[連載]

 81話 〜 90話      ( 佳木 裕珠 )



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◆その81
個人面談(28)


 町井が皆を代表して、普段はクラスの生徒達のことを君やさん付けで呼ばずに名前を呼んで欲しいと伝えてくれたので、昌郎は次の日から皆の意向に沿うことにした。
ただし、長山寅司は彼の希望もあるので「とら」、また45歳の桑山琴絵は「おかあちゃん」と呼びたいとクラスの皆に話した。
「ああ、これでホッとした。何時も先生に村井君なんて呼ばれると、気持ち悪いんだよね。返事したくなくなっちまうよ。譲でいいんだよ、譲だよ」
「だよね、私もさ、何か変な気分だった。私、大西さんっていうがらじゃないもの」
などと言い合っていた。
その中でただ一人、天宮準一だけが不服顔で言った。
「先生、僕は今までのように苗字に君付けで呼んで貰いたいです」
「天宮君が、そう希望するのならそうします」
 昌郎がそう答えると、隆也が口を挟んできた。
「おう天宮、お前の兄ちゃんが東大生だからって、すかしてんじゃねえよ。転校生だからしかたねえけど、ここの学校じゃみんな名前の呼び捨てだぜ。俺は、お前のこと呼び捨てで名前で呼ぶからな、嫌なら返事すんな。でもな、返事しなかったら、今度から声かけてやンねえ」
天宮は肩を怒らせながら鋭い目つきで隆也を見返した。
険悪な雰囲気になった時、寅が一言発した。
「それぞれが呼んで貰いたいようにすればいいんだ。お前は自分の希望通りに隆也って呼んで貰えば良いんだ。それと同じさ。なあ、天宮君」
 寅は、天宮の言い分を肯定しながらも、最後は少し茶化すように言った。隆也は、チェッと小さく舌を鳴らしただけで、後は何も言わなかった。
君やさんをつけずに名前で呼ぶようになった初日、昌郎は、自分でもぎこちない呼び方で落ち着かなかったが、二日目になると不思議にもほとんど抵抗感もなく自然に呼べるようになり昌郎自身意外だった。
そして彼等に少しだけ近づけたように思えて嬉しかった。
生徒達も、やっと自分達の担任らしくなったと思っているようだった。
そんな彼等の気持ちが昌郎に伝わってくる。
まだ彼等と出会ってから数週間しか経っていないのに、生徒達を愛おしいと昌郎は感じた。
担任になるということは、こういうことなんだと漠然とだが気が付いた。
全日制の方では、新米教師を担任にすることはないのだろうが、定時制は先生が少なく、新米といえどもクラス担任になることが普通らしい。
昌郎は、定時制勤務で本当に良かったと思った。
毎日毎日、彼等の様々な面が見えて、はっとすることも微笑ましく思うことも、吃驚することもたくさんあった。
個人面談を新学期早々に一週間にわたって実施することの意義が、何となくであるが、昌郎には分かったように思った。
担任としてクラスのみんなに何をしてあげられるのか昌郎には皆目見当もつかないが、彼等のことを大切に思う心だけは忘れずにいたいと強く思った。



◆その82
ゴールデン・ウィーク(1)


