[連載] | |
その11〜20 |
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その11
金龍山南台寺の日曜学校は、明治42年5月21日、第11世慈照住職が私財を投じて開設したということです。当時の在籍生徒数は男102名、女75名の計177名と記録されています。 昭和45年11月、多年にわたって「日曜学校」で青少年教育の推進に努め、社会教育振興に寄与した功績によって青森県知事より青森褒章を受け、銀杯1個を贈られています。 また、太宰さんは『苦悩の年鑑』に、「女たちは、みなたいへんお寺が好きであった。殊にも祖母の信仰は異常といっていいくらゐで…。お寺は、浄土真宗で ある。親鸞上人のひらいた宗派である。私たちも幼時から、イヤになるくらゐお寺まゐりをさせられた。お経も覚えさせられた。」と書いています。 その12 津島美知子さんの『回想の太宰治』増補改訂版に、南台寺のことが4頁にわたって収録されています。 「金木で暮らしていた間、私がいちばん頻繁に通ったのは、太宰の生家ヤマゲンの菩提寺の南台寺である。ヤマゲンは、信心深い家だった。毎月、三日と 十日の父母の命日と近親の死没者の祥月命日には、南台寺の院主、生玉慈照師が回向に見える。…きまって並ぶのは、この家の家族のほか、近くに住むとし姉、 遠縁の律儀そのもの老人、来合わせた縁者など。…読経には私も経本をたよりに列席者一同と唱和する。…長兄と太宰は列席する時もあり、さぼる時もあっ た。…」と書いています。 その13 南台寺の墓地の古い墓石に「對馬」と書かれ、裏には天保6年と刻まれています。左側に父・源右衛門の石碑があり、右側には衆議院議員、県知事を務めた文治氏の石碑があります。 また、津島美知子さんは、太宰さんの納骨についてもふれています。「先ず郷里の長兄に、人を介して、相談した。できれば南台寺に眠らせたいという気持ち からだったが、兄からは『郷里に帰るに及ばず、東京で葬るように』との返事だった。…それから何十年も経って、こんどは郷里の寺から分骨の要望が出るとは ─私は感慨深かった」と記述している。 この南台寺には、津島家に関する重要な文書が所蔵されています。曽祖父惣介の依頼を受けて作成したと推定される津島家の『檀家累代記』と、松木家に対す る『回答書』(松木七右衛門ハ津島惣介ノ先祖累代尋問候ニ付予答云当寺ノ古記ヲ持テ答書ス)です。津島家の歴史と、その成立背景をさぐる貴重な資料です。 その14
金木山雲祥寺は、太宰治記念館「斜陽館」につぐ金木詣でのメッカとして有名です。 太宰さんが満2歳になった年の5ころ、近村タケさん(満13歳、後の越野タケ)が女中として津島家に住み込みます。 タケさんの主な仕事は、まだ「ぶらぶら歩き」の太宰さんの子守りであったということです。 3,4歳のころ、タケさんに連れられて雲祥寺に行き、地獄極楽の掛け軸を見て興味を持ち「これ何だ、これ何だ」と言って、同じ絵を何回も聞いたそうです。また、卒塔婆(そとば)についている鉄の輪を、面白がって回したということです。 その15 太宰治がタケさんに連れられて雲祥寺に行ったことは、作品『思ひ出』に詳細に描いています。 「タケは又、私に道徳を教えた。お寺へしばしば連れて行って地獄極楽の御繪掛地を見せて説明した。火をつけた人は赤い火のめらめら燃えている籠を背負わ され、めかけ持った人は2つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながってゐた。血の池や、針の山や、無限奈落といふ白い煙のたちこめる底知れぬ深い 穴や、至るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行ってこのように鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされ たときには恐ろしくて泣き出した。」 その16 続いて『思ひ出』に、「そのお寺の…、卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから廻して、やがて、 そのまま止まってじっと動かないならその廻した人は極楽へ行き、一旦とまりそうになってから、又からんと逆に廻れば地獄へ落ちる、とたけは言った。…秋の ころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行ってその金輪のどれと廻してみても皆言い合せたようにからんからんと逆回りした日があったのである。私はやぶれか ぶれかんしゃくだまを抑えつつ何十回となく執拗に廻し続けた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去った」と描いています。 仮に、この部分が虚構であるにしろ、おのれの運命がいつも正しく回転するよう執拗に卒塔婆の鉄の輪を回し続ける少年の姿に注目したいのです。 また、地獄極楽の絵図が、太宰さんの性格形成になにほどかの影響を与えたかは知るよしもないのですが、素朴な勧善懲悪の思想はやわらかく太宰少年の頭に、砂地にしみこむ水のように、にじませていったのではないでしょうか。 その17 雲祥寺において「太宰会講和会」が開催され、ご隠居一戸哲三さん(第23世住職)にお話を聞くことが出来ました。 それによりますと、太宰さんが生家に疎開中の昭和21年3月、一戸さんの呼び掛けで青年文芸愛好者が集まって「金木文化会」という文化サークルが生まれました。 その発会式で太宰さんは「文化とは何ぞや」と題して講演し、「文化とは優である。優とは人を憂うと書くが、それが文化だ…」と、熱く語ったということです。 河盛好蔵苑の太宰書簡には、「私は、優という字を考えます、優れる、優良可なんていうし、優勝、優しいとも読みます。この字をよく見ると、人偏に、憂う ると書いています。人を憂える、人の淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、いま人間として、一番優れている事じゃないかしら…」(昭 21.4)と書いています。この「優しさ」が、太宰文学の魅力の一つでもあります。 その18 昭和21年7月、金木文化会の機関誌「創刊号『金木文化』」が発行されました。その題言として「金木文化に贈る言葉『汝を愛し、汝を憎む』太宰治」と、巻頭に掲載されています。この言葉は、作品『津軽』序編にも書かれています。 太宰さんが東京に戻って間もなく、残念ながら会としての活動は滞ってしまったということです。しかし、この文化の種は分散しながらも現在の金木町の文化活動に引き継がれ、たしかに息づいています。 昭和23年の太宰没後の8月、金木文化会が「太宰治をしのぶ会」を開催し、藤沢美志子さんが『桜桃』を朗読し太宰さんをしのんでいます。これが今なお続いている「桜桃忌」の<全身>のひとつとも考えられます。それから50年の歳月が流れました。 その19 太宰さん小学校のころ、よく遊びに行ったところが「ヤマハラの店」であったということです。 太宰さんより15歳年長の次姉としさんが、大正2年津島市太郎さんに嫁いでいます。その長男が津島逸朗さんで、太宰さんより4歳年下です。 その家はヤマハラと号し、文房具販売を兼ねた雑貨商を営んでいました。現みちのく銀行駐車場付近がヤマハラの跡地です。親戚で、生家の2軒となりですので、通帳1つで本を買うことが出来たということです。 その20 太宰さんはヤマハラに気の合った遊び相手(逸朗)がいたため、通学の行き帰りには頻繁に立ち寄ったものだと言われています。 生家の大邸宅より、誰にも気がねのいらないヤマハラで時を過ごす方が、太宰さんにとって何より楽しかったのでしょう。 『思ひ出』に「小学校3,4年のころ、…1軒置いて隣の小間物屋では書物類もわずかに売っていて、ある日私は、そこで婦人雑誌の口絵などを見ていたが…」と、描いています。 ここは太宰のふるさと!! TOP |
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