[連載] | |
161話 〜 170話 ( 佳木 裕珠 ) |
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新宿西口中央改札の前は、多くの人達が行き交い人で溢れていた。 改札口から出てくる人、駅に入って行く人。 縦横無尽の人の流れを見ていると目眩を起こしそうだ。 これだけの人が、改札口を出入りし何処から来て何処に行くのだろうか。 日本で一番乗降客が多い駅新宿。 人の波は渦を巻くようにしながら途絶えることがない。 昌郎は、目を凝らして玲が来るのを待っていた。 彼女の金髪は、この人混みの中でも見落とすことがなすだろう。 昌郎は、金髪を目印に玲を見落とさないようにした。 待ち始めてから5分ほど経った時、ふいに後から声を掛けられ、驚いて振り向くと、見知らぬ少女がそこに立っていた。 一瞬、人違いだと思った。 「先生。おはようございます」 昌郎の頭の中に疑問符が飛び交った。 この女子は誰。 見たことがあると思った瞬間、その少女が誰かということを確認した。 その少女は、黒髪を肩の辺りで切り揃えた玲、その人だった。 「玲、どうしたんだ、その髪」 驚きの色を隠さずに、昌郎は直截に聞いた。 「どうしたという訳じゃない。前の私の髪に戻っただけよ、先生」 昌郎が驚くことは、既に承知しているというように、玲は照れもせずに落ち着いた声で言った。 「前に戻って、もう大丈夫なのか。金髪でなくて良いのか」 学校の教師が、教え子の女の子に金髪にすることを勧めるような言葉に、玲は少し笑いながら言った。 「金髪の方が、良かったかな」 昌郎は、慌てて打ち消した。 「いや、そんなことじゃないよ。玲が金髪にして過去の自分の弱さから抜け出そうとしていた、その気持ちは大丈夫なのかと思っているんだよ」 教師として、高校生らしい髪の生徒を望んでいながらも、自分の気持ちを大切にして金髪にしても何も言わずに認めてくれていた鈴ヶ丘高校定時制の先生達に、玲は心から感謝していた。 玲は、やっと金髪から抜け出しても自分を見失うことなく進んで行けると思うことが出来たのだった。 「先生、今まで有り難うございました。私は、金髪にしなくても、ちゃんと自分らしく進んで行けると思えたのです。あんなど派手な長い金髪にして学校に行くことを許してくれた定時制の先生方に、本当に大感謝です。全日の先生方や校長先生から、私の金髪にクレームが付いていたことは、充分に知っていました。でも、そんなクレームにも拘わらず、私の金髪を許してくれた先生方のお陰で、私は自分を取り戻せました。これからは、鈴ヶ丘高校定時制の生徒として、クレームが付くようなことはしません。それよりも、定時制の生徒も頑張っているなと思われるようにしたいと思います」 「玲、君は今までも充分頑張ってくれているよ。そんなに気張ることはないんだよ。今のままの玲を、私は誇らしく思うよ。今回のトレセンに参加する時だからこそ、鈴ヶ丘高校定時制の為に髪を黒くしようと思ってくれたのかな」 「それ、ないとは言えませんが、それが大きな理由ではありません。もう、私は金髪にしなくて良いんです」 玲は、眩しいほどの笑顔で、そう言いきった。 ◆その162
もう一つの部活 (19) リーダーシップ・トレーニングセンターは、八王子に在る研修施設で実施された。
アップダウンの多い敷地に研修施設が点在していて、宿泊施設や食堂、研修場所の移動に少し難儀する所だったが、高校生には何の苦もなく行き来していた。 その研修会場に着くと、既に、三の橋高校定時制の森航大と青少年赤十字同好会の顧問でもある常山弘が到着していた。 昌郎は勿論のこと常山も生徒の玲も航大も、全くの初心者で、参加することへの不安は大きくて受付の時点から緊張していた。 参加生徒は徐々に集まり、全体で30数名程。 研修生としての教諭の参加は、昌郎と常山のみで、あとはスタッフと呼ばれる高校教員が7名と東京都支部の職員3名と指導講師と呼ばれる人が1名。