 新学期の慌ただしさの中、気が付くとゴールデンウィークに突入していた。
東日本大震災に見舞われながらも、桜は時に応じて咲き誇りそして潔く散り去り、その後を追いかけるように様々な花が東京の街を彩り、藤の花の後にはサツキが続いた。
「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」劉希夷の「翁の詩」の一節が、昌郎の胸に染みた。
彼のふるさと青森県も大きく揺れ、青森市には大きな被害はなかったが太平洋沿岸の八戸市周辺では津波の被害もあった。
昌郎は連休に一度帰省しようと考えたが、学校行事の予定表を見るとゴールデンウィークが明けると様々な行事に追われる毎日で、授業の下準備もままならなくなるかも知れないと思われ、少しでも授業の下準備をしておくために青森に行くことを見送ることにした。
その代わりと言ってはなんだが、初月給で両親と二人の兄達にちょっとしたものを買って送った。
一番高かったのは母親に買ったブランドのスカーフ、父にはベルト、兄達にはTシャツにした。
みんな大層喜んでくれて品物が届いたその日の夜遅くに電話を寄越してくれた。
一番の気がかりだったのは母に贈ったスカーフ。
本当に母の好みに合っていたのかどうか全く自信がなかったのだが、母も嬉しそうな声で礼を言ってくれて、昌郎はホッとした。
 連休は昭和の日の4月29日金曜日から土日と続き、5月2日の月曜日が間にあり、また憲法記念日の3日からこどもの日の5日まで休みが続き、6日金曜日が勤務日で7・8日が土日となっていた。
連休の狭間となっている月曜日は、授業を2時間行った後に警察署から交通係の警察官に来てもらい交通安全教室を行った。金曜日もまた授業を2時間してから職業安定所の職員の方による就職講話を実施。
連休中の中の弛みをそのようにして乗り越え、連休後に落ち着いて授業に専念させるような計画になっていた。
連休初日の4月29日、昌郎は、溜まっていた洗濯と部屋の掃除に午前中を費やした。
午後は近くのスーパーマーケットとドラッグストアーに買い出しに行き、食料品や調味料そしてテッシュペーパーや洗剤、シャンプーなどを買ってきた。
そんなことをしながら彼の気持ちは弾んでいた。
翌日30日の土曜日に、久し振りに源藤凌仁と会うことになっているのだ。
大学を卒業してから実際に会うのは初めてである。
凌仁は卒業式の翌日から実家の花屋『花源』で働き出していた。
手広い商売をしている花屋で、従業員は彼を含めて15人ほどもいる。
ゆくゆくは店を継ぐことになる彼も今は修行の身、朝早くから夜までみっちりと仕事で鍛えられて土日もなく働いていたが、4月30日は夜の8時までに仕事を全て終えられるらしい。
そして次の日5月1日の日曜日には休めるという。
そこで昌郎と凌仁は4月30日の夜9時半に新宿で落ち合って居酒屋にでも行き、その後で昌郎の部屋でまた語り明かそうという約束をした。
久し振りの親友との交流に昌郎は気持ちが弾んでいた。



◆その83
ゴールデン・ウィーク(2)

