[連載]

   131話 〜 140話      ( 佳木 裕珠 )



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◆その131
部 活 (8)

 大会までの一ヶ月間をどのように走り込むか。
菊池が示したのは、まず最初の1週間は一日一回3000メートルを走る。
そして、その1週間が過ぎたあと、三日間で600メートルずつ増やして行く。
その練習は、学校の敷地の外周を走ること。
鈴ケ丘高等学校は都心にあって、敷地は地方や郊外の高校に比べれば本当に狭い。
全日制の校舎と定時制の校舎は別棟だが、体育館は共同で使う。
その体育館を全日制の部活動が夜7時まで占領するから、定時制の体育の授業は、それ以降の時間帯に設定されている。
校舎がある敷地内の屋外体育施設は、テニスコートが2面だけ。
そこは毎日、全日制のテニス部が使う。
グラウンドは学校から歩いて10分ほどの離れた河川敷にある。
野球場はそのグラウンドに隣接する区営の施設を借りているが、そこが空いていない時は、学校が所有するバスで近隣の施設まで行くことになる。
街中の学校は通うには至極便利だが、学校の敷地が狭く、グラウンドや野球場などは離れているか何処かの施設を借りなければならない。
そんな理由もあって、全日制の体育系部活のランニングは、学校の敷地の外周を走ることになる。
秀明も同様だった。
学校の敷地は、ほぼ正方形で、その一辺は大体150メートル、一周は約600メートルになる。
敷地外周を5周走ることを1週間続け、その後、月曜日から土曜日まで3日毎に1周ずつ増やして行く。
そして、日曜日は練習をせずに身体を休める。
その練習方法を菊池は秀明に提案した。
彼の計算では、試合の3日前までに6000メートルの走行を経験でき、気持ちに余裕が出来ることになる。
しかし、毎日何千メートルも走ることは容易なことではない。
それに耐えうる体力と精神力が必要だ。
試合に出るならば、少なくとも去年の冬あたりから始めなくては良い結果は望めない。
実際、一ヶ月の練習だけでは短すぎる。
だから今回は、良い結果は望めないだろう。
しかし2年生の秀明が、今年の大会出場の経験から来年度も5000メートルに出ようという気持ちになってくれれば、今回の練習も無駄にはならない。
今年は、試合で完走することだけを目指そう。
菊池と昌郎は、そう話し合った。
その結果、毎日の練習はその日の目標とする距離を一回だけ走りきること。
そして、事前のストレッチとしっかりとしたクールダウンなどを重視し、ミーティングで走りのフォームの検討などを行うことにした。
試合一ヶ月前の土曜日、秀明のバイトが終わった午後に、彼と昌郎そして菊池が集まって、これからの練習の内容を確認した。
走る前のストレッチと走り終えた後のクールダウンの方法も菊池から教えて貰った。
更に、菊池の大学時代の友達で実際に5000メートの選手が大会に出て走った映像を見ながら、走り方やフォームについてアドバイスを受けた。
明日の日曜日はゆっくりと休み、月曜日から練習に入ることになった。



◆その132
部 活 (9)

