[連載]

   その71〜80


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その71

「太宰治と生家」
その15
『衆議院議員へ』

昭和45年5月、源右衛門が第11回衆議院議員総選挙に立憲政友会から立候補して、北津軽郡の選挙区で第3席で当選します。2期目の大正4年衆議院議員選挙では、政友会から出馬を勧められますが辞退しています。大正5年8月、勲4等瑞宝章を受けます。



その72

「太宰治と生家」
その16
『貴族院議員へ』(1)

 大正11年12月11日、源右衛門が第5期青森県多額納税議員の定員1名の補欠選挙に当選し貴族院議員になります。
 地方の地主としては、最高の栄達を遂げたのです。
 貴族院は明治憲法の定めによって、衆議院と並んで帝国議会を構成している一院で、皇族・華族及び勅任された議員から成り立っています。
 皇族とは天皇家の一族、華族とは公・侯・伯・子・男爵の5階級の貴族階層、勅任された議員とは7年任期の帝国学士院議員及び多額納税者のうちから互選された議員でなっています。



その73

「太宰治と生家」
その17
『貴族院議員へ』(2)

 貴族院議員は青森県では大地主15人による互選ですが、話し合いによって、7年間の任期を2年・2年・3年と分割し、1期を3人でたらいまわしする習慣になっていたようです。
 源右衛門は、西谷豊之助、宮川久一郎の後任でしたが、その議席は大正14年の任期いっぱいの3年間、貴族院の椅子が約束されていました。
 青森の料亭と金木の自邸で盛大な当選祝賀会が催されます。
 12月20日頃上京し、25日晴れの帝国議会開院式に臨みますが、流行性感冒にかかり、経過思わしくなく入院します。金木から妻夕子が呼び寄せられます。感冒は治ったようですが、熱が下がらなかったということです。



その74

「太宰治と生家」
その18
『不帰の客』

 源右衛門は、大正12年3月3日、長兄文治が早稲田大学を卒業し、それを見届けるように3月4日、容態が悪化し、午後4時不帰の客となります。
 享年53歳(数え年)。
 当時の弘前新聞は、死因を「肺臓癌腫」と伝えています(一説には肺気腫)。
 神田の病院から東大久保の別宅に運ばれた遺体は、そこで通夜と告別式を終えた後、客車1輌を借り切って、6日午後1時、上野駅から青森を経て五所川原に送られます。
 7日午後3時ごろ、叔母きゑの家にしばらく休んだ後、10台の馬橇の列の1台に乗せられ移送、午後8時半過ぎ自邸に着きます。
 太宰さんは『思ひ出』に、「父の死骸は大きい寝棺に横たわり橇に乗って故郷へ帰って来た。私は大勢の町の人たちと一緒に隣村近くまで迎えに行った。やが て森の蔭から幾台となく続いていた橇の幌が月光を受けつつ滑って出て来たのを眺めて私は美しいと思った。…父は眠っているようであった。高い鼻筋がすっと 青白くなっていた。私は皆の泣き声を聞き、さそわれて涙を流した」と描いています。3月4日付で、正四位勲四等に叙せられ、旭日章を贈られます。



その75

「今、なぜ太宰治か」
その1

『新聞「社説」』
 平成11年6月19日付の東奥日報社説に、「太宰治・90歳『生誕祭』」と掲載されていました。
〈…戦後になるまでは少数の愛読家に読まれていたのにすぎなかった。死の前後から広範な読者に熱愛され、今も若い新たな読者を獲得している。言葉の持つ魔 術性を極限に駆使して時代の不安や生きる悲しみ、罪意識、人間への不信とそれでもやみがたい愛への願いなど言い難い心の秘め事を含羞にもだえながら告白 し、作品に定着していく。読者はまるで自分の心の中の秘密を指摘され、代弁されているような感動と親近感を覚える太宰文学は、他の文学には求め得られない 魅力なのだろう。48年に処女出版された『人間失格』は、夏目漱石を抜いて、いまだにロングセラーを続けている。…〉

