[連載] | |
61話 〜 70話 ( 佳木 裕珠 ) |
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水曜日、個人面談三日目。 一人目は高田律子である。 十六歳にしては随分と落ち着いているというのが彼女の第一印象で、体格もほどほどにボリュームがあり安定感があるが、別の見方をすれば、おばさんのような雰囲気で多少若さに欠ける。 着てくる服もおばさんが好みそうなもので、年頃の女の子のようなフレッシュさもあまりなかった。 去年からいる先生方に言わせると、高田律子と彼女の母親はとてもよく似ているのだそうだ。 親子だから似ていて当たり前なのだが、おばさんが二人いるような雰囲気だと言う。 そして、彼女の母親はなかなかのクレーマーでもあるらしく、保護者会の役員をしながら、学校のことは勿論、先生方にも色々なクレームを付けるらしい。 進路指導とともに渉外を担当している川北は幾度も苦い思いをしていた。 川北に面と向かって言わないが陰に回って、臨時講師なのに偉そうにしているなどと言っているらしい。 面談の時、晶郎と向かい合って座りながら高田律子は多少顎を上げて話をした。 「先生、私は短大に進学する予定です」 椅子に座るなり、高田はそう切り出した。 昌郎は多少驚きながらも、そんなことは顔に出さずに質問した。 「もう志望校を決めているんですか」 ええ、大体のところはと言いながら志望校の名前を数校挙げたが、それのどれもがお嬢様学校と言われている所だった。 年子で1歳年下の彼女の弟は、今年の四月に中学を卒業して、公立の進学校として名の通っている高校に入ったらしい。 彼女も成績がよく一般的に言われるような問題行動はない。 このままで行けば志望校に入れるかも知れないと昌郎は思った。 話の中で中学時代のことを昌郎が聞くと、律子は途端に険しい目つきになり、中学校や中学時代に習った先生方の悪口を言い出した。 そして自分がこの学校に入らなければならなくなったのも、中学の先生達の責任だと言いながら本当はこの学校には入りたくなかったし、学力の面でも生徒達の生活態度でもこの学校よりももっと良い全日制の高校に入れたはずだと豪語した。 昌郎は驚いた。自分が入った学校をこのように卑下していいのだろうか。 例え社会での評価が高くない学校でも、入ったからには母校となる学校ではないか。 嫌々入学したかも知れないが、自分を受け入れてくれた世界でたった一つの母校ではないか。 その学校を愛してもらいたい。 昌郎は心からそう思った。 「高田さん、確かにこの学校よりも学力の面やその他のことで秀でた高校は一杯あるでしょう。でも高田さん、あなたを引き受けて入学を許可して入れた学校は、この鈴ケ丘高等学校の定時制なのです。この学校を良くするも悪くするも全て今この学校に関わっている私達次第だと思います。この学校で是非がんばってください」 昌郎はそう言って高田律子との面談を終えた。 ◆その62 高田律子の次は千谷栄大だった。 彼の家庭は母親と妹そして祖母の四人家族で、両親は栄大が小学に入る前に離婚していた。 彼の母親は律子の母親と親しく、やはり保護者会の役員をしていた。 昨年度、律子の母親と栄大の母親が組んで教頭の長津山を転勤させて欲しいと都の教育委員会まで行って直訴していたらしい。 当の長津山はそのことについて何も言わないので詳しいことはよく分からないが、全日制の教職員の間ではもっぱらの噂だった。 理由はこうである。 前期中間考査の数学のテスト時、律子が試験中に過呼吸になって途中で退席した。 そして後日になって数学の再試験をやって欲しいと本人から申し出があった。 しかし長津山は律子の再試験を許可しなかった。 実は律子は中学校でも定期試験の時に度々過呼吸になって試験の途中で退席し、その度に再試験を受けていたらしい。 長津山に指示されて担任だった福永が出身中学校に問い合わせたところ、自分が勉強してこなかったところがテストに出ると一種のパニック状態になって過呼吸になるようだと聞かされた。 そして、その過呼吸も自己申告なので本当かどうかも多少疑問が残ると、中学の先生は付け加えた。 