 明日の月曜日から、秀明の5千メートル競技の1ヶ月間の練習が始まる。
たった一ヶ月、どのような成果が上がるか期待は出来ないだろうが、競技出場の体調準備と心構えにはなるだろう。
練習で秀明と一緒に走ろうと思った昌郎は、土曜日と日曜日の2日間、部屋の近辺を一人で走った。
約2000メートルほどもあるだろうか。
月曜日から1週間3000メートルを走ることになっている。
その後3日毎に走行距離を伸ばし、6000メートルを走り込んでおく予定だ。
大学4年以降一年以上も運動やトレーニングらしきものをやっていない昌郎にとって、久し振りに走る2000メートルは相当に身体に応えた。
高校時代の3年間そして大学に入ってからの3年間、応援団に所属して毎日のように走っていた時は、3000メートルぐらいは今より余裕で走れていたはずだったのにと、自分でも体力が落ちていることを改めて知った。
それでも、秀明と一緒に3000メートルくらいは走れるだろうと思っていた。
 練習初日の月曜日、練習は夕方4時から開始の予定だったが、秀明はそれよりも30分ほど前に来た。
授業の準備をやってから2学年の教室に行くと、秀明は既に着替えて菊池から教わったストレッチや準備体操をやっていた。
これから1ヶ月間の練習をしっかりと乗り切って試合に臨むぞという彼の意気込みが伝わってきた。
小柄で眼鏡をかけている秀明は、何時もは、ひ弱そうな感じが拭えないが、今は、5千メートルという競技に真っ向から向き合って練習しようという意気込みと熱意が感じられ、何時ものひ弱さは薄れていた。
昌郎は、これなら彼は本番の試合で、恥ずかしくないような走りをしてくれるのではないかと思った。
10分ほど二人で組んで準備体操とストレッチを行ってから、いよいよ3000メートルを目標として走り出した。
学校の敷地外周は1周がほぼ600メートル。
今日は5周して3000メートル走る。
はじめの1周目は順調だった。
昌郎と秀明は並んで走った。
2周目もほぼ順調だった。
しかし、3周目を過ぎたあたりから、昌郎のペースが遅くなった。
彼は息が切れて苦しくなってきた。
昨日と一昨日、昌郎は部屋の回りを2000メートルほど走ってきたが、4周目は、その2000メートルを超える距離。
身体が2000メートル以上の距離を走ることを、しっかりと思い出してはいなかったのだろう。
秀明と昌郎の距離は少しずつ開いていった。
最後の5周目に入ったが、秀明のスピードは最初とほとんど変わらずにいた。
昌郎は、そんな秀明の後を必死でついていった。
そして100メートルほど秀明に離されてゴールした。
ゴールした時、昌郎は疲労困憊という状態だったが、秀明には、まだまだ走れるという余裕さえ感じられた。
上がった息が落ち着いてから、昌郎は秀明の走りの良さを褒めた。
「秀明、3000メートル余裕で走っていたな。先生、驚いた。凄いよ」



◆その133
部 活(10)

 次の日の3000メートルも、やはり秀明の方が昌郎より100メートルほど差を付けてゴールした。
これから、3600、4200メートルと走行距離を伸ばしていくとすると、差はもっと大きくなるだろう。
一緒に走ることで逆に秀明の走行の邪魔をすることになるかも知れない。
昌郎はそう考え、今後は一緒に走らずに秀明のタイムを測ることなどに専念しようかと思った。
水曜日・木曜日は菊池が練習をみてくれることになっている。
最初の水曜日、練習の前に昌郎は、自分は秀明と一緒に走らない方が良いのではないかと、菊池に聞いてみた。
菊池は、今日、もう一度秀明と一緒に走ってみて下さいと昌郎に言って即答を避けた。
先ず最初に三人で準備体操をした。
「それじゃ、秀明君の走り方の確認をします。まず走ってみて下さい。木村先生も一緒に走って下さい」
菊池の合図で、秀明と昌郎が一緒にスタートした。
3日目と言うこともあり昌郎は走り方の感を取り戻しつつあった。
また、菊池が見ていると思うことで、今までよりも頑張りが利いたようで、秀明に遅れること50メートルほどでゴールした。
二人の走り方を見ていた菊池は、まず、秀明にアドバイスをした後で、昌郎にこう提案した。
「木村先生もなかなか良い走りをしていると思います。特に3周目あたりまでは体力もしっかり温存させた落ち着いた走りをしていると思いました。ただ、スタミナ面から言えば、3周までが限度かなと思います。だから、木村先生が秀明君と一緒に走るのを2周半つまり1500メートルまでとした方が良いと思います。その2周半は、先生が秀明君を引っ張っていくような気持ちで、もう少しスピードを上げて走ってみたらどうでしょうか。木村先生なら出来ると思います。秀明君は、最初の2周半を木村先生にしっかりついて行く気持ちで走って下さい。それから以後は、そのスピードを如何に持続させるかを念頭に置いて走ってみて下さい。そうすれば、きっと今よりもスピードが上がる筈です」
菊池のアドバイスを受けて、毎回の練習で昌郎は、2周半だけ秀明と一緒に走ることになった。
しかし、ただ単に走るのではなく、ピッチを上げ早い走りでの1500メートル走行だから、決して楽ではない。
秀明を引っ張って行くつもりで、必死に走ろうと昌郎は気持ちを引き締めるのだった。
最初の1週間が過ぎた。昌郎は勿論、試合に出る秀明も順調に体力を付け、走り方も大分良くなってきた。
練習を開始して2週目に、菊池は、秀明の走り方を足の上げ方、上体の姿勢など細部に渡って注意をしてくれた。
昌郎は、それらのアドバイスをひとつひとつメモをして、毎日の練習で秀明の走りをチェックし、改善点を秀明に伝えた。
秀明も、菊池や昌郎のアドバイスをしっかりと受け止め、日に日に記録を伸ばしていった。
練習は3週目に入った。
いよいよ、走行距離が5千メートルを超える。秀明は練習に充実感を覚えていた。



