[連載] | |
181話 〜 190話 ( 佳木 裕珠 ) |
前へ 次へ |
◆その181 文化祭(16) 栄大や律子の母親に、彼等の家での写真は此方で撮ると言われれば、今の時代、それが可能であるから、家の人に家庭での様子を写真に撮って貰うのが一番だと、昌郎は思った。
沼崎百合と花戸玲そして大西芽衣也に家での写真を家の人にとって貰うかと聞くと、彼女達は、昌郎に家に来てもらって撮って貰いたいとのことだった。 彼女達の母親が、娘の担任である昌郎と会って話を聞くことも出来るからと、訪問して写真を撮って貰うことを希望してくれた。 百合の父親は全盲で左足も不自由で、介護が必要な状態なので、母親と百合がそれにあたっていた。 百合には名古屋に、既に結婚し2人の子どもがいる少し年の離れた姉がいたが、夫の勤務の関係で東京を離れてから随分長くなり、名古屋に戸建ての家も構えてしまっていたから、行く行くは百合がお婿さんを迎え自分達と一緒に暮らして欲しいと、両親は考えているようであった。 父親が全盲で足も不自由といっても、母親は大らかで明るい人で、百合の性格は母親似だと思えた。 その母親が、自分の娘のことを 「この子は浮き世離れしたところがあって、先生にもお手数をお掛けしていることが多いと思います」 と笑いながら話した。 「浮き世離れ」という古めかしい言葉を使っていたが、なにか百合にはぴったりだと昌郎は感心した。 確かに百合は、一般的にちょっと変わっている子と言うところだろうが、明るい性格で人に対する思い遣りもあるので、クラスの皆からも好かれていた。 昌郎は、百合が父親の介護をして散歩をするところや母親と一緒に食事の支度をするところなどを写真に納めた。 玲の父親は下町にある町工場で働いている。 母親は食品会社のパートに出ていたが、昌郎が写真を取りに行った日には、パートの時間をずらして家にいてくれた。 小学2年と5年の弟がいるが、どちらも学校から帰ってきていて、その弟達と一緒に遊んでいるところを中心に写真を撮った。 玲はファミレスでアルバイトをしているので、店の許可を貰って、その様子も写真に納めた。 大西芽衣也の母親は、小さなスナックを経営していた。 芽衣也は母親とよく似ていた。 若い感じの母親で、今までに会った母親達とは、醸し出す雰囲気が全く違っていた。 午後に尋ねて欲しいということで午後2時頃に訪問した。 その時には既に母親は身支度を調え、濃い目の化粧をしていた。 店に行く前に突き出しの買い物をして行くと言うことだったので、短時間で写真を撮って帰ろうと昌郎は思った。 母親と自分がソファーに並んで座っているところの写真だけを芽衣也は希望したので、その構図で5枚ほど写真を撮った。 帰り際に、芽衣也の母親が「うちの芽衣也は、高校を卒業したら、私の店を手伝って、店をもっと大きくしたいと言っているんですよ」と嬉しそうに話した。 昌郎には強い印象として残った。 そしてもう一つ、芽衣也が少し席を外した時、芽衣也に聞こえないように、声を潜めながら昌郎に言った。 「去年退学した黒森という女の子が学校に行くかも知れませんが、芽衣也には会わせたくないので、宜しくお願いします。芽衣也も彼女のこと嫌いなのですが、芽衣也に纏わり付いてくるようで、何か誘われると断り切れないようです」 初めて聞く名前だった。 芽衣也が写真を撮って貰うために髪を整え終えてリビングに戻って来たので、母親の話もそこで止まってしまった。 雰囲気から、その黒森という女の子のことは、芽衣也の前では話題にしない方が良いのだろうと昌郎は思った。 学校に帰って、黒森という女の子のことを福永に聞いた。 黒森の名前は、綾という。 彼女は、去年の秋にこの鈴ケ丘高校定時制を1年の途中で退学した女の子だった。 退学理由は一身上の都合ということで定かではないが、どうも援助交際などをしているというような噂を聞いているたと福永が言った。 生徒達は、一様ではない。 様々な彼等なりの人生を抱えているのだと、各家庭や職場を訪ねたことで、昌郎は生徒達の様々な面に触れることができたと思うのだった。 ◆その182
文化祭(17) 今回の文化祭の前日祭で定時制のピーアールビデオを作ろうと言いだしたのが、小枝万里。
