[連載]

   121話 〜 130話      ( 佳木 裕珠 )



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◆その121
中間テスト(7)

 病気や事故などで定期試験を欠席した者の再試験の有無については、職員会議で決定されるが、テストの点数が30点未満の生徒の指導については、各教科の担当者に任されている。
追試をせず、期末テストでの挽回を期待する先生もいるが、大概の教師は、数日間の勉強期間を与えて追試を行うことが多い。
この鈴が丘高校の定時制では、全教科の担当教師が、そのようにして追試を行っていた。
追試においても成績が良くない場合には二度目の追試を行う先生もいる。
追試である程度の点数をとると、テストの成績を合格点ぎりぎりの30点に引き上げる。
そのようにして、学習内容を身につけてもらい、これからの授業に繋げていく。
昌郎は他の先生方と同様に、世界史Aで赤点だった隆也と譲そして万里に対して追試を行った。
採点したテストを返した日から三日後の放課後に、追試を行うと3人に伝えた。
もしかしたら万里は、演劇の稽古があるから受けられないなどと言うかも知れないと覚悟していたが、彼女にその気配はなかった。
隆也と譲も神妙な顔をしていた。
追試当日、3人は放課後に追試を受けた。
試験が開始されてから30分ほどで、3人とも答案用紙を提出して帰って行った。
隆也と譲は60点ほどの点数で、まずは合格点だったが、万里は30点にも達しなかった。
追試の翌日、隆也と譲に追試合格を伝えると、素直に喜んでいた。
態度や服装だけを見ると、ヤンチャそのものなのだが追試合格でホッとして喜ぶ様子は、無邪気そのものだった。
一方、万里には放課後に学校に残ってもらい、ほとんど勉強もせずに追試を受けた、その理由を聞きたいと思った。
万里は、今度も文句を言わずに放課後、教室に残っていた。
演劇の稽古が休みなのだろうか、帰りを急ぐ様子はなかった。
「演劇の練習があるのに、残ってもらって悪い」
 万里と向き合って座った昌郎は、開口一番、そう万里に声をかけた。
万里は、ちらりと昌郎を見ただけで、なんの返事もせず横を向いてしまった。
その姿勢は相手と話をすることを拒否するという表れだとも受け止められる。
昌郎は、女子のこのような態度に接するのが苦手だった。
何を話しても、こちらの気持ちが伝わらないようで、次にどう声をかけたら良いのだろうかと困惑した。
しかし、苦手だの困っただのと言ってはいられない。
少しでも万里が、自分の話を聞いてくれるためにはどうしたらよいか、そして勉強をせずにテストに臨んだ理由を伝えてもらいたい。
去年までの彼女の点数から考えれば、今回の中間テストや追試の点数は万里らしくない。
昌郎は、思っているまま単刀直入にそう万里に話すことにした。
「テスト勉強が出来なかった原因が何かあるんじゃないかと思っているんだが」
万里は今度も、自分の手元に目を落としたまま何も言わない。
先生には何も話さないという頑なな気持ちが、じんじんと伝わってきた。
このまま、話し掛けても彼女は口を開いてくれないだろう。
昌郎は、自分の方から話し掛けるのを控えた。



◆その122
中間テスト(8)