◆その134
部 活 (11)

 試合まで、あと2週間。
練習1ヶ月間の後半に入った。
月曜日、学校の外周をもう1周増やした。
これで、4800メートルを走り込むことになる。
秀明は体調も良く、フットワークも悪くなかった。
水曜日の練習には菊池が指導しアドバイスをしてくれる。
彼のアドバイスは納得のいく分かりやすいもので、指示を受けた後から、また一段走りに自信が付いてくるように秀明は感じた。
水曜日、何時ものとおり午後四時から練習が始まった。
最初は、先週金曜日から今週火曜日までの練習の確認と要点の整理を行う簡単なミーティング、そして準備体操と柔軟。
秀明も昌郎も真剣に菊池の話に耳を傾け、全てを吸収しようとした。
今日は学校の回りを9周、つまり5400メートル走り込む、5千メートルという競技の距離を初めて超えて走る。
来週の月曜日から金曜日まで毎日、10周走って6000メートルを走り込み、土曜日に軽めのトレーニングをして日曜日の試合に臨む予定だ。
試合でもないのに、秀明の気持ちは少なからず昂ぶっていた。
試合に出ることを承知したものの、実は自分でも5千メートルを走り切ることが出来るのか大いに不安であった。
しかし、5千メートルの試合に出場すれば、結果はどうあれ、青少年赤十字の同好会を立ち上げる際に、木村先生が顧問になってくれると約束してくれた。
それが目的で、試合に出て5千メートルを完走することだけが目標で始めた練習だったが、走り始めると、走ること自体が励みになってきた。
長距離を走るのは肉体的には苦しいのだが、走り終えたあとの爽快感や充実感に秀明は遣り甲斐と達成感を感じ始めていた。
その事を秀明は昌郎に話した。
昌郎は頷きながら「人間も動物、つまり動く物。その動くという行動の基本は、歩くことそして走ること。誠に単純な行動だが、そこには動物の本能があると思う。だから、人間も歩くことや走ることに喜びを感じるんじゃないのかな」などと教訓めいたことを話しながら、なんだか偉そうなことを言う自分に気が付き頭を掻いた。
しかし、秀明は、昌郎の、そんな話に充分に納得していた。
 その日の走行練習は何時ものとおり、昌郎は秀明を引っ張っていくように、少しスピードを上げて1500メートル走った。
秀明は昌郎のあとにぴったりと付いて走った。
400メートル付近に菊池がいて秀明の走りをチェックし的確な助言をかけてくれる。
そのあと菊池は、昌郎と秀明の進行方向と逆に歩き、2週目に入った800メートル付近で秀明を待ち、再び彼の走りをチェックする。
そうすることによって150メートルごとに走行をチェックできることになる。
秀明を引っ張るようにして2周半1500メートルを走り終えた昌郎は、すっつと横に抜けて走ることを止めた。
そんな昌郎を追い越すようにしてスピードを落とさずに秀明は走り続け、次の角を曲がろうとしていた。
ある程度のスピードを保ち秀明を先導して1500メートルを走ることは、昌郎にとって楽なことではなかった。
上がっている息を歩きながら整え、大きな声で秀明に指示を出している菊池の所に向かった。
その時だった。
菊池が「危ない」という叫び声を上げた。
曲がり角の向こうから、自転車に乗った小学生が突然現れたのだ。



◆その135
部 活 (12)