総勢40数名のこぢんまりとした研修だった。 3泊4日の間、昌郎と常山は基本的に生徒達と一緒に研修を受け、1日の1時間〜2時間程度、教員用の研修を支部の指導講師である村上先生という人から講義や指導を受けるようなプログラムになっていた。 昌郎達にとって、何も分からないまま研修がスタートした。 「先見」「ボランタリー・サービス」「ワークショップ」などと最初から聞き慣れない言葉が出て来た。 オリエンテーションで説明を受けたが、実際に経験しなければ分からない。 昌郎は自分もさることながら、玲や航大が皆について行けるかどうかが心配だった。 研修内容もそうだが、彼等2人以外は全員全日制の生徒達だから、違和感のようなものを感じて居づらくなり、途中で帰りますと言い出すかも知れない。 そのことも視野においておこうと、昌郎と常山は話し合っていた。 しかし、そんな心配は、オリエンテーションの前に行われたアイスブレークで薄まった。 アイスブレークとは、知らない者同士がこれから一緒に活動するために、お互いを知るゲームのようなものだった。 勿論、その中に昌郎と常山、そしてスタッフの先生方も加わって行われた。 「1週間の待ち合わせ」というような名前のゲームだった。 広い研修室の彼方此方で任意に4人ずつ集まって、それぞれが自己紹介し合う。 まず月曜日と設定された出会い。 そして火曜日と設定された出会いは、最初にまとまった4人以外の人達と違う位置で出会って自己紹介する。 それが水曜日、木曜日、金曜日、土曜日、日曜日と続くのである。 会場で生徒や先生達が7回賑やかに交流した後、ゲーム進行のスタッフが「それでは、水曜日に会った4人で、その時に集まった位置で再会してください。そしてお互いの名前を確認してみてください」と指示されるのだった。 「え、水曜日の出会い?」と言う声が彼方此方で聞こえた。 誰と一緒だったか、何処の位置での出会いだったか。 水曜日のという3回目の出会いは、なかなか思い出せない。 会場が良い雰囲気で混乱したが、こっちだよとか、あなたと一緒でしたねとか、君と一緒は何曜日だったっけなどと交流の内に、何となく水曜日に出会った仲間達がまとまるというゲームだった。 そのアイスブレークで一気に参加者達が打ち解けていく様子が昌郎には手に取るように分かった。 そして参加者の輪の中に、自然に溶け込んでいる玲と航大を少し離れた所で見て、昌郎と常山は、互いに頷き合うのだった。 ◆その163
もう一つの部活 (20) リーダシップ・トレーニングセンター(トレセン)の研修は、計画通り一つずつ積み上げるようにして進行していった。
ホーム・ルームという5つの班分けがあり、一つのホームルームは6〜7人ほどの生徒で組み分けられ、そこに1人のスタッフの教師が付いた。 玲と航大は違うホームルーム。 多分、スタッフの先生方が、意識的にそうしたのだろうと思った。 昌郎と常山も教員対象のプログラム以外は、それぞれ別々のホーム・ルームに入って生徒と一緒に行動するようになっていた。 勿論、玲と航大のいるホームルームではなかった。 この研修の日常に於ける行動の目標は、青少年赤十字の態度目標である「気付き、考え、実行する」で、指示のない生活、自分から気が付いて考え、行動することが求められた。 その一つとして「掲示板」の活用がある。 参加者への様々な連絡や呼び掛け、注意事項などは全て掲示板を使って連絡される。 つまり、口頭で何かを伝えると言うことは原則としてない。 参加者は常に自発的に掲示板を見る事が要求された。 また、参加生徒達同士の連絡やお知らせの場にもなっていた。 研修のコマ毎にチャイムが鳴ることはなくノーチャイムでプログラムは進行して行く。 参加者は自分できちんと時間管理をして5分前行動を心掛けるのだ。 昌郎は、これは良いシステムだと感心した。 