[連載]

   91話 〜 100話     ( 佳木 裕珠 )



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◆その91
ゴールデン・ウィーク(10)


 新任式時におしゃべりをしている生徒達は、教頭の話が始まらないのを奇異に感じて前を見た。
すると教頭がじっと自分達を睨んでいる。
流石に彼等は私語を止めた。
しかし、そんな長津山の視線を無視しておしゃべりを続ける一組の男女がいた。
新しく来た教頭は彼等に対して、どう対応するのかと皆が注視する中、長津山は私語を止めない生徒のところへ足早に近付いて行き、二人の前に立ったかと思うと間髪を入れずに「話をするな」と一喝した。
そして睨みを利かせてから前の方に戻った。
おしゃべりをしていた男女二人の生徒は、落雷にあたったように全身を硬直させた。
所定の位置に戻った長津山は、全員が私語を止め前を向いて話を聞く体勢になったのを見定めてから、何事もなかったかのように新任の挨拶を始めた。
それ以来、生徒達は長津山が話をするために前に立つと、おしゃべりを慎むようになり、他の先生方の時も私語をすることがなくなった。
昌郎は、その話を福永から聞いた時、自分が初めて応援団員になって指導を受けた笹岡先生を思い出していた。
笹岡は昌郎が入学した港北高校に前年度まで勤務していたが、昌郎達の入学と入れ違いに他の高校に転勤していた。
昌郎が応援団に入った時、港北高校には応援団を指導できる先輩は勿論、教師もいなかった。
そこで、笹岡が勤務する学校に行き応援について指導を受ける事になった。
鬼の笹岡と呼ばれているだけあって、彼の指導は厳しく過酷だった。
昌郎と一緒に応援団に入った仲間三人と地獄のような二週間を耐えて、応援団とはいかなるものかをみっちりと叩き込まれた。
苦しかったが、あの経験は昌郎達を一回りも二回りも大きくした。その鬼の笹岡を、長津山の新任式の話を聞いて思い出していた。
そして、ここにも笹岡先生のような気骨ある人がいる。
そう思った。長津山は凜としていた。
長津山は厳しい。しかし誰の話でもしっかりと聞いてくれた。
そして、様々なアドバイスを与えてくれた。
更に普段は優しかった。
 無事に交通安全教室が終った。
講師として来校していた警察官が感心したように話した。
「定時制の生徒さん達の前でお話しするのは初めてで、静かに私の話を聞いてくれるかどうか心配していました。
もしかしたら、おしゃべりの多い雑然とした中で、話さなくてはならないのではないかと覚悟を決めてきました。
すいません、これは本音でした。
でも、ここの生徒さん達はおしゃべりする人が一人もいなくて、本当に吃驚しました。
感動しました。
全日制の高校にもお話をしに行きますが、それらの高校よりも静かにしっかりと聞いてくれていたと思います」
講演をした警察官は、心底感心して帰って行った。
うちの生徒達は、何事にもしっかりと取り組むことが出来る生徒達だ。
それを教えて行くことが、私達の任務だ。
事あるごとに長津山はそう言う。
その一端が集会時に現れていた。集会時などで目の前に先生方が立った時には、姿勢はともかく生徒達は私語を止め静かに話を聞くようになっていた。



◆その92
ゴールデン・ウィーク(11)