彼女は、昼はスーパーマーケットでバイトをして、夜は定時制に通っている。 スーパーのバイトは早番で、午後の学校が始まる前に劇団に行く。 時には、学校が終わってから、稽古場に行くこともあるらしい。 正にハードなスケジュールだ。 昌郎は、万里の体力が持つのか、何時も心配している。 時々、顔色が優れないことがあり、疲労が溜まっている様子も見えた。 そんな時の彼女は、いらいらしていて誰彼構わず当たり散らすことがあるので、クラスの皆から少し距離を置かれていた。 それでも万里は、自分の夢に向かって劇団の活動には手を抜かなかった。 土曜日・日曜日にも劇団の活動が入ることが多いらしいので、何時息を抜くのかと昌郎は心配していたが、今のところは、彼女を見守るしかなかった。 万里は、担任の昌郎に対しても、結構ぞんざいな物言いをして、心配されることを嫌がっている様子だった。 昌郎はそんな彼女の気持ちを汲んで、万里は万里なりに頑張っているのだから、担任としては、彼女の思いを大切にして、まずは見守ろうと思っていた。 その万里が、今回は珍しく、彼女の方から昌郎との距離を縮めて来た。 毎年、文化祭は、全定合同で開催されるのだが、全日制の展示や発表に定時制の生徒達が行っても、定時制の方に全日制の生徒達が来ることは少なかった。 確かに、定時制の展示や発表は全日制のものと比べれば魅力的なものが少ない。 それに費やす時間や労力が絶対的に定時制の生徒達の方が少ないから仕方ない。 しかし、文化祭という機会を使って、定時制に集う生徒達が、日中どんな過ごし方をしていているのか、また夜間の学習と仕事を両立させるためにどのような努力をしているか。 そのようなことを紹介する展示があれば、全日制の生徒達が定時制の展示の方へも来てくれるのではないだろうか。 前日祭に行う定時制の展示・発表の紹介の時に、定時制の生徒達の日々の生活の紹介を中心としたスライドを作成して上映したらどうかという万里の考えにクラスの皆は賛成し、生徒会執行部の生徒達も賛同した。 ただし、1年・3年・4年の生徒達は、クラス展示を自分達の日常の紹介ではないもの、例えば家庭科の時間に作ったものとか授業で作成した美術や書道の作品展などで済ませる計画だった。 だから、2年のクラスの生徒達日常の紹介のスライドを中心として、前日祭の時の定時制の展示や・発表展示紹介に使用するスライド・ショーの作成を生徒会の執行部は万里に一任したのだ。 万里は、その大役を引き受け、担任で生徒会の指導担当でもある昌郎に手助けを頼んだ。 勿論、昌郎は万里に全面的に協力した。 一番最後に万里の一日を紹介する写真撮りをすることになった。 午前9時から万里のスーパーのアルバイトが始まる。 スーパーでの写真撮影の許可を万里は事前にとっていた。 昌郎は店長に挨拶をした後で、万里のスーパーでの勤務の様子のスナップを撮った。 万里は学校にいる時とは全く違った雰囲気で、てきぱきと仕事をしていた。 中学を卒業してからすぐ、スーパーでのバイトを初めて今年で3年目になる彼女は、店長にも当てにされる存在だった。 万里の仕事の様子を撮っている昌郎のところに店長がやって来て、そんな話をした。 彼女は先輩職員の40台と覚しき女性と二人で野菜の売り場で働いていた。 その先輩も手放しで彼女を褒めた。 万里ちゃんがいなかったら、野菜部は回らないとまで言った。 万里は学校では見たことがないような笑顔を絶やすことなく働いていた。 昌郎は、そんな明るく闊達な万里の働く姿を見て驚きながらも感嘆せずにはいられなかった。 ◆その183
文化祭(18) その稽古場は南新宿にあり、昌郎の部屋からは、それほど遠くはなかった。大体のところ南新宿と北参道の間といっていいだろう。 昌郎は毎日、小田急線の北側を中心に生活しているから、方向から言えば全くの逆側になる。 それほど離れてはいないと言っても線路を挟んだ反対側にその稽古場があるから、行ったことのない所だ。 街並みも、昌郎が住んでいるところと大分雰囲気が異なる。 その稽古場は古めかしいビルの1階のワンフロアーを使っていた。 昌郎と万里が稽古場に到着すると、既に稽古は始まっていた。 中心で大声を上げて指揮している男がその劇団の主宰者で、昌郎は、まずこの男性に挨拶をした。 「ああ、小枝さんから聞いてますよ。