[連載]

 71話 〜 80話      ( 佳木 裕珠 )



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◆その71
個人面談(18)


 芽衣也の親は二人の付き合いを認めていて、彼女達は互いの家を行き来し、泊まることもあるという。
昌郎には考えられないことだが、芽衣也や彼女の彼氏そして彼等の家族にとっては、それは極当たり前の事らしい。
芽衣也が言うには、今の彼と付き合いだしてから、自分は随分落ち着いてきたと言う。
そして、その事は、彼女の両親も認めているという。
だから、芽衣也の親は、今の彼氏との付き合いに安心しているらしい。
ますます、昌郎には考えられなかった。
芽衣也との面談は、今付き合っている彼氏のことに終始した。
彼女は、教室の後の壁にかかっている時計を見て15分間の面談時間がかちっと過ぎると、時間だと言いながら椅子から立ち上がった。
そして「先生、じゃあね」と言うなり、駆け足で教室を出て行った。
昌郎は呆気にとられて、芽衣也の後姿を見送った。
 芽衣也と入れ替えに、南隆也が教室に入ってきた。
彼は、長目の茶髪を逆立て穴だらけのGパンを穿き黒いTシャツに派手目のジャンパーを引っ掛けていた。
隆也はGパンのポケットに両手を突っ込み、斜に構えて昌郎の前に立った。
「隆也君、ポケットから手を出して、此処の椅子に腰掛けて下さい」
 昌郎からそう言われるとポケットから手を出したものの、ふんと相手を小馬鹿にしたような態度で乱暴に椅子に腰掛け、更には腕組みをして足も組んだ。
「腕組みと足を組むのをやめて、真っ直ぐに椅子に座る」
 昌郎は、静かにだが低く太い声で隆也に言った。
担任の声音が変わったのを感じた隆也は、しぶしぶ腕組みを解き足組も直したが、大股をガッと開けて挑むような眼差しで、昌郎を見据えた。
昌郎は、隆也のような視線には慣れていた。
大学の応援団関係の集まりの中にも、そんな視線を向けてくる者がいた。
しかし、付き合ってみれば至って気の良い奴が多かった。
隆也も、新しい担任に精一杯の彼なりの虚勢を張っているのだろう。
そんな風に受け取ることができた。
隆也の母親は美容師で美容院を経営していた。
一人いる姉も母親の店で美容師をしている。
将来、隆也も美容師をするのかと聞くと、「ふん」と嘲るような表情で、美容師なんかになるわけないだろうと言い切った。
しかし、隆也は時々美容院で母親の手伝いをしていることを、昌郎は福永から聞いていた。
美容師なんかにならないという隆也の言葉はそのまま受け取れないと昌郎は感じた。
彼は、教師なんかに自分のことを根掘り葉掘り聞かれたくないのだ。
何を聞いても、反抗的な態度で本当のことを言ってくれないだろうと昌郎は思った。
彼とは、まだ会ったばかりなのだ。どんな奴が担任になったのかと、隆也は目の前にいる教師を探るような目で見ていた。
それならば、逆に隆也から質問を受けて見ようと昌郎は考えた。
「隆也君、私に何か質問はないですか」
 えっ、隆也は不意を突かれたように目の前の担任を見た。それからこう聞いた。




◆その72
個人面談(19)

