[青森県内観光]

「恵雲と辻風の珍探訪」

 

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その31

■十七番 春日内観音堂(はるひないかんのんどう/五所川原市)<6日目>

○正観音を御神体に神社として生き延び、観音堂として蘇った春日内

 中泊町小泊地区から国道339号線を10kmは南下しただろうか。
国道沿いの案内板を左折し、2kmほどのところに鳥居が現れた。
春日内観音堂は中世時代、十三湊(とさみなと)を拠点とした豪族「安東氏」の山城・唐川城跡の真下にある。
案内板によれば、この神社はもともと竜興寺と春品寺で、お堂は飛龍宮と言われ、1614年に観音堂として再建。
明治の神仏分離令で観音堂は廃れ、正観音を神体とした春日内神社として蘇ったが、大正時代になってから、飛龍宮を廃して春日内観音堂としたそうだ。
明治の神仏分離で寺が神社に姿を変えることはよくあるが、それを再び観音堂と呼び直したのは、観音様の根強い人気で後を立たない巡礼者たちが理由だろう。
それにしても、この案内文で驚いたのは「正観音を神体とした」と言う言葉。
そういえば、以前訪れた二十四番の入内観音堂をはじめ、「仏像の前に鏡」を飾っている札所がいくつかあったが、仏像を御神体とみなしたからなのか。
そういえば平安末期から鎌倉初期、御神体である鏡に仏像を浮彫にして神社に奉納した「御正体」(みしょうたい/懸仏(かけぼとけ)とも)というものがあるらしい。
「神様はもとは仏様」という本地垂迹説に基づく、神仏習合の証だ。
そんな風に神も仏も一緒だったわけだから、急に分離すると言ったって、人間の心情とすれば一度拝んだものを無下には捨てられず、仏像を神社に残すのは自然な流れだと思う。
雪解け間もないとはいえ、鳥居は朽ち、赤い太鼓橋は塗が剥がれてロープが張られている姿は、可愛そうだ。
管理・朱印所の「蓮華庵」も民家の一室だが、おそらく本堂と渡り廊下で続いているものの、人けがなく、入口に連絡先が貼ってあった。
観音堂の存続もなかなか大変だと感じた。
お堂の入口は白いロープで蝶々結びにくくられていて、自由に入ることができた。
燭台の向こうは奥の院に続いており、鍵のかかったガラス戸越しに厨子の扉が見える。
この観音堂の背後は上から岩肌が迫り、チョロチョロと細い滝が流れ、急斜面を登る遊歩道に三十三観音の板碑が点在している。
ここを登れば唐川城跡の展望台にたどり着けるのだろうが、先を急ぐのでやめにした。
帰り道、車を走らせていると、急にのそっと黒い影が動いた!と思ったら、大きな黒い牛が牧草地から顔を覗かせたのだった。
親子なのか3頭でこちらを見つめている。
すると間もなく、60代程のおばさまが、タオルで汗を拭きつつ近づいてきた。
「観音さまはこっちかい?」「はい」。
今まで車での巡礼者は見かけたが、徒歩は初めてだ。
三十三の札所全部を公共の交通機関と徒歩で巡礼しているのであれば、ものすごい体力だ。
改めて観音様の根強い人気に畏怖の念を感じた。

春日内観音堂(相内飛竜宮/浄土宗)
本尊 聖観世音菩薩
御詠歌:野をも過ぎ山路に向う雨の空 祈れば晴るゝ峰の曇りも
〒037-0401 五所川原市相内岩井81















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