彼女の活動を中心として写真を撮るということですね」 「はい、ご多忙のところ、誠に申し訳ありません。練習の邪魔になるようなことは致しませんので、宜しくお願い致します」 「小枝君を被写体にして写真を撮るのは、何も問題ありませんが、これから発表する劇の様子をとることは避けて下さい」 それだけ言うと、劇団員達の指導に戻っていった。 稽古場での万里はスーパーでの様子と一変していた。 今回の演劇における万里の役柄は、一度一寸だけ舞台に出る『客』の一人。 台詞は『これ、幾ら』の一言だけだった。 あとは裏方として小道具や大道具の準備や据え付けが主な仕事だ。 彼女の場合、稽古と言っても一瞬だけで、ほぼ裏方の仕事が中心と言って良さそうだった。 小柄な体型で、目鼻立ちもこぢんまりとしている。 普段、街の中を歩いていれば人波の中に埋もれてしまうような目立たない存在だろう。 そんな万里に回ってくる役柄は、いつもちょい役で主要な登場人物ではない。 しかし、万里の演劇にかける熱意は半端なものではなく、気迫さえ感じられる。 長い髪を後で無造作に束ね、パーカーとジーパンで、忙しく動き回る万里は、先輩達から怒られながらも懸命に働いていた。 ひきつったような表情で、必死に立ち働く万里の姿をカメラ越しに見ながら、昌郎は痛々しささえ感じた。 万里の表情は、常に苦虫を潰したような状態で眉間に皺を寄せていた。 万里は、この劇団での活動を本当に心から楽しんでやっているようには、見えなかった。 それよりも苦悩に満ちた表情だと昌郎には思われた。 俳優としての花も、万里からはほとんど感じられなかった。 ただ、彼女の痛いほどの一生懸命さだけは強烈に伝わって来た。 その日は、教頭の許可を得て、何時も行われる3時からの職員打合せを免除して貰っていて、始まりのホームルームに間に合って出勤すれば良いことになっていた。 昌郎と万里は、学校へ行く途中にあるチェーン店の牛丼屋に寄り、少し早めの夕食をとった。 牛丼を食べながら昌郎は、万里に聞いた。 「万里、本当に演劇活動に遣り甲斐を感じている?」 え、意外なことを聞くというような顔を昌郎に向けて、万里がきっぱり言った。 「勿論だよ。嫌々やっていないよ。今の私から劇団での活動をとったら、何も残らないよ。空洞になっちゃう」 「でも、今日一日、万里の様子を見ていると、スーパーで働いている方が楽しそうだった」 「そりゃあ、スーパーの仕事は楽しいよ。店長も、おばさんも良くしてくれるから。反面劇団の活動は叱られることの方が断然多い。頂く役も一言でも台詞があればいい方。役を貰えない時だってあるんだから。でも劇団にいる時は、一瞬一瞬が貴重な経験なんだ。どんな辛い仕事でも、必ず後々の演技に役立つと思うから」 そう話す時の万里の瞳は、輝いていた。 ◆その184
文化祭(19) 2年生のクラス全員の家庭や職場、そして活動場所でのスナップを撮り終えた昌郎は、データをプリントアウトして各自に渡した。 ◆その185
文化祭(20) 康男の編集力は目を見張るものがあった。 文化祭が終わり定時制も、また何時もの日常に戻った。
しかし、文化祭の前と後では、昌郎が受け持つ2学年のクラスの雰囲気が大分変わった。 以前は、クラスとしてのまとまりが余りなかったが、文化祭でのクラス展示を皆が協力し合って作り上げて以来、クラスにまとまりが出てきた。 それは、昌郎だけが感じていることではなく、1学年の時の担任だった福永や「国語総合」を担当している絹谷、そして授業をもっていない事務主査の所沢も含め、定時制の全職員が感じていた。 以前は、毎日のように2学年のクラスには一人二人の欠席者がいた。 始まりのホームルームに昌郎が行くと必ず空席があった。 遅刻でもいいから、帰りまでにクラス全員が登校して欲しいと昌郎は毎日思った。 しかし、途中から全員が揃ったと喜んでいても早退する者が出てきて、帰りのホームルームも全員が揃うことはあまりなかった。 そんな毎日の中で、始まりのホームルームに来ていない生徒達に昌郎は、必ず連絡を入れていたが、電話やメールが繋がらないことも多かった。 文化祭が終わり全日・定時制とも月曜日が振り替えの休みで、火曜日からの出校となった。 その日、昌郎が始まりのホームルームの為に、2階の教室に向かった。 