その報告を受けた長津山は、高田律子さんは短大への進学を希望しており、その入学試験の時に過呼吸になったとしても、彼女のために再度試験をしてくれる短大など何処にもない。 また、これからの人生で就職試験をはじめ様々な試験を受けなければならないから、自分で自分の気持ちをしっかりとコントロールできるようになってもらうため、再試験を認めないと言う判断に至った。 しかし、娘が再試験を受けさせて貰えなかったことを根に持った律子の母親が、心の弱い子に優しい教育をして欲しい、中学校の時には認められていた再試験が高校で受けられないのはどうにも納得できないと、校長に直談判に行ったらしい。 その日の午後、長津山が出勤するのを待って、校長は彼を呼んだ。 その経緯については、全日制の事務の人達が実際にその場に居合わせて知っていたが、校長室の扉はぴたりと閉ざされていて、その中で校長と長津山の間でどのような遣り取りがあったのかまでは誰も知る由もなかった。 ただ推測するに、校長は長津山に律子の再試験を認めるように命じたらしい。だが長津山は律子の再試験を許可しなかった。 校長への直談判も功を奏しないと見るや、律子の母親は、当初から教頭に反発心を抱いていた千谷の母親を引き連れて都の教育庁に行き、長津山を転勤させて欲しいと嘆願したらしい。 それを受けて教育庁では、校長の西町と一緒になって律子に再試験を受けさせるよう再度長津山に命じたらしい。だが彼は、律子に再試験を受けさせなかった。 勿論、そのことについて昌郎は一切触れなかった。律子は言葉づかいも丁寧で一見落ち着いて見えた。 しかし、丁寧な言葉使いは取って付けたようだし、落ち着いた態度は裏を返せば動作が鈍いとも言えた。 胸を張って自信たっぷりと断言するように話す態度には独善的な面が強く見えた。 ◆その63 高田律子は、自分の母親が千谷栄大の母親と組んで、長津山教頭を転勤させて欲しいと校長や都教育委員会に直談判をしていることを知っているらしいが、栄大は知らないようだと福永は話した。 母親と娘の親密な関係とは違い、息子と母親の関係は、だいたい中学に入る前後から疎遠になる。 栄大もその例に漏れず、毎日、母親とは二言・三言しか話をしないようだった。 昌郎が栄大に家では何をしているのかと聞くと、彼は自分の部屋に籠もって、ゲームをしているか音楽を聴いていると答えた。 朝は10時ごろに起きて一人で朝食を摂り、昼は菓子パンなどで済ませ、夕食も一人で早めに食べてから学校に来るらしい。 それでは、お母さんが淋しいだろうと昌郎が言うと、栄大は顔をしかめるようにして、俺、母さんが嫌いだと言い放った。 自分の母親をこんなにも直截に拒否するのには、何かそれなりの理由があるのだろうと思いながら、ちょっと栄大の親子関係に深入りするようだが、何故嫌いなのかその訳を聞いてみた。 栄大は、少し考えるふうをしてから、兎に角嫌いなんだと突き放すように言った後で、母さんが保護者会の役員をやっているけれど、それ辞めさせて貰えないかと、切羽詰まったように昌郎に懇願した。 「お母さんが、保護者会の役員やっていても、栄大君には何も影響ないだろう」 昌郎がそう返すと栄大は大きく首を振った。 「影響、大ありだよ。なんだか分からないけれど、いつも電話で学校のことや先生達の悪口を言っているよ。保護者会って、学校に協力するためにあるんだろう。でも、母さんは学校にクレーム付けるためにやっているような気がするんだ」 「そんなことはないだろう」 「いや、絶対にそうだと思う。それは、俺が小学校の時からだよ」 「小学校でも、中学校でも保護者会の役員をやってくれていたのかな」 「やってくれていたなんてもんじゃないよ。生きがいのようなものだと思う。でも、その生きがいが学校批判なんだから、呆れちまうよ。母さんは、俺が何も知らないと思っているだろうけれど、俺は知らない振りをしているだけで、大概のことは知っているよ。母さん、夜遅くまでパソコンに向かって学校批判、教頭先生を非難するものを打っていたよ。母さんがテーブルの上に置き忘れた紙を見たんだ」 福永から聞いていた事と一致する話だった。 昌郎には、栄大の母親をフォローするすべが見当たらずにいた。 栄大の顔は深く曇っていた。 彼の母親は学校に対して不信感以上の敵意を持っているのかも知れないが、栄大自身にはそのようなことがないことが、昌郎には大きな救いだった。 