菊池が「危ない」という叫び声を上げた。
曲がり角の向こうから、自転車に乗った小学生が突然現れたのだ。
自転車と正面衝突してしまう。
菊池と昌郎がそう思った瞬間、秀明は吃驚しながらも咄嗟の判断で道路脇に身体を移動した。
同時に自転車に乗っていた小学生の男の子もハンドルを左にきった。
危ういところだったが、何とか衝突を免れることができた。
「すみません」と大きな声で詫びながら少年の乗った自転車が走り去って行った。
菊池と昌郎がホッとしたのも束の間、秀明はバランスを大きく崩した。
なんとか倒れまいと堪えたが上手く行かず、あっと言う間もなく秀明はその場に倒れてしまった。
それは、一瞬のことだった。菊池と昌郎は慌てて秀明の所に駆け寄った。
「秀明、大丈夫か」
昌郎と菊池が同時に声を掛けた。
ううっと呻きながら秀明は左の足首を押さえたままで、立ち上がれなかった。
車が来るかも知れない。
丁度、テニスコートの入口になっていて学校の敷地に少し入り込んだ空間がある。
まずは秀明を安全な場所に移動させなければならない。
菊池と昌郎は、挫いたと思われる秀明の左足を庇いながら、彼を抱きかかえるようにして立ち上がらせ、左足をなるべく動かさないようにして、その空間に秀明を移動させた。
菊池は、数段階段になっている所に秀明を座らせ彼の左足の様子を確認した。
「左足の足首を動かせるか」
そう問われた秀明は苦痛に耐えながらも、そっと足首を動かした。
動かすことが出来ることが確認できた。外傷はない。内出血も無いようだ。
「よし、もう動かさないで」
そう指示しながら菊池は、秀明の左足首の腫れと熱っぽさを確認し、少し考えながら、呟くように言った。
「左の足首を捻挫したようです。先ず、全日制の保健室に行って、氷か何かで左の足首を冷やしましょう。捻挫した足首は出来るだけ動かさない方が良いので、木村先生、保健室まで秀明君をおんぶして運んでくれますか。私は一足先に職員室に行って、秀和君のことを教頭先生に報告します」
菊池の指示と行動はてきぱきとして無駄がなかった。
こんな状態でありながらも、そんな菊池を頼もしいと昌郎は思った。
秀明の前に背中を向けてしゃがみ込んで昌郎が声を掛けた。
「さあ、俺の背中に乗れ」
そう言われたても、先生におんぶして貰うことを秀明は躊躇した。
恥ずかしいと言う気持ちもあった。
「秀明、背中に乗れ、これは緊急事態だ。何も恥ずかしいことはない」
そう促され、秀明は「すみません。それではお言葉に甘えて、失礼します」と言いながら昌郎の背中に覆い被さるようにして身体を預けた。
秀明の言い種がおかしくて、昌郎は少し笑った。菊池も笑った。
「よし、立ち上がるぞ」
そう言ってから昌郎は立ち上がった。
秀明は思った以上に軽かった。
この細い身体で、毎日、日中はスーパーで働き、夜、学校に来て勉強しているのだと思うと、愛しいと思う気持ちが昌郎の心の中に涌いてきた。
そして、こんな華奢な身体で、毎日何千メートルも走り続けているのだと、ぐっと胸に迫って来るものがあった。
短い期間だけれど、一生懸命に練習してきた秀明は、試合に出られるのだろうか。
そんなことが昌郎の頭を過ぎった。



◆その136
部 活 (13)

