていて清潔感がある。
この札所はひっそりと可憐に咲く野の花のようで、地元民のささやかで純朴な思いが込められているような気がした。

 

                                            (辻風)


紫雲山南貞院(浄土宗)
本尊 聖観音菩薩
御詠歌:はるばると詣でくる間のわが心 名も高杉の森にとどまる
〒036-8302 弘前市高杉字山下208




 








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