母親と彼を同一視してはならないと、昌郎は自分に強く言い聞かせた。 栄大との個人面談は、母親の話に終始した。 ◆その64 栄大が教室を出て行くと、間を置かずに杉原陽明が入ってきた。 その日の面談は、本当ならば栄大よりも杉原の方が先だったのだが、彼の希望でその日の最後の面談になったのだ。 理由も聞かずに栄大は、自分が先に面談してもいいよと言ってくれた。 陽明は秀明よりも小柄だ。背が低くがりがりに痩せていて触ると折れそうだ。 そして顔の半分ほどもあろうかと思われる大きな眼鏡を掛けていた。 教室の中でも校内でも、友達とおしゃべりをしている所を昌郎は見たことがなかった。 かといって皆から無視されたり、いじめられているわけでもない。 どちらかというとその反対で、クラスの皆は何気ない様子で、何時も陽明のことを気に掛けていると感じられた。 特にボクサーを目指している町井大介がそれとなく陽明を庇う様子が伝わってきた。 仲良く話をするというわけではないが、陽明が大介を慕っていることは確かだ。 定時制校舎一階の職員室隣は、少し大きめな部屋で、その壁一面に本が並べられていて一応図書室となっている。 その部屋の真ん中には会議用の机が長方形に置かれて会議室としても利用されていた。 大介は図書係で、その日は放課後の図書の整理と貸し出しの担当で、生徒達の下校時間まで学校にいるのだ。 陽明と大介は並んで歩いていても話をするわけでもなく、いつも二人とも前方を向きながら黙々と歩いている。 それが自分達の付き合い方だという風に。 陽明は、あまりにも線が細くその上極端な無口で、最初もっとも心配した生徒だったが、大介とのつかず離れずそれでいて互いに認め合っているような付き合いがあることを知るにつれて、昌郎は安堵した。 こんな二人のような関係は、クラス全体の雰囲気でもあるような気がする。 互いにそれぞれの欠点も長所も全て認め合いながら、押しつけがましい付き合い方をせず本当に必要な時には互いに助け合うような雰囲気だ。 昌郎は、そんなクラスの雰囲気を快く感じていた。長い間には、様々なトラブルや出来事がクラスの中で起きるだろうが、なんとか自分でもこのクラスをまとめて行けるように思えた。 今まで面談をしてきた生徒達は、みな自分から話してくれたので、どちらかというと昌郎は聞き役に徹していれば良かったのだが、陽明の場合は全く逆だった。 昌郎から話し掛けなければ、彼は何時までも黙って下を向いている。 昌郎が話し掛けて初めて顔を上げてこちらを見るという具合だ。 昌郎は、陽明の家族のことについて聞いてみた。 両親と彼の三人家族だが、両親ともに既に六十歳を過ぎている。 父親も母親も五十歳近くになってからの子どもが陽明で、大事に大事に育てられたことが窺えた。 家庭はとても物静かな様でテレビも滅多に付けず、大きな声で話すこともなく、家の中は何時もしんとしていると言う。 家では何をしているのかと聞くと、殆ど読書をしていると静かに答えた。昌郎は、郷里出身の作家太宰治の話をした。 陽明は、太宰治の小説の大概を読んでいた。特に「人間失格」は心に残っているらしく、話が、その小説に及ぶと目をキラキラさせた。 ◆その65 陽明は勿論「斜陽」も読んでいた。 自分の名前の一字「陽」が共通していることもあり、中学二年の時に既に読んだという。 中学生でも、あの小説の内容に感動するものなのだろうかと疑問に思ったが、陽明は熱を帯びたようにその小説を絶賛した。 「先生は青森出身ですから、太宰の生家斜陽館に行ったことがあるんでしょう」 陽明にそう聞かれた。 しかし昌郎は、金木に「斜陽館」があることは知っていたが、同じ青森県に住みながら実際にはそこに一度も行ったことがなかった。 「いや恥ずかしい話だけれど、同じ青森に住みながら一度も『斜陽館』に行ったことがないんだよ」 陽明は、驚いたというように昌郎の顔を見たが、それは一瞬のことでまた下を向いて、そうですかと落胆したような声で言った。 「夏休み中に青森に帰ろうと思っている。その時には絶対に『斜陽館』に行ってくるから、パンフレットか何か持ってきてあげるよ」 昌郎がそう言うと、陽明は折れそうなくらいに細い首でコトンと頷いた。