[連載]

   141話〜150話( 如 翁 )


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◆その141
 「未来への挑戦!」

 「少年老い易く学成り難し」…、馬齢を重ねる、というのだろうか。
 その日その日をただのんべんだらりと過ごしてきた、そのつけがいよいよ老境の身に沁みるようになってきた。
 年々速く過ぎ去っていく時間の中で、身の置き場、というか、自己を確認しうる行為、というか、それが見つからないのである。
 この翁とてこれまで挑戦しなかったわけではない。
 子供の頃のそろばん、習字は言うに及ばず、壮年の頃一念発起して始めたNHKラジオの英会話、かつての職場の同僚に誘われた油絵、艶っぽい師匠ゆえ入門した茶道教室、全国紙掲載を目指してつくり始めた川柳、団塊世代定番の蕎麦打ち、高尚そうに見える陶芸、などなど…。
 じゃがどれもこれも長続きせず、身にもつかず、死屍累々、惨憺たる有様じゃ。
 いつまで生きるか分らぬが、残りの人生、李白先生のように詩を創れるわけでもなく、牧水先生のように短歌を詠ずるわけでもなく、それなのに毎日酒ばかり飲んで過ごしていいものだろうか?
 「否」とよ。
 かの佐藤一斎先生も言うておるではないか。
 「少にして学べば壮にして為す。快にして学べば老にして衰えず。老にして学べば死して朽ちず」と。
 さあ、再度「未来への挑戦!」じゃ。
 「人間は死に向かって成長する」のだ!
 ちと、力み過ぎかの…。



◆その142
 「赤と黒」
「私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸が結ばれていて、それがするすると長く伸びて一方の端がきっと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられているのである。…そうして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまっているのである…」
 ご存知太宰治の小説「想い出」の一節である。
 太宰もこの話を国語の教師から聞いた時には大いに興奮したらしいが、翁もまだ紅顔の美少年であった頃、この文章を読んで生涯の伴侶となるべきまだ見ぬ美しく淑やかな女性について、うっとりと思いを巡らせたものであった。
 しかし現実は誠もって厳しく、好みの女性には連戦連敗、苦杯をなめ続け、なかなかに赤い糸は手繰り寄せられず、艱難辛苦、紆余曲折の果てに、現在の配偶者、つまりは今隣の布団で大いびきをかいている「山の神」と結ばれたのであった。
 果たして、この縁は「赤い糸」だったのであろうか、と自問自答する今日この頃というのは、青春という時代からあまりに遠いところまで来てしまった感慨がなせる技であろうか。
 それとも尻に敷かれ、反論でもしようものなら「赤」どころか「黒い縄」で、す巻にでもされかねない弱い立場に甘んじているせいであろうか。
 いずれにしても、寝付かれぬ夜はろくでもないことが次々と思い浮かんでくるわい。



◆その143
 「現世利益」

 近頃仏像ブームなのだそうだ。
 先般東京上野で開催された「阿修羅展」は大盛況だったというし、その類の解説本の売れ行きも好調だという。
 中には、自分の観賞用にと、仏像を盗んでは自宅に飾っていた罰当たりの輩もおったが、それもこれも世知辛く、また先行きの不透明な最近の世相がそのブームの背景と見て間違いあるまい。
 かく言うこの翁も最近仏像に魅せられておるが、正直これまでは、「菩薩」と「如来」の区別もついておらなんだ。
 前者がお釈迦様がまだシャカ族の王子だった頃のお姿、そして後者が6年間の修行を経て悟りを開かれた後のお姿であるという基本中の基本も最近知ったばかりである。
 が、そんな初歩的な知識であっても知ると知らぬでは大違い。
 何故菩薩が若々しく時には女性的ですらあるのに対し、如来が粗末な法衣をまとうのみの厳しいお姿なのか、が理解できる。
 その如来も、釈迦如来をはじめ、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来などがおられるのだが、特に薬師様、阿弥陀様のお姿が有り難い。
 大食い、大酒飲みで、健康診断の各種数値が危うい身としては薬師如来の御利益にすがりたいし、まあ最後の最後は阿弥陀如来に極楽浄土に御案内を乞いたいのじゃ。
 とどのつまり翁の仏像好きも現世利益の成せる業ということじゃな。



