[連載] | |
91話〜100話( 如 翁 ) |
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◆その91
「むがしっこ」 むがしむがし、この地球さ、あるおっき、金持ぢで、けんかの強い国があったど。 ほがにも、ちっちぇがったり、びんぼうだり、あだまいがったり、うつけねがったり、いっぺ国あったばって、そのおっき国なんぼえばっても、みんなおっかねがって、なんもしゃべれねがったんだと。 したっきゃ、そのおっき国ますますいいきながって、ゆうごどきがね国ばふたいで泣がせだり、その国がら宝っこよごどりしたり、いぐでねごとしたんだど。 なんぼなんでもそいだらまね、って思い切ってしゃべる国あったんだど。 そしたっきゃ、そのおっき国、「民主主義こそ世界に共通の正義である」ってひらぎなおったんだど。 そいがら、そのおっき国、前にいじめだごどのある国がもうげで自分のどこより金もぢになるどこしたっきゃ、急におごりだして、それまで自分だぢでいくて決めだ商売のやりがだば変えでまったんだど。 その国がちょっと文句しゃべったっきゃ、そのおっき国、「自由で公正な競争こそが世界経済発展の基本である」って逆に説教しはじめだんだど。 いくでね国だっきゃの。 最後にその国どうなったがってば、あまり自分ばりおっきくなってまって、風船だけんに破裂してまったんだど。 どっとはらい。 ◆その92
「やがて哀しき」 これは仙台でのこと。 地下鉄に乗っていたら、ワシより10歳ほど年長の御老体が「これこれ、あそこに車内での携帯電話の使用はご遠慮ください、と書いてあるでしょ」とメールでも読んでいた若い女性に近づき、いきなり注意をしたものじゃ。 女性は「あ、すみません」と言って携帯を閉じたが、御老体は「いや、ありがとう」と礼を述べ、座る場所でも探すためか移動していった。 まあ、これくらいの老婆心的おせっかいも今の世の中、たまには必要か、と思いながら、うつらうつらしていたら、再びくだんの爺さんの声が聞こえたのじゃ。 「これこれ、あそこに車内での携帯電話の…」。 見るとまた別の女性に注意をしているではないか。 思わず考え込んでしまったのじゃ。 もしかすると、彼のご老人は日がな一日、地下鉄の中でああして携帯マナーを諭すべき〈違反者〉を渉猟し、それを自らの責務と信じながら〈善行〉を果たし続けているのではないだろうか。 教師か、公務員か、現役時代はどんな職業の人だったのだろうか。 連れ合いはご健在なのだろうか、子ども等とうまくいっているのだろうか、果たして幸せな境遇なのだろうか、そんなことを反芻しているうちに、芭蕉の句ではないが、やがてもの悲しさがこみ上げてきた出来事なのであった。 ◆その93 「はやりの袢纏(はんてん)」 この翁、近頃腹立たしく思っているのが「マニフェスト」という代物じゃ。 何でも公職選挙法が改正され、地方選挙においても一枚紙のマニフェストを配ることができるようになったというのだが、これまでの選挙公約とどこが違うのかよくわからん。 数値目標や財源、達成期間など具体的な数字でもって有権者に訴えるのが、これまでの公約との大きな違いであり、これからの選挙はマニフェスト抜きに戦えないだろう、というのが有識者のコメントである。 ところが言い出しっぺの、某県知事だった学者がマニフェストとして推奨しているタレント出身知事のそれを見ても、何の革新性も創造性も感じられない。 実際のところ、「本人がマニフェストと呼べばマニフェスト」なのではないか。 何故にこんな欺瞞状況が許されるのか。 それは、提唱者としての栄光を確固・不動のものとしようとする件の学者の野望にマスコミが乗せられてしまったことが原因なのではないか。 世の中の空気に付和雷同するのは日本人の悪い性癖じゃが、そんな「はやりの袢纏」状態を冷静に見つめることこそがマスコミの使命なのではないか。 まがい物のことを英語で「フェイク」と言うらしいが、今の状態ではマニフェストならぬ〈マニフェイク〉じゃて。 要は政策の中味ではないかの。 ◆その94 「お疲れ様です」
