[連載]

   その41〜50


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その41

『魚服記(ぎょふくき)』の舞台(3)

 前回に続いて「むかし、このへん一帯はひろびろとした海であったそうで、義経が家来を連れて北へ北へと亡命して行って…(略)そのとき、彼等の船がこの 山脈へ衝突した。突きあたった跡がいまでも残っている。(略)約1畝歩(せぶ)ぐらいの赤土の崖がそれなのであった。小山は馬禿山(まはげやま)と呼ばれ ている。」と描かれています。
 まず、「むかし、このへん一帯はひろびろとした海であったそうで…」ですが、これは津軽平野と岩木川、そして十三潟の成り立ちに関係があります。東日流 外三郡誌(つがるそとさんぐんし)に「東日流六郡内外は古く遠浅なる入海にして…」という文から、これより以前の大昔の津軽平野は一円の大湖水(古十三 潟)であったことを物語っています。そこに、伝説的主人公の源義経を登場させ、船が衝突した小山が馬禿山であるというのです。



その42

『魚服記(ぎょふくき)』の舞台(4)

 ここで問題なのは、太宰治研究で有名な相馬先生は「評伝太宰治」の著書に、作品の馬禿山のモデルは大釈迦側にある馬神山(まがみやま)であると記述していることです。
 その馬上山の中腹の斜面に、馬の飛びはねているような形にえぐられているのが眺望できるというのです。
 その形から土地の人たちは馬影山とか、馬禿山とも呼んでいるという説です。
 このことについて、県立自然ふれあいセンター職員で、梵珠山地に詳しい後藤伸三さんに確かめましたところ、「『馬ノ神山』は『魔ノ神山』という記録はあ り ますが、山の斜面が大きくえぐられている部分はありません。また馬禿山と呼んだこともありません。」ということでした。
 さらに金木営林署に照会してみますと、同様の答えでした。正確には「喜良市山国有林四十四林班のロ小班」が馬禿山だということです。
 今さら詮索する必要もないのですが、山のモデルは太宰さんが幼い頃から見慣れた、町の東側に「ハ」の形に見える小山「馬禿山」しかないということになります。気をつけて見ますと、太宰さんが描いているように馬の姿にも、老人の横顔にも似ています。
 また『魚服記』の舞台である滝のモデルは、場所的には「鹿の子滝」でありますが、滝の描写と規模においては「藤の滝」が作品のイメージにぴったりしています。
 最後に、〈…子鮒に変身したスワが…滝壺へ…くるくると木の葉のやうに吸い込まれた〉のは、スワの新しい誕生、再生を祈ってのことではないかと思うのです…。



その43

「小間(こま)」で誕生(1)

 今回から太宰さんの生家、>源(やまげん/>の下に源)旧津島邸・現「太宰治記念館『斜陽館』」を案内してみます。本稿はあくまでも『太宰をしのぶ』がテーマですので、太宰文学の原点と言われる生家の理解と、太宰さんの心情や作品に触れられるように記してみます。
 明治40年6月に新築された津島家…。その2年後、この大邸宅で生まれた最初の子であった太宰さんはどの部屋で生まれたのでしょうか…?これを表現する具体的な記録は見あたりません。そこで太宰作品と諸記述から考察を試みました。
 太宰さんは『6月19日』(昭和15年)と題する随筆の中で、「…私の生まれた日は明治42年の6月9日である。私は子どもの頃、妙にひがんで、自分を 父母の本当の子でないと思い込んでいた事があった。(中略)家に出入りしている人たちに、こっそり聞いて回ったこともある。その人たちは大いに笑った。私 がこの家で生まれた事を、ちゃんと皆が知っているのである。夕暮れでした。あの、小間で生まれたのでした。ひどく安産でした。」と述べています。したがっ て、「あの、小間」とは、どの部屋なのかということになります。