どんなに熱心に此方から呼び掛けたり注意したりしても生徒達に伝わらないことが多かった。 だから何度も同じ注意を繰り返し行うが、それらの注意が浸透しているという実感はなかなか持てなかった。 しかし、此処では違っていた。 1人の仲間が気が付かない時は、掲示板を見ていたものが教えてくれたり、一緒に再度掲示板を確認するという行動がスムーズになされていた。 掲示板に貼り出された連絡事項等は、一定の期間が過ぎれば、取り除かれて保管され、後日の確認材料となるので、連絡等を記した紙を貼り出した日と時間、そしてその伝達を行っている者の名前を明記することになっている。 昌郎は、夏休みが明けて学校に戻った時、自分が担任している2年生の教室でも、口頭ではなく掲示板を使った伝達での注意や連絡方法を試してみたいと強く思った。 教員となって4ヶ月あまり。 今までは、ただ無我夢中でやって来た。 その中で藻掻き苦労しながら、教師としての自分を深く見詰めることがなかったことに気が付いていた。 この研修期間中に、今までの教師として自分がどのように取り組んできたのかを自分なりに検証するよい機会しようと思った。 トレセンは宿泊研修で24時間教育でもある。 赤十字のこと、国際理解・親善、青少年赤十字のメンバーとしての活動、キッドを使った高齢者擬似体験や車椅子体験などの福祉体験、そして、研修期間中に気付き・考え・実行するボランティア・サービス、様々な活動計画を理論的にスムーズに進めるためのワークショップなどを、3泊4日でこなすのだから内容は勿論、日程もハードだった。 しかし、そんな研修の中にも若者達が楽しんでエネルギーを発散させる為のフィールドワークやキャンプファイヤーなどが盛り込まれていた。 昌郎と常山は、同じ宿泊室だったから、1日の研修が終わった後、宿泊室で充分に語り合うことが出来た。 宿泊室は6人部屋で、昌郎達の他にスタッフの先生方もいて、この先生方からも教師としての経験や考え方などを聞くことが出来たことも、昌郎や常山が、教師というものについて、改めて考える良い機会となった。 ◆その164
もう一つの部活 (21) トレーニング・センターを終えて部屋に帰ってきた昌郎は、その日の夕方、秀明の家に電話を掛けた。
秀明の容体がずっと心配だった。 電話口に出て来た母親は、明るい声で応対してくれたが、秀明は治療の苦しみとの戦いだった。 腫瘍はさほど大きくなかったので、手術などはせずに化学療法が行われた。 骨肉腫は肺に転移することが多いらしく、その為にも抗がん剤を使った化学療法が有効だと医師達も判断した。 この化学療法には多くの副作用があり、それとの戦いが患者には苦しい。 秀明は、その化学療法の真っ最中で、電話口に出ることも、ままならない。 母親は、本人が電話に出られないことを詫びながら、秀明のことを話してくれた。化学療法によって白血球が減少し、吐き気や嘔吐に繰り返し見舞われているという。 副作用には個人差があるらしいが、秀幸の場合は決して軽い方ではなかった。 そして、脱毛もあり、髪の毛は全部抜け落ちてしまったと言った母親は、その時まで明るく話していた声を思わず詰まらせてしまった。 昌郎は、どんな慰めを母親に掛けたら良いのか分からなかった。 少しの間、沈黙が流れた。 「すみません。取り乱してしまって」 秀明の母親は、そう言って言葉を繋いだ。 「でも、秀明は頑張っています。苦しいだろうに、泣き言一つ言わずに頑張っています。そして、私達を逆に励ましてくれるんですよ、先生」 そう言うと、母親は堰が切れたように電話口で泣いた。 昌郎は、何も力になれない自分がもどかしかった。 お母さんを少しでも励ましてあげたいと思ったが、その言葉すら思い浮かばなかった。 「すみません。何も手助けが出来なくて」 昌郎は、そういうのがやっとだった。 母親が電話の向こうで涙を拭うのが分かった。 母親は、落ち着きを取り戻して言った。 「先生、有り難うございます。