 と太宰文学の魅力と「いまなぜ太宰か」を好意的に論説しています。



その76

「今、なぜ太宰治か」
その2

『太宰作品を読んで』
 太宰文集「新樹」2号に、金木高校当時3年生の生徒は<…今回『女生徒』という小説を読んで、私は初めて太宰治の作品が人々の心をとらえて話さない理由 を理解したような気がしました。50数年という年月が流れているにもかかわらず、まるで現在の読者である私の心情を文章にしたかのように鮮やかで色あせる ことのない心を感じ、私も自分自身を見つめ直す良い機会になったと感動的に書いています。



その77

「今、なぜ太宰治か」
その3

『文庫本でトップ』
 太宰著書の中で、もっともシンプルなのが文庫本、「新潮文庫」は、戦後多くを出版しているそうですが、その中で、ロングセラーが『人間失格』です。
 このほか創元文庫、角川文庫、中央公論社文庫、講談社文庫、旺文社文庫等々を加えると、太宰文庫は数千万部に達するとのことです。
 没後50年以上を経て、今なお圧倒的な共感をもって読み継がれていることが分かります。
 現役でも、発行部数で太宰さんに太刀打ちできる純文学作家は、ごく少数とのことです。
 まさしく郷土の誇りです。



その78

「今、なぜ太宰治か」
その4
『生徒の感想』

〈…『人間失格』を読んで「これは凄い」そう思いました。内容のすべてを理解できた訳ではないけれども、何かとてつもなく大変なことが、この小説には書か れてあるということが、おバカな私にさえ分かりました。この小説を書くことができた太宰治は、いったいどんな人生を送ったのだろう。どうしたら、こんな 小説を書けるのだろうか。…「太宰治ってスゴイ」ということでした。本当に本当に、心からスゴイと思いました。〉(新樹4号金高3年生)
〈この『人間失格』を読んだおかげで、この作品からさまざまな事を学びました。本当に、この本に出会えてよかったと思っています。こんな作品を書いた人物が金木町に住んでいたなんて、こりゃいい所に生まれたと思います。〉(新樹3号南中2年生)



その79
「今、なぜ太宰治か」
その5
「太宰治といえば、…最初に持った印象が邪魔をして、なかなか彼の作品の世界を楽しめない人は少なくないはずだ。…しかし、私は学校単位で太宰の全集を一冊買わされ、いつも枕元に置いて読むようになってからは、少しずつではあるが、太宰の作品の面白さがわかってきた」
『新樹』弟1号に当時金木高校3年野村美鈴さんは全集を読んで太宰文学にふれます。
 今回は、全集について記してみます。
『生前企画の全集』
 太宰さんの生前の昭和22年10月頃、八雲書店と実業之日本社の双方から「太宰治全集」刊行の申し入れがあり、結局八雲書店に決定します。
 同年11月に入ると、八雲書店と造本や巻数・創作年表などについて検討します。
 また、巻頭に載せる口絵写真を、当時の金木郵便局長・津島賢輔氏に依頼しています。



その80

「今、なぜ太宰治か」
その6
『賢輔氏への書簡』
〈こんど太宰治全集が出る事になって、その全集の1巻1巻の巻頭に写真が出ますが、東京における私の写真だけでは面白くないので、金木の生家の写真、それ から幼時の写真などもいれたいという出版社のほうで、撮影に金木へ行ってもいいと言っているのですが、それもたいへんでしょうから、取り敢えずあなたにお 願いして次の写真を送っていただきたいのです。(略)
 本は1冊200円位の豪華版になる筈で、賢輔さんに御礼として、毎巻出版される度に、かならず、全巻贈呈することを約束しますから、どうか一肌ぬいで御助力たのみます。〉(昭和22年12月11日)
 父、母、生家、庭、芦ノ湖、幼時、中学、高校、大学時代の写真を具体的に依頼しています。



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