[連載]

   101話〜110話( 如 翁 )


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◆その101
 「天下大乱」

 今を去る約140年前の慶応4年正月3日、「討薩表」を掲げた旧幕府軍は京都南郊の鳥羽・伏見で薩摩・長州連合軍と激突、兵力では圧倒していたにもかかわらず、兵器の差や拙劣な用兵などにより大敗北を喫し、残兵は本営の大坂城へ敗走した。
 大将御自身が出馬し、再度戦えば今度は負けるはずはないという、現場指揮官たちの強い要請に、将軍徳川慶喜は了と応え、陣営立て直しの上、再び薩長軍と戦うことが決定されたのであった。
 ところが、1月6日の夜半、その慶喜自らがごくわずかの供回りを連れて、大坂城を脱出、軍艦開陽丸に乗って江戸へ逃げ帰ってしまった。
 自軍を見捨てての敵前逃亡である。
 さて、かくも昔の話を持ち出したのは、つい最近似たような場面に国民が遭遇してしまったからじゃ。
 そう、時の総理大臣が、所信表明演説をした翌日、国会論戦を前に政権を放り投げてしもうた。
 その姿が、徳川慶喜と二重写しに見えたのである。
 思えば、慶喜も早くから徳川一族のエースと目され、将軍待望論が強かったし、総理大臣殿も若い頃から政界のサラブレットと呼ばれ、期待大の存在であった点もそっくりじゃ。
 将軍逃亡後は、ご存じのとおり、戊申戦争の内乱を経て日本は近代へと変転していったが、この度の珍事も天下大乱の予兆なのだろうか、の。



◆その102
 「後生畏るべし」

 最近目につくようになった、ような気がするのじゃが、テレビのCMにこれは将来ものすごい美人になるのではないか、と思わせる幼児が増えているのではないだろうか。
 よく親子の形で母親(役)と一緒に登場するのだが、驚くべきは、そのお美人ちゃんが、もちろん美人であるその母親をそっくりそのまま相似形的に縮小させたような姿形を備えていることである。
「おませ」というのとも異なるし、曰く言い難いのじゃが、すでに完成された美しさを誇りつつ、一丁前の大人の雰囲気を醸し出しているのである。
 幼児は幼児らしく、子供は子供らしくあってこそ、将来の伸びが担保されるのではないかと信じている翁にとって、これはただならぬ異変と思えるぞ。
 世の中、健全な進歩が失われてしまうのではないか。
 ホレ、高校野球の選手でも荒削りで、完成されていない方がプロ向きと言われるではないか。
 尤も、白状すれば、「後生畏るべし」と感じさせる彼女ら子役たちも意外に「伸び白」に欠け、年頃になると、そんな「畏るべき」存在にはならぬかも知れ ぬ、などと思いこみたいのは、青春時代、美人からは歯牙にもかけられず、美人トラウマのある翁にとって、こしゃまくれたお美人ちゃん達にまでコンプレッ クスを感じさせられることが癪(しゃく)に障る、からかも知れぬな。



◆その103
 「食わせ物」

 詳しいことはよく分からんが、アメリカ国内のサブプライムローンなる怪しい融資制度のおかげで全世界に金融不安が広がっているそうな。
低所得者層向けの住宅ローンゆえ、リスクを担保するために高金利に設定されているらしい。
そもそも低所得者層がそんな高金利を返済できるのかいな、と常識的には疑われるのだが、資産価値が絶えず上昇していくからその上昇分を担保に借り換えすれば問題なく返し続けることができるのだそうだ。
そんなおとぎ話のような右肩上がり神話が案の定破綻したため、低所得者に対する債権を分割・証券化して組み込み、全世界に向けて売られていた金融商品の価格が下落してしまったというのが今回の顛末とのことじゃ。
そんな商品を買う方も欲に目がくらんでいるとしか言いようがないが、諸悪の根源は件の超大国の身勝手さではないか。
要は、「金融工学」という得体の知れぬ学問を理論的根拠にして自国の貧困層に与える便益を全世界に肩代わりさせていただけではないか、と翁には思えてならぬ。
今回のサブプライムローン問題を目の当たりにして、売れ残った餅のあんこを再利用して売っていた伊勢の赤福餅のことを連想してしまうのは、ちと翁の次元が低すぎるかのお。