 交通安全教室が終わった後、各学年に分かれてそれぞれの教室に入りホームルームが行われた。
昌郎は、連休中に事故や怪我などがないようにと注意してホームルームを終えた。
帰り支度を始めた陽明と大介に、昌郎は声を掛けた。
「大介、後半の連休中に一度、陽明と一緒に私の所へ遊びに来ないか」
大介と陽明は、昌郎の言葉に驚いた。
何故そんなことを言うのだろう。
そんな顔をして二人は担任教師を見た。
昌郎は、率直に言った。
「はっきり言うよ。陽明が元気がないからさ。もしかしたら、連休中ずっと家の中にいて誰とも会わずにゲームをしているんじゃないかと心配なんだ」
「ああ、先生の言うとおりです。練習と新聞配達があるけれど、五日の日は練習が休みで夕刊もないから、その日だったら陽明と一緒に先生の所へ行けると思う。陽明、俺と一緒に先生の所へ遊びに行くか」
大介にそう聞かれた陽明は、俯いたまま暫く黙っていた。
断るような雰囲気だ。
昌郎は無理に勧めないことにしてじっと待った。
大介も、陽明の答えが出るまで待つことに慣れていた。
少し長い時間だと感じたが実際には1・2分ぐらいなのだろうか。
陽明は、大介の顔を見て小さく頷いてから、行くと蚊の鳴くような声で言った。
大介は、それを淡々と受け止めた。
そして昌郎の方を向き、場所と時間を尋ねた。
朝はあまり得意ではない陽明だから、昌郎はゆっくり目の時間設定にした。
「十一時に、小田急の参宮橋の改札口に来てくれないか。そこまで迎えに出るから」
「新宿から参宮橋まで何分ぐらいかかりますか」
「新宿から各駅停車に乗って二つ目の駅だ。新宿から一つ目の駅は南新宿、その次の駅が参宮橋。五分ほどかな」
「新宿から、結構近いんですね」
「そうだな、歩こうと思えば新宿まで歩いて行ける。三十分はかからない」
「へえ、便利な所に住んでいるんですね」
「本当に便利な所だ」
「参宮橋の駅には改札口は一つだけですか」
「一つだけだ。小さな駅だから間違うことはないよ」
「先生の所に着いたら、昼になってしまうようで…」
「カップ麺かパンなど簡単なものを用意しておくから、遠慮せずに来い」
「お土産ってなしでも良いですか」
 そう言う大介を可愛いと思った。
「勿論だ」
昌郎は満面の笑みで答えた。



◆その93
ゴールデン・ウィーク(12)

 5月5日「こどもの日」。
昌郎は朝早くに部屋の掃除を済ませ、ありきたりだが昼食のカレーを作った。
参宮橋の駅に、陽明と大介を迎えに行こうと部屋を出て鍵を閉めようとした時、スマホが鳴った。
大介からだった。
もしかして来られなくなったのだろうか、そんな危惧を抱いて電話に出た。
「先生、すいません。今日は先生の所に行けそうもありません」
電話が繋がると、名前も告げずに大介が一方的に話し掛けてきた。
「陽明、布団を被ったまま寝ていて起きてこないんです」
「体の具合でも悪くなったのかな」
「いや、気持ちの問題です。新宿の人混みの中に行くことが恐くなったんだと思います。俺も一緒だから大丈夫だと昨日も言っていたんですが…」
 もしかしたらドタキャンもあるだろうと覚悟はしていたが、実際にそのような状況になると、やはりという気持ちよりも残念な思いが先に立った。
その気持ちが、そのまま口を衝いて出た。
「残念だな。しかし、無理はさせられないから、今回は見送るしかたないだろう」
「先生が折角誘ってくれたのに、行けなくてすみません」
 本当に申し訳なさそうな声を出して大介は電話を切った。
明日6日の金曜日は通常通りの登校日だ。
陽明は果たして学校に来ることができるだろうか。
そんな思いが昌郎の脳裏を過ぎったが、こればかりは自分がやきもきしても始まらないことだからと、あまり深く考えないことにした。
陽明はいつかきっと、一人で新宿の街を歩くことが出来るようになるだろう。
それを信じて、今はじっと待とう。
昌郎は自分にそう言い聞かせた。
ぽっかり空いた時間、昌郎は前々から行って見たいと思っていた東京都庁の展望台に行くことにした。
部屋から歩いても三十分あまりで都庁に行ける。
住宅街を抜けて、譲が交通整理をしていた交差点に出た。
そして甲州街道を右折し、文化女子大の前を更に左折して都庁通りに入った。
第二本庁舎の前を過ぎ第一本庁舎に着いた。
昌郎は南展望室に登った。
連休と言うこともあり親子連れが多かったが、相変わらずカップルも目だった。
多くの外国人がいて、様々な言語が入り乱れていた。
北展望室も南展望室も45階にある。
南展望室からは東京オペラシティを望み自分の住む参宮橋あたりが見える。
こんな大都会の片隅に自分が住んでいるんだと思うと感慨深かった。
目を転じると新宿西口方面に林立する超高層ビル群が見える。
晴れた日だったが春霞がうっすらと棚引いて遠くが霞んでいた。
ぼんやりと大都会を眺めながら、陽明のことを考えた。
この連休が終わったら、元気に登校してくれれば良いのだが、どうなるか皆目分からない。
昌郎には、陽明自身の立ち直る力を信じるしか手立てがなかった。



