[青森県内観光]

「恵雲と辻風の珍探訪」

 

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その58

■最終章 巡拝を終えて@

○津軽三十三観音が愛されるわけ

 “津軽三十三観音”なので、三十三カ所さえ回ればすむと思ってたが、一カ所につき複数の札所もあったので、とても三十三カ所では収まりきれなかった。
道中、魑魅魍魎(ちみもうりょう)にこそ囲まれなかったが、神仏の使いかと思われる様々な生物たちや迫力ある霊地の大パノラマと遭遇し、心震わす旅だった。
個性あふれる札所ばかりで、すべての札所が、地域の人々によってあたたかく支えられているのを感じた。
 巡礼前に思い浮かんだ疑問が、今わかった気がするので、まとめてみたい。必然と信じて集めていた「御朱印」は、単なるスタンプラリーではなく、きちんとしたいわれがあった。
観音信仰は西暦2世紀前後のインドに始まり、6世紀頃日本に伝わり、津軽にやってきたのは天平年間(739―749)とされる。
三十三カ所観音巡りもインド、中国と伝わり、日本へは奈良時代に伝わった。西国三十三カ所が最初だが、この由来は、徳道上人が三十三の「宝印」を授かったことによる。
「三十三カ所を巡って宝印を集めれば、観音様が助けてくれるから死んでも地獄におちることはない」と地獄の閻魔(えんま)さまに教えられたのだ。
当時は誰も信じず、後に広めたのは平安時代の花山法皇で、御詠歌もこの人が作ったとされるが、御朱印集めはこれがはじまりなのだ。室町時代には、三十三カ所のご当地バージョンが庶民に広まったとされる。
ちなみに三十三の数字は観音様が変身する姿の数だ。
 流行った理由は何か。仏教では地獄から極楽まで世界が何段階にも分かれていて、極楽が仏様の世界だが、いわゆる仏様にも位の違いがある。
死後の世界である極楽は“如来”という高い位の仏様の管轄だから、人間が手出しできる世界ではない。
けれど観音様は“菩薩”だから如来よりも位が低く、人間のために親身になってくれ、衆生を救ってくれる。
もともと聖地巡礼は貴族のものだったが、15世紀あたりから「観音様は現世利益がある」と庶民に広まった。
古来インドで始まった観音信仰は「亡者追善」(先祖供養)が主だったが、紆余曲折して現世利益へ転換したために流行したらしい。
 津軽三十三カ所は藩政時代初期に広まったとされているが、詳しい時代も、由来も定かではない。
だが、巡拝を終えた今、私は「三十三カ所巡りは津軽藩のまちづくりの一環ではないか」とひらめいたのだ。(辻風)






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