 昌郎は、万里の返答をもう少し待つことにした。
数分、2人の間に沈黙が続いた。
このままだと時間だけが経過してしまう。
既に9時を過ぎている。
いくら定時制だといっても、女の子を遅くまで学校に引き留めておくことはできない。
時計を見ながら昌郎が、このままでは何も進展がないから、重ねてテスト勉強をしなかった理由を聞こうとした時、昌郎のそんな気配を察知したのか、万里はふっと深い溜息を漏らした。
それはとても重く深い溜息だった。
それほど、彼女が抱えている悩みが大きいのかも知れないと、昌郎は感じた。
溜息をついた後の万里は、何か言い出しそうだった。
もう少しだ、もう少し彼女が自分から話し出すのを待とうと昌郎は思った。
きっと万里は何かを言いたいことがあるに違いない。
しかし、それを言っても私が理解してくれないと考えているのかも知れない。
だから、また言葉を飲みこんでしまったのに違いない。
今、自分に出来ることは、彼女がどんな理由を話しても、まずは、それを全て受け入れることだろう。
昌郎は自分にそう言い聞かせながら、万里の言葉を待った。
実際には短い時間であっても、何かを待つ時間は、とても長く感じる。
待っていた時間は、ほんの2・3分程度だったろうが、その数分が、昌郎にはとても長く感じられた。
もう少しだ。
もう少し待とう。
そう自分に言い聞かせながら昌郎は万里の言葉を待った。
万里が口を開いた。
最初、ぼそぼそという声で、何を言っているのかはっきり聞き取れなかった。
昌郎が怪訝な顔を万里に向けると突然、怒鳴るような大きな声で万里が言い出した。
「理由なんて、簡単よ。勉強したくなかっただけ。それ以上の理由なんて何にもない」
 吐き捨てるように万里はそう言った。
昌郎は、吃驚して万里の顔を凝視したが、それで引き下がってはいられないと思った。
昌郎は、応援団で鍛えた太い声でゆっくりと言った。
「勉強したくなかったじゃ理由にならない。なんで勉強したくなかったかが聞きたいんだ」
 万里は、感情を高ぶらせながら、また大声のままで言った。
「先生に話たって分からない。親の仕送りで大学まで行って、楽しい大学生活を送り、卒業してすぐ教員なった先生には、私の苦労なんか分かるはずない」
俺だって、悩み苦しみ悲しさのどん底に落ちたことだってあると言いたかったが、昌郎は言わなかった。
今は万里の話を全て受け入れて聞くことに徹しよう、そう自分に言い聞かせた。
万里は、少し言い過ぎたと思ったのか、一旦言葉を区切ったが、また強い口調で話し出した。
「私がどんなに失望しているか。誰にも分からない。そもそも、高校なんかに来たって何にもならない。今の私には、なんの役にも立っていない。これからだって、学校で習うことが役に立つとは思えない。だったら勉強しても意味がない。毎日、朝早くからスーパーでバイトして疲れ切った身体で学校に来ることに、どんな意味があるの。バイトにだって演劇にだって何も役に立つ事なんてない」
万里は、強くそう言いきった。



◆その123
中間テスト(9)

 学校で習う事なんて、何の役にも立たない。
そう言いきる万里に、昌郎は、今はそうかも知れないと、同意した後で言葉を繋いだ。
「学校で習うことは、すぐに役に立つものばかりじゃない。でも、知識があると自分の視野が広まる。視野が広まると、行動も広がってくる。チャンスだって広がる。それは何時かは誰にも分からない。その知識をどう役立てるか、それはその人次第だ」
 昌郎は低いが太い声でそう話した。そして、彼女が言った重要なことについて聞いてみた。
「今、失望していると言ったけれど、何に失望したんだ」
 万里は、投げ捨てるように言い放った。
「全て。私の人生の全てに失望した」
そして続けた。
「私には演技の素質が全くない。先生、私は何も主役になりたいなんて思っていない。演技も今一、スタイルが抜群にいい訳でも、美人な訳でもない。でも、ほんの端役でもいいから、通行人Aだっていいから、役が欲しかった。喉から手が出るほど欲しい。今度の舞台には通行人A、Bがいる。その2人のセリフはほんの二言・三言、それでもいいって思ったのに。その役を私に当てて下さいと祈っていたのに。たった数個のセリフしかない、名前もない通行人の役よ。それでもいいと思ったのに、私にあたった役目は、ライト係。出演者に光りを当てる役。自分には光りはあたらない。何時もそうなの。先生に、こんな私の気持ちが分かるわけないじゃない」
 堰を切ったように一気にそう言うと、万里は机に突っ伏して泣き出した。
昌郎の目の前には、艶のないぼさぼさの髪を無造作に束ねている万里の頭があった。
机に顔を伏せて肩を揺らしながら、声を上げて万里は泣いていた。
彼女の肩は意外なほど細かった。
痛々しいほど細いと思った。
どんな言葉をかけて良いのか、昌郎には分からなかった。
しかし、万里が勉強に手が付かない理由が分かった。
そして彼女の深い失望の原因が分かった。
 その時、教室の扉がノックされる音が聞こえた。
はい、昌郎が答えると、万里の泣き声がぴたりと止んだ。
遠慮深げに戸が細く開いた。
その間だから絹谷が顔を覗かせた。
「私に何か出来ることあるかしら。万里さん大丈夫」
万里は机に突っ伏したままでいたが、泣き声は収まっていた。
「絹谷先生。ご心配をかけています。すみません」
「こちらこそ、出しゃばってすみません。ただ、万里さんとは女同士、何か私に出来ることがあるかなって思ったんだけど。万里さんも少し落ち着いたみたいだから、私退散する」
 そう話すと、すっと教室の扉が閉じられた。
そして絹谷の足音が遠ざかっていった。
万里が、机から顔を上げた。そして昌郎にゆっくりと頭を下げた。
「先生、すみませんでした。全ては、自分で解決なければならないことなのに、先生に八つ当たりしてしまって。今回のテストの分、期末テストで頑張ります」
「そうか、そうするか」
昌郎は、それ以上何も言わなかった。
昌郎の胸が、またしても痛んだ。
万里に何もしてあげられない自分の不甲斐なさに、昌郎は教室の天井を見上げるしか出来なかった。