◆その94
ゴールデン・ウィーク(13)

 5月6日は金曜日で授業があった。
昨日、大介が陽明を連れて昌郎の所に来ることになっていたが、それはキャンセルになってしまった。
新宿に出て小田急線に乗ることに慣れていない陽明は怖じ気づいたらしい。
人と接することが極端に苦手な彼は、見知らぬ街の人混みの中に出ることに、一種の嫌悪感を覚えるようだった。
通い慣れている学校にも、やっと登校している状態だ。
それも大介が行き帰り一緒だから出来る。
陽明一人だったら学校にも来られないかも知れない。
 昌郎が心配していたように、陽明は5月5日木曜日のこどもの日と5月7日の土曜日に挟まれた5月6日の登校日に欠席した。
長い休みの後に、陽明のような生徒は不登校になることが多い。
2年生の生徒達は、陽明をのぞいた全員が出校していた。
明日からまた2日間休みになる。
今年のゴールデンウィークの最後の2日間をどんな風に楽しもうかと、遊びの計画に花を咲かせる者もいたが、バイトで2日間が終わってしまう者もいる。
しかし、学校が休みと言うだけで生徒達は開放感を感じている様子が昌郎にも伝わってきた。
そんな彼等が下校した後、職員室で昌郎は陽明のことを考えていた。
しかし、教師になったばかりの彼に良い考えが浮かぶはずもなく、ここはやはり先輩に相談した方が良いのではないかと思った。
生徒が書いた日誌に目を通していた隣の席の福永に声を掛けた。
「ちょっといいですか」
「ああ、いいよ」
「実は今日、陽明が欠席したんです」
「そうみたいだね。黒板の欠席欄を見て知っていたよ。彼は、休みが続いた後が要注意だ」
「去年も、そうでしたか」
「同じだ。休みが続いた後は必ず不登校になった」
「その時、福永先生は彼にどんなアドバイスをしましたか」
「本質的には、彼が学校に出てこられるようになるまで待つしかなかったけれど、電話で常に声掛けはしていたよ」
「彼の家に行かれたことはありますか」
「ああ、一度ある。でも、家には来て欲しくなかったみたいだ。実は彼のお母さんは、うつ病で、私が行ったことで大きく動揺したと大介から聞いたから、以後は電話で彼が登校することを待っていると伝えることにした。電話の声で、本当は彼も学校には来たいんだなと思った。だが電話に出ない時もあった。でも、電話はかけた方がいいと思う」
「そうですね。彼の家に行ってみようかなとも思っていましたが。私も、陽明に電話をしてみたいと思います」



◆その95
ゴールデン・ウィーク(14)