 保健室の先生は、秀明を背負った昌郎の様子を見て、足の怪我だとすぐに分かったらしい。
「木村先生、生徒さん足をどうにかしましたか」
そう言いながら、ベッドに秀明を座らせるように昌郎を促した。
後ろ向きになって秀明をベッドに降ろしてから昌郎は、ことの経緯を養護教諭に説明した。
説明を聞き、秀明の足の様子を確かめて手早く冷やし、三角巾で左の足首を固定した。
その様子を見ていた秀明は、去年の文化祭の時、全日制の青少年赤十字部の部員達が、三角巾の使い方のデモンストレーションと実技体験をしてくれたことを思い出していた。
その時は、何時か誰かに三角巾を使って手当してあげることがあるかも知れないとは思ったが、まさか自分が三角巾のお世話になるなどとは思っても居なかった。
「骨には異常が無いと思いますが、一応、病院でレントゲンを撮って貰った方が良いですね。学校医の先生の所に電話をして、診察して貰いましょう。幸い、ここから5分ほどの所にある病院ですから、車いすで生徒さんを連れて行ってあげて下さい」
養護教諭の指し示した所に車いすがあった。
昌郎は、車いすの使い方を知らなかった。
「先生、自分は車いすを押してあげたことが一度もないんです。大丈夫でしょうか」
「大丈夫ですよ。秀明君が、車いすのことは良く知っていますから」
「え、先生、秀明のことをご存じですか」
「ええ、思い出しました。去年の文化祭の時に、青少年赤十字の展示教室に来てくれて、熱心に展示されたものを見てくれて、質問もしてくれました。また、車いす体験や三角巾のミニ講習会も受けてくれました。去年よりも大人ぽっくなっていて、すぐには思い出せなかったんですが、今、はっきりと思い出しました。定時制の小山田秀明君ですよね」
「はい、小山田です。雪田先生、僕の名前覚えて下さっていたんですか」
秀明は、照れながらも嬉しそうだった。
「勿論よ。あんなに熱心に青少年赤十字活動について聞いてくれた生徒さんに、今までに出会ったことがなかったんですもの。今、ここに入ってきた時、秀明君、去年によりもずっと大人っぽくなっていて、もしかしたらと人違いかとも思ったけれど、話し方で間違いないと確信しました。毎日、学校の回りを走っている定時制の生徒さんが居ると、此方でも話題になっていたんですが、その生徒さんが、秀明君だったんですね。ま、そんなお話は、あとにして。今、学校医の先生に連絡してみますね」
雪田は、てきぱきとした話口調で手当も行き届いていて安心できた。
秀明も昌郎も、そう感じていた。
電話のやりとりも無駄がなく、学校医の先生も話の内容をよく飲み込めたらしい。
「学校医の先生と連絡が取れたので、今すぐ、病院の方へ行って下さい。長津山教頭先生には、私の方から、ご説明しておきますから」
「お願いします」
昌郎が、そう言って頭を下げた時、長津山と菊池が保健室に飛び込んできた。



◆その137
部 活 (14)

 保健室に飛び込んできた長津山に、昌郎は直立不動の姿勢で、頭を下げて詫びた。
「教頭先生。すみません。秀明に怪我をさせてしまいました」
「何言っているんだ。菊池先生から報告を受けたが、突然自転車が出て来たら、誰だって止められないよ。心配するな。傷は浅い」
そう言って、秀明と昌郎に笑顔を向けた。
昌郎は、長津山の笑顔に救われた思いがした。
「雪田先生、お世話になります」
「長津山教頭先生、当然のことをしているだけです。今、学校医の先生と連絡が取れましたので、木村先生に秀明君を病院まで連れて行って貰おうと思っていたところです。そして私が、教頭先生の方へ伺ってご説明しようと思っていました」
「恐縮です。大体のところは菊池先生から聞きました。骨に異常がなければいいと思っています」
長津山は雪田にそう言ってから、秀明の頭に手を置き大丈夫だよと撫でるようにして励ました。
そして今度は「木村先生、宜しくお願いします」と言って、昌郎の肩に手を置いた。
昌郎は申し訳ない気持ちと同時に、長津山の温かな人柄を強く感じた。
車いすの操作方法と乗り方の説明を雪田から教えて貰い、菊池にも同行して貰って昌郎は秀明を車いすに乗せ病院に向かった。
病院では秀明の到着を待ちうけていて、到着するとすぐ医師の診断とレントゲン撮影が行われた。
さして待つこともなく、レントゲン撮影の結果が伝えられた。
骨には、まったく異常は見当たらなかった。
捻挫だと診断された。
幸い内出血もなく靱帯は切れていない。
軽傷ではあったが完治するまでは、一応3週間かかると言われた。
試合までは、あと2週間しかない。
試合に出場することは諦めなければならないのだろうか。
昌郎は、医師に聞いてみた。
医師は、一応3週間と言ったが、今回の捻挫は軽症だし、それに秀明君は若いから1週間から2週間で走ってもよい状態になるとかも知れないと言ってくれた。
しかし、走れるまで2週間だとすれば、それまで一切走らずに、ぶっつけ本番で試合に臨まなければならない。
それでも秀明は試合に出ると強く言った。
「先生、僕は試合に出たいんです」
秀明の目は本気だった。
こんなに強い気持ちを秀明が持っているのも、青少年赤十字の同好会を立ち上げたいからなのだろうか。
「秀明、試合に出られなくても、私は青少年赤十字の顧問になるから、心配するな」
そう昌郎が秀明に告げると、秀明は首を振りながら、そうじゃないんですと言った。
「木村先生は、僕が試合に出なくても、顧問を引き受けてくれることは分かっていました。でも自分の気持ちの中には、一つの課題をクリアしてから同好会を立ち上げるんだという強い気持ちが必要だと思ったんです。そう思うと、練習も一生懸命にやることが出来ました。最初は、走ることが苦しくて何度も止めたいと思ったけれど、走る距離を延ばして行くと、走ることに意欲が湧いてくるようになったんです。先生、僕はぶっつけ本番でも5千メートルの試合に出て、ビリでも良いから完走したいんです」
秀明は、泣いていた。
彼の心の叫びを聞いた思いがした。
秀明を何が何でも試合に出してやりたい。
昌郎は、そう強く思った。
秀明の熱く純粋な気持ち受けて、2週間後に迫った試合に出ることは可能なのだろうかと、昌郎は学校医に聞いてみた。
今の時点では何とも言えないと医師は答え、そして「まず、治すことです」と続けた。