◆その124
部 活 (1)

 中間テストが終わると、様々な運動部の試合が目白押しで、応援団活動も結構忙しかった高校時代のことを昌郎は思い出していた。
この鈴ケ丘高校の定時制には、体育部がバスケットボール部と陸上競技部の2つ、文化部が漫画研究会と音楽鑑賞会の2つの計4部だけしか無かった。
そして、昌郎が、此処に赴任してから、これらの部が活動している様子を見たことがなかった。
そこで、先輩教師の福永に部の活動は何時始まるんですかと聞いた。
福永の返答はこうであった。
バスケット部は定通の全国大会予選を兼ねた試合が間近に迫った1週間ぐらい前から、しかし試合が終わると練習がなくなる。
そして、一年が過ぎてからまた試合の前1週間ぐらい練習して試合に出る、そんな塩梅だと言う。
陸上競技部もそんな感じですかと聞くと、今年度は陸上競技部員がいないので、休部状態だと答えた。
去年は4年生の男子生徒の中に砲丸投げで、中体連の大会で入賞した者がいて、その生徒が自分の家で自主的にトレーニングし、学校では全日制の陸上競技部の生徒達と試合の前十日間ほど練習をさせてもらっていたが、今年は、その生徒が卒業してしまい、部員もいないと言うことだった。
福永はバスケット部の顧問で、今、部員が4年生の3名しかいないから、あと2人をどうにか探さなくてはいけないのだがと前置きしながら、2年生の「とら」こと長山寅司とボクサーを目指している町井大介に試合の時だけで良いからバスケット部員として出場して貰えないかと思っていると昌郎に話した。
彼の話では、寅司はなかなかバスケットボールのセンスが良い、大介はボクサーを目指しているだけあって動きが機敏で度胸もある、その上シュートのコントロールも良い。
福永は、体育の時間に生徒達の様子を度々見ているらしい。
体育の担当は27歳で非常勤講師の菊池(きくいけ)満が受け持っているが、彼も、この2人の運動能力については太鼓判を押している。
1年生と3年生の男子には彼等2人に匹敵するような生徒はいないと言う。
ただ、これから来年、再来年とバスケット部を継続させて行くためにも、福永が担任をしている今の1年生の中から2人ぐらいは部員を出したいと話していた。
大介は学校での部活よりもボクシングジムでのトレーニングが優先されるし、寅司も仕事優先。
極論を言えば、部活に割く時間が無いという現状だから、彼等にバスケット部に入ってくれとは言えないと福永は言った。
昌郎もそう思う。
ただ、試合の時だけ部員として参加してもらえればいい。
昌郎は、彼等にそのように話した。
寅司も大介も試合と、その前1週間ぐらいの練習ならば、協力しても良いと言ってくれた。
これで、どうやらバスケットボールの定通大会(定時制、通信制の大会)には、鈴ケ丘高校定時制は出場できるようだ。
福永は自分のクラスの1年生男子2名をバスケット部員にすることに成功したので、試合には7人体制で臨むことが出来る目処が付いた。
ただ、練習は授業が終わって21時から22時までの1時間しかとれない。
それも試合前1週間だけだった。