 昌郎の相談を受けて福永は、自分のアドバイスだけでは心許ないと思い、教務主任の絹谷美代に声を掛けた。
「絹谷先生、木村先生の相談にちょっと乗って頂けませんか」
 四十代半ばで4年生の担任そして教務主任をしている絹谷美代は、今までしていた仕事の手を休めて昌郎と福永の机の方に近付いて来た。
「何か深刻なこと」
「今日、杉原陽明が欠席したんです。ゴールデンウィークで休みが続いているので、このまま、また不登校になってしまうんじゃないかと心配なんです」
そう言いながら昌郎は、昨日、陽明が大介と一緒に自分の部屋に遊びに来ることになっていたのが、キャンセルになってしまったことも話した。
「そうね、連休明けからまた、不登校になってしまう心配はあるわね」
「彼の家を訪ねて登校を促すことも考えたんですが、母親の関係で、あまり家の方に来て欲しくないらしいので、電話をかけてみようかと思っているんですが」
 絹谷は、陽明の母親がうつ病らしいことを知っていた。
「そうね。でも電話をかけても出ないかも知れないわよ」
「去年の連休明けには電話に出てくれましたが、秋の時には電話にも出てくれませんでした。大介がやっと学校に連れてきてくれたので助かりました。今回も、電話には出ないかも知れませんね」
福永がそう言った。
「そうなのよ」
絹谷は少し間を置いてから、こう提案した。
「電話も良いと思うけれど、手紙を出したらどうかしら。手紙なら確実に彼のところへ届くし、彼だったら必ず読んでくれると思う。前の学校で、私も不登校気味の生徒の担任をしたことがあったけれど、その生徒は手紙のやりとりで学校と繋がって、登校するようになったわ。陽明君は、私が以前担任した生徒と行動や態度が似ているから、多分、電話よりも手紙の方がいいと思う。それに、以前受け持った不登校気味の生徒は、私からの手紙を大切に取っておいてくれて、学校に行けなくなった時に、何度も、その手紙を読んで登校するエネルギーを得たと言ってくれたの」
「自分に絹谷先生のような手紙が書けるでしょうか。自信がありませんが…」
 昌郎は、今は亡き初恋の人由希との文通のことを思い出していた。あの時は、ただひたすら遠く離れている由希を思って手紙を書いた。手紙を書くことが喜びだった。由希への手紙とは意味が違うが、精一杯の気持ちを籠めて手紙を書いてみようと思った。
「私なりに気持ちをこめて手紙を書いてみます」
昌郎は、そう結論づけた。



◆その96
フレンチトースト(1)

 5月8日の土曜日、昌郎は朝早くに起きて机に向かい手紙を書こうとした。
昨日、学校を欠席した杉原陽明にあてた手紙。
しかし、何と書いたら良いか分からなかった。
どんな書き出しなら、最後まで読んでくれるだろうか。
あからさまに、ただ登校を促すだけでは、余計に陽明の出校しようとする気持ちに水を差してしまうかも知れない。
かと言って「学校を休んでいいよ」とも書けない。
白い便箋に向かったものの、持ったペンは最初の一字すら書き出すことができなかった。
手紙を書くことをやめて、電話にしようかと何度も思った。
しかし、電話をしたところで、陽明が出てくれるとは限らない。
福永の話によると、陽明に何度か電話を掛けたことがあったが、一度も電話に出てくれなかったらしい。
そんな状況を知っていて、絹谷は手紙を書くことを提案してくれたのだ。
その時、それは良いことだと自分でも思った。
手紙を読んで陽明が登校してくれそうな気がした。
しかし実際に手紙を書く段になって、何と書けば良いのかと書き出しから悩んだ。
机に向かったままで、何も書けない状態が一時間ほども続いた。
昌郎は、深い溜息を一つついて一旦手紙を書く手を休め、朝食にしようと思った。
休みの日は、普段よりも手間を掛けて朝食を作っている。
冷蔵庫の中を見ると、卵が三箇、スライスハムが1パック、1リットルの紙パックに入った手つかずの牛乳などがあった。
パンケースの中には食パンが二枚残っている。
昌郎は、最初ハムエッグでも作ろうかと思ったが、ふとフレンチトーストを食べたいと思った。
大学時代に食パンを固く乾燥させてしまった時、よくフレンチトーストを作って食べたことを思い出していた。
大学を卒業してから、まだ一月しか経っていないのに、学生時代がとても懐かしく感じられた。もう、あんな気儘な日々を過ごすことはないだろう。
そう思うと無性に、大学時代によく食べたフレンチトーストが食べたくなったのだ。
高校時代まで、フレンチトーストなど食べたことはなかった。
そんなものがあることすら知らなかった。
そのフレンチトーストを最初に作って食べさせてくれたのは、大学の応援団部の1つ学年が上の先輩だった。
応援団では、一つでも先輩なら無条件に敬わなければならない存在である。
先輩は、後輩にどのような理不尽なことを言っても許される。
しかし、その先輩だけは、無理難題など後輩に押しつけることは決してなかった。
それよりも、後輩の面倒をよく見てくれる人だった。
 1年生の時の夏の合宿はとてもきつかった。
何で、応援団などに入ったのかと自分を責めた。
その中で、同じ苦痛と苦労を共有する仲間達との絆が深まっていった。
特に、源藤凌仁とは馬が合った。
そして彼との友情が深まっていった。
だからこそ、苦しい合宿を乗り越えられた。
そして、もう一人、何かと後輩のことを気遣ってくれる2年生の先輩がいたからだった。
その先輩が合宿最後の夜に、先輩達が打ち上げをしている時、そっとその場を抜け出して1年生達に作って食べさせてくれたのがフレンチトーストだった。