それで陽明との面談が終わった。 陽明は、教室を出ると駈けるようにして階段を降りていった。 きっと図書室に寄って町井大介と一緒に下校するのだろう。 陽明にとって大介の存在は大きかった。 職員室に行くと、既に福永は面談を終えて自席に戻り、面談の内容をノートに記録していた。 「福永先生、早かったんですね」 「ああ、早く登校できる生徒の面談は授業が始まる前に済ませていたから、放課後の面談は二人だけだったからね」 「授業開始前に生徒との面談をしていたんですか」 「一年生は二十人いるからね、五日間で皆の面談を終えるとなると、一日四人の割合だろう。特別時間割を組んでもらっているが、放課後は三人が限度だから、授業前に一人終えておこうと思ってね。ところが、今日は授業前に二人面談したので、放課後は二人だけで早く終わったんだ」 また記録に戻ろうとする福永に昌郎は続けて話し掛けた。 「福永先生。今日、栄大君と面談しました。彼は随分と母親を嫌っている様子でした。彼の口から直に母親が嫌いだという言葉を聞きました」 「そうか、栄大がそんなことを言っていたか」 「はい、そして母親が保護者会の役員をしていながら、学校にクレームを付けていることも知っていました」 ◆その66 「母親のそんな行動を、栄大は知っていたのか」 「はい知っていました。母親を保護者会の役員から外してくれないかとまで言いましたが、それは出来ないと答えました」 「いくら生徒からの要望でも、それは出来ないよな。親子の溝が深くならないうちに、母親が気付いてくれればいいんだが…」 福永は眉を曇らせたが気を取り戻すように、今日面談した生徒達の記録をノートに書き始めた。 昌郎も、今日面談した生徒達の内容をそれぞれの『記録ノート』に書き始めた。 昌郎は、現代社会と政治・経済そして日本史Aと世界史Aの授業を受け持っていた。 週の授業時数は10時間で少なくはないが多くもない。 しかし、受け持つ科目数は多い方だろう。 昌郎の教員免許は公民で現代社会や政治・経済は専門だが、日本史や世界史は同じ社会科に分類されてはいるが彼の専門外である。 定時制の教員数は、生徒数に応じて少なく配置される。 社会科担当の教師は昌郎一人しかいないので、社会科であれば公民であろうが地歴であろうが受け持たなければならない。 日本史や世界史は専門ではなかったが、昌郎は歴史が好きだから授業の下調べなど結構楽しんでやることが出来た。 鈴が丘高校定時制では、現代社会は1年生、日本史Aは2年生、世界史Aは3年生そして政治・経済は4年生で履修することになっているので、昌郎は全ての学年の生徒の授業を持つことになる。 平常ならば一日に2時間ずつ授業があるが、今週は面談週間で一日3時間授業。 木曜日のその日は、3年生の世界史Aがなくなり4年生の政治・経済の授業だけがあった。 4年生ともなれば落ち着いた雰囲気で、自分が担任をする2年生と比べれば随分と大人だと昌郎は思った。 その日の面談は、沼崎百合から始まった。 教室に入ってきた彼女は随分と緊張気味で教室の戸を締める時に力み過ぎたのだろう。 バンと大きな音を立てた。自分がたてたその音に自分で驚き、あっと言いながら口を押さえて戸口で立ち止まってしまった。 「百合さん、此方の椅子に掛けて下さい」 昌郎は、優しく声を掛けた。 あ、はいと百合は戸惑いながら返事をして、昌郎の前の指示された椅子に腰をおろしたが、また直ぐ立ち上がり失礼しますと深々と頭を下げてから、再び椅子に腰をおろした。 彼女は手を膝の上で合わせながら親指同士をくるくると廻している。彼女の緊張感が昌郎にも伝わってきた。 「百合さん、緊張しなくてもいいですよ。何も難しい質問をしたり、面接試験をするわけではありませんから、リラックスしてください」 昌郎は努めて静かな口調でそう話した。 「はあ、分かりました」 そう言いながら百合は大きな深呼吸をひとつした。 ◆その67 沼崎百合が出て行くと、間を置かずに飛田康男が教室に入ってきた。 座っている時は、さほどでもないが、立ってこちらへ歩いてくる彼を見ると、随分背が高いなと昌郎は改めて思った。 「今回の身体測定で、身長は何センチありましたか」 開口一番、昌郎が聞いた。 康男は照れたような表情で182センチですと言った。 