 凌仁の実家の花屋「花源」は、月曜日から土曜日は朝9時半に開店し夜7時まで営業する。
日・休日の開店は同じく朝9時半だが閉店は何時もより一時間早い夕方6時。
だが閉店と同時に仕事が終わる訳ではない。
店のシャッターを下ろしてから、片付けと店の掃除に更に一時間ほどかかる。
凌仁は従業員と一緒に様々な仕事をしながら花屋の仕事を一から教えられていた。
花の手入れは勿論のこと、仕入れてきた花の水揚げや水替えそしてディスプレー、鉢物への水遣りや日光管理、接客に販売、車を運転してお祝いや不祝儀の花を配達することもある。
フラワーアレンジや鉢物のアソート、そして開店花、葬儀花、会場花や生け込み、また結婚式のブーケなど、新米の凌仁には日々初めてのことの連続で全てが勉強だった。
その上に毎日朝早く、父親と一緒に生花市場へ仕入れに行く。
切り花の競りは月・水・金曜日、鉢物は火・木・土曜日で唯一日曜日だけは仕入れが休みだった。
店の定休日は、毎月第二月曜日の月一回で、あとは週に一日だけ交代交代で休みを取ることになっていて、勿論、そのローテーションに凌仁も他の従業員と一緒に組まれている。
 4月30日は土曜日で鉢物の仕入れがある。
店は夜の7時まで営業し閉店後に後始末と掃除をすると8時頃までかかる。
凌仁が仕事を終え着替えてから家を出るとなると8時半過ぎになる。
しかし次の日の日曜日は丁度ローテーションで休みにあたっている。
昌郎も休みなので二人とも夜更かししても大丈夫。彼等はJR新宿駅西口の改札口前で9時半に落ち合う約束をした。
昌郎の部屋の最寄り駅は、小田急の参宮橋で新宿から各駅で二駅目。
通勤は参宮橋から電車に乗って新宿まで出ているから定期があったが、その日は、時間調整にぶらぶらと歩いて行くことにした。
昌郎の部屋は、参宮橋の駅から山手通りに抜ける道沿いにある。
部屋のあるアパートから西に向かって5分ほど歩けば山手通りに出る。
そこを右折して6〜7分ほどで甲州街道にぶつかる。
そこをまた右折してひたすら真っ直ぐ歩けば20分もかからずに新宿駅に着くことができた。
そんな風にして学生時代、電車賃を節約して凌仁と何度も歩いたことがあった。
一月ほど前までは、まだ学生だったのに、今は大学時代がとても遠い昔のような気がしたが、アパートから歩き出すと懐かしさが込み上げて来て大学生に戻ったような気持ちになった。
今日は朝から晴れ渡った天気の良い一日で、夜になっても空気が暖かかった。
甲州街道に出ると、東京オペラシティでの催し物がはねたのか、多くの人達が今観た舞台の余韻に浸りながら新宿駅を目指して漫ろ歩いていた。
昌郎は、その人波に混じるようにして歩いた。
京王デパートの前にある地下への階段を降り地下街を歩いて西口広場の方へ歩き、JR新宿西口改札口に向かった。
約束の9時半少し前に約束の場所に行くと、凌仁は既に改札口前の柱の前に立って、小田急駅方面の人波に視線を向けていた。
彼は、昌郎が電車に乗ってくるだろうと思っていたのだろう。
昌郎が声を掛けるまで、凌仁は昌郎が来たことに全く気付かなかった



◆その84
ゴールデン・ウィーク(3)

「よっ、早かったな」
 昌郎が横から声を掛けると、凌仁は吃驚して顔を彼に向けた。
そして破顔した。
「部屋から、歩いてきたのか」
「時間があったから、久し振りに歩いた」
「学生時代は、お前のアパートまで二人でよく歩いたな。頻繁に泊めてもらって、朝まで酒飲みながら話明かしたっけ」
「本当だ。夜明かしで話すことがよくあったよな。一体、何を話したんだろう」
「何話したかって聞かれても、これだなんて言えないが、応援団や応援演技のことについて語ったことは確かだな。恋愛論についてはほとんど話さなかった。結局俺達は、応援団でそれどころじゃなかった。考えてみれば、少し淋しい青春だったかな」
「そんなことないさ。青森を離れて初めて一人暮らしをしたから、俺は十分楽しかったし充実していた」
「大学に入った時から、親は俺の行動に何も口出ししなくなった。色んなことを自由にさせてくれた。実家から大学に通っていたが、俺も十分に大学生活を満喫したと、今になって思うよ」
「大学を卒業してから一ヶ月あまりしか経っていないのに、大学時代が随分昔のことのように思えるよ」
 昌郎は感慨深げにそう呟いた。
凌仁も同感してしんみりとした気分になったが、そんな気持ちを吹き消すように凌仁が言った。
「さあ昌郎、久し振りに大いに飲んでたっぷりと語ろう」
 大学時代の二人が飲みに行ったところは、新宿駅南口を東方面におりたあたりの居酒屋だったが、今回は思い出横丁にしようと彼等は電話で話し合っていた。
JR新宿駅西口がある地下からエスカレーターで地上に上がり、大ガード手前の古めかしくて小さなバラック建ての飲食店が軒を連ねる横丁に向かった。
土曜日の夜、思い出横丁のどの店もドアや戸を開け放していて、外にまで客が溢れていた。
様々なおかずの匂いと酒やビールの匂いが複雑に混ざり合って路地に濃く漂い、飲み食いする人達の会話が渦巻いている。
昌郎と凌仁はその横丁の真ん中あたりにある少し間口の広い店に入り、壁際に二人分の空間を見付けて席を取った。
そして膝をくっつけるようにして座った。壁に貼ってある品書きを見ながらカウンターの中に注文した。まず刺身の盛り合わせ、それから豚の角煮にぶり大根煮、薩摩揚げとおでんを注文し二人で突っつくことにした。
そしてキリキリと冷えたビールを頼んだ。程なく運ばれてきたビールで乾杯すると、二人は早速あおるようにして一気にジョッキの半分以上を飲み干した。