◆その125
部 活 (2)

 福永は、陸上競技部についても考えがあった。
部活動と言うよりも定通の陸上競技への参加についてだが、一応部員として登録しなければ、試合には出ることが出来ない。
名目上でも部員としての位置づけが必要である。
福永は、一人その候補を挙げたが、それは意外な生徒だった。
なんと、これも2年生で、あのひ弱そうな小山田秀明だった。
「え、彼、足が早いんですか」
「足が速いと言うよりも、長距離走があっていると言った方がいいかな。得意なのかと言えば、そうでもないかも知れないが、最初から最後まで、結構なスピードを保ったまま走るんだよ、体育の菊池先生も、そんな秀明を大会に出したらどうだろうと言ってくれている。もし出場するのなら、自分がコーチをしても良いと言ってくれているんだ。菊池先生は高校時代に陸上競技部に所属していて、大会にも出ていたという。ただ、彼の場合は短距離だけれど、指導なら長距離でも大丈夫出来ると言うんだ」
「そうですか。菊池先生がそう言っているんですか。秀明が持久走、長距離が得意だなんて意外ですが、菊池先生のお墨付きで指導もして貰えるのなら、体型的にも長距離向きだと思うから、いい線行くかも知れませんね」
「そうなんだよ。だから、木村先生に骨を折って貰いたい。秀明が陸上競技部員として登録し、試合に出てくれるように説得して欲しいんだが、どうだろう」
「でも、陸上競技部の顧問は川北先生ですから、川北先生を通して話した方が良いのではないでしょうか」
「その点は大丈夫、川北先生もそれを望んでいます」
そう言いながら、向かい側に居る川北に福永が声を掛けた。
「川北先生、先生からも木村先生にお願いしてください」
今までの福永と昌郎の会話を聞いていた川北が、応接セットを挟んだ向こう側の席から話しかけてきた。
「木村先生、私からもお願いしますよ。私よりも木村先生からの説得の方が確実ですよ。なにせ、秀明は木村先生が大好きなんですから」
「え?」
「秀明、そう言っていましたよ。だから、秀明は木村先生の説得は聞くと思います」
「ということで、木村先生、秀明に話してみてください。まあ、やってみないと分からないけれど。木村先生は秀明の担任でもあるし」
 そう言われて、昌郎は秀明に話してみることを承知した。
「それじゃ自分から、秀明に話してみます」
 秀明を説得する自信はなかったが、昌郎は生徒会の担当でもあり、部活動を盛り上げたいという思もあって引き受けることにした。



◆その126
部 活 (3)

 次の日の放課後、秀明に少し残ってもらい、陸上競技部に入部して試合に出席して欲しいがどうだろうかと、昌郎は単刀直入に聞いてみた。
秀明は、大して驚きもせず、種目はなんですかと聞いた。
「菊池先生は、5000メートルはどうだろうかと言っている」
「5000メートルか。きついな〜」
「5000メートルは、長距離走だけれど中距離走の要素も強く、序盤からある程度スピードを上げて走らなければならないが、そこが我慢強い秀明に向いていると菊池先生が言っていたよ」
「僕、我慢強くなんかないと思うけれど」
「いや、普段は陽気そうに見えるが、持久走の時は、ただひたすら自分のペースを維持しながら、何時の間にか一番で走っていると川北先生は褒めていたよ」
「そうですか」
息を吐くような調子でそう言いながら、言葉を続けた。
「先生、今すぐに返事をしなくてはいけませんか。家に帰って考えるので、明日まで待ってもらってもいいですか」
 秀明は即答を避けた。
「勿論いいよ。よく考えて返事をして欲しい。それじゃ明日、返事をくれるということで、いいかな」
「はい、明日必ず返事します」
 何時になく、大人びた様子の秀明だった。
秀明と話をしてきた昌郎が職員室に戻ってくるなり、福永が聞いてきた。
「明日まで、返事を待ってくれと言っていました」
 昌郎は、申し訳なさそうに答えた。
「秀明にしては慎重だな。二つ返事で引き受けてくれるか、また絶対に嫌だと即答するかと思っていたんだが。何か考えることでもあるんだろうな。練習がきついと嫌だとか、試合に出ることが恥ずかしいとか思っているけれど、大好きな木村先生に説得されて迷っているのかも知れないな。まあ、彼が出す結論を大切にしてやりたいと思うが、試合に出ることは、秀明にとっても良い経験になると思うから、もう少し説得して欲しい」
「そうですね。秀明にとっても、試合に出ると言うことは、とても良い経験になると思います。明日、どんな返事をしてくれるか。もし、秀明が引き受けてくれたなら、自分も練習に付き合ってもいいと思っているんですが」
「そうなることを祈っている。この鈴ケ丘高校定時制のためにも」
 福永は、そう言うと帰り支度を始めた。