「先生さ、彼女いる」
先に面談した芽衣也と同じことを聞いてきた。
今の高校生は、彼女や彼氏がいるかいないかが大きな関心事なのだろうかと、昌郎は思った。
「いないよ」
「え、いねえの」
隆也は大げさに驚いた。
「そんなに、驚くようなことでもないだろう」
「だって先生、大学生ってみんな彼女つくって、結構楽しそうにやっているじゃん」
「そんな大学生ばかりじゃないよ。真面目に勉学に励んでいる学生だっている」
「え、勉学に励むって、それどういうことさ」
「一生懸命勉強に精出していると言うこと」
「嘘だ〜。そんなの聞いたこともねえ」
 昌郎は、つい数週間前まで大学生だった自分のことを思い出してみた。
一生懸命に勉強しただろうか。
たしかに定期試験の前は必死になって勉強した。
今回の教員採用試験の勉強もした。
しかし、毎日真剣に勉強していたかと聞かれれば、そうだと胸を張って言えない。
日々の生活は応援団活動で費やされていた。
勉強の前に応援団があったとも言えた。
「う〜ん。私は一生懸命勉強したというより、一生懸命に応援団活動をしていたな」
 正直に答えた。
「一生懸命、応援団活動をしていた。なにそれ」
「だから、彼女などつくっている暇はなかったと言うことだよ」
 昌郎はそう言いながら、話の糸口が掴めたようだと感じ隆也に聞いてみた。
「それじゃ、隆也君には彼女がいるんだ」
 そう聞かれた隆也は、片眉を少し上げながら「ふん」と鼻を鳴らしてきっぱりと言った。
「いるわけないだろうが」
 その言葉は意外だった。
「いないわけないだろう」と言うだろうと昌郎は思っていた。
「てっきり、隆也君なら彼女がいるんじゃないかなと思っていたんだが」
「俺の周りには頭の中が空っぽな女ばかりが集まってくるんだよ。俺そんな女大嫌いだ」
 また意外な言葉が返ってきた。
「この学校にも、しっかりした女の子がいるよ」
「同じ学校の女の子と付き合って、どうすんだよ。毎日学校に来ていちゃついて帰るってこと? やだよそんなの。学校は学校。彼女とは別」
 昌郎は、隆也の意外な一面を見る思いがした。



◆その73
個人面談(20)

 ノックもせず、教室の戸を細く開けて村井譲が剽軽な表情で顔を覗かせた。
「どうぞ、教室に入って下さい」
 昌郎がそう促すと譲は、それじゃ遠慮無くなどと言いながら教室の中に入ってきた。
「この椅子に座る?」
 そう言いながら彼は昌郎の前にある椅子に腰を下ろした。
先程面談した隆也は、担任を前にして警戒心と反抗心を露わにしていたが、譲は人懐っこい表情で昌郎と向きあった。
隆也と譲は服装や髪型・体型など外見上は似ているが、性格的にはあまり似ていないのかも知れない。
隆也は心の中に鋭い爪を持ち、虎視眈々と相手の隙を狙っているような暗い雰囲気を漂わせていた。
しかし、隆也と離れて一人で昌郎と向かい合っている今の譲は、穏やかで屈託のない青年の表情をしていて、質問には快く答えてくれそうな気がした。
そこで、昌郎は、彼の逆立てた長い茶髪の髪型について聞いてみることにした。
「随分と手入れが大変そうな髪型ですね」
 隆也だったら、俺の勝手だろうなどと言うのだろうが、譲はにっこりと笑いながら得意げに答えた。
「格好いいだろう。この髪型きめるのに、結構時間かかるんだ。先生もそんなダサイ髪型なんかやめて、髪伸ばしてこんなのやってみたら。結構似合うと思うよ」
 そんなことを平気で言う譲に大意はないのだろう。
「しかし先生という仕事しているんだったら、こんな髪型出来るわけないよな。だったら、今の髪型でいいと思う」
「私の髪型は、これからもずっとこのままだと思うよ。ところで学校では村井君と南君はいつも一緒にいるようだけれど」
「ああ、隆也とは学校だけじゃなく、何時でも一緒だよ」
「君達は出身中学校が一緒ですね」
「ああ、小学校も一緒だった。けど、その頃は殆ど話もしなかった。今みたいに付き合うようになったのは中学校に入ってからだね」
「部活が一緒だったとか、何かきっかけでもあったのかな」
 昌郎は、高校時代の仲間や大学時代に応援団活動を一緒にやってきた親友凌仁のことを思い出しながらそう聞いてみた。
「俺も隆也も部活なんて、何にもやらなかった。帰宅部だよ。俺達が友達になったのは、何かのきっかけと言うより、必然的といった方がいいと思う」
「必然的?」
「そう、必然さ」
 そう言いながら、譲は自分達のことを話し出した。



◆その74
個人面談(21)