◆その85
ゴールデン・ウィーク(4)

 キリリと冷えたビールが五臓六腑にしみ渡った。
「旨い」
 同時にそう言って笑いあった彼等は、学生時代に戻ったような気分になった。
しかし何処かが違う。
彼等は薄々感じていた。
一体何が違うのだろうか。
一頻り学生時代の思い出話に花を咲かせた後に、凌仁がぽつりと言った。
「考えてみれば、学生時代は気楽だったな」
昌郎も頷いた。
「あの時はあの時で色々な悩みがあったのに、そんなこと全然思い出せない。ただただ自分達がやりたいことだけ考えていれば良かった。世の中のことにしっかりと目を向けているつもりだったけど、実際は自分達の世界の中だけで終熄していたような気がする。今の学校の生徒達を見ると、自分が知らなかったことの方が多かったと痛切に感じるんだ。そしてあの頃の俺の悩みよりも、世の中にはもっともっと深刻な事実があることに気付かされる。大学や大学生の世界って限られた特殊な空間だったと思う」
「そうだな、俺のところは小さな花屋だが、現実の社会と直結している商売だと思う。開店祝いの花もあれば、葬儀用の花も作る。結婚式のブーケもあれば、病気見舞いのアレンジフラワーだってある。スナックの開店祝いの花が次の日には酔っ払いによって無残に引き千切られたりしている。花屋の花の姿って、まさに世の中を代弁するようなものだとこの頃思う。そんな花を商って、俺はこれから生きて行かなくちゃいけない。今の俺は、何時も『花源』という花屋のことが頭を離れない。今後どんな店にしたいか。商売をどんな風に展開して行けば良いのか。そんなことが四六時中俺の頭の中にある。それは決して気楽なことじゃない」
 凌仁は昌郎の前に自分の掌を差し出しながら言葉を続けた。
「俺の手、何となくくすんでいるように見えるだろう」
 昌郎は、凌仁の手を凝視した。
そう言われれば何となく、くすんで見える。
「毎日たくさんの花を弄っていると、花から出ている灰汁のようなものが手につくんだ。そうなって初めて、花が手に馴染んで来たように思えた。これに気が付いたのは、つい最近のことだ。花って綺麗なだけじゃないんだ。灰汁の強いものだと思う。その灰汁の強さがなければ、美しい花は咲かないのかも知れない」
 凌仁は、昌郎の前に出した手を自分の目の前に持ってきて、つくづくと眺めて言った。
「俺、案外花屋向きなのかも知れない。こんなこと言うと、どこがって笑うかも知れないが、花を弄(いじ)っている時、俺は花に集中できるんだ」



◆その86
ゴールデン・ウィーク(5)