先生にお話を聞いて貰ったら、何か気持ちが楽になりました。秀明は、今はとても苦しいでしょうが、治療が終われば副作用もなくなって回復するとお医者様も言っています。もう少し、あともう少しで、今回の治療は一旦終わります。その時になったら、秀明も楽になります。そうしたら、先生、秀明を見舞ってあげて下さいますか」 「是非、お見舞いに行きたいです。今回トレセンに行ってくれた花戸さんや三の橋高校の森航大君も、秀明君に会ってトレセンのことを話したいと言っています。勿論クラスの皆も、秀明君に会いたがっています。落ち着いたら、連絡してください。待っています」 昌郎は、努めて明るい声で言い電話を切った。 しかし、切った電話の前を暫くの間、動くことが出来なかった。 秀明が不憫だった。 あんなに良い子なのに、なぜ、秀明が骨肉腫にならなくてはならないんだ。 そして、苦しい治療に耐えなくてはならないんだ。 中学校の時、人間関係で心を痛めた秀明が、鈴ケ丘高校定時制で、やっと彼らしく生き生きとした高校生活を送っていたのに、そんなささやかな秀明の幸せを打ち消してしまうような病気になってしまったことが、とても理不尽なことに思われた。 しかし、そんな現実を秀明は乗り越え健康を取り戻そうと歯を食いしばって頑張っている。 彼の担任として、自分は一体何が出来るのだろうか。 それを考え実行しなければならないと強く思った。 ◆その165
もう一つの部活 (22) 秀明を見舞うことが出来ない今、自分は一体、彼に何をしてやれるのだろうか。
そう考えた昌郎は悩み抜いた末に、秀明に手紙を書くことを思いついた。 相手の都合に関係なく一方的に此方からかける電話と違い、手紙だったら秀明の体調が良くなった時に読んで貰えるだろう。 急ぐ内容ではなく、元気付けたい内容の手紙だから、遅くなって封を切って貰っても良い。 封筒の表に、「体の具合が良い時に読んでください」と添え書きすればいい。 昌郎は、手紙を書くことにした。 内容は、今回参加したトレーニング・センターのこと。 秀明が参加したいと思っていたトレセンだから、きっと嬉しいと思う。 自分のトレセン参加のまとめにもなる。 昌郎は、今は亡き由希との高校時代に交換した手紙のことを思い出していた。 あの経験から、手紙が相手を勇気付ける大切な行為であることを、彼は心に刻んでいた。 昌郎は、秀明への手紙を一気に書き出した。 夏休み中は夜間の授業がないので、定時制の先生方も日中の勤務となる。 夕方5時までの勤務だが、昌郎は夜の7時頃までは学校にいることにしていた。 と言うのも、文化祭の計画や準備のために生徒会執行部の生徒達が、毎日何人かずつ学校に来るからである。 鈴ケ丘高校の文化祭は、毎年10月下旬に全・定合同で開催される。 夏休みが明けると、あっという間に文化祭になってしまう。 夏休みから準備をしないと間に合わない。 定時制として、どんなパフォーマンスで文化祭を盛り上げるのか。 まず、生徒会役員の話し合いから始まる。 全日制と定時制の校舎が別れているので、定時制として独自の展示や出し物が出来る。 生徒会にとっては、とても重要な行事だ。 定時制に通う生徒達の多くがアルバイトや仕事を持っているので、役員が一同に会して、話し合ったり作業をしたりすることがなかなかできない。 アルバイトが早出の勤務で午後の時間が空いた、また仕事のシフトの関係で休みになったなど、登校出来る時間が出来た時に生徒達が登校すると言う状態だった。 その中でファミレスでアルバイトをしている花戸玲は、土日は夕方から夜にかけての勤務だが、通学の都合上、平日は朝から混雑する昼を挟んで夕方4時までの勤務形態なので、夏休み期間中も毎日のように夕方4時半頃から7時頃まで学校にいて、生徒会の仕事をやっていた。 それは、トレセンから帰った後も同様だった。 トレセンを終えて玲が初めて学校に来た時、昌郎は、電話で知った秀明のことを彼女に伝えた。 