◆その97
フレンチトースト(2)

 合宿最終日の夜、先輩達は打ち上げ会をしていたが、新入生達は太鼓や旗などの活動用荷物の後片付けに追われていた。
それが済んだのが夜の9時過ぎ、一週間の合宿の疲れもあって、とても打ち上げ会に出るような体力は残っていなかった。
先輩達は、自分達もそうだったからだろう、敢えて1年生達を打ち上げ会の場に呼びはしなかった。
それは有難かった。
1年生達は、荷物の整理を済ませて早々に寝たかった。
しかし、眠気が覚めるような空腹感もあった。
何か食べなければ、腹が減っていて到底眠れそうもない。
そんな時、打ち上げ会を一人抜け出して、1年生達にフレンチトーストを作って食べさせてくれた先輩がいた。
その先輩は、寡黙で口べたな人だったが、常に後輩のことを気遣ってくれる大らかで温かみを感じさせる人だった。
そして時折、ぽつりと胸に染みるような一言を、呟く人だった。
その一言に1年生達は常に励まされた。
しかし、3年に進級する前にその先輩は応援団を辞めた。
応援団を辞めたと言うより大学を途中退学したのだ。
その先輩から直接聞いた訳ではなかったが、彼の父親が亡くなり学費が払えなくなったというのが、退学の理由だと後で知った。
合宿最後の夜、その先輩がフレンチトーストを1年生に食べさせてくれながら話したことを昌郎は思い出していた。
眠くて仕方なかったのだが、そのフレンチトーストを口に含んだ瞬間、こんなに美味い物が世の中にあるのだろうかと思うほど感激したことを今でも忘れない。
凌仁も同期の応援団員達もみんなそう思ったに違いない。
1年生部員は、フレンチトーストを食べながら互いに顔を見合って、旨いと言った。
そして、山積みされたフレンチトーストを我先にと食べた。
皆、旨いと言ったが、それ以外は何も言葉を発せず無言で食べた。
その時、1年生の誰の目にもうっすらと涙があったように思う。
凌仁は、鼻水を啜りながら、ひたすら食べていた。
昌郎も夢中で食べた。
極端に空腹だったから感動したのだとは言えない。
その先輩の人柄に打たれていたのだ。
何時ものように呟きながら、先輩が話したことも昌郎は良く覚えていた。
「皆、よく頑張ったな。これからの長い人生の中で、何度も苦しいことがあるだろうが、そんな時は、今回の合宿のことを思い出せ。あんなに苦しい合宿を乗り越えたのだから、自分には苦労に耐えられる力があるんだと思えるだろう。そして、もう一つ。どんなに苦しくとも、それには必ず終わりがある。良いことと悪いことは、人生では常に半々だと思う。悪いことの次には必ず良いことが来る。悪いことが長く続くことがあったら、次に来る良いことも長く続く」
そんなことを呟いていた。
なぜ、フレンチトーストだったのか、合宿から戻ってから、昌郎はその先輩に聞いたことがあった。
その時、先輩は少し恥ずかしそうに、死んだ親父の思い出の食べ物だからと教えてくれた。
先輩の父親は、彼が2年になって間もなく他界していたのだった。



◆その98
フレンチトースト(3)