 「俺達は、勉強をしないから当然成績が悪かった。今でも良い成績じゃないけど。スポーツが得意かと言えば、運動音痴じゃないけれど、人よりも足が速いわけでも野球やサッカーが上手なわけでもない。歌だって下手くそ、楽器もやれない。かといって冗談を言って人を笑わせることも出来ない。つまり何にも特技がないんだ。そんな俺等がいじめられないためには、まず一人でいないこと。誰か自分と同じような友達を見付けること。俺も隆也もお互いにそうして近付いたと思う。俺等は匂いが同じなんだ。それに気が付いたから近付いた。ただ、二人で何時も一緒にいただけじゃ、いじめの標的になっちまう。相手方が四・五人で組んでこられれば、もうアウトだよ。そうならないためには、余り近付きたくないって思わせることが必要さ。そこで俺達は二人でグレたのさ。でもね、先生だから話すけど、俺達は本当にグレたいわけじゃない。グレた真似をしているだけさ。まず先生に反抗する。親の言うことを聞かない。そして派手な格好をする。これで半端な者達の間では、あいつ等はいかれていてヤバイから近寄るなと言うことになる。いじめをする奴っていうのは半端な奴だけだよ。俺達二人は、そうやって自分達の身を守ってきたんだ」
 話している譲の表情から笑顔が消えていた。
彼は、そんな自分の表情に気が付いたのだろう。
照れたようにまた笑顔に戻り頭を掻いた。
非常に興味深い話だった。
そういえば、花戸玲もいじめから自分を守るためにど派手な茶髪にしていると話していた。
今までは茶髪イコール不良と思っていたが、茶髪には茶髪の理由があることを生徒達から教わったと昌郎は思った。
「先生、ど派手な茶髪をやっている奴よりも、染めているかどうか分からないようにしている奴の方が、姑息にも蔭で結構悪さしていることが多いんだ。俺と隆也はどうしょうもない格好をしているけど、暴走族に入っているわけでもないし、チンピラ達と付き合ってもいない。至って健全な青少年さ」
 そう言って譲は一息ついた。
そしてまた話し始めた。
隆也の面談の時と違って、昌郎は聞き役に徹することが出来た。
「先生、俺と隆也は、同じ都立の高校を受験したんだ。それで、二人揃って不合格。受験に茶髪で行ったんだもの、落ちるの当たり前だよね。受かるなんて思ってもいなかった。逆に落としてくれと思っていたんだ。勉強なんて大嫌いだし、高校に入りたいとも思っていなかった。中学を卒業してから、俺と隆也はぶらぶらして気儘に過ごしていたけれど、中卒で高校へも行かないと誰も相手にしてくれないことが分かった。だってコンビニや居酒屋のバイトでも中卒じゃいい顔しないし雇ってもくれない。やはり高校だけは卒業していないといけないと俺達は気が付いた。そこで、色々と調べてこの定時制高校に受験した。そして、めでたく合格さ」



◆その75
個人面談(22)