 大学時代の凌仁は、花屋を継ぐことを嫌がっていた。
家業の「花源」を継がずに済む方策はないものかと真剣に考えていた。
しかし、どのような理由を付けても一人息子の凌仁が家を継ぐことだけは曲げられなかった。
「花屋を継ぐことは、小さいからずっと嫌だと思っていた。
なんで、男の俺が花屋なんだと思った。
だから、その反発で応援団をやっていたのかも知れない。
しかし、この仕事をしてみると意外と俺の性に合っているように思う。
花はただ単に綺麗だと言うだけじゃないことが分かってきた。
花が美しいのは、自己を最大限にアピールしようとする気持ちがあるからさ。
花が咲くのは自己主張の現れさ。
応援活動も自己主張的な面がある。
花は、弱くないんだ。花は強い。
切り取られても花を咲かせる。
水揚げが良ければ蕾がある間、次から次へと咲き続ける。
これって、動物よりも逞しいと思わないか。
切り取られても、花は美しい形、美しい色彩、そして芳しい香りを放ちながら咲き続ける。
それって凄いと思うよ」
そんな話をしながら、凌仁は酔っぱらってきて段々と呂律が回らなくなり、突然電池が切れたように椅子に座ったままコトンと寝てしまった。
今日も朝早く花卉市場に仕入れに行き、夜まで仕事をしてきている。
一週間の仕事を終えて疲れもどっと出て来たのだろう。
そして親友との会話に満足したのだろう。
安心しきった顔をテーブルの上に載せ熟睡していた。
昌郎は会計を済ませると、凌仁を担ぐようにして店を出た。
流石に凌仁の体は重い。
このままの状態で部屋まで帰ることはできない。
ハルクの前あたりでタクシーを拾うことにした。
週末の夜、なかなか空車のタクシーが通らない。
タクシーが来たかと思えば客が乗っている。
凌仁は酔っ払って朦朧としながら、自分の体を昌郎にすっかり預けてしまっている。
時折、昌郎悪いな等と言うものの体が左右に揺れて昌郎に支えられながら立っているのがやっとという状態だ。
凌仁は酒に強い方だが、今日は疲れているのと久し振りに親友に会って安心しきっていることもあるのだろう。
酒の回りも早くその上深く酔っ払っていた。
こんなに酔っ払ってしまった凌仁を、大学時代に見たことはなかった。
きっと仕事に精魂を使い果たして疲れ切っているんだろうと昌郎は思った。
十分ほども待ったころに、空きのタクシーをつかまえることができた。
タクシーの後ろのシートに凌仁を押し入れるようにして乗せ、昌郎もその隣に座った。
住所と目安になる場所を告げると、分かりましたという返事と共に車が走り出した。
凌仁は正体をなくしたまま軽い鼾をかき、昌郎の肩に頭を乗せるようにして熟睡していた。
小田急と京王デパートの前を通り過ぎるのは大した距離でもないが、何時ものように渋滞していて甲州街道にでるまでに結構時間が掛かった。
やっと甲州街道に出て車の流れが少しスムーズになったと思った。
しかし、それも束の間、文化学園大学の前あたりから左折する車が渋滞していた。
どうやら、この先で道路工事をやっているらしいですと運転手が言った。



◆その87
ゴールデン・ウィーク(6)