◆その138
部 活 (15)

 秀明の捻挫は痛みがあるものの動かすことができ、幸い靱帯の損傷がないかあっても軽度のものだった。
しかし、不自然な体勢で無理をして練習すると、また捻挫し今度は、もっと靱帯を傷付けてしまうこともあるから、大事を取って走らずに痛みが引いたら歩くことで足をならし、様子を見て来週の月曜日から本格的に走って練習をするということになった。
昌郎と秀明は、菊池から足首のテーピング方法を教わった。
次の日になると、秀明の左足首の痛みは大分引いていた。
これなら、明日からでも走ることが出来るかも知れないと秀明は思ったが、菊池の指示に従って、来週の月曜日までは走ることを止めにした。
スーパーのバイトは休むことは出来ない。
次の日から秀明は、捻挫した左足を庇いながら仕事をした。
それを一つのリハビリだと彼は考えた。
だから、普段通りに仕事をこなした。
しかし不自然な秀明の動きに店長が気が付いて、声を掛けてくれた。
「足、どうかしたか」
単なる軽い捻挫ですと秀明は答えた。
「そうか、無理はするな。大変な時は何時でも言ってくれ」
秀明の肩を叩きながら、店長はそう言って自分の仕事へと戻っていった。
何気ない一言だったが、秀明はとても嬉しかった。
だからといって店長に甘えてもいられないと、自分に言い聞かせた。
スーパーのバイトをこなし、何時ものように四時半に学校へ行き、本来走るべき距離を昌郎と一緒に歩いた。
秀明は、土日も家の周りを一人で歩いた。
痛みはほとんど無くなったが足の違和感はなかなか抜けなかった。
以前のように走れるだろうか。
秀明は不安を抱えて月曜日を迎えた。
今度の日曜日は、いよいよ試合である。
秀明の気持ちに焦りはあったが、焦ってもどうにもならないことは分かっていた。
その焦りを和らげてくれたのは昌郎の言葉だった。
昌郎は、秀明の気持ちを十分に理解していた。
しかし、焦ってもどうにもならない。
焦ることで、余計な力が入って今までのような走りが出来なくなってしまうだろう。
今の自分が置かれている立場に納得した上で、今出来る最善を尽くそう、もし捻挫をしていなかったらもっと練習ができて、ベストコンデションで試合に臨むことができたのになどと思ってはいけない。
そうじゃなくて、今の自分が出来ることを一生懸命することこそがベストなんだと思えと、昌郎は秀明に話した。
今できる精一杯のことをやるだけだ。
何時でも、それしかないんだ。
これからのことを心配するよりも、今できることを一所懸命することに集中しよう。
そう思い秀明は、自分の気持ちを落ち着けた。
週が明けた。月・火曜日は4200メートルを走り込み、水・木曜日は4800メートルを走る。
そして金・土曜日は5400メートルを走り込んで、日曜日の試合に臨む。
そのよう計画を変更した。
当初、練習の段階で6000メートルを走ってから、試合に臨む予定であったが、四日間のブランクをどのようにして埋めて行くかと考えた時、一応5000メートル以上を走ったという気持ちが大切で、6000メートルに拘る必要は無いと思ったのだ。
月曜日、走りの練習が再開された。
練習期間は、あと六日しかなかった。