「この定時制高校に何故俺達が入ろうと思ったか分かる?」
唐突に譲が担任の昌郎に聞いた。昌郎はちょっと考えてから答えた。
「昼、仕事をすることが出来るからかな」
 そう言うと、譲は大きく頭を振って否定した。
「先生、昔の定時制のことを頭に描いていちゃだめだよ。この定時制高校に通っている生徒達の半数以上は、昼間働いていないよ」
「日中は何をしているんですか」
「何もしていないんだよ。確かに生きて暮らしているけれど、働いてはいないんだ。家の中でぼんやりとしているのが大半じゃないかな。ぼんやりしているんだが、決して居心地が良いわけじゃない。家の者からも近所の人達からも、働きもせず、ぶらぶらと遊び暮らしている怠け者みたいに思われていることは、本人達も十分に知っているさ。でも社会がそんな俺達を受け入れてはくれないんだ。本当は俺等だって働きたいんだよ。遣り甲斐のある仕事をしたいんだよ。ただ、マニュアルどおりに接客やレジをこなすだけの仕事じゃない、もっと別な遣り甲斐のある仕事がしたいんだよ。そんなのがないから、仕方なく肩身の狭い思いをしながらぶらぶらしているんだ。大人達は都合良く俺達を使って、いらなくなったら、はいそれまでと、ほっぽり出してしまう。俺等の替えは一杯あると思っている。そうじゃない、先生」
 突然そう譲に聞かれて、昌郎は戸惑った。
戸惑ったと言うことは、譲の話に納得している自分がいたからかも知れない。
人生の云々を生徒に語るべき立場の自分が、逆に生徒から人生の云々を教えられたと思っていたのだ。
しかし、生徒が言ったことでも、それが真実ならば、納得できる話ならば、素直に受け入れるべきだと昌郎は思った。
「村井君の言っていることに、私も同感する。社会の人達が若者達に仕事を教えて育ててくれなければならないと思う。将来の生活を支えてくれる技術や知識などが身に付くような仕事を与えてくれている職場は、一体どれくらいある。とても疑問ですね。コスト調整が自在な使い捨ての労力としか人間を見ていない職場が多すぎると思います」
 昌郎は、そう村井の言葉を肯定した上で話した。
「でも、村井君。どのような状況下にあっても私達は自分の力で、自分の人生の道を切り拓いて行かなくてはなりません。自分の人生を自分が諦めてしまえば、自分の人生はそこで終わってしまいます。いつになったら自分の努力が報われるか、それは誰にも分かりません。でも必ず報われる時が来ると信じてこつこつと努力するしか、私達には道がないと思う」



◆その76
個人面談(23)

 大西、南そして村井の三人の面談を終え、昌郎は職員室に戻ってきた。
自席の机の前に座って今日の面談の記録を書いたが、何故か気持ちが落ち着かなかった。
村井譲の話したことを思い出していた。
そして自分が言ったことも。
昌郎は、自己嫌悪に陥っていた。
譲達が感じているこの社会の居心地の悪さ、いじめの対象にならないように悪ぶりながら、本当の自分を出すこともなく、そんな自分達を認めてくれる大人達にも出会えず、仕事も与えられない彼等の鬱積した苦しみを、本当に自分は理解できているのだろうか。
今まで自分なりに様々な困難を乗り越えて来たと思っていたが、応援団活動の苦労は、譲達の苦労とは別の世界のような気がした。
良き友達に恵まれ、良き人達に囲まれて過ごしてきた自分。
軽々に彼等の考えや行動を理解しているなどとは言えないのではないか。
それなのに、あたかも分かったような顔をして話した自分に、昌郎は嫌悪していた。
今年三月に大学を卒業し四月から教員となってまだ数週間しか経っていない。
ましてや社会の荒波を未だ経験したこともないそんな今の自分が、生徒達に人生の何かを話すことなど、とてもではないができない。
それなのに譲の前で、分別くさい顔をして、彼の気持ちを分かったなどと言った自分に、昌郎は激しく嫌悪した。
知らず知らずの内に昌郎は大きな溜息を何度もついていた。
金曜日の夜、他の先生達はさっさと仕事を片付けて帰って行った。
何時も一緒に帰る福永も、今日は先に失礼するよと言いながら帰って行った。
昌郎は職員室に一人になった。
職員室の中はしんと静まり返っていた。
遠くで救急車か何かのサイレンの音がした。
昌郎は酷く落ち込んでいた。
このまま、自分は教師を続けて行くことが出来るのだろうか。
人に何かを教える資格が自分にはあるのだろうか。
あまりにも世の中のことを知らなすぎる自分に生徒達を引っ張って行くことができるのだろうか。
昌郎は、また一つ大きな溜息をついた。
生徒達も先生方も皆帰ってしまった学校は、大都会の中にあることも忘れるくらいに深閑としていた。
生徒達のざわめきの一欠片も残っていない。
まるで、この世の中にたった一人だけになってしまったような錯覚に陥りそうなほどの寂寥感に昌郎は包まれた。
今日は、もう帰ろう。早く部屋に帰って寝てしまおう。
昌郎は手早く帰り支度をして校舎を出た。
遠くでする地鳴りのような都会の騒音が昌郎の耳に甦った。
何時もだったら何も感じないその騒音が、此の世から取り残されていないことを教えてくれているように昌郎は思った。
職員昇降口の横にある桜の木が、夜間照明に照らされ夜の中に浮かび上がっていた。
その桜は、既に葉桜となっている。
その若い葉が昌郎へ話し掛けるようにサワサワと揺れた。
その葉擦れの音の中に懐かしい声が聞こえるような気がして、昌郎は耳を傾けた。
「あなたならば、応援団員になってくれそうな気がしたの」昌郎が高校一年生になったばかりの頃に、由希から言われた言葉だった。
そして今「あなたなら、できる」由希は、そう昌郎に語りかけていた。