 タクシーは西参道口の信号を左折して昌郎のアパートに行くらしい。
何度か停止しながらも、やっとの思いで西参道口の交差点まで来た。
手際よく車を誘導している作業員が、サーチライトに照らされて浮かび上がっていた。
世間では連休に入ったと浮かれているのに、こんな夜中まで働いている人がいることに、昌郎は頭の下がる思いだった。
対向車線が止められて、昌郎達が乗っているタクシーが動き出した。
交差点を左折する時、昌郎は何気なく見たヘルメットを被った作業員に目が釘付けになった。
人違いだろうか。
それにしても似ている。
もしかしたら、あの作業員は…。
その作業員の横を車が通り過ぎる時、顔がはっきりと見えた。
それは、紛れもなく村井譲だった。
間違うはずはない。
ヘルメットの下からはみ出している茶髪、そして鼻筋の通った彫りの深い顔。
学校で見せたことのない真面目で責任感に満ちた表情だが、彼の顔の特徴は昌郎の中にはっきりと刻み込まれている。
自分の受け持つ生徒を見誤ることはない。
昌郎は、がっんと一発頭を殴られたような強い衝撃を受けた。
教師の自分が友達と酒を飲んでいる時、生徒の譲は夜通し仕事をしている。
タクシーが彼の傍を素早く通り過ぎてから、昌郎は後ろを振り返り譲であることを確認した。
酔いも眠気も吹っ飛んでしまった。
学校では、授業に身の入らないやんちゃな生徒だが、実社会では一人前に仕事をこなしている。
学校で見る譲のにやついた表情ではなく、正に仕事をしている男の顔だった。
譲と何時もつるんでいる南隆也も、きっと何処かの工事現場で仕事をしているのかも知れない。
彼等は必死になって、この世の中で生きているのだ。
熱いものが昌郎の胸の中に込み上げて来た。
隣で凌仁が熟睡している。
彼もまた、花屋の仕事に毎日没頭している。
昌郎は、自分も教師としてしっかりと仕事をして行こうと心に刻んだ。
 タクシーが昌郎の部屋の前に着いた。
凌仁を抱えるようにして車から降りた。
手早く部屋の鍵を開け、そして電気を点けた。
凌仁を抱えるようにして昌郎は部屋の中に入った。
「おい、凌仁、しっかりしろ。部屋についたぞ」
そう言いながら、凌仁の靴を脱がせ部屋の中に入れた。
着衣のまま凌仁をベッドの上に寝かせてから毛布を掛けてやった。
「すまん」
凌仁は小さくそう呟くと、あとは前後不覚の状態で眠りに落ちていった。
昌郎は、台所に立って湯を沸かしインスタントコーヒーを入れてからテーブルの前に座った。
ゆっくりと熱いコーヒーを啜りながら、先程タクシーの中から偶然に見た譲を思い出していた。
学校で見る彼の姿は、ほんの一面に過ぎないのだ。
彼には社会人としての側面もあることに今更のように気付かせられた。
一月前に大学を卒業した新米教師の自分よりも彼の方が現実社会のことを良く知っているだろうと昌郎は思った。



◆その88
ゴールデン・ウィーク(7)
  
 昌郎は、眠れぬ夜を過ごした。
車の中から見た譲の真剣な顔が脳裏に焼き付いていた。
譲と隆也はグレた真似をして、いじめの対象とならないように護身していたらしい。
俺達は本当のワルじゃないと個人面談の時に譲は言った。
新学期当初から彼等の行動を見ていたが、クラスは勿論、学校の中で誰かをいじめている様子はなにもなかった。
茶髪を逆立てピアスなどしている外見は決して爽やかな青年とは言えない。
しかし、クラスの皆は気易く彼等と談笑している。
「おかあちゃん」と呼ばれている桑山の言うことは、譲も隆也も反発せず素直に聞く。
確かに先生達に反抗することはあるが、暴力を振るうとか暴言を吐くということはない。
個人面談が終わった後、譲は昌郎に人懐っこい笑顔を見せるようになった。
隆也は相変わらず無愛想だが、以前のような刺々しさはなくなっていた。
彼等は一年遅れて高校に入学していたから、もう十八歳になっている。
夜間の仕事が出来る年齢だ。
彼等は十八歳なるのを待って、賃金の高い夜間の仕事に就いているのだろう。
学校がある時は、日中に工事現場の仕事をしているようだった。
仕事は楽ではないはず。
疲れ果てた体で学校に来ているだろう。
授業中は、いつも眠たい目をしている。
寝ていることもある。
学校が休みの日に彼等は、時給の高い夜間の勤務を買って出ているに違いない。
譲や隆也が自分よりもずっと大人に思えた。
自分は彼等に一体何を教えることが出来るのだろうか。
確かに教科のことは彼等よりも知っているだろう。
しかし、教師とはただ教科だけを教えれば良いのではない。
人としての在り方、生き方、そんなことを教えることも要求される。
それが教師だ。昌郎は、改めて教育者という仕事の重さに戸惑った。
しかし、もう自分は教師としての道を歩み始めている。
大した覚悟もなく気が付けば教員になっていた。
そんな自分の考えの甘さに、夜の道路工事で一生懸命に働く譲の姿を見て気付いた。
そんなことを考えながら、昌郎は眠れぬまま夜を明かした。
ベッドの上で凌仁がぐっすりと眠っている。
昌郎はベッドの下で寝袋に入って横になった。
眠ったか眠っていなかったのか分からないまま長い夜を過ごし、疲れ果てて枕元の時計を見ると既に午前五時を回っていた。
昌郎は、凌仁を起こさぬよう、そっと寝袋から抜け出して起き上がった。ズボンを穿きのシャツを着てから部屋の外に出た。
アパート横の自転車置き場にある自転車の鍵を開けて跨った。
彼は、昨夜譲が働いていた道路に行ってみようと思ったのだ。
寝不足の顔に夜明けの清々しい風が心地よかった。
連休中の大都会の住宅街に人影はまだなかった。
先を急ぐようにペダルを踏んでいたが、昌郎は途中から、朝の清々しさを存分に味わい、ゆっくりと行こうと思った。
まだ眠りについている家々に、様々な人達が様々な思いを胸に生きているのだろう。
自分の知らないような様々なことを抱えて、それでも一生懸命に生きている。
そんな思いが胸を過ぎった。何分もしないうちに、工事をしていた道路に着いた。
既に工事の資材や機材は痕跡もとどめずに片付けられていた。