◆その104
 「むがしっこ 餓死編」

 むがしむがし、ある村さライオンだけんた髪型した村おさがいだど。不作が続いで、村びどだぢ、みんなひもじい思いして、蓄えであった百俵の米ばみんなで 分げで食べるべしってしゃべったっきゃ、その村おさ、そやって食べでもすぐなぐなってまるがら、今は苦しぐでも米百俵ば村の改革さ使って、明るい未来ばつ くるべし、ってしゃべったんだど。
 その村おさ、色おどごで人気あったどごで、村びどだぢ、んだな、村おさの言うとおりだ。
 今腹減ってるばって、ちょっと我慢せば、いい世のながきっと来るいなって、我慢したんだど。
 したばって、3年たっても4年たっても、いい世のなが来ねどごで、村びどだぢ、どしたんだっきゃ、村おさの言ったごど嘘でねがって、文句つけだんだど。
 したっきゃ、その村おさ「改革なくして成長なし」、まだまだ改革足りねんだ。みんな「かいかく、かいかく」って一生懸命呪文ば唱えろ、って説教したんだど。
 村びどだぢ、人っこいいどごで、んだがもわがねなって、毎日「かいかく、かいかく」って念じ続けたんだど。
 したばって、やっぱり腹減って、村びどだぢ、とうとうみんな餓死してしまったんだど。
 ところで、最初の米百俵どうなったがってば、村おさどその取り巻きだぢで食べでまってあったんだど。
 どっとはらい。
、ちと翁の次元が低すぎるかのお。

◆その105
 「むがしっこ 凍死編」

 むがしむがし、アリどキリギリスがいだど。
 夏の暑いどぎも毎日毎日一生懸命働いでるアリば見で、遊んでらキリギリス「なしておめだぢ、たんだ働いでばりいるんだっきゃ。もっと遊んで人生ば謳歌 せばいいでばな」って馬鹿にしたっきゃ、アリだぢ「おらんど、稼ぎ少ねんで、今働いで、食べ物貯めで、冬さ備えねばまいねんだね。あんだも遊んでばりいね んで、今がらちゃんと冬の準備した方いいんでねが」って言い返したんだど。
 したっきゃ、そのキリギリス「なんもいいんだね。わ、もどもど、金持ぢで、株だの、証券だのいっぺ保有してるし、税金でも優遇されでるはんで、大丈夫だね」って、歌っこ歌ったり、踊りっこ踊ったりして遊び続げだんだど。
 だんだん寒ぐなって冬になったど。
 アリどキリギリスどうなったがって?
 アリだち、働いでも働いでもながなが食べ物貯まねがったし、その冬、たんだでねぐ寒い冬だったどこで、巣の中でみんな凍死してまったんだど。
 したばってキリギリスの方、暖房効いだあずましいマンションで、寿司だのステーキだの出前頼んで、たらふく食べで、あい変わらんず歌って踊って遊び続げだんだど。
 この話っこがら「ワーキングプア・アリ」ど「六本木ヒルズ・キリギリス」っていう言葉が生まれたんだど。 どっとはらい。



◆その106
 「山雨来らんと欲して」
 もの思いに耽っていると、すーっと冷たい風が吹きこんできた。
 おや、と思い外を見ると、今しも山の方から驟雨(しゅうう)がやってこようとしている…。
 そんな情景を古代中国の詩人は「山雨来らんと欲して 風楼に満つ」と詠んだ。
 まさに一幅の山水画が目の前に浮かぶような味わい深い場面じゃ。
 ものごとの流れとして、まず風が舞い起こり、その後雨が降り始める、ということから、この詩は転じて、変事の起こる前の何となくもの騒がしい様を譬える言いようになったとのことじゃ。
 さすがは昔の中国、ディレッタンティズムに満ち溢れておるわい。
 それはともかく、最近「緊急地震速報」なるシステムがスタートした。
 なにやらP波とS波という速度の異なる地震波の性質を利用して、例の「ジャララン、ジャララン」という耳障りな音で本格的な揺れの到来を事前に知らせるというものらしい。
 震源が遠ければ十数秒の余裕があるが、直下型であれば揺れとほぼ同時でほとんど効果がない、とのこと。
 老いぼれの翁なんぞ、予報音を聞いても右往左往、あわてふためくばかりで、有り難いやら迷惑やら、計り難いところがあるが、いずれにしても、「S波来らんと欲して P波先に来る」というのでは詩ごころに欠ける、ということだけは確かではあるなあ。



◆その107
 「人生ボート」
 「人生はあたかもボートを漕いでいるようなものである」という比喩がなされることがある。
つまり、ボート漕ぎでは通り去っていく周りの風景は見えるが、自分が進んでいる方向は、後ろ向きであるために全く見えない、ということが未来が全く見通せない人生に似ているというのじゃ。
 「まさに、そのとおり」と膝を打たざるを得ない。
 この翁も長いことボートを漕いできて、美しい景色、醜い景色、楽しい事、悲しい事、様々な風景や場面が過ぎ去っていったが、だんだんに気づくことは、風景の流れが加速度的に速くなっているということである。
 つい先日お盆を迎えたと思っていたら、はや正月じゃ。
 瞬く間に数ヶ月が過ぎていく。
 昔はもう少し時がゆっくりと流れていたように思うのじゃがな。
 ボートを漕ぐ力が強くなったわけではないのに、なにゆえ速くにボートが進むようになったのであろうか? 
 そう、考えられる答はただ一つ。
 つまり、人生ボートが浮かんでいる川は、最後はナイアガラの滝のようになっており、その滝が近づいてくるほど、川の流れが速まっていくという厳然たる事実ではないか。
 翁にとって運命の滝がいかほど先にあるのか知れぬが、断崖絶壁瀑布転落の瞬間まで漕ぎ続けることしかできないのが人生の定め、と諦観するしかあるまいて。