そして、秀明に激励の手紙を書いたと玲に話すと、私も手紙を書くと彼女は言った。 秀明がトレセン参加できなくなり、玲が急遽1人でトレセンに参加することになってしまい、彼女は初め大きな不安に押しつぶされそうだったが、始まって直ぐ、参加している他校の、それも全日制の生徒達と一緒に、なんの隔たりもなく活動が出来たのだった。 3泊4日間のスケジュールは休む間もないようなタイトなものだったが、それが故に素晴らしい経験が出来たと思えた。 トレセンに参加して赤十字活動に一層の興味と関心を持つことが出来た。 そのことを秀明に伝えたいと玲は思っていたのだ。 このトレセンに参加することによって青少年赤十字活動に対して芽生えた自分の思いを秀明に率直に伝えたい。 伝えなければならない。 玲は強くそう思った。 その思いは、森航大も同じだろう。 「先生、三の橋高校の森君も秀明に手紙を書くと思います。彼等はそれぞれの電話番号や住所を教え合っていましたから。先生から聞いた秀明の今の状況を、森君に教えても良いですか」 「勿論だよ。航大君が手紙を書いてくれたなら、それはきっと秀明にとっても大きな力になると思う」 自分達が秀明に対して今できる事を実行に移す。 それはトレセンで学んだ「気付き、考え、実行する」ことでもあった。 ◆その166
文化祭 (1) 夏休みが明けて2学期が始まった。
夜の学舎に生徒達が何時ものように集った。 昌郎が担任をしている2年生の教室にも、秀明以外の14人が久し振りに顔を揃えた。 玲の長い金髪がショートヘアの黒髪になっていたことを、クラスの皆が驚いた。 「玲、その頭どうした」 「髪の毛、黒色に染め変えたの」 などと、玲は質問攻めに遭ったが、彼女は 「元に戻っただけよ。もう金髪にするのはやめたの」 と笑顔で答えていた。 その吹っ切れた彼女の表情に、以前にはなかった自分を肯定する明るさがあると昌郎は思った。 クラスの母親的な存在の桑山は、まさに母のような眼差しで「玲ちゃん、前の金髪も悪くはなかったけれど、今の方がずっとあなたに似合うわよ」 と言いながら、以前の金髪を否定することなく、今の玲の状態を上手に褒めていた。 やはり、息子さんを持つ母親だけはあると昌郎は深く感心した。 そんな桑山を見て昌郎は、青森に居る母親のことを思い出していた。 母親の有り難さを、親元を離れ上京して一人住まいをするようになってから痛切に感じた。 親元にいる時には気が付かなかった親の気遣いや優しさ、そして大きな愛情で自分が包まれていたことを、今更のように思うのだった。 それだけに、我が子が骨肉腫という難病になった秀明の母親の大きな心痛をも、昌郎は察することが出来た。 親と言う存在は、その時その時に出来得る最大限の愛情を子どもに与えてくれているのだ。 そんな大切な子ども達を自分が預かっているのだと思うと、教師という仕事の重みを感じないわけには行かなかった。 隆也と譲そして寅司は、真っ黒に日焼けしていた。 クラスの皆から、休み中にハワイにでも行って来たんだろうと冷やかされていたが、彼等は毎日炎天下のもとで工事現場の交通整理や建設の仕事を続けていたことは誰でも知っていた。 「毎日、外で太陽の光をたっぷり浴びながら汗だくになって仕事していても、ハワイに行けるような金なんか貰ってないよ。何時かは、ハワイに行ってみたいもんだ。行けるかな」 寅司が、そう言うと隆也と譲は大きく頷いた。 栄大は、一層精悍な顔つきになっていた。 ボクシングに打ち込む青春。彼も輝いて見える。 夏休みが明けてから、陽明が登校してくれるか昌郎は大いに心配していたが、心配は取り越し苦労だったと思えるように陽明は明るく登校していた。 「大介、夏休み中、どんな本を読んだ」 読書好きの町井大介に昌郎が聞くと、最近話題になった本のほとんどをあげた。 「凄いな、先生はその内の一冊も読んでいない。大介には及ばないが、少し読んでみよう」そう昌郎が言うと大介は目を輝かせて、今度、推奨する本を持ってくるよなどと大人びた口調で言うのが、昌郎にとっては頼もしく嬉しかった。 「頼むよ」そう担任の昌郎に言われた大介は、自信たっぷりに頷いた。 ◆その167