◆その77
個人面談(24)

 昌郎は部屋に帰って着替えを済ましてから、高校時代に由希と交わした手紙の束を、壁に作り付けのクローゼットの中から取り出して机の上に置いた。
それから大きなマグカップにたっぷりのインスタント珈琲を入れて机の前に座った。
落ち込んだ時には必ずそうした。
差し出した月日の順に束ねてあるのだが、何時もその中からランダムに抜き出して読む。
日々の出来事や感じたことを素直に書いた由希の手紙は、綺麗な字で綴られていた。
そして明るさと勇気に満ちていた。
どの手紙を読んでも励まされるのだ。
その由希は、もうこの世にはいない。
昌郎が高校三年生の三月春まだ浅い時だった。
新橋駅のすぐ横にあるガード前のスクランブル交差点で、小さな男の子を暴走するバイクから守ろうとして事故にあい、あっけなく此の世を去ってしまった。
卒業を間近にし昌郎も大学への進学のために上京することが決まっていた時だった。
由希は、昌郎より二歳年上だった。
昌郎が応援団活動を始めることになったのは由希からお願いされたからだ。
中学の時から密かに憧れていた由希は、彼が入学した高校の生徒会長で、団員がいなく途絶えていた応援団を復活させたいと思っていた時、昌郎が同じ高校に入学していたことを知って、昌郎に応援団員になって欲しいと頼んだのだ。
放課後、突然昌郎の教室にやって来て応援団員になってくれと言う由希に戸惑いながらも、昌郎の心は踊っていた。
その時、由希が言った言葉が鮮明に耳に甦ってくる。
「あなたならば、応援団員になってくれそうな気がしたの」そう言われて、駆け出したいほど嬉しかったことを昌郎は今でも忘れていない。
昌郎は友達を巻き込んで応援団員になった。
昌郎が高校2年生になった時、由希は日比谷公園の真向かいにあるホテルに就職が決まって上京した。
それから由希と昌郎の文通が始まった。
携帯電話という連絡方法もあったが、由希は文通を望んだ。
そのお陰で、昌郎は今でも彼女の面影を色濃く心の中に残しておくことが出来た。
そして、挫けそうになる度、由希の手紙に励ましてもらうことが出来るのだ。
まさか自分が早く死んでしまうことなど考えもしなかっただろうが、由希は、貴重な宝物を昌郎に残してくれることになったのだった。
 前向きに一生懸命に生きて行く姿勢に満ちあふれた由希の手紙を読んで行く内に、自分の気持ちが徐々に癒やされて行くのを昌郎は感じていた。
気が付くと由希からの手紙の全てを読んでいた。
マグカップに入っていたコーヒーは既にない。
時計の針は午前三時を廻っていた。
生徒達の気持ちを全て分かろうなんて、それは無理なことだ。
家庭環境も歩んできた道も友達関係も好きなこともそれぞれに違うのだから、分からないのは当然だ。
分かるより以前に彼等の気持ちに寄り添い共に歩んで行くことが大切なんだ。
昌郎は、そう思うことで、自分の落ち込んだ気持ちを整理することが出来た。
由希、有り難う。
あなたのお陰でまた元気が出ました。
昌郎は、そう由希に話し掛けた。



◆その78
個人面談(25)