◆その139
部 活 (16)

 四日間だけだが、走らなかったブランクは考えていた以上に大きかった。
今の自分には、一日の休養は大切かも知れない。
しかし、それ以上のブランクは走りの感覚や持久力の面でマイナスになっていることが分かった。
それを乗り越えて行かなくてはならない。
時間を巻き戻すことは出来ない。
過去を思い煩うよりも、今どうするか。
先を心配するよりも、今を意義あるものにすること。
昌郎が言ってくれた言葉を秀明は胸に刻んだ。
左足の違和感はもう無くなっていたのだが、4200メートルの走行が思った以上にきつく感じた。
その原因は秀明本人にも分からなかった。
月・火曜日と4200メートルを走ったが、水曜日、更にその距離を更に600メートル延ばすことに秀明は不安を感じた。
秀明は自分の体調の変化、気持ちの変化に戸惑っていた。
しかし、今は距離を伸ばして走り込むことが必要なのだと自分に言い聞かせて走り出した。
学校の回りを走る時、四つの曲がり角がある。
そこを曲がる時、自分の気持ちの中に緊張が走ることに秀明は気が付いた。
その緊張感は定期的に自分を襲う。
また自転車や歩行者、もしかしたら自動車が曲がり角から急に出てくるかも知れない。
そんな考えが常に脳裏を離れなかった。
その恐怖心で必要以上に体力を使い走り方がぎこちなくなっている。
だから以前と同じ距離を走っても、余計な神経と体力を使っていることに思いが及んだ。
やっとの思いで4800メートルを走ったが、へとへとの状態だった。
勿論タイムは、先週と比べて大分悪くなっていた。
走り終えたあとのミーティングで、秀明は、曲がり角で感じる一種の恐怖感について昌郎に話した。
昌郎は、秀明の話を聞いたあと、黙り込んで考えた。
学校の周囲を1周毎に四つの角を曲がりながら走ることは、あの事故を経験した秀明にはストレスが大きいことが分かった。
「ちょっと、待っていろ」
昌郎は、秀明を教室に一人残して出て行った。
十分経っても昌郎は現れなかった。
木村先生はどうしたんだろう。
待っている秀明は少し不安になった。
待っている時間がとても長く感じられた。
しかし、バイトと練習の疲れで秀明はウトウトとし始めた、その時だった。
昌郎が勢いよく戸を開けて教室に入ってきた。
秀明は、吃驚して目が覚めた。
「秀明、明日と明後日、そして土曜日の三日間、河川敷のグラウンドで練習することになったからな」
「え、河川敷のグラウンドで練習が出来るんですか」
「教頭先生が、全日の体育の先生に掛け合ってくれた」
「そうですか、自転車などを心配せずに走れるんですね」
「そうだ、心配しないで、自分のペースでしっかり走って練習できる」
 秀明は、これからすぐにでも、グラウンドで走りたいと思った。
どんなに爽快だろうか。
「秀明の気持ちに気が付かずに、悪いことをしたな。明日から三日間だけだが、思う存分走ってから試合に臨もう」
秀明の肩に手を置いて、励ますように昌郎はそう言った。



◆その140
部 活 (17)