文化祭 (2) 飛田康男は、1学期と同じようにギターケースを持って登校していた。
学校の帰り道、ストリートで歌うのだ。 頭の良い天宮準一は、やはり淡々としていたが、それは何時ものことで別段気にすることもなかった。 沼崎百合も淡々としているが、準一とはまた違った雰囲気で何事にも拘りが強く、彼女の母親に言わせれば「浮き世離れしている」ということになるが、やはり母親だけあって、それは言い得て妙だと昌郎は思った。 その浮き世離れした百合も何時ものように登校していた。 大西芽衣也に関しては、若干気になることがあった。 去年、1年生の半ばで学校を辞めた黒森綾という女子がいた。 彼女は歌舞伎町に出入りしていて、援助交際的な事をしているのではないかという噂のある子だったが、その子と芽衣也が、また連んでいるらしいと、最近になって、去年担任をしていた福永から昌郎は聞いた。 福永は実際に、芽衣也と綾が一緒に居るところを見たわけではなかったが、綾の父親と町でばったり会った時の立ち話の中で聞いた話だった。 綾は、父親と父子二人暮らしで、父親の目も良く行き届いていない。 そんな父親の話だから、高校1年生の時のイメージで、違う女の子のことを芽衣也と思っているのかも知れないとも福永は言った。 彼女らが高校1年の時、表面上は仲良くしていたが、綾がいない時、綾のこと本当は嫌いと芽衣也が福永に言っていたという。 黒森綾と連んでいなければ良いのだがと昌郎は心配していた。 小枝万里は相変わらず、鋭い眼差しで崖っぷちという雰囲気だった。 しかし、それがまた彼女の特徴でもあることを、昌郎は1学期を通して知っていた。 彼女のこんな緊迫感が、もしかしたら舞台に立つという気持ちに繋がっているのかも知れない、そうも思った。 落ち着いているようで不遜な態度のおばさんタイプの高田律子は、玲ほどの劇的な表面の変化はなかったが、以前は、母親の服でも借りてきてきたのかと思えるほど、おばさんおばさんとした装いだったのに、少し若い女の子らしい服装になってきたかなと思えるような僅かな変化を感じたが、それは心配するほどのことでもないと昌郎は思った。 2学期の一番最初のホームルームの時間に、昌郎は、秀明のことをクラスの皆に伝えた。 秀明が骨肉腫という病になったこと。 骨肉腫とは一体どんな病気なのか。 そして秀明の今の状況と治療についても伝えた。 それをクラスメイトに伝えることを昌郎は秀明と彼の母親から承諾を得ていた。 骨肉腫という病気になったことは何も隠すべき事ではない。 その病と闘う為にも、仲間に隠すことはしたくない。 秀明は、そう言う思いだった。 秀明のことを聞いたクラスの皆は、少しの間、言葉を失っていた。 その沈黙を破ったのは、玲だった。 秀明は、今懸命に病と闘っている。 秀明を少しでも励まし力づけたいと思う。 そのために皆の応援が必要だから、その気持ちを寄せ書きに書いて秀明に届けようと、玲は皆に提案した。 クラスの誰もが賛成した。 玲は、既に皆が寄せ書きを刷る色紙を用意していた。 その色紙に、2年生の皆は頭を寄せ集めるようにして、真剣に秀明への励ましの言葉を書いていた。 そんな彼等を見て昌郎は胸がジンと熱くなった。 ◆その168
文化祭 (3) 夏休みが明けてから初めてのロングホームルーム。