階段を上り2学年の教室の前に来ると、賑やかな話し声が聞こえて来た。 今までには、ないことだった。 以前だったら、ぼそぼそという話し声が聞こえても、こんなに賑やかな話し声が聞こえてくることはなかった。 昌郎は何時もとは違う教室にでも入るような気持ちになって戸を空けた。 生徒達が一斉に入ってくる昌郎を見ると、話し声がぴたりと止んだ。 こんな事も以前にはなかった。 クラス担任の昌郎が教室に入っていっても、生徒の中には、後の席の生徒とのおしゃべりを続けていたり、机に突っ伏したまま寝ていたりで、注意されてからやっと前を向くという塩梅だった。 しかし、その日は今までと違って昌郎が教室に入ると、全員がおしゃべりを止め、前を向いた。 昌郎は驚いた。 そして、更に驚いたことに、寅司が「起立」と声を掛けると全員が一斉に立ち上ったのだ。 狐に抓まれたような思いで昌郎が教卓の前に立つと、今度は寅司の号令に合わせて皆が一斉に礼をしたのだ。 何が起きたのだろうかと、昌郎はきょとんとした。クラスの皆は着席して、そんな昌郎をじっと見ていた。 そして突然、生徒達が一斉に笑い出した。 隆也と譲が、昌郎を指差しながら「先生、やっぱ吃驚している」と更に笑い転げた。 「皆、今日はどうしたんだ。突然の変わりようで驚くじゃないか」 昌郎は、率直に言った。 すると何時も余り目立たない百合が、代表するように立ち上がって言った。 「今まで、きちんと始まりの挨拶をしていなかったから、きちんと挨拶をしてからホームルームを始めようと、私が提案したんです」 百合の母親は、浮き世離れした子だと百合を称していたけれど、とても真面目な面があり、多少皆から煙たがられていた百合だったが、そんな彼女の提案に今は皆が賛同したのだろう。 それは正にクラスが一つにまとまってきたことの表れだと、昌郎は思った。 それからは毎日、始まりのホームルームだけではなく、各教科の時間の最初でも、皆できちんと挨拶をしてから授業が始まるようになったのだ。 授業中に居眠りをする者もいたが、互いに注意し合うようになっていた。 授業だけでなく、文化祭などの行事の大切さを昌郎は身を以て知ることが出来たのだった。 ◆その187
副校長の長津山は、14時から行われる定時制の通常の職員会議の前に、全日制の校舎に行って校長と打ち合わせをする。
そこで、校長からの指示が伝えられたり、定時制の状況についての報告をしたり、連絡事項の確認などが行われる。 そして、それらの内容が定時制の職員会議で伝えられる事になっている。 生徒会中心の大きな行事の文化祭も終わり、冬休み前に行われる2学期末テストまで、落ち着いて授業に専念できる期間になっていた。 12月に入って早々、毎日行われている打ち合わせを兼ねた定時制の職員会が終わった直後、突然に内線の電話が鳴った。 物言いが優しくのんびり屋の事務主査の所沢が、その電話を受け取った。 「はい、定時制職員室です。え、校長先生ですか。副校長ですね。はい、お待ち下さい。お繋ぎします」 電話を保留にして、所沢が長津山に伝えた。 「副校長、校長からお電話です」 「え、さっき打ち合わせをしたばかりなのに、急用なのかな」 そう言いながら、所沢の所から回された電話に長津山が出た。 「今すぐですか。分かりました。これから、そちらに参ります」 電話を切り立ち上がりながら 「なんの急用かな、ちょっと校長室まで行ってくる」 そう言って、長津山が校長室に向かった。 定時制の職員室は広くない。 そんな遣り取りは職員室内の皆に伝わる。 「絹谷先生、校長の用件ってなんでしょうね」 隣の席から川北が絹谷に聞いた。 「さあ、何かしら。定時制の生徒が何か問題でも起こしたのかしら。文化祭が終わってから、皆は随分と落ち着いて、まとまりも出てきたから、そんなことはないと思うけれど」 「生徒の問題じゃないとすると、保護者からのクレームかな」 福永がそう言った。 「でも、昨年度の保護者の非常識なクレームに、今年の春の保護者総会で副校長が毅然とした対応をしてくれたお陰で、それ以来なにも無かったから。クレームの線はないと思うわね」 「とすると、なんだろうね。まあ、副校長が帰ってきたら、何か説明してくれるだろうから。少し待とう」 福永の言葉で皆は、また自分の仕事に戻った。 それから30分ほどして長津山が、何時もの様子で戻って来た。 さして、大きな問題ではないらしいと皆は思った。 ◆その188 学校訪問(3) 長津山は、職員室に居る先生方全員の注目を集めて、ゆっくりと自席に着いた。