◆その89
ゴールデン・ウィーク(8)


 昨夜、譲を見た道路には工事があったことを示すように、黒々としたアスファルトで大きく舗装されていたが、それ以外何時もと変わらない道路だった。
しかし昌郎には、そこで働いていた譲の姿が胸に焼き付いていた。
昌郎は暫くの間、その交差点の歩道に上がり自転車を降りて佇んだ。
そして生徒達の良き理解者になりたいと思った。十分ほどもそうしていただろうか。
六十歳は疾うに過ぎているような女性が散歩に連れていた犬に吠えられた。
「これ、人のことを吠えたらダメだって言っているでしょう。ほら、お兄さんが吃驚しているわよ」
そう言って犬を叱りながら、昌郎に「どうもすみません」と頭を下げで通り過ぎていった。
「気になさらないで下さい」昌郎がそう言う間もなく、その女性は飼い犬に引っ張られるようにして小走りで交差点を渡って行った。
その後姿を見送ったあとで、昌郎は自転車に跨がりペダルを踏んだ。気持ちが晴れ晴れとした朝だった。
部屋に着くと凌仁は既に起きていた。
「もう起きたのか。もっとゆっくり寝ていればいいのに」
そう昌郎が声を掛けると、凌仁は頭を掻きながら「何時も朝早くに起きているから、癖になってしまって朝寝坊が出来ない体質になっちまったよ」
と言ったあとで、お前こそ朝早くにどこに行っていたんだと聞いた。
昌郎は昨夜タクシーの中から、今担任をしている生徒が工事現場で車の誘導をしているのを見たこと、そして今その場所を見に行ってきたことを話した。
「勿論、工事は終わっていて、その痕跡と言えば黒々とした新しいアスファルトが敷かれていただけだ」
昌郎がそう言った。
「今でも、そうやって高校に通っている生徒がいるんだな」
凌仁は感慨深げに話した。
ちょっと空気が重くなった。
昌郎は、気分を変えようと明るい声で言った。
「朝飯は、パンがいいかそれとも飯か」
「俺は今でも朝食は飯。それに生卵と納豆、板海苔があれば十分だ。ただし量は多い」
「それは分かっている。飯をたっぷり炊こう。俺も腹が減った。卵と納豆それに板海苔も十分に用意してある。インスタントだがシジミの味噌汁付きだ」
「旨そうだな、早く飯を炊いてくれ」そんな会話にこころが弾んだ。
友達って良いな、お互いにそう感じていた。
朝食を食べたあと、大学を卒業してまだ一ヶ月足らずだというのに、学生時代の思い出に花を咲かせた。
一ヶ月前までの大学時代のことが随分と以前のことのように思えた。
学生と社会人の心境の違いが、彼等にそう思わせていたのだろう。
青春は二度と帰ってこない。
そんなことを周りの大人達が、よく言っていた。
学生時代は何気なく聞いていたが、今になってその言葉の意味がよく分かると感じた。
もう戻ることが出来ない大学生時代。
応援団活動に命を燃やしていた日々が、胸の中でキラキラと輝いていた。
あの時はあの時で悩みもあったが、その悩みさえ甘酸っぱい思い出になっていた。
鈴ケ丘高等学校の定時制に通う生徒達は、今が青春真っ盛りだ。
四十五歳の桑山さんだって青春している。
悩みや苦労、躓きがあったとしてもキラキラと輝く青春を送らせたい。
昌郎は、強くそう思った。