議題は文化祭について。生徒会の執行委員として会計を担当している玲から本年度の文化祭についての説明があった。 今回も全日制と定時制が同時開催。 ポスターは全日制で作成し、その中に定時制の発表や展示等を掲載して貰うが、その記事は小さくて、ほとんど目立たない。 ポスターの制作費は全日制の生徒会の予算から出ているので、仕方がないと定時制の生徒会では納得している。 そこで、定時制が独自に作成した手作りのポスターを学校近辺の商店などに貼って貰うことを定時制では続けてきた。 本年度も、そのポスター作成が、各学年に5枚ずつ割り当てられた。 2年生では誰がポスターを作成するか。 これが一つ目の議題。 二つ目の議題は、クラス展示をどんなものにするか。 クラス長の寅司が司会進行で話し合いが始まった。 「誰か、ポスター作ってくれる人いないかな」 そう寅司が投げかけると、おしゃべりの話し声がぴたりと止んで、急に静かになってしまった。 自分に、その役目が回ってきたら大変という空気が、教室に充満している感じだった。 寅司は皆の顔を一人ずつ見回したが、下を向いて目を合わせない者、目が合っても首を横に振って拒否する者ばかりだった。 芽衣也や譲そして隆也などは、あからさまに無理、無理と大きく手を振りながら断った。 寅司と最後に視線をあわせたのが沼崎百合だった。 クラスの皆の視線が百合の所に集まった。 誰も彼女の描いた絵を見たことがなかったが、噂によると家で、こつこつとイラストを描いているらしい。 「百合、ポスターを作ってくれないか」 寅司が声を掛けた。 彼女は、何時も他人の影に隠れて、自分から前に出て意見を言ったりするような事がない。 傍から見ると、何時も自信なさそうにオドオドした態度に見える。 だからクラスの中でも、彼女は一人でいることの方が多かった。 昌郎は、そんな百合のことを心配していた。 彼女は学校に来ても何も楽しい事がないのではなかろうか。 もっと皆の輪の中に入って、打ち解けられるようにならないだろうか。 百合のことを排除しようと思っている生徒は、クラスの中には誰もいない。 事あるごとに、誰かが彼女に声を掛けてくれることを昌郎は知っていた。 特に桑山は優しい言葉かけをしてくれる。 だから、百合も桑山には、特別の親近感を抱いているようだった。そんな桑山が彼女に声を掛けた。 「百合ちゃん。5枚も画くのは大変だから2枚でも3枚でも、作れる分だけで良いから、画いてみて」 クラスの皆が百合の答えを待った。 長い沈黙があったが、時間にすれば数十秒だったかも知れない。 その沈黙をゆっくりと破って百合が答えた。 「作ってみる」 ◆その169
文化祭 (4) 何枚出来るか分からないが、ポスターの作成は百合がやってくれることになった。
百合は、日中ずっと父親の介護をしていた。 彼女の父親は全盲で、その上、左足も不自由だった。 家計は郵便局勤めの母親の収入で成り立っていた。 一人いる姉は結婚して家を出て夫の転勤で、今は名古屋にいる。 東京にいた頃は、1週間に2日ほど、百合に替わって父親の介護をしてくれていたが、名古屋にいる今は当てに出来ない。 結局、母親が勤務から帰ってくるまで、百合が一人で父親の面倒を見ることになっていた。 そんな生活の中で百合は、介護の合間を縫ってイラストを画くことを楽しみにしていた。 彼女の大きな救いは母親の明るさだった。 父母懇談会の折りに、百合の母親は自分の娘のことを「浮き世離れしている子だから」と言いながらハハッと朗らかに笑うようなところがあり、落ち込んでいる様子は全く見られなかった。 浮き世離れしている娘を、母親は丸ごと受け入れ、それが娘の個性だと思っている。 思おうとしているのかも知れないが、それで気持ちを暗くすることはなかった。 昌郎は、そんな百合の母親を好ましく思っていた。 母親の力強さも感じていた。百合がどんなイラストを描いてポスターを作ってきてくれるのか、楽しみなところがあった。 例え1枚しか出来なくてもいい。 その時は、コピーして5枚にすれば良いと昌郎は思っていた。 定時制の展示は毎年、家庭科の時間で作った手芸品、書道で書いた作品、そして各クラスの展示だったが、その他に今年は玲が中心となって、青少年赤十字についての展示をすることになった。 