[青森県内観光]

「恵雲と辻風の珍探訪」

 

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その10

■三十三番 普門院A(ふもんいん/弘前市)<2日目>  

○奉納額に描かれた百万遍の人々に興味津々

 正面の本堂へ向かった辻風さんが声をあげた。
「見てみて。なんかかわいい!」10センチもないくらいの小さなお地蔵様!? 
石灯籠の中にちょこんと立っている。
誰かが置いていったのだろうか。思わず笑顔になった。
本堂は閉まっていたので、軒下の鰐口(わにぐち)をポーンとたたいて拝む。
 「津軽第三十三番札所」の木札がある庫裏(くり)に御朱印をいただきに行った。
ご住職が出てきて「こちらからお参りできますよ」と言ってくれた。
庫裏から本堂に渡れるのだった。
庫裏の玄関から通路の上には、大きな奉納額がいくつも掛かっていた。
1821年(文政4年)に藩士20名が奉納した「関羽書見之図」は、津軽藩お抱え絵師の新井晴峰(せいほう)が描いたもの。
「これ面白い!」と辻風さんが指差していたのは、長〜い数珠を回しながら大勢で念仏を唱える百万遍(ひゃくまんべん)の絵図。
明治、大正、昭和にそれぞれ奉納されたものだ。
 本堂はひんやりしていて、頭上に「観音堂」と彫られた額が掲げてある。
中央にお堂の形をした厨子(ずし)があって、こちらに御本尊の聖観音菩薩が入っているようだ。
向かって右側に庚申様である青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)が睨(にら)みをきかせ、左側には閻浮檀金(えんぶだんこん)観世音菩薩が金色に輝いていた。
 普門院はもともと重森山の山頂にあった観音堂だった。
弘前城を築城した信枚(のぶひら)は、城の南にある重森山観音堂から城内が丸見えになることから、観音堂を現在地に移転し、1615年(元和元年)、この山を切り崩し、土砂を運んで整地した所に禅林街を造ったのだ。
1678年(延宝6年)には4代藩主信政が観音堂を再建して「観音山普門庵」と改称。本堂にあった閻浮檀金観世音は信政の生母である久祥院(きゅうしょういん)が寄進したものだそうだ。
津軽の観音霊場としては当初四番だったが、寛永(1748〜51)の頃に三十三番の結願所(けちがんしょ)となった。
明治に入って禅林三十三カ寺の中に加えられ、1918年(大正7年)に寺格を得て「普門院」となった。
 弘前で「山観(やまかん)」といえば、先ほどお目にかかったご住職が作る精進料理と、市内で最も早い宵宮(よみや)が有名。
毎年旧暦4月17日の夕暮れ時に開催される初夏の風物詩はもうそろそろ。
神社、お寺が数多くある市内に、連日にぎやかに露店が立ち並ぶ季節がまもなくやってくる。


                                          (恵雲)

観音山普門院(曹洞宗)
本尊 聖観世音菩薩
御詠歌:今までは親と頼みし笈ずるを 末茂森の御堂に納むる
〒036-8273 弘前市西茂森2丁目17-4










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