◆その144
 「普遍的政策」

 江戸時代も中期以降になると、米価安に加え流通経済が拡大したこともあり、諸藩の財政は四苦八苦の状況となっていった。
 その対策としては例えば米沢藩の紅花や蜂須賀藩の藍など換金作物の栽培奨励といった地道な政策も執られたが、より手っ取り早い方法としては豪商からの借金、そして「借り米」が行われた。
 「借り米」というのは、藩士の家禄の一部をお殿様が借り上げることで、何のことはない給与カットのことであり、現在に連綿と続く普遍的な財政再建策である。
 そういえば最近も全国の国家・地方ともども公務員の夏のボーナスを0.2ヶ月分ほどカットしたというニュースがあった。
 ただ、これは単純な財政再建というよりも、百年に一度の大不況で民間のボーナスが大きく下がるご時世に公務員だけ通常額を貰うわけにはいかないという、至極日本的な襟の正し方が強制されたと見るべきだろう。
 しかし、こうやって低い方へ低い方へと右習えすることは逆に消費を一層冷え込ませるという指摘もある。
 翁が思うには、単純なカットではなく、その分を換金禁止印の付いた商品券で渡せばよかったのではないか。
 必ず消費に回るし、現金支給額を抑えたという格好もつく。
 なにせ、現在の公務員諸君は江戸時代のお侍と異なり、傘張り(アルバイト)することが法律で禁じられているでなあ…



その145
 「新しい祭」

 今年の「青森ねぶた祭」も大盛況で、300万人を超える人出があった、とのことである。
 折からの不況や新型インフルエンザの影響で入り込みが危ぶまれた事前の予想を裏切る誠に目出度い、重畳至極の結果である。
 しかしながら、この“大本営”発表のねぶた観客数には以前より疑問の声があったのも確かである。
 大分前のことじゃが、地元紙に面白い投書が載っておったなあ。
 それは、一晩で40万人も50万人も観客がいたとしたら、見物可能面積を勘案すると、1u当たり40人を超える人数が立ち並ぶことになる、との指摘であった。
「立ち並ぶ」というより「重層」する状態で、まさに10段くらいの「人柱」が国道や新町通りにズラリと現出するわけじゃな。
 これはめったに見られない奇観であり、本来のねぶた祭をはるかに凌駕する観光資源になるのではないか。
 そうなると「青森人柱祭」の登場じゃて。
 それを誰が見物するのかといえば、それは当然にねぶたの跳人たちということになるわな。
 どっちが見る方で、どっちが見られる方なのか主客が混沌とする摩訶不思議な空間が立ち現れる素晴らしい祭を、まさに東北新幹線が全線開業せんとするときに青森は手にすることになる…。
 このアイディア、真夏の夜の夢としては、少々グロテスクに過ぎるかのお。



◆その146
 「本当の懺悔」

 いささか旧聞に属するが、経済学者(?)のNI氏が著した『資本主義はなぜ自壊したのか』という本がベストセラーとなった。
 その本の帯には「構造改革の急先鋒であった著者が記す『懺悔の書』」とあり、未曾有の経済危機をもたらした、いわゆる新自由主義に加担していたのは間違いだった、との反省の弁が綴られている。
 実際、このNI氏は小渕内閣時の「経済戦略会議」のメンバーとして規制緩和や市場開放を声高に主張し、その主義主張は後の「経済財政諮問会議」に引き継がれていくこととなった。
 本を読むと、同氏はここ数年の様々な格差や貧困の顕在化に自らの過ちを悟り、反市場主義者に「転向」したのだそうだ。
「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」との格言もあることだし、その改心は誠に結構なことであるが、本に書かれている「日本には独自の素晴らしい文化があ り、それにふさわしい経済社会をつくるべきだ」という中学生でも知っていることに初めて気づいたような輩が我が国の進路を左右していたという事実には改め て愕然たる思いを禁じ得ない。
 人の財布をとやかく言いたくはないが、せめてベストセラーの印税をワーキングプアーの方々の再出発に「喜捨」するのが人の道と思う。
 老婆心ながら、それが同氏の再出発の第一歩になるのではないか。



◆その147
 「別問題」

 「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」という句がある。
 大自然の悠久の移ろいを、たったの一枚の落葉で感知しうる、という奥ゆかしくも、統計学のサンプル調査を彷彿させる科学的で味わいのある表現であるが、この度これとは真逆の圧倒的な数でもって〈季節の移ろい〉を突きつける事態が発生した。
 第45回衆議院議員選挙である。
 300議席を超える民主党の圧勝と、自民党の凋落、まさに明治維新、戦後改革にも匹敵する巨大な地殻変動である。
 民主党を核とした連立政権は、補正予算の見直しやこども手当の創設など、次から次へと新機軸を打ち出しているが、それらが効果ある政策かどうか、について現時点では判然としない。
 ただ、これだけははっきりと言えるのは、ここ4〜5年の選挙において顕在化してきたのだが、〈先生〉と呼ばれる方々が格段に身近になったということである。
 一昔前、国会議員といえば、偉ぶり、ふんぞり返っているのが定番であったが、今や、「これで料亭に行ける」とのたまった若者や、「ぶってぶって」騒動を 起こした美女、過去の濡れ場撮影が露見した契約社員出身者、名簿登載されただけのつもりのおばちゃん、などなど親近感この上ない方々の登場である。
 尤も、それが我が国にとって幸か不幸かは全く別問題であるがの。