内容は、リーダーシップ・トレーニング・センターに参加した様子を中心に、その他は青少年赤十字の活動内容を他校の事例を交えて紹介しようと玲は考えていた。 この展示の中には、骨肉腫という難病と闘っている秀明への思いが、玲にあるからだった。 そのことを知っている生徒会執行部の皆も、玲の展示に協力することになった。 その他、各学年のクラス展示を加えて、定時制の文化祭が組み立てられる。 二つ目の議題は、クラス展示を何にするか。 隆也が声を上げた。 「去年のように、焼き鳥の販売をしようぜ」 譲も同調した。 「去年、結構売れたじゃないか。それに俺、焼き鳥大好きだしさ。余ったら、俺、全部食ってやるよ」 芽衣也と他の何人かが、焼き鳥の模擬店でいいと言った。 その時、万里が手を上げた。 「万里、意見を言ってくれ」 寅司がそう言うと、万里は立ち上がって言い始めた。 「皆、どう思う。文化祭だよ。文化祭。私は文化祭に焼き鳥の模擬店が相応しいかと、疑問に思う。焼き鳥の模擬店をやることの何処が文化なのさ」 そう反論されて芽衣也が言った。 「文化祭、文化祭と言ったって、文化だけじゃないでしょ。お祭りの部分もあるじゃないの。焼き鳥の模擬店で何が悪いのさ」 「お祭りと言ったって学校でやることだよ、夜店の屋台でやっているじゃない。学校でやるお祭りは、やはり学校でなきゃやれないことをするべきよ」 万里も引き下がらなかった。 ◆その170
文化祭 (5) 面白い展開になってきたと昌郎は思った。芽衣也と万里は意見が食い違うことが多い。
今回はどんな風に話が進んで行くのか、昌郎は余計な口出しはせずに、じっと見守ることにした。 待つことの大切さ。 このことを夏のトレーニング・センターの指導者研修で学んできた。 生徒達が自分の中から答えを探し出してこそ、彼等は大きく成長することを肌で感じてきた。 その経験を此処で生かそうと昌郎は思った。 「楽しんで、何が悪いのさ」 「楽しむことが悪いことだって言ってないよ」 「でも、万里の口振りでは、楽しみよりも文化なんでしょ」 「楽しむのなら文化でも、充分楽しめると思う」 「文化で楽しむ?。聞こえ良いね。でも文化って苦しみ、言い換えれば嫌なことも沢山あるわよ。勉強嫌いの私には特別、一杯あるわ」 「文化と勉強をごちゃ混ぜにしないで」 「じゃ文化って何なの」 二人の遣り取りに皆も興味津々と言うところだ。 そんな彼女達の遣り取りを聞きながら昌郎は、自分の高校生の時の事を思い出していた。 どんなに未熟な答えでも、皆で話し合って導き出した答えには、必ず大切な何かがあった。 これからの自分の歩む道の大きな指針になる。 自分が高校生の時、仲間達と話し合ったこと。 由希と一緒になって考えたこと。 そして、その話し合いの中から仲間達との絆が生まれ、育まれたこと。 自分の高校時代のことと重ね合わせるようにして、昌郎は彼女達の話を聞いた。 「芽衣也、そんなでっかいこと聞いても誰も答えられないよ」 そう口を挟んだのは、天宮準一だった。 彼は都内でもトップクラスの公立進学校に進学したものの、授業について行けずに、この鈴ケ丘高校の定時制に転校してきた。 しかし、公立進学校に入ったと言うことで、ここでは皆が彼に一目置いていた。 そんな準一が言った言葉が皆に重く響いた。 「そうだよな、文化って何と聞かれても、万里、返事に困るよな」 普段あまり発言しない千谷栄大が言った。 「俺、焼き鳥は好きだけど、文化祭に焼き鳥の模擬店でない何かがあれば良いと思う」 今まで、ほとんど発言らしいことをしてこなかった陽明も小さな声で自分の考えを述べた。 皆は、この二人の発表に驚いた。 そして、誰も気付かずに嬉しくなっていたと思う。 流石の芽衣也も、文化とは何と言い募ることはなかった。 「万里に、何かアイデアがあるか?」 そう寅司が万里に聞いた。 |
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