その44

「小間(こま)」で誕生(2)」

 「あの、小間」とは、まず2階はいろいろ不便ですので、当然1階に限られます。離れ座敷は、大正11年の建築ですから問題外です。1階で小間と見られる のは、まず西通りに面した和室8畳間です。この和室は金融業的店舗執務室(洋間)の奥になっていますので産室には適当ではありません。残りは裏階段北側の 和室10畳間になります。この和室は、現記念館資料には「主人室」と書かれていますが確証はありません。この部屋は、場所的には「常居(じょい)」と「板 の間」に通じていますので、産室には便利な個室だと思うのです。
 作品『故郷』(昭和18年)を再読してみますと、「…私は見舞客たちに見られないように、台所のほうから、こっそりはいって、離れの病室に行きかけて、 ふと『常居』の隣の『小間』をのぞいて、そこに次兄がひとり座っているのを見つけ、こわいものにひきずられるように、するすると傍へ行って座った。…」 と、「常居」の隣が「小間」であるとはっきり書いています。重態の母親の見舞いと生家の部屋名ですので虚構性希薄とみれば、和室10畳間が太宰誕生の「あ の、小間」にあたると思うのです。



その45

「太宰と母」(1)

 また「あの小間」という表現の中には、幼少の頃からの「思い」が込められていると思うのです。
 大正12年2月4日に書いた作文『僕の幼時』に、「僕は母から生れ落ちると直ぐ乳母につけられたのだそうだ。けれども僕はおしいかなその乳母を物心地がついてからは一度も見た時もない。物心地がついてからというものは叔母にかかったものだ。」と描いています。
 生後まもなく母親の健康上の都合により、乳母(佐々木さよと推定)の手に委ねられます。しかし、この乳母に縁談があり、1年足らずで津島家を去ります。
 太宰さんは1歳(もしくは1歳半)で、叔母きゑさんによって育てられることになります。叔母は、最初の夫と離縁し、2番目の夫と28歳で死別した後4人 の娘と生家で暮らしていました。このような事情により、家を不在がちであった父母の代わりに、親の役割を果たしたのが、叔母きゑさんであったのです。



その46

「太宰と母」(2)

 子守だったタケさんの談話が『国文学』(昭和49年2月)に載っています。「ガッチヤ(叔母)の部屋は、裏階段を上がるところの右の10畳間です。そ こにガッチャの娘さん4人と修ちゃんが一緒にいました。」と語っています。この10畳間が、幼い太宰さんと、叔母とその娘さんたちが、共に暮らした思い 出深い「あの小間…」だったのです。
 長部日出雄氏は『太宰治への旅』で「叔母きゑは太宰の最初の文学的な母だったと思うのです。」と語っています。叔母が添い寝し、津軽の昔噺(むがし こ)、知らへがな…」と、聞かされ育った太宰さん、「生まれてすみません」「罪、誕生の時刻に在り。」(『二十世紀旗手』昭和12年)という名言と重ね合 わせると、太宰生家の10畳間「あの、小間は」は、太宰文学の母胎となると思うのです。



その47

「大邸宅」(1)

 生家「旧津島邸」は、太宰作品と共に、興味深い問題が数々あります。今回は要望もあり、旧津島邸の建築費について再考してみました。
○大邸宅
 明治37年、津島家は県内長者番付第4位を誇る県下有数の地主でした。
 父源右衛門は、曾祖父惣助の一周忌過ぎ、邸宅の新築に着手します。規模においては県内第1位を誇る佐々木嘉太郎家を、構造においては生家松木家をそれぞ れ模倣し、建築は弘前市の堀江組に設計・施工を依頼します。明治39年5月に着工し、翌40年6月21日に落成しています。
 作品「苦悩の年鑑」に、「父はひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。間敷が30近くもあるであろう…。」と書いています。階下 11室278坪、2階8室116坪、付属建物や泉水庭園及び前庭を合わせて宅地680坪、赤い屋根がそびえている和洋折衷の大邸宅です。