笑顔の優しい男子だ。 この鈴ケ丘高校の定時制に入学する前は私立の全日制高校に在籍していた。 その全日制高校一年生の九月からぴたりと学校に行かなくなり、各教科とも出席時数が足りなくなってしまい、そのまま中途退学となったらしい。 そして次の年度にこの定時制高校に再入学していた。 彼が前に在籍していた高校の担任教師から福永が聞いたところによると、夏休み中に起きた両親の離婚が影響し学校に来られなくなったのだろうとのことだった。 康男には年の離れた幼い妹が一人いたが、その妹は父親に、そして彼が母親と一緒に暮らすことになったらしい。 康男は、その妹を随分可愛がっていて、妹との別れも不登校になった一因だろうと以前の担任は付け加えた。 今、自分の目の前に座っている康男からは、そんな辛い出来事があったことなど窺い知ることもできないが、やはり心の中では、まだその傷は十分に癒やされていないのではないかと思った。 昌郎は、彼の家族のことについては一切触れないようにした。 「康男君は、ギターが上手いんだそうですね」 福永から受け継いだ個人ノートに、その事が書かれていたので、そう聞いてみた。 「ギターが上手くなりたいとは思っていますが、まだまだ下手だと思います。先生、ギターかなにか楽器をやりますか」 「いや、私はなにもできません。強いて言うなら太鼓を打つ程度ですね」 「太鼓ですか」 「太鼓も楽器の一つだと思うけれど」 「確かに太鼓も楽器です。どんな太鼓ですか。ドラムだと面白いですね」 「いや、わたしの言う太鼓は応援団の太鼓です」 「え、応援団の太鼓ですか。楽器を演奏するのとはちょっと違いますね」 「そうだね。あれは演奏するのではなく、景気を付け気持ちを鼓舞するために叩くのだから、演奏とは言えないかも知れない」 そう言いながら昌郎が笑うと、康男も釣られたように笑った。 音楽の繊細さとは程遠い応援団の太鼓を、話題に持ち出した自分は間が抜けているなと思い笑ってしまった。 康男もアハハハと声を立てて笑った。 何がおかしいのだろうと思いながらも、何故か次々と笑いが込み上げてくるのだ。 箸が転んでも可笑しい年頃の康男と昌郎は一緒に笑った。 ◆その68 個人面談(15) 笑い終わって落ち着いてから、昌郎はギターのことについて質問を続けてみた。 「ところで、康男君がやっているギターはエレキギターですか」 「いえ、違います。アコーステックギターです。フォークギターと言った方がいいかもね」 「ギターを弾いて歌ったりするんですか」 「ええ、そうですね。歌いますね」 康男は恥ずかしそうに答えた。 「そうですか。どんなジャンルの歌が得意なんですか」 康男は、少し考えるようにしながら一呼吸置いて言った。 「先生、松任谷由実って知っていますか」 「勿論知っているよ。ユーミンだろう」 「そう、そのユーミンの歌を良く歌いますね」 「ユーミンの『卒業写真』あれ好きだなあ」 「いい曲ですよね」 「康男君のイメージからして、女性の曲を歌うようなイメージじゃないんだけれど、意外な一面だね」 「みんなも、そう言います。でも俺ユーミンの曲聞くことも歌うことも好きなんですよね」 「君達の年齢でユーミンの曲が好きだと言う人はいますか」 「どうだろう。俺にははっきり分からないけれど。結構好きな人いるんじゃないのかな。でも、他人がどう思うかじゃなくって、自分が何を歌いたいかだと思っているんです。好きな歌は大事に歌うし、心も籠もるからね」 康男は、喜々としてユーミンの歌の素晴らしさを語り始め、それは面談時間いっぱい続いた。 康男は話の最後に『ね』と付けるのが癖だと言うことが分かった。 木曜日の最後の面談は、長山寅司。彼は大工の見習いだった。 この日も現場から真っ直ぐに学校に来たらしく、作業服のまんまだった。 「仕事場から真っ直ぐに来たんですか」 昌郎が、そう聞くと寅司は大きく頷いた。 「今の現場、学校から少し遠いんです。部屋に寄ってから来ると完全に遅刻してしまうから、直行です」 「夕食は」 「帰ってから食べます。親方の奥さんも、それで良いって言ってくれています」 「寅司君の部屋は、親方の家にあるんですか」 「親方の家の離れに、先輩と暮らしています」 ◆その69 個人面談(16) 寅司は、親方の離れで五歳年上の先輩と共同生活をしていた。 