◆その90
ゴールデン・ウィーク(9)

 五月二日月曜日は連休の狭間で、授業をしても生徒達の身に付かない。
そこで、この日は前半に2時間だけ授業をしたあとで、近くの警察署の警察官に来てもらい「交通安全教室」を実施することになっていた。
クラス全員が元気に登校しているだろうかと、昌郎は少し心配しながら始まりのホームルームに行った。
教室に行くと女子では小枝万里がいない。
彼女はスーパーで働いていて、勤務が長引き学校の開始時間に間に合わないことが時々あるが欠席はしない。
今日もホームルーム中には来るだろうと思っている矢先、万里が教室に駆け込んできた。
彼女が席に着くのを見届けてから、クラスの中を見回した。
譲も隆也も席に着いている。
昌郎が夜勤している譲を垣間見たことなど露知らず、何時ものようにやる気のなさそうな自堕落な格好で彼等は座っていた。
これも、一種の彼等なりのカモフラージュなのかも知れないと思うと、何故か微笑ましい気持ちにさえなった。
男子は初めから全員揃っていた。
さっと生徒達の顔色や様子を確かめた。
それぞれが何時ものとおりの表情だった。
陽明を除いては。彼の顔色の悪さと覇気のなさが気にかかった。
普段から元気が良い方ではないが、それでも静かで穏やかな雰囲気の生徒だ。
今日の陽明はどことなく落ち着きがない。
学校の雰囲気に馴染めずに、今にも席から立ち上がって家に帰ってしまいそうな雰囲気を漂わせている。
昌郎は、自分の考え過ぎだと思いたかった。
陽明は長い休みが続いたあと学校に来なくなることがあるから、気を付けて欲しいと福永から言われていた。
連休は要注意だ。
連休中に一度、陽明の家に行ってみようかと昌郎は思った。
一時間目と二時間目の授業が終わり、1年生から4年生までの生徒全員が職員室隣の図書室兼会議室に集合した。
定時制の生徒全員が揃っても56人だが、3人休んでいるから53人。
生徒達は学年別に窓側から縦列で4年生、3年生が3列、1年生と2年生が2列で並んだ。
生徒達は全員教室から自分の椅子を持参していた。
交通安全教室が始まり、まず初めに教頭の長津山から講師紹介があった。
生徒達は長津山が前に出るだけで、おしゃべりをしていてもぴたりと止め、水を打ったようにシーンとなる。
それは見事なほどだ。
始業式で初めてその場面に出くわした時、昌郎は驚いた。
そして感動した。
あとから福永にその事を話すと、彼も初めは驚いたと言った。
長津山が教頭としてこの学校に赴任する前は、集会や今回のような外部からの講師を招いた教室でもおしゃべりが絶えず、怒って途中で話を打ち切り帰ってしまった人もいたそうだ。
しかし、長津山が赴任してからは、今のように落ち着いた状態で人の話を聞く体制が出来たという。
新任式で長津山が挨拶するために生徒の前に立った時、集合している生徒の彼方此方でおしゃべりが続いていた。
長津山は、前に立ったまま挨拶を始めようとはせず、じっと生徒達を見回した。
そして、おしゃべりに興じている生徒達に強い視線を投げていた。



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