その48

「大邸宅」(2)

 生家「旧津島邸」は、太宰作品と共に、興味深い問題が数々あります。今回は要望もあり、旧津島邸の建築費について再考してみました。
○大邸宅
【2円と4万円説】
 福島県二本松市の松本さんという方から、「福島県下の新聞記事で、旧津島家(斜陽館)の建築費について、A新聞が2万円、B新聞が4万円とまったく違う 記事が掲載されました。どちらが正しいのか教えていただきたい…。」という質問状が旧金木町教育委員会に届きました。わたしなりの考えをまとめて返送しま したが、はたして納得されたかは疑問です。
 今回は、かなりの時間をかけて再調査してみましたが、証明できる文書記録は見つかりませんでした。新しい書籍では4万円が定説になっています。古い書籍には2万円説も4万円説もありません。
 太宰没後、津島家成立の研究書には、亀井勝一郎氏、益子道江氏、奥野建男氏が挙げられます。これに対して、今官一氏が「太宰治と津島家の問題」(昭和 35年)、そして相馬正一氏が「太宰治と『家』の問題T」(昭和37年)を論及し、後の『若き日の太宰治』で津島家の成立過程を明らかにしています。この 研究書でも、「莫大な金を投じて大邸宅の新築を始めた」と書いているだけです。このほか『棟梁堀江佐吉伝』『津軽の洋風建築』の書籍にも、建築費の記述は ありません。



その49

「大邸宅」(3)

 【3枚のパンフレット】
 いま、手元に「旅館斜陽館」のパンフレット1枚と、「金木町」作成の新・旧パンフレット2枚があります。昭和54、5年ころ作成と古いようです。
 これには、「当時のお金で工費4万円(当時、米7万俵)をかけて造られたものです」と書かれています。前社長・黒滝さんは「木立民五郎氏、白川兼五郎氏、中谷幸一氏らと調査・検討した結果、4万円に落ち着いた」と語っています。
 町の古いパンフレットには、「当時2万円をかけた豪邸」と記入されています。これは「20年前頃か、資料が無いので古老や関係者に聞いて、2万円にしたのを継続している」ということです。
 どちらの説も、それを裏付ける決定的な「文書」が無いということです。
 後者の2万円説が、福島県A新聞の記事に掲載されたものと推定されます。
 昭和55年9月、朝日新聞が青森版に「津島家」と題して連載を始めます。同年9月3日の2回目に「建築費は、当時のカネで総額4万円、米の値段にして7,000俵だったという」と掲載しています。
 この記事は、地道な資料集めと聞き書きに頼ってまとめたものとあり、4万円説を裏付けているそうです。後に『津島家の人々』として発刊しています。



その50

「大邸宅」(4)

【比較資料】
 次に比較資料としてあげられるのは、五所川原の「布嘉(ぬのか)」こと、佐々木嘉太郎氏の邸宅です。明治27年12月に起工し、明治29年3月に竣工。建坪約900坪、建築費は10余万円(当時、米換算25,000俵余)と言われています。
 また、弘前市「第五十九銀行」は明治35年4月着手、明治37年11月に落成しています。この建物の総工費は、67,700余円(米12,000俵余) と明記されています。布嘉邸・第五十九銀行とも、堀江佐吉の設計施工であり、その規模から比較して4万円というのは、かなり近い額だと思うのです。
 青森県農業総覧に、明治40年の米価は、一石14円80銭とあります。換算すると1俵5円92銭になります。7,000俵として計算すると、4万1,440円になります。確証の文書が無いにしても4万円というのはかなり妥当な数字だと考えられます。
 相馬正一氏は、「評伝太宰治改訂版」(平成7年2月)に「4万円の大金を投じて邸宅の新築にとりかかった」と、初めて明記しています。
 パンフレットにも、4万円と書かれています。これで、旧津島家の建築費が当時のお金で4万円ということで共通化され、定説化していくことでしょう。



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