朝晩の食事は母屋の親方の家で食べ、昼食はやはり親方の奥さん手作りの弁当。 風呂も親方の家。洗濯と離れの掃除は自分達でやっている。 奥さんは世話好きな人らしい。 そして先輩は無口な人だが面倒見は良いらしい。 厳しい親方を寅司は心から尊敬している様子が話の端々に現れている。 そして人間関係には恵まれていると寅司自身も思っている。 そんな話をした後で、寅司は自分が着ている作業服を示しながら言った。 「先生、このトビシャツとニッカズボンは寅壱なんだ」 「トライチ?」 「先生、寅壱のメーカー知らない」 「ああ、初めて聞くよ」 「そうか、俺達の間では結構人気なんだ。値段が高いが格好いいんだ。俺、寅壱の作業服好きなんだ。でも高いから、そうそう買えない。このトビシャツとニッカズボン、先輩から貰ったものなんだ。先輩、寅壱のもの結構持っているんだ」 そう言われて、寅司の格好を見ると、確かに彼によく似合っている。 まさに颯爽と働く男と言うイメージがした。 「寅司君の名前の一字が入っているメーカーだ」 「うん、俺の名前の寅が入っている」そう言った。そしてこう付け足した。 「先生、俺の呼び方だけど、寅司君は辞めてもらいたいな。寅司君なんて今まで一度も呼ばれたことないし、学校でも、仕事場でも、親方達も皆俺のこと『寅、寅』って呼ぶ。先生も俺のこと寅って呼んで欲しい。その方がしっくりくるし、俺らしいと思うよ。俺、どう見ても寅司君なんて呼ばれる柄じゃないよ」 「寅、か」 「そう寅だ」 昌郎は、嬉しくなった。 何故か目の前にいる寅司がぐんと近い存在になったような気がした。 「それじゃ、私も『寅』と呼ぶことにしよう。なあ、寅」 「そうそう、それでいいよ。何かこれですっきりした。今まで寅司君って言われると、背筋がむずむずしていて、落ち着かなかったけれど、寅って呼んで貰ってほんとさっぱりした感じだ」 寅司はそう言いながら、一人で盛んに頷いていた。 面談が終わって帰って行く寅司の後姿を見ると、仕事をして来たので、それなりに汚れているところがあったが、体を張って仕事をする男の心意気のようなものを感じた。 ◆その70 個人面談(17) 面談週間の最終日、金曜日の放課後。 面談週間の初日の月曜日に予定されていた大西芽衣也は無断早退をして面談が後送りになっていた。 流石に今回は、無断早退することもなく面談時間まで待っていた。 芽衣也は気ぜわしく教室に入ってくると、指示される前に昌郎の前の椅子にどかっと腰掛けた。 そして、開口一番にこう言った。 「先生、面談なるべく早くすまして」 新学期が始まって以来、芽衣也の自己中心的な言動には吃驚することが多かったが、今度もまた、彼女らしい態度に驚かされた。 昌郎は、意識してゆっくりとした口調で聞いた。 「何か急いで家に帰らなければならないことでもあるんですか」 「家に帰るわけじゃないけど、彼氏が部屋で待っているんだ」 「え、彼氏?」 「そう彼氏」 「部屋は、その彼氏の部屋と言うこと」 「勿論よ。あと誰の部屋があるって言うのよ」 驚いた表情の昌郎に、芽衣也が聞いた。 「先生、その年になって彼女いないの」 予想もしなかった話の展開に昌郎は戸惑ったが、敢えて静かな口調で言った。 「残念ながら、今、付き合っている女の人はいないよ」 「わあ、淋しい。先生、淋しくない」 「別段、淋しいと思わないよ」 「どおして、考えられない」 「大西さんは、彼氏がいないと淋しいんだ」 「そうよ、彼氏がいないとつまらないじゃん。どっかに行く時も一人で行かなきゃなんないし、それだったら友達に馬鹿にされちゃうよ」 「彼氏がいなくたって、誰も馬鹿になんかしないと思うが」 「私なんか、中学校の時からずっと彼氏いたよ」 「じゃあ、ずっとその人と付き合っているんだ」 「まさか、そんなことないよ。今の彼氏は3人目かな。高校に入ってから知り合ったんだもん」 「彼は、この学校の先輩?」 「まさか、そんなダサいことしないよ。歴とした社会人。十九歳のイケメンだよ」 昌郎は、二の句が付けなかった。 小さな星空TOP |
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