長津山は、一つ大きく咳払いをして話し出した。 「今、校長から伝達があったのは、教育委員の学校訪問のことです」 絹谷が質問した。 「副校長、教育庁からの訪問ではないんですか」 「そうなんですよ。教育庁の高等学校指導課や教育指導課の訪問ではなく、教育委員の先生の訪問と言うことです」 福永が言った。 「珍しいですね」 絹谷も、そうそうと言って福永の言葉に同意した。 昌郎には、一体何のことかさっぱり分からなかった。 そんな昌郎に福永は簡単に説明してくれた。 そして、教務の絹谷が教育委員来訪についての準備計画をたてるだろうから、まずは、それに従って準備を進めることだと付け加えた。 授業の指導や学校経営等については指導課が訪問指導する。 学校の施設や備品管理などの指導は高等学校指導課の管轄で、これら二つの訪問は、同じ年度に重ならないようにローテーションを組んで数年に一度ずつ行われている。 しかし、教育委員の訪問は滅多にない。 教育委員会というのは、5人の教育委員と教育長によって構成されている。 この教育委員会の事務局が教育庁で、教育庁のトップが教育長と言うことになる。 行政から独立した組織として教育委員会があるが、本当に独立しているかと言えば、事象によっては知事部局との関連や知事の意向を強く受けることもある。 教育長の任命は知事にあるから、そうならざるを得なくなる。 教育委員は、名誉職的な立場と考えて良く有識者によって構成され、この任命も実質的には知事ということになる。 教育委員の代表者が教育委員長であるが、ほとんどが年功序列、教育委員になった古い順に定期的にバトンタッチされるもの。 そんなことを昌郎は福永から聞いた。 教育現場の状況に余り関係ないように昌郎は感じたが、教育長が先生方の人事や学校の施設、予算権を持っているのだから、教育庁からの学校訪問は、学校側としては、気を遣う事に違いないことも理解できる。 教育委員の学校訪問の目的は、指導と言うよりも学校現場の様子を視察すると言うことだが、訪問を受ける学校としては、気を遣う事は同じだ。 今回の教育委員の訪問は、来訪する委員からの要望だとのことで、訪問する学校も鈴ケ丘高等学校の定時制を指定してきたというのだ。 鈴ケ丘高等学校の全日制は、進学校として認知されているわけでもなく、また何かの運動部が飛び抜けて強いわけでもないような、まさに特色が余りない学校で、定時制については更に知名度は低い。 そんな鈴ケ丘高等学校の定時制をどうして一人の教育委員が訪問したいと言ったのだろうか。 その真意は誰にも分からなかったが、今の定時制の状況は発足当初の勤労青年のための学校というイメージから大分懸け離れてきているので、定時制の高等学校を視察したいと思ったのかも知れないと、長津山は思った。 ◆その189 学校訪問(4) 教育委員の訪問が決まってから、学校長が度々定時制の方に顔を出すようになった。
入学式以来、一度も定時制の校舎に来たことがなかった校長だった。 定時制は長津山に任せておけば大丈夫だという安心感があったのかも知れないが、校長という立場にありながら、定時制に対して無関心というところがあるように思われた。 実際、昨年度、校長が定時制の校舎に来たのはたった一度だけだった。 それも、長津山が親戚の通夜に出席するために年次休暇を取った日だった。 定時制の毎日の初めの職員会議の少し前に来て、職員室に入るなり挨拶もそこそこに、長津山の椅子に当然のように座り、教務の絹谷に、すぐ職員会議を始めるように命令口調で言った。 絹谷は、早速その日一日の予定を確認し、各係からの連絡事項を確認した後に 「校長の方から何かございませんか」 と校長の話の時間を設けると、校長の西山は早速、苦言を呈した。 内容は、定時制の生徒の服装が乱れていると思っていることや、校内で校長の私に会っても挨拶しないことなどを一方的に話して、さっさと帰ってしまったという。 それ以来、定時制の先生方の間では、校長に対する不信感が根強く残っていた。 