 何とか頑張って大学を続けようとしていたのだろうが、その先輩は2年を終了する段階で退学することになった。
先輩の退学を知って1年生達はみな落胆した。
そんな、先輩を思い出していた。
あの合宿の時、先輩自身も最愛の父親を亡くし、その為に大学生活が続けられるかどうかと思い悩む辛い日々を送っていたに違いない。
あの呟きは自分自身に向けたメッセージだったのかも知れない。
「どんなに苦しくとも、それには必ず終わりがある。良いことと悪いことは、人生では常に半々だと思う。悪いことの次には必ず良いことが来る。悪いことが長く続くことがあったら、次に来る良いことも長く続く」
昌郎は、陽明にこの言葉を伝えたいと思った。
他の人には思いも寄らないような様々なことで陽明は悩み苦しんでいるのだろう。
それが、不登校という形で現れているのだろう。
今の自分は陽明の悩みを聞いてあげることさえ出来ない。
学校に無理矢理登校させたとしても、陽明の抱えている様々な苦悩が解決することはない。
それよりも、自分が経験してきたことと、その中で触れた自分の心に勇気を与えてくれた体験や言葉を陽明に伝えてみようと昌郎は考えた。
フレンチトーストを手早く食べ終えて、昌郎は陽明への手紙を書き始めた。
手紙の文章は下手でもいい、あの大らかで優しい先輩の温かな励ましの気持ちが伝わってくれれば良い。
祈るような気持ちで手紙を書いた。
今は亡き初恋の人だった由希に書いて以来、ずっと手紙など書いてはいなかった。
あの時に使った便箋がまだ残っていた。
その便箋を使った。
由希が応援してくれているように感じた。
「今まで、様々な人を応援してきたあなたなら、きっと陽明君を応援して励ますことが出来る。伝えたいことを素直に書き綴れば良いのよ」
そんな由希の声が聞こえてくるようだった。
『フレンチトーストを知っていますか』
そんな書き出しで昌郎は手紙を書き始めた。
高校時代から大学時代まで応援団をやっていたこと、大学1年時の夏合宿の練習の厳しさに何度も挫けそうになったが、その度に励ましてくれた先輩がいた。
合宿最後の夜、その先輩が疲れ切っていた1年生達に作ってくれた夜食がフレンチトーストだったこと、そして、その時に言ってくれた「良いことと悪いことは半々、悪いことがあればその分良いことが必ずある」そんな言葉を書き綴った。
陽明は、この手紙を読んでどのように受け取ってくれるだろうか。
母親の精神的な病に直面し、そのうえ学校ではいじめられ続けて来た陽明。
長い間の苦しみに耐えた彼には、その辛い時間と同じだけ良い時が巡ってくるはずだ。
それを信じて貰いたかった。



◆その99
フレンチトースト(4)

 昌郎は、漸(ようよ)うに書き上げた陽明に宛てた手紙を、土曜日の夕方になってから祈るような気持ちで、部屋の近くにあるポストに投函した。
明日は日曜日だから郵便の配達はないだろうが、月曜日の日中には手紙が届き、陽明がそれを読んで登校する気持ちになってくれることを願った。
自分の書いた手紙が、どのようなルートで運ばれて、今はどこに保管されているのだろうかなどと、たわいもないことを思いながら、昌郎は日曜日を過ごした。
月曜日、昌郎は朝から落ち着かない気持ちだった。
陽明の所に手紙が配達されただろうか。
彼は手紙を読んでくれただろうか。
それとも封も切らずにうち捨てられてしまってはいないだろうか。
そんな思いが胸の中で交差していた。
五月の夕暮れは、薄い布を被ったように柔らかな黄昏色に染まっていた。
生徒達が登校する様子が職員室にも伝わってきた。
ゴールデンウィークも終わり、新学期も本格的に始動する。
ショート・ホームルームの始まりを伝えるチャイムが鳴った。
クラスの皆は休まずに登校しているだろうか。
クラス全員が欠席せずに元気な顔を見せてくれることを、昌郎は何時も期待して始まりのホームルームへ行くが、今日は特に陽明の出欠が気になっていた。
チャイムと同時に昌郎は職員室を出て教室に向かった。
1年生から4年生までの教室は二階にある。
二階に上がると階段に一番近い教室が1年生。
そして2年生、3年生、4年生の教室が順番に並んでいる。
一緒に職員室を出て来た福永が「今日もまた頑張ろう」という風に昌郎に目で合図をして1年生の教室に入っていった。
各教室には、前後に引き戸があり、後の方の戸には透明なガラスが、前の戸には曇りガラスがはめ込まれている。
2年生の教室の中が後の戸の窓ガラスを通して見えたが、そこから教室内を覗き込んで、誰がいて誰がいないかを確認することもなく、昌郎は、2年生の教室の前の戸の所に来た。
昌郎は一呼吸してから、戸を勢いよく開けた。
生徒達の目が一斉に昌郎をとらえた。
生徒達の方に目を向けながら、皆揃っているか特に陽明がいるかを確かめようとした時、昌郎はバランスを失って転びそうになった。
幸い転びはしなかったが、昌郎のその格好に生徒達が一斉に笑い出した。昌郎が皆の前に立っても、その笑いは収まらなかった。
彼等は何を聞いても何を見てもおかしい年頃である。
何時も、分別くさいことを言っている教師が、ちょっとした失態をすると、笑いの箍(たが)が外れてしまい、余計に可笑しくなってしまう。
昌郎も高校時代にそんなことを経験している。
照れ笑いを浮かべて、彼等の笑いが収まるのを待ちながら、生徒達の出席を確認すると、一人だけ欠席がいた。
その一人が陽明だった。
手紙を読んでくれなかったのだろうか、それとも手紙が届いていないのだろうか。
手紙を読んでくれたが登校出来なかったのか。
生徒達の笑い声の中で、そんな思いを巡らせていた昌郎の表情は、笑われて不機嫌になっていると、生徒達に映ったらしい。