 当初予定していた6000メートルまでは走り込めなかった。
木・金曜日には、菊池も付いてくれ、十分なストレッチと1000メートルを一本走り、姿勢などのチェックをした後で1800メートルを一本走り込んだ。
記録は以前とさほど変わらなかったが、秀明の気持ちは恐怖心から解放されていた。
土曜日、しとしとと雨が降った。
練習するかどうか迷ったが、明日の試合は小雨決行となっている。
天気予報では、明日も雨模様とのことだった。
雨降りの中、午前10時から練習を初めた。
秀明は、とにかく5000メートルを一度は走り込んでおきたかった。
昌郎は秀明の気持ちを尊重して、肌寒い雨の中だったが、5000メートルを走らせた。
記録を測ることはしなかった。
秀明は、初めて雨の中を走ったが、走り辛さは感じなかった。
それよりも走って火照った身体には雨の滴は心地良くすら感じた。
そして何よりも5000メートル走ることが出来てホッとしていた。
土曜日、定時制の校舎には誰もいなかった。
全日制の高校では、試合の前に壮行会なるものがある。
昌郎が高校生の時は、応援団長として壮行会に臨み、参加選手達にエールを送った。
しかし、此処では壮行式のようなものはなかった。
 濡れた身体を拭いて着替えた秀明と昌郎は、誰もいない2年生の教室で、明日の試合日程や持ち物、注意事項等を確認した。
明日、初めての試合に臨む秀明はひどく緊張していた。
「明日いよいよ試合だ。今夜は早めに眠ってゆっくり身体を休めるんだ。この1ヶ月間、秀明は一生懸命やって来たと先生は思っている。あとは自分を信じて本番で全力を出し切ることだよ」
 そう昌郎から言われ、秀明は自信なげにこくんと小さく頷いた。
「心配か」
秀明は、昌郎の目を見て再度頷いた。
「よし、秀明、黒板の前に立て」
秀明は怪訝な顔をして昌郎を見た。
「いいから、黒板の前に立て」
 秀明は、言われるまま黒板の前に不安げに立った。
 机3列ほど離れた位置で、昌郎は自分の周りの机や椅子を押しやり空間を作った。
そこで秀明と対面して立った。
何が始まるのだろうかと秀明が思った時、昌郎が突然大声を張り上げた。
「今から、小山田秀明君の試合での健闘を祈り、エールを送る」
 そう言うと、昌郎は四股を踏むように大きく足を上げて床を踏み仁王立ちになった。
「今までの〜、練習の成果を〜、存分に発揮して〜、この鈴が丘高校定時制のため〜、何よりも〜自分の為に〜全力を出し切って欲しい〜」
そう言って、昌郎は声に出してタタタ、タタタと言いながら三三七拍子の手拍子を三度繰り返した。
そして「健闘を祈る」と言って締めくくった。
昌郎は、秀明の為に一人で短いが心の籠もった壮行式を行った。
教室に静寂が戻った。
一瞬無音の世界になった。
秀明の心の中に小さく勇気が湧いてきた。
それは、同心円を描くように身体の中に広がっていった。
目の底が暑くなってくるのが分かった。
泣いちゃいけない、まだ試合が終わっていない。
そう自分に言い聞かせながら、秀明は涙を必死に堪えた。
そして気持ちを落ち着けてから「先生、僕、明日頑張ります」。
小さいがしっかりした声で、昌郎にそう告げた。
 今日の午前中に練習して、明日の試合に臨むと昌郎が言っていたが、この雨の中、秀明は練習しているのだろうか。
肌寒い中、風邪をひかないとも限らない。
心配になって、長津山は12時少し前にグラウンドに行ったが、底には秀明と昌郎の姿がなかった。
雨で練習を止めたのだろうと考えた。
それも懸命な選択だと思った。
折角、此処まで来たのだから、やり残している仕事でもしようと長津山は、学校へ行った。
職員の昇降口の鍵が開いていた。
明日の試合の準備で木村先生が来ているのだろうか。
職員室に入ったが昌郎の姿が見えない。
教室にでも行っているのだろうか。
そう思った時、突然廊下に大きな声が響いた。
何だろうと思って、長津山は廊下に出た。
その声は2階の教室から聞こえてくる。
教室を確認しようと階段の所まで行った。
そこで聞こえてきたのが、応援エールだった。
「今までの〜、練習の成果を〜、存分に発揮して〜、この鈴が丘高校定時制のため〜、何よりも〜自分の為に〜全力を出し切って欲しい〜」
大声量を上げて昌郎が言っている。
長津山は2階に上がって2年生の教室の後の出入り口から、そっと中を覗いた。
黒板の前に秀明を立たせ、その前に立ち手拍子をしながら応援している昌郎の後姿が見えた。
その光景を見て長津山は胸を打たれた。
エールを送る昌郎の表情は見えない、しかし、身体全体から漂う気迫と厚い愛情を感じた。
応援を受ける秀明の表情は緊張し少し赤らんでいるが、真剣に自分にエールを送ってくれる昌郎を見詰めていた。
長津山は、そんな二人の姿を胸に焼き付けた。
そして昌郎が「健闘を祈る」と言って応援を締めくくった時、そっとその場を離れて一階に降り、そのまま帰ることにした。
彼等2人の大切な時間を大切にしてやりたかった。
帰り道、肌寒い雨の中だったが、清々しい気持ちに長津山はなっていた。



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