◆その127
部 活 (4)

 次の日、秀明は始めのホームルームの時間に、ぎりぎり間合って登校した。
何時もなら20分以上も早く学校に来ているのに、やはり5千メートルに出ることに躊躇しているのだろうか。
断れずに悩んでいるのだろうか。
昌郎は、秀明の様子を気にした。
しかし秀明は、何時もより遅く登校した事以外は、いつも通りの様子だった。
二年生の授業から戻って来た福永に秀明の様子を聞いても、何時もと変わらないと答えた。
自分一人が気にしすぎているのかも知れないと思ったが、休み時間になっても、秀明は返事を言いに来ることはなかった。
昌郎は、すぐにでも返事を聞きたかったが、放課後まで待つことにした。
 帰りのホームルームが終わると、生徒達は我先にと下校する。
その中で秀明だけがゆっくりと帰り支度をしていた。
そして皆が帰ってから職員室の昌郎の所にやって来た。
「秀明、昨日のこと考えてくれたか」
 昌郎は、期待を込めて秀明に聞いた。
「はい。先生、返事は昨日の段階でもう決まっていたけれど、5千メートルとは別なことを考えていました」
「別なこと」
「はい。5千メートルではないことです。5千メートルには出ます」
「そうか、出てくれるか。有り難う」
秀明が5千メートルに出ると言ってくれた。
良かったと思ったが、別なこととは一体何なのか、心当たりがなく少し心配になった。
「5千メートル以外の別なことって、どんなことかな」
「ここでは、ちょっと」
そう言いながら、秀明は職員室の中を見回すようにした。
昌郎は秀明の気持ちを汲んだ。
「そうか、それじゃ二年生の教室に行って話を聞こうか」
 昌郎と秀明は、二年生の教室に行った。
闇の中に沈んでいた教室の電気を点けた。
誰もいない教室が目の前に出現した。
彼等は、窓際の席に向かい合って座った。
秀明は、椅子に座るや否や、待っていたように話し出した。
「先生、赤十字って知っていますか」
「あの献血をやっている赤十字だったら知っているよ」
「そうだよね。知らない人いないよね。じゃあ、青少年赤十字って知っている」
 あれは確か高校一年生の時、生徒会長をしていた由希が青少年赤十字に拘わっていたことがあった。
募金活動だったと思う。
また、桜祭りの時に迷子相談所で、他校の青少年赤十字部の人達と一緒に活動していたという話も聞いたことがあった。
そのことを昌郎は、思い出していた。



◆その128
部 活 (5)