◆その100
フレンチトースト(5)

笑いながらざわめいていた生徒達の声が次第に小さくなって、笑い声が途絶えた。
その時、ふいにクラス長の寅司が言った。
「先生、怒らないでくれよ。皆、悪気があって笑っているんじゃないからさ」
 昌郎は、少し驚いて寅司の顔を見た。
そして、視線を皆に巡らした。
皆も昌郎が怒っていると思っているらしい。
昌郎は、何時もの明るい顔に戻って言った。
「怒ってなんかいないよ。自分でも自分のことが可笑しいくらいだ。ただ、この笑いの中に陽明がいないなと思って、少しがっかりしていたところなんだ。大介、陽明は今日も休んでいるけれど、元気なのかな」
 大介は、「ああ」とぶっきらぼうに応えたきり口を噤んだ。
「そうか、休みか」
昌郎は落胆したが、クラスの雰囲気まで暗くしたくはなかった。
「あとは、皆揃っているな」
 努めて明るい表情で話した。
 連休明けで、みんな授業に身が入らないかも知れないと思っていたが、意外にも、そのようなことはなく、気持ちの切り替えがきちんとなされていて、昌郎は驚いた。
休みが続いてたと言っても、普通の高校生のように自由気儘に暮らせるわけではなく、家事の手伝いそしてボクシングの練習や演劇の稽古、新聞配達や大工の仕事などで、連休とは言ってもやらなければならないことが、それぞれの生徒達には沢山あったに違いない。
夜中に道路工事の車誘導係で働いている隆也と譲の姿が昌郎の脳裏に浮かんだ。
いつも皆から「おばさん」と呼ばれて親しまれている高田律子もドラッグストアーで働きながら夜間高校に通っているから、普段できない家事などを学校の休みを利用して片付けていたに違いない。
もしかしたら、教師の自分が一番のんびりと連休を過ごしていたかも知れないと昌郎は思った。
そう思って彼の心は痛んだ。
 また、夜間高校の何時も通りの生活が始まった。
帰りのホーム・ルームが終わった後、昌郎は大介を少し引き留めて、皆が帰った教室で陽明のことを聞いてみた。
「陽明は家でどうしている。このまま学校に来られない状況が、長く続くようなのかな」
 大介は、睨むような強い眼差しで昌郎の顔を見た。
昌郎も大介の目をじっと見詰め返した。
そんなに長い時間ではなかっただろうが、重い空気が長い時間を感じさせた。
大介が昌郎から少し視線を外した。
そして呟くように言った。
「陽明は、今、大変な時だと思う」
「大変な時?」
「はい、大変な時です」
「何が大変なのかな」
「先生、本当は陽明、学校に来たいんだ」
「え、学校に来たい。陽明が大介にそう言った?」
「いや言ってないけれど、俺には分かる。中学の時も、本当は学校を休みたくなかったんだ」
「だったら、学校に来れば良いじゃないか」
「先生、それが出来ないから大変なんだよ」
昌郎は、大介の言っていることが理解できなかった



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