[連載]

   151話〜160話( 如 翁 )


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◆