[青森県内観光]

「恵雲と辻風の珍探訪」

 

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その23

■十九番 義経寺@(ぎけいじ/外ヶ浜町・旧三厩村)<5日目> 

○伝説の龍馬三頭が繋がれた巨岩・厩石

 津軽海峡を望む三厩、今別周辺を巡るには晴れていた方が断然いい。
海の色が違うもの。今日、最初に向かうのが義経寺。
その名の通り、源義経の伝説が伝わる場所だ。
 今別町から海沿いに国道280号線(松前街道)を走って外ヶ浜町の飛び地、三厩地区に入る。
三厩漁港には漁船が数隻。海の向こうに薄っすら見えるのは、方角的にいって下北半島だろう。
北側は残念ながら薄雲がかかっていて北海道はよく見えない。
埠頭には「義経寺」の看板があり、道路を隔ててドーンと大きな岩。
3階建の建物くらいの高さで幅は20メートルくぐらいもあるだろうか。
厩石(うまやいし)と呼ばれるこの岩には、波で浸食された大きな穴が開いている。
その前には石碑がいくつか立っていて、「松前街道終点之碑」もあるけれど、気になるのは「源義経龍神塔」
「静御前龍神塔」。
「本当に義経がここまで来たと思う?」私も辻風さんも興味津々で説明を読んだ。
1189年(文治5年)に衣川で自害したはずの義経が実は生きていて、蝦夷が島(北海道)に逃れようと、この地にたどり着いたが、津軽海峡は荒れ狂い、渡ることができない。
そこで義経は奇岩の上に座り、持っていた小さな白銀の観音様を置いて、三日三晩祈願した。
すると白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい」と言って消えた。
翌朝、三つの岩穴には三頭の龍馬がつながれていて、海上は鏡のように静まり、義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。
それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩)と呼ぶようになった―。
時は流れ1630年(寛永7年)、行脚僧・円空がこの観音様を発見。流木で聖観音像を刻んで胎内に白銀の観音を納め、庵(いおり)を結んだのが義経寺の始まりという。
いわゆる義経北行伝説は、江戸時代中後期には広まっていて、明治の頃には義経が大陸に渡って成吉思汗(チンギスハーン)になったという説まで出てきている。
寛政年間(1624−45年)に書かれた京の名医橘南谿(たちばななんけい)の「東遊記」でもこの伝説に触れ、「波打ち際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり」と書かれているそうだ。
もっとも、太宰治は小説「津軽」(1944年・昭和19年)の中でこの「東遊記」を引用し、「故郷のこのような伝説は奇妙に恥ずかしいものである」などといっている。
「3つの穴ねえ、2つしかないような……」辻風さんが厩石の穴をのぞきこむ。
岩肌は斜めに筋状に線が入り、巨岩の頂上には松が寒風にも負けずしっかり根を張っていた。

                                       (恵雲)

龍馬山義経寺(りゅうばさんぎけいじ/浄土宗)
本尊 聖観世音菩薩
御詠歌:陸奥のいわれをこゝに来て三馬屋 浪打際に駒ぞ勇める
〒030-1732  東津軽郡外ヶ浜町三厩家ノ上76










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