昔、会社務めをしていた頃、上司が先に帰る際、どんな挨拶をすべきか迷ったことがある。 選択肢としては「ご苦労様です(でした)」と「お疲れ様です(でした)」、この二つなのだが、前者は目上の者が目下の者にかける言葉であって、その逆は不可である、というのが一般論であった。 ということで「お疲れ様です」と、紅顔の美青年であった当時の翁は部長や課長に挨拶をしたものだった。 本当はどちらでもよい、という説もあるのだが、それはさておき最近違和感を覚えるのは、今の若い連中は、いきなり「お疲れ様です」という挨拶から始めることじゃ。 特に、メールのやりとりの場合、文頭にもってくることが流行っているらしい。言葉遣いも世の動きに連れ変わっていくことは重々承知しておるが、翁など、言われたなら「疲れておらんわい」と茶々を入れたくもなってしまう。 相手を気遣う優しい人間が増えてきたせいなのか、世知辛い世の中で四六時中疲れている人間が多くなってきたからなのか、それとも単に若い連中の語彙が不足してきたことが原因なのか、わからん。 じゃが、「お疲れ様です」という重宝な切り札を最初に出してしまったら、最後にどんな言葉を相手にかければよいのだろう。 そんなことを考えておると翁は本当に疲れてしまうのじゃ。 ◆その95 「奇貨、居くべし」 「五里霧中」、「呉越同舟」、「臥薪嘗胆」などなど、中国の故事成語にはまこともって味わい深いものがある。 古の日本人は当時の超先進国の中国大陸で用いられていた漢語を輸入するに当たって、送り仮名や返り点を付けるという画期的な工夫を施し、完全に日本語に融け込ませることに成功した。 例えば「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」など、もはや日本人の言語文化として血肉化しておる。 しかしながら最近はどうも様子が違ってきているようじゃ。 若者の会話から故事成語など聞いたためしがない。 今の高校生は漢文を学習しているのだろうか。 話は少々飛ぶが、近頃台頭してきた若い経営者に思慮深さが欠けているように思うのは翁だけだろうか。 IT関連企業のH氏、投資ファンドのM氏、介護ビジネスのO氏、駅前留学のS氏など、経営者である前に一個の人間としての素養に欠けているように思えてならぬ。 こうした傾向は漢文学習の軽視と通底しているのではないか。 日本人にとって、倫理や道徳はアングロサクソン流では身に付かないように翁には思えるのじゃ。 その点、『論語』に造詣の深い大手居酒屋経営者のW氏の存在は心強い。 氏には漢籍の復権を教育再生会議において主張してもらいたいものだ。 絶好のチャンス、「奇貨(きか)、居(お)くべし」ではないかの。 ◆その96 「翁、花に思う」 近頃ひょんなことからガーデニングめいたものに傾注しておる。 ホームセンターで、思いの外安かったので花の苗を2、3本買ってきたのがきっかけじゃったが、だんだんに花芽をつけ、咲き始めるとこれがまた面白い。 赤いやつ、白いやつ、と次々と買い足しては悦に入っている次第なのじゃが、そうなると改めて、そこかしこ、余所の家でも綺麗に花々を飾り立てているのが目に付くようになってきたのには驚いた。 これまでも散歩の折などに見ていたはずなのだが、その視覚情報は脳味噌の奥深くまで浸透していなかったらしい。 「見る」と「観る」は違う、ということか。 まあ、これに限らず、人間というものは自分の関心のあることを中心に情報を摂取し、認識し、理解し、記憶しているのだろう。 逆に言えば、そうでない膨大な量の情報は惜しげもなく捨てているということになるの。 それをもったいないと思うか、大事の前の小事と思うかは人それぞれだろうが、少なくとも凡人の域を出ぬ翁としてはその時々興味のあることに熱中して余生を過ごしたい、と思っている次第じゃ。 まず今は「花咲爺」に専心しようぞ。 おっと、そろそろかわいい花たちに水をやる時間じゃて。 ◆その97 「王子がいっぱい」
「ハンカチ」と「はにかみ」に共通するものは? となると、これはもう「王子」じゃな。 昨年の夏の甲子園を沸かせた斉藤佑樹君に、高校生ながらプロツアーを制した石川遼君。 まさに言い得て妙、ピントの合った形容である。 それにしても、彼らを称するに「王子」という形容をもってするというのもまさに若い感性の成せる業と言わざるを得ない。 おそらく女子高生あたりが震源地ではないかと思量するが、普段からクラスメイトなどにあだ名をつけて遊んでるんじゃろう。 ただ意外に「王子」にふさわしい生徒は少ないかも知れぬな。 「おしゃべり王子」はうざったいし、「IT王子」には少々キモいところがあるの。 「大食い王子」は幻滅だし、「助平王子」は論外じゃ。 「泣き虫王子」というのは無きにしもあらずか。 「ガリ勉王子」、これはいそうじゃの。 いずれ、「キャッ、キャッ」言いながら騒いでいるのだろう。 