 予定では先週の内にクラス全員の面談を終えるはずだったが、町井大介だけ翌週の月曜日に面談が延びていた。
先週の火曜日の面談は、小枝万里、小山田秀明そして杉原陽明の三人だった。
その日の最後に杉原の面談が予定されていて、彼は放課後、学校に残り面談の順番を待っていた。
小山田の面談が始まる直前に杉原が面談を明日に延ばして欲しいと担任の昌郎に言いに来た。
理由を聞くと、杉原の面談が終わるまで待って一緒に帰ることになっていた町井に、母親が自転車で転倒して病院にいるとの電話が入ったと言う。
登下校の際、杉山と町井は何時も一緒だった。
二人一緒でなくても各々が一人で登下校しても良さそうなものだが、杉原は何時も町井と一緒に登下校していた。
一人だったら家に帰れないと、泣きそうな顔で杉原が訴えた。
そして、町井も、陽明は俺と一緒でないと帰れないだろうと言いながら、自分は一番最後の面談でいいからと付け加えた。
クラスの皆は、既に帰宅していて、その日の三人目の面談者の替えは誰もいない。
それで火曜日の面談は、小枝と小山田の二人だけで終えた。急遽、次の日に杉原の面談を入れ、その代わりに町井の面談は、翌週の月曜日となったのだ。
町井の母親は自転車が転んだ時に強く腰を打ったが、レントゲン撮影の結果では骨に何の異常もなかったらしい。
次の日、町井と杉原が昌郎にそう報告してくれた。
先週は授業を短縮し、その分早く面談を開始して生徒達の帰宅時間が遅くならないようにしていたが、今週からは通常の時間帯に戻る。
面談は町井一人だけなので、帰宅時間はそれほど遅くはならない。
昌郎は帰りのホームルームを終え、そのまま2年生の教室で町井の面談を始めた。
夜間定時制の生徒達は、最後のホームルームが終わると我先にと帰宅してしまい、あっという間に教室には誰もいなくなってしまうのだ。
まず初めに町井の母親の怪我のその後について聞いてみた。
もうすっかり大丈夫だと答えが返ってきた。
「それは、良かったです」
そう言いながら昌郎は、気になっていることを訪ねた。
「ところで、町井君の面談が終わるまで、杉原君はどこで待っているんですか」
「教室の前の廊下です」
町井は、廊下の方へ顔を向けて答えた。
彼等が一緒に登下校するのには、何か理由があるのだろう。
昌郎は、その事を町井に聞いてみた。
昌郎と向き合って座っている町井は、廊下にいる杉原のことを気にするよう少し声のトーンを落とした。
「陽明は、一人では街を歩けないんです」



◆その79
個人面談(26)

 町井は精悍な顔つきをしている。
流石、ボクサーを目指しているだけはあると昌郎は思った。
その彼が、廊下にいる杉原に気を遣い聞こえないように低い声で話した。
「陽明は、小学校から中学までずっといじめにあってきたんです。それで、学校へはほとんど行っていない。学校の先生が家に来たり、学校へ行っても保健室や皆がいる教室とは別の所で勉強をして、誰とも話をしないままずっと暮らしていたんです」
 確かに福永が綴った杉原の個人ノートにも、小学から中学まで不登校だったらしいとメモされている。
その不登校の原因がいじめ。
いじめのことをよく耳にしていたが、それはテレビのニュースやドラマの中だけのことで、昌郎の周りで今までに、いじめる子もいじめられている友達も見たことはなかった。
もしかしたら自分が気付かなかっただけかも知れない。
以前にいじめにあい自分を強く見せるために髪を金髪に染めている花戸玲、南や村井だっていじめにあわないために何時も二人で連んでやんちゃをしていた。
そのやんちゃが今でも続いている。
そして杉原陽明も小学校からずっといじめられ、不登校になってしまったと言う。
今の自分の周りにはいじめの被害者が何人もいる。
その現実を昌郎は受け入れなければならないのだ。
なぜいじめをするのだろうか。
何が原因でいじめられるのか。
昌郎には分からなかった。
しかし、いじめられた者はそれによって人生に大きな影を落とし普通の生活が送れなくなっている。
今の杉原はこの学校でいじめを受けている様子はない。
この定時制高校の生徒達は、誰一人としていじめをしている者はいない。
福永は、きっぱりとそう言った。
この高校に入ってきた子ども達の多くは、小学校や中学校でいじめられた経験を持っている。
いじめられることが、どんなに辛いことなのかを彼等は良く知っている。
だから、彼等は友達をいじめたりしないんだ。
勿論、もしもいじめがあったならこの学校では絶対に見逃さないし、絶対に許さない。
この定時制の先生方は皆そう思っている。
福永は、強い口調でそう言い切っていた。
「町井君は中学生になる時、青森の方から此方へご両親と一緒に引っ越してきたんですよね。杉原君も青森の出身ですか?」
「いえ、陽明は生まれも育ちも東京です」
「じゃあ、キミと杉原君はこの学校で知り合ったんですか」
「いいえ、小さい時から知っていました。俺と陽明は、従兄弟なんです」
「従兄弟?」
「そう従兄弟です。俺の母さんは陽明の母さんの年の離れた妹です」
「そうなんですか」
「偶然、同じ年に生まれたんです。俺は青森の八戸で。陽明は東京で。父さんと母さんと俺は去年こっちに引っ越してきて、陽明の家の近くに住んでいます」