そんな校長が定時制の校舎に来て職員打合せの時に、今年も押し迫った12月下旬に教育委員の学校訪問があることを話しながら、全日制にではなく何故定時制に来るのかとあからさまな疑問を口にした。 その言葉を聞いて、長津山が校長に質問した。 「教育委員の先生方は定時制への訪問をするべきではないと、校長は考えているんですか」 西山は、自分の失言に気付き、言い訳がましく言った。 「いや、定時制は夜間の訪問になるから、時間的に大変じゃないかなと言うことだよ」 「校長、此処にいる先生方は、毎日夜10時まで勤務しているんですよ。その状況を視察されるのも教育委員の先生方にとっては、必要なことだと思います。今回の訪問で、今日の社会の中での定時制の存在意義を是非認識して欲しいと思いますが」 「私も、副校長の言うとおりだと思いますよ。ただ、教育委員の先生、特に今回おいでになる田口たえ委員はご高齢ですから、お体のことを考えて心配しているんです」 校長は、さも心配しているというように顔をしかめたが、それすらも皆には芝居がかって見えた。 教育委員の訪問が決まってから、西山は時々定時制の校舎にきては、校内を細々とチェックしながら、どこそこが汚いなどと注意した。 また、教育委員の先生の下足箱を決めておき、そこは特に念入りに綺麗に掃除をした上で、教育委員の名前札をはり新しいスリッパを入れるようにとの指示をした。 授業もご覧になるだろうから授業を持っている先生方は授業の指導案を作り、私まで見せるようにと注文を付けた。 更に、お茶は極力上等なものを用意し、茶碗や茶托なども吟味して揃えるように、おしぼりの準備も忘れないようになどと、接待への気遣いは異常なほど細かかった。 ◆その190 学校訪問(5) 或る日の職員会議で校長の西山は、こんなことを口にした。
「私は、教育委員の訪問に際して、とても心配しているんですよ」 長津山は、その言葉を受けてすぐ質問を返した。 「校長の心配事とは何でしょう」 「他ならない、挨拶のことですよ」 「挨拶ですか」 「生徒達の挨拶です。私が帰宅する時、校門付近で定時制の生徒達に会っても、誰も、挨拶をしないんですよ。教育委員の先生がおいでになった時、しっかり挨拶が出来るのかと、とても心配なのですよ」 「大丈夫ですよ。彼等は、校内においでになった人にはきちんと挨拶をしていますから」 「しかし、私には、挨拶をしませんよ。大丈夫ですかね」 長津山は、しっかりと校長を見て言った。 「校長、学校内ではいざ知らず、校門を出た校外で、校長に会ったら、彼等は校長だと気付くことはないでしょう」 「校長の顔を知らないと言うんですか」 「そうですね。彼等のほとんどは校長の顔を知らないと思います」 「え!」 「校長の顔を一年に一度も見ないんですから、仕方ありませんよ。校長が定時制の全校集会に来て頂き、有難いお話でも激励のお言葉でも言ってくれたら、彼等も校長のことを認識すると思いますが」 西山は、全くと言って良いほど定時制に来ることはなかつた。 みんな副校長の長津山に任せていた。 全幅の信頼をして任せていると言えば聞こえは良いが、校長は定時制に対しては無関心に近いと、長津山は思っていた。 そこまで直截には話さなかったが、長津山の言葉が西山に、ぐさりと刺さったようだった。 うっと言って口を噤むと、それ以上なにも言わなかった。 そして会議が終わって帰り際に、「副校長に任せておけば、万事、安心ですから、宜しくお願いしますよ」と投げやりな口調で言った。 職員室の先生方は後味の悪さを感じた。 長津山は、西山の批判を一切しなかった。 何事も最終的な責任は、校長がとることになるから、そうならないように、我々は心して教育活動に取り組まなければならないと、校長が帰った後、定時制の先生方に話した。 昌郎には、そんな長津山を尊敬した。 自分も長津山のような教員になりたいと思った。 そのことを福永に話すと、彼も頷きながら、自分も何時もそう思っている。 長津山が校長になって何処かへ転勤したら、希望して長津山の転勤先に異動させて貰いたいと思っているとまで話した。 昌郎は、長津山の下で半年ほどしか働いていないが、福永の気持ちに共感が出来た。 小さな星空TOP |
前へ 次へ |