◆その148
 「大衆は・・・」

 民主党の政権公約に基づく「八ツ場ダム」建設中止方針に対し、地元町長や住民が強く反対していることを巡り、地元役場に「建設中止に異を唱えるなどけしからん」という抗議の電話が殺到しているとの報道があった。
「正義、悪を懲らしめる」の構図である。
 その記事を読み、新型インフルエンザに対する日本人の一連の反応のことを連想した。
 発生当初は徹底した水際作戦を展開し、罹患者は一人たりとも国内に入れない、という涙ぐましい努力を続けた。
 ところが、新型インフルエンザは弱毒性であるということが判明すると、それまでのマスクだらけの街の様相が一変し、流行などないかのような、のどかな風景に変じた。
 しかし、夏に入っても感染が蔓延し続け、死者も出始めると、今度はワクチンの確保対策がなっていないという強い批判の声が高まった。
 その過程においては感染者を犯罪者であるかの如く非難する現象も見受けられた。
 一体全体こうした振幅の大きい世論の動向をどう考えたらよいのであろうか。
 これは日本人に固有の性癖なのであろうか。
 70年前も、一方の側の意見が「正義の旗」を振りかざし、反対意見を封殺して太平洋戦争に突き進んでいったのであろうか。
「大衆は愚にして賢なり」という格言を噛みしめる今日この頃の翁、なのである。



◆その149
 「プルースト効果」

 フランスの大作家マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』という小説は、紅茶に浸したマドレーヌの香りが過去の思い出を想起させる場面から始まるが、確かに嗅覚というのは脳味噌の奥深くに眠っている記憶をまざまざと蘇らせることがある。
 柄でもなく文学的な話題を持ち出したのは、昨日街を歩いていた折、あるお宅から青森では珍しいキンモクセイの香りが漂って来て、その時一気に半世紀ほど時間が巻き戻されたからじゃ。
 それはまだ翁が紅顔の美少年だった大学1年の秋の頃、とある夜に友人宅に向かっているとき、突然、この世のものとも思えぬ甘美で優雅な香りが降ってきて、しばし歩くことを忘れてしまったことがあったのじゃ。
「桃源郷」というのはかくの如きものか、と陶酔させてくれたのが初めて体験したキンモクセイの香りであった。
ということで、昨日の香りは、最近ぼけがちな翁にも、その時の友人の顔や、立ち止まった瀟洒(しょうしゃ)な住宅街の様子などを鮮やかに思い出させてくれた。
 キンモクセイというのは元々中国南部が原産らしいが、春ではなく秋にその蠱惑(こわく)の香りをふりまくのは何故なのか。
 翁のような人生の晩秋にある者にとって、決して戻らぬ若き日々の思い出をプレゼントしてくれるこの自然の「配慮」は少々罪深い気もするのお。



◆その150
 「新〈楢山節考〉」

 日本も人口減少時代に突入するとともに高齢化が急速に進行し、医療費が膨大に嵩んでいくなど、国の社会保障制度の先行きが危ぶまれる事態となっておる。
 よって、前政権時代には、毎年の社会保障費の伸びを2千2百億円以下に抑えるという強硬手段も取られていたのだが、後期高齢者医療制度などは年寄りイジメだ、などとたいそう評判が悪かった。
 翁自身は後期高齢者にまで、もうしばし間があるが、「これまでお国のために一生懸命働いてきた我々を姥捨て山に捨てるのか」という年配者の主張には素直に賛同できかねるところがある。
 というのは、限られた「資源」を自分達に手厚く寄こせ、と声高に主張するのではなく、若い世代に譲っていくことでそもそも世の中が成り立っていると思うからじゃ。
 そうでなければ、時々の社会という「バトン」は未来へ繋がって行かないではないか。
 決して高齢者を粗末にしてもよい、と言っているわけではなく、歴史を見据えた謙譲の精神も大事ではないですか、ということである。
 少なくとも、病院の待合室で「今日は○○さんが顔を見せんが、どこか体調でも悪いんじゃろか」といった高齢者たちの会話がなされる事態が生じないようにせねば、のお。
 尤も、数年後には前言を翻しかねないこの翁ではあるが…。



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