[青森県内観光]

「恵雲と辻風の珍探訪」

 

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その52

二番 清水観音@〜番外岩屋観音(きよみずかんのん〜ばんがいいわやかんのん/西目屋村) <11日目>

○御朱印帳に現れた“番外”に呼ばれて

 明治初頭の廃仏毀釈で、お寺が神社になったりすると、難を逃れて観音像や札所が引っ越す場合がある。
しばらくして「やっぱり観音さんは大切な仏様だ」という民衆の思いが復活すると、一度は廃れた観音堂が再興したり、引っ越す前の札所と、引っ越した先の札所とが、のれん分けのような形で並存したりと、同じ観音様なのに札所が複数存在することもある。
二番はその典型だったらしい。
私も恵雲さんも、この清水観音の変遷をよく知らなかった。
しかし、それは突然知らされる羽目になる。
ある日「三十三観音の旅もあと少し!」と御朱印帳を眺めていると、“番外”というページを発見。
はて、網走番外地じゃあるまいし、三十三観音に番外とは、一体どういうことだろう?
 調べてみると、西目屋村に“岩屋観音”という二番札所の番外があるらしい。
「番外」という謎の響きに衝撃を受けた私たちは、一路西目屋へ。
 その前に二番札所の変遷について調べておこう。
清水観音堂の由来は坂上田村麻呂の創建説と行基上人によるものの二つがある。
後者によれば、天平3年(731)仏教布教のために目屋を訪れた行基上人は、千手観音像を彫って大高森山(西目屋村)の岩屋に置いた。
すると背後の老いた松に白い花が咲いたので、驚いた地元民が信仰の道に入り、「花咲き松の観音様」として親しまれたといわれている。
ここが今向かっている「二番・番外 岩屋観音」にあたるらしい。
ところが、弘前藩の4代藩主信政は千手観音を高森山から桜庭へ移した。
舞台づくりの本堂が作られ、多くの参拝者でにぎわったが、明治の神仏分離で多賀神社となる。
これが現在の「二番札所・清水観音」だ。神社となったため、安置されていた千手観音像は弘前市・禅林街の「桜庭山陽光院」(陽光院は桜庭から現在地に転居)に移された。
県道28号をまっしぐら、青森市から1時間半かけて西目屋村までたどり着いたが、観音堂の場所がわからず、役場に入って聞いてみた。
ここからすぐ近くだと分かったので、先に観光名所の乳穂ヶ滝(におがだき)に寄り道することにした。西目屋は白神山地をはじめ、絶景、美観が集結する村。楽しみだ。
(辻風)

番外 岩屋観音
御詠歌:萬代の誓いをここに頼みおく 水は苔より出ずる宮かな
西目屋村田代山科
TEL 0172-85-2111(西目屋村役場)












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