それにしても我が半生を振り返るに、「王子」にもなれなかったし、「王」なんぞ夢のまた夢。 而してその実態は、我が家の「女帝」の「僕」、否、「奴隷」というのが関の山か。 忸怩たる思いを抱かざるを得ないが、まあ、数年前には「監禁王子」という輩もいたわけで、「王子」だけが理想の生き方ではないわい、と負け惜しみの一つも言っておこうか。 ◆その98 「飯の種」 先日久しぶりに飛行機に乗ったときの事じゃ。 探知機でひっかかかり、ボディチェックを受けていた目の前の紳士が突然怒りだして収まりがつかなくなってしまった。 何度も探知機をくぐらされたり、カバンの中味を調べられたり、身体に妙な輪っかを当てられたりと、猜疑的に取り扱われ、「切れ」てしまったのじゃ。 おそらく類似の事例は多々発生していると思う。 このご時世、当局側が、テロや不測の事態を防ぐためのチェックを厳格に貫徹するのも当然といえば当然じゃが、件の紳士の不快感も十分理解できる。 思うに、同じ検査でももう少しやりようがあるのではないか。 あまりにマニュアルどおりの行動が、検査官たちが横柄であるかような誤解(?)を招いている面があると思う。 ファーストフード店なら当然ではあっても、いやしくも他人のプライバシーに踏み込むような検査の場合は、加えて機転の利いた人間味のある対応が求められると思うぞ。 そこで提案じゃが、検査官達には搭乗者を「飯の種」と見なしたら如何か。 ゲートを通る大勢の人たちがいるからこそ、自分たちは給料を貰えているのだ、と発想を転換したなら、「お客様は神様でございます。神様のためにも、今一度よろしくお願い申し上げます」の一言くらい楽に出てくるのじゃないかな。 ◆その99 「宝くじ的発想」 今、国民の政治的関心事として小泉流「構造改革」を継続するか、しばし立ち止まって日本型の経済社会の在り方を模索するか、の大きな判断があると思う。 無論改革なくして進歩はあり得ないし、非効率な仕組みは改めなければならないのは当然である。 が、一国の独自の文化や国民性に配慮しない改革は結局のところ根付きもしないし、国民全体の幸福ももたらしてくれない、というのも自明のことではないか。 そうした状況の中、市場原理を尊重する学者の発言には首肯しかねることも多い。 たとえば地方は医師不足を嘆く前に鋭意努力すべきだ。 実際頑張っている○○市の病院にはたくさん研修生も集まっている、といった類の主張だ。 限られたパイの奪い合いという現実に目をつむり、成功した事例を誉めそやすのは子供だましの詭弁ではないか。 さらに問題なのは、国も同様の理屈で、地方を応援している振りをしていることだ。 つまり、頑張っている町はこんなに賑わってるんですよ。 だから皆さんも頑張ってください、という具合に成功事例を渉猟し押し売りしていることである。 これでは宝くじの高額当選者を「ほら、ちゃんと1億円をゲットした人はいるんですよ」と賞賛しているのと同じレベルじゃ。 底の浅い智恵(?)と言わざるを得んわな。 それで納得するほど国民は馬鹿ではないと思うがのお。 ◆その100 「胡蝶の夢」
昔読んだ英国人のエッセイにこんなのがあった。 嵐の日に大木が大きく揺れている様子を見た子供が「おじさん、あの木が大きく揺れているからこんなに風が強く吹いているんでしょ」と言ったそうだ。 最初は子供の考えだと一笑に付したものの、よくよく考えてみれば一面の真実をとらえているのではないか。 馬鹿には出来ない、大いに考えさせられる、とこのような内容であった。 まっこと深淵な問いかけではないか。 実際、世の中、どちらが「因」で、どちらが「果」か判然としない、というか、それらを渾然一体としてとらえなければならない事象に溢れているのではないだろうか。 また、「事実は見かけよりずっと複雑である」という経験則があるが、これも含蓄のある警句と思う。 そういえば、最近、我が国では白か黒か、賛成か反対か、といった二分法的でデジタル的思考が各界各層に蔓延しているように思える。 老婆心ながら、日本人はもう少し奥行きの深い物の見方を大切にする必要があるのではないかな。 「知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか」 と荘子先生も宣もうておるではないか。 うむ今回は100回目という記念すべき原稿でもあるせいか、翁らしくもなく哲学的思索にふけってしまったわい。 老婆心ながらTOP |
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