 「青少年赤十字、名前は聞いたことがある。募金活動なんかをしていたと思うけれど、あとは良く知らないな」
 秀明は、そうなんだよね案外と知らないんだよねと言いながら、青少年赤十字のことについて自分が知っていることを話した。
赤十字の父アンリー・デュナンのこと、赤十字には7原則があり、その中心になるのが人道。
青少年赤十字は、青少年が学校を通してその人道を学び実践する活動を行う。
その活動には、健康・安全、奉仕、国際理解・親善の三つの目標がある。
また、気付き・考え・実行を態度目標として活動する。
その一環として募金活動や献血の呼び掛け等の活動が行われる等と、昌郎が感心するほどしっかりと説明した。
内容を充分に理解できたとは言えないが、高校生の活動として、やって貰いたいような内容だと昌郎は思った。
「なかなか良い活動じゃないか」
昌郎は、そう感想を述べると
「そうでしょ。先生」と喜々として目を輝かせながら、秀明は話を続けた。
「先生、そんな活動をする青少年赤十字同好会を立ち上げたいんです。その顧問になってくれませんか」
「青少年赤十字同好会の顧問?」
「始めは、同好会という形で活動して、来年度の生徒総会で承認を得てから部に昇格させて貰いたいと思っているんです」
 秀明は生徒会の会計をしているので、新しい部の設立手順に詳しかった。
「俺は、青少年赤十字の事について何も知らないんだが」
「先生だったら大丈夫です。木村先生は青少年赤十字向きです」
「え、青少年赤十字向き、俺が」
「はい、そう思います。だって、先生は応援団をやって来たんでしょう」
「ああ、高校時代から大学時代までずっと応援団をやって来たが、それと青少年赤十字と、どんな関係がある?」
「大ありですよ。応援団って、選手にやる気を出させたり、持っている力を充分に発揮させるために応援するんでしょ。自分のことは二の次にして、闘う選手のことを考えて応援するんでしょ。赤十字は、世の中の様々な弱い立場の人達のための応援の活動だと思います。だから青少年赤十字活動は、正に応援団活動そのものだと思います」
 痩せて小柄な秀明は、普段はひ弱そうに見えるが、青少年赤十字の事について話す時は、今までに見たこともないくらい自身に満ちていた。
秀明の青少年赤十字活動への熱意を、昌郎は感じた。



◆その129
部 活 (6)

 秀明は、5千メートルの試合に出ることを承知しながら、彼が立ち上げようとしている青少年赤十字同好会の顧問を昌郎に引き受けて欲しいと言った。
昌郎は、秀明から聞いた話や自分が高校時代に由希から聞いた青少年赤十字のことを思い浮かべ、青少年赤十字活動は高校生に有要な活動の一つだと思った。
そして、青少年赤十字同好会の顧問をやってもいいと考えた。
時計を見るともう夜の十時になろうとしていた。
「よし、分かった。青少年赤十字同好会を秀明が立ち上げる時には、俺が顧問になってもいいよ。それは、秀明が5千メートルの競技に出てくれるか、くれないかとは別のこととして考える。交換条件という事じゃないよ。だから、もう一度念を押して聞くけれど、秀明は、5千メートルに出てもいいんだね」
「はい、先生が青少年赤十字の顧問になる、ならないには関係なく、5千メートルに出ます」
 秀明は、きっぱりとそう言いきった。
そして笑顔で下校して行った。
 職員室に戻ると、福永だけが残って仕事をしていた。
昌郎は、秀明が、5千メートルに出場することを承知してくれたこと、そして彼が青少年赤十字同好会を立ち上げたなら、その顧問を昌郎にやって欲しいと頼まれたことを、手短に福永に話した。
「秀明が5千メートルに出ると言ってくれて良かった。菊池先生に少し指導して貰うように、俺達からもお願いしょう。それから、菊池先生に秀明のコーチに頼みたいこと、青少年赤十字同好会、将来的には部活としてやりたいと秀明から申し出があったことを、明日、早速、教頭に話そう。きっと教頭は、そのどちらも賛成してくれると思う。それじゃ、今日はこれで仕事を止めて帰ろうか」
 福永はそう言いながら、先輩教師らしくご苦労さんの意味を込めて昌郎の肩を軽く叩いた。
昌郎は、そんな福永に温かいものを感じながら頷いた。
 昌郎は次の日、学校に出勤してすぐ教頭の長津山に、昨夜のことについて話した。
長津山は、5千メートルに秀明が出場すると聞いて喜んだ。
そして青少年赤十字活動についても快諾してくれた。
意外にも長津山は、以前いた学校で、青少年赤十字に拘わっていたことがあったと話してくれた。
「青少年赤十字は、生徒達にとっても良い経験になると思う。木村先生、是非、顧問として同好会、将来的には部活の面倒を見てやって下さい。私からも、校長に言って青少年赤十字に加盟登録をして貰いましたょう」
「加盟登録?ですか」
「そう。青少年赤十字活動は、まず日本赤十字社の都道府県支部に登録してから始める」
「登録には登録料のようなものが必要なんですか」
「それはない。登録したからと言って、何をしなければならないと言うこともない。その学校の教育方針に従って生徒達の赤十字の理念にあったような活動をすれば良い。要望すれば、学校での青少年赤十字活動に様々な形で支援をしてくれるから、大いに活用すれば良いと思う。勿論無料だ」