◆その108
 「分かっちゃいるけど」

 先日あるコンサートに行ったのじゃが、その時気づいたことは会場の照明が次第に暗くなり、いよいよ演奏が始まるという瞬間が近づくほど聴衆のしわぶきがあちらこちらで沸き起こるということであった。
 それまで静かだったのだから、そのまま心穏やかに芸術の世界に没入していけばよいのに、何故かまるで故意にするかの如く、ゲホ、ゲホ、グフォ、グフォ、とざわつくのか、いと不思議に思ったものじゃ。
 まあ、翁なりに仮説を立ててみれば、
@本番が始まってしまってからでは、迷惑になるのでその前にしわぶいてしまおうという配慮説、
A演奏がいよいよ始まるという心理がもたらす緊張説、
B静かにしなければならない情況は分かっているのに、何故かしでかしてしまう天の邪鬼説、などが挙げられると思う。
 ところで、台風が来襲して、川の氾濫などが危惧される際、ニュースなどで、河川には絶対に近づかないよう繰り返し注意を喚起しているのに、田んぼの様子を見に行った爺さんが流されて行方不明になった、などという事故が必ずのように発生する。
人間、「そうするな」と言われると、分かっちゃいるけど逆のことをしてしまう、という性行があるのやも知れぬな。となれば、先の答えはBの「天の邪鬼説」と思えるのじゃが、いかがなものであろうか。



◆その109
 「同じ穴の」
 マスコミ、就中(なかんずく)、新聞は、権力の横暴を監視し、社会正義を貫徹するのが自らの使命であると自負している。
 その構図から言えば、新聞は国家権力と対峙する存在であると考えるのが自然である。
 しかし、最近、両者には根本的なところで共通点があることに気づいた。
「無謬性」、つまり自分たちに絶対誤りは無い、と考えているところで見事に一致しているのじゃ。
 国家が無謬性を主張するのは、これはある意味「伝統」である。
 薬害訴訟や、誤認捜査などの経緯をみればご理解いただけるじゃろ。
 我が国においては国家は誤ってはならぬと(勝手に)思われているのである。
 一方、民主主義を裏打ちする存在としての新聞の一体どこに無謬性を誇るべき要請があるのであろうか。
 例えば「誤報」への対応である。
 新聞によっては、津軽弁で言えば「なんたかった」誤報でないと言い張る体質のところもあれば、認めるのは認めても、翌日の新聞の片隅に「わんつかだ」訂正記事を載せて、「はいお終い」というのが一般的な対処である。
 人間、誰しも間違いはあるのだから、素直に認めればいいのに、と翁は思うのじゃが、プライドなのか、そうはしない。
「権力の赴くところの無謬性」という点でマスコミが第四の権力であることを図らずも自ら証明しているように思うがの。



◆その110
 「雪上ライダー」

 青森県民は自転車が好きである。
 競輪が好きという意味もあるが、それ以上に真冬の大雪の最中でも乗りまくるくらい好き、という意味でじゃ。
 雪道を堂々と走っている様を見てると危なっかしくて、つい車の運転手に同情してしまう。
 自転車が滑って転んでも、それを轢いたら前方不注意で罪に問われてしまうのだからの。
 法律で禁じられているわけではないから、止めようもないのだが、安全安心社会実現のため、翁なりに対策を考えてみた。
 雪の上でも自転車に乗りたいというエネルギーをスポーツに昇華させるというアイディアはどうだろう。
 青森で雪国トライアスロンを開催するのじゃ。
 まずは、スキーのモーグルコースを自転車で駈け降りる競技。
 まさに雪の鵯越(ひよどりごえ)じゃ。
 次はラージヒルのジャンプ。
 100メートルを超える自転車大ジャンプは迫力満点じゃろう。
 そして最後は地吹雪の中の50キロメートル耐久レース。
 これだけ挑戦しがいのある競技を取りそろえれば、雪上自転車ライダーもきっと十分満足してくれるだろう。
 冬季観光としても大きく育っていく可能性を秘めているのではないか。
 もっとも、「いやー、今年の大会は死者・行方不明者が10名ですんでよかったですなあ」などという講評がなされることを考えれば、やはり無理じゃろうなあ。




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