◆その80
個人面談(27)

 町井一家が東京に引っ越して来た理由には何か複雑な事情があるらしいと、昌郎は福永から聞いていたが、その詳しいことは福永もはっきりとは分からない。
昌郎は、面談で引っ越しの訳は、あえて聞かなかった。
誰だって聞かれたくないことの一つや二つはある。
去年担任だった福永にも話さなかったのは、話したくない事情があるからなのだろうと昌郎は思った。
それよりも、町井がボクサーを目指す理由を聞きたかった。
「町井君は、プロのボクサーを目指しているんですよね」
 町井は、はいと明確に答えた。
「ボクシングが好きなんですか」
 今度も、はいと言うだろうと昌郎は思っていたが、大介の返事は少し曖昧だった。
「嫌いじゃないけど大好きな訳でもない」
「毎日、ハードなトレーニングをしなければプロの選手にはなれないでしょう。好きだからこそ、厳しい練習にも耐える事が出来るんじゃないですか」
 昌郎がそう言うと、先生は甘いというように小さく頭を振った。
「先生、俺の家には財産も何もないんです。勿論、俺にも何もない。頭は悪いし、ルックスだって良くない。体だって小柄。そんな俺に唯一あるのは、負けたくないという気持ちだけ。ボクシングって人間の闘争心を剥き出しにして闘うスポーツ。負けたくないという気持ちが一番大切。だから自分はボクシングでなら、人に勝つことが出来るんじゃないかと思うんです。そして、もう一つ、有名になって金を稼ぎたいんです。俺に出来る金儲けはボクシングだと思ったんです。確かにトレーニングや練習はきつい。でも、チャンピオンになるためだと思えば、その辛さを乗り越えられます」
 町井の話はどんどんと熱が籠もっていくようだった。
ボクサーに必要なのはハングリー精神だと聞いたことがあった。
町井には、そのハングリー精神がある。
辛い練習をやりながら、彼はボクシングを心の底から好きになって行くに違いない。
そして彼ならチャンピオンになれるかも知れない。
昌郎は、彼の話を聞きながら本気でそう思った。
あっという間に約束した二十分という面談時間が過ぎていった。
今日も一緒に帰宅するために杉原は、町井の面談が終わるのを待っている。
面談はこれで終わりますと昌郎が言うと、先生一ついいですかと町井が言った。
昌郎がいいですよと言うと、町井は言いにくそうにしながら言葉を繋いだ。
「先生、このごろ長山のことを『寅』って呼んでいるけど、俺達のことも君やさんをつけずに呼び捨てで言ってて欲しいんです。これクラス皆の希望です。面談の一番最後の人が、先生に言うという事になって、俺が代表で今先生にお願いします。そりゃ、桑山のおかあちゃんは別だけれど」



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