◆その130
部 活 (7)

 校長の西岡充夫は、青少年赤十字について全く知らなかったが、長津山の説得で、青少年赤十字の加盟校として定時制が日本赤十字社東京都支部に登録しても良いことになり、定時制の職員会議で職員の同意が得られ、加盟校登録の手続きが取られた。
手続きと言っても簡単な登録票一枚だけの提出で難しいことはなにも無かった。
 秀明が5千メートルへの出場を承諾した次の日から、試合までは一ヶ月ほどしか期間がない。
この一ヶ月が勝負。
どれだけ力を付けることが出来るだろうか。
秀明が出場する試合は、全国高等学校体育連盟定時制通信制陸上競技大会の東京都代表選手選考会と東京都の定通部会の春季選手権大会を兼ねている。
5千メートルの競技には毎年、都内の定通制高等学校から15名ほどが出場する。
参加者が少ないので、予選なしの即決勝戦となり、この大会で上位3位以内に入れば、夏に行われる全国大会の代表となることが出来る。
秀明は今年初めての参加と言うこともあり全国大会への出場までは期待できないだろうが、彼の実力を存分に発揮して、少しでも良い結果を出して貰いたい。
教頭の長津山をはじめ定時制の先生は、その思いで一致している。
そんな先生達の気持ちを汲み取って体育の非常勤講師である菊池満も、快くコーチを引き受けてくれた。
菊池は高校・大学時代に陸上競技をやっていたが、専門は短距離。
しかし自分の陸上競技の知識や経験は長距離の5千メートルにも充分生かせるだろう。
また、友達の中に5千メートルの選手だった者もいるからアドバイスを受けようと彼は思った。
4年生3人と2年生のとらと大介が参加するバスケットの練習は、試合の1週間ぐらい前に練習を開始して本番に臨むことになっている。
一方の秀明は、今から試合までの1ヶ月間ほど、みっちりと練習をすることになった。
 秀明は、朝から午後1時までコンビニのバイトがあるが、それ以降は練習の時間に使える。
しかし菊池は、鈴か丘高校以外でも体育の臨時講師として勤務している。
更に、差し迫っている夏の教員採用試験の勉強もしなければならない。
そこで、週に水・木の2日間、16時からホームルームが始まる17時半までの約1時間半ほど、秀明を指導してくれることになった。
あとは、菊池の助言や指導をもとにして、秀明自身が自主的に練習をするしかない。
菊池は、秀明が練習を開始する日、5千メートルという競技の特徴について、2つのSについて話してくれた。
二つのSとは、スタミナとスピード。
この二つを常に意識して練習して欲しいと言った。
秀明は小柄で痩せているが、それとスタミナがあるかないかは全く別の話で、彼なりに普段の練習でスタミナを付けることが出来る。
スピードも走り方の改善によって今以上に上げることも出来る。
秀明の走り方をよく見て何処が改善点かを見極め、少しでも無駄なスタミナを使わずにスピードを維持して走りタイムを縮めていくことを提案してくれた。
試合で5千メートルを走る為には、普段の練習では6千メートル走ることが重要だとも話した。
普段6千メートルを走っていれば、それより千メートル短い5千メートルを走るとき、気持ちに余裕が出来る。
ラストスパートにも力を発揮できる。
そこで、毎日6千メートルを走ることが秀明の練習の基礎となった。
昌郎は覚悟を決め、自分も秀明に付き合って毎日6千メートル走ろうと心に決めた。



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