[連載]

   その61〜70


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その61
「太宰治と生家」
 その7
『曽祖父惣助』(3)

 「昨年私は甲府市のお城の傍の古本屋で明治初年の紳士録を見たら、その曽祖父の実に田舎くさいまさしく百姓姿の写真が掲載されていた。」と、太宰さんは『苦悩の年鑑』に、曽祖父について書いています。
 が、その田舎くさい、百姓姿の惣助こそが、地主貴族津島家の礎をつくり、多額納税者で貴族院議員有資格者の一人までになったのです。



その62

「太宰治と生家」
 その8

 曽祖父惣助は、明治維新のあわただしい世相の中で、わき目をふらずに行商と金貸しを続け、財を蓄えていきます。今回は「太宰研究誌」を参照し、津島家の大地主への道とその背景を探ってみます。

『帰農政策』
 明治2年、領地を天皇に返還した大名は、新政府の下で華族となり、新設の藩知事に任命されます。『津島家文書』によりますと、明治3年に弘前藩知事「津軽承昭(つぐあきら)」が、藩で失職した士族の救済策として「帰農政策」をとります。
 これは、十町歩以上の農地所有者に対し、十町歩を残して、他のすべてを献田もしくは一反歩あたり金3両で買い上げ、献上させるということです。その田畑を士族に分け与えるという計画です。
 明治3年10月10日、新田地方の中心、木造に藩知事が自ら出かけ、豪農・地主を集めて宣言したということです。
 以後、地主を集めて説諭し、土地取り上げ政策を強引に進めます。やむなく売却・献上した者389人、取り上げ収用面積は水田2874町歩、畑地50町歩余に達したということです。



その63

「太宰治と生家」
 その9
『十町歩から』

(前号参照)このとき「金木村惣助」は「5等下之部三町歩余御買上」(ごとうげのぶさんちょうぶよかいあげ)の項に名を連ねています。この時点で13町歩 余の田を持ち、藩内では123位に入る小地主になっていたことを示しています。これまでの豪農・地主の手元には一律10町歩だけ残し、他は取り上げられた ことになります。
 この際、藩庁は地主たちの不満をおさえるための交換条件として、「家業願済」によって、転業、副業を許可します。曽祖父惣助は、このとき、従来の商売に加えて「灯油・反物販売・金貸業」を申請し許可されたということです。



その64

「太宰治と生家」
 その10
『大地主への道』(上)

 明治4年5・6月に藩庁は、抽選を行って士族に分余地を決めます。
 ところが希望地に恵まれなかった者や農耕に堪えられなかったり、田舎暮らしをきらったり、生活に困ったものが出てきます。
 同年7月「廃藩置県」断行と同時に、藩知事の東京在住の命令、藩職罷免、家禄支給停止という事態になり、士族たちの帰農意欲もにわかに消極的なものになります。
 実際に移住した者は5割に満たなかったようです。
 同年11月に士族に職業の自由が許されると、一族あげて移住し鍬をとろうとした者も、田畑を売り渡して弘前に帰るということになります。
 こうして土地取り上げ、士族帰農政策は失敗したのです。
 その田畑を変えるのはかつての豪農たちではなく、小金をためている商人、新興地主に買い占められていきます。



その65

「太宰治と生家」
 その10
『大地主への道』(下)

 曾祖父惣助もまた、帰農に失敗した没落士族の土地を買い占めていきます。このとき多額の借金までして買い占めた田地が、その後津島家の基本財となっていきます。
 また、打ち続く凶作で手を上げた零細な自作農に、金を貸し、その利息と担保流れによって土地を買収し膨張していきます。さらに明治6年、地租が改正され ます。地租は金納で一定ですが、小作料は現物納です。儲かったのは商人地主です。このようにして、明治3年の頃は13町歩の小地主だった曾祖父惣助は、瞬 く間に110町歩・150町歩と、大地主への道を駆け上がっていきます。



その66

「太宰治と生家」
 その11
『県内第12位へ』

 太宰さんは『苦悩の年鑑』に、「その頃、れいの多額納税の貴族院議員有資格者は、1県に4、5人くらいのものであったらしい。曾祖父は、そのひとりで あった。」と記述しているように、明治30年、「貴族院多額納税者議員互選名簿」に津島惣助の名前が初めて登場し、納税額826円23銭6厘、県内長者番 付の第12位に進出します。わずか20数年の間に青森県全体で12位まで進出したのは驚くべき手腕です。曾祖父惣助62歳の時でした。



その67

「太宰治と生家」
 その12
『県内第4位へ』

 惣助は、明治10年代には、油売りと荒物の行商をやめ、木綿屋に商売がえします。
 明治20年頃に建てた旧宅は木綿屋の造りになっていたということですが、本業は金貸し業で、「対馬商行」と呼ばれていました。
「対馬商行」は、明治30年7月に、資本金1万円の「合資会社金木銀行」を設立し蓄財に拍車をかけることになります。
 そして、木造(きづくり)の松木家から迎えた婿養子、永三郎こと、太宰さんの父源右衛門を頭取に据え、明治37年には県内多額納税者番付では一躍第4位(1, 430円)までに進出します。
 所有田畑200町歩(一説には250町歩)の大地主にのしあがります。



その68

「太宰治と生家」
その13
『県会議員へ』(1)

 明治34年3月、父源右衛門は31歳で県会議員補欠選挙に当選し、36年再選されて6年半県会議員を務めます。
 38年5月曾祖父惣助の死去によって津島家の実権は名実ともに源右衛門の手に移ります。先代の一周忌にあたる同39年5月、大邸宅の建築にとりかかり、翌40年6月完成させます。
 明治42年6月19日生まれの10番目の子・修治(太宰治)は、この新邸宅で誕生した最初の子です。



その69

「太宰治と生家」
その13
『県会議員へ』(1)

 明治34年3月、父源右衛門は31歳で県会議員補欠選挙に当選し、36年再選されて6年半県会議員を務めます。
 38年5月曾祖父惣助の死去によって津島家の実権は名実ともに源右衛門の手に移ります。先代の一周忌にあたる同39年5月、大邸宅の建築にとりかかり、翌40年6月完成させます。
 明治42年6月19日生まれの10番目の子・修治(太宰治)は、この新邸宅で誕生した最初の子です。



その70

「太宰治と生家」
その14
『県会議員へ』(2)

 作品『思い出』に、〈私の父は非常に忙しい人で、うちにいることがあまりなかった。うちにいても子供らと一緒に居らなかった。私はこの父を恐れてい た。…私と弟とが、米俵のぎっしり積まれた米蔵に入って面白く遊んでいると、父が入口に立ちはだかって、坊主、出ろ、出ろ、と叱った。光を背から受けてい るので父は大きい姿がまっくろに見えた。私はあの時の恐怖を思うと今でもいやな気がする。〉と描いています。
 父は身長5尺8寸(175cm)の堂々たる体躯で口ひげをはやし、どちらかといえば、はで好みで、気取り屋で、地方地主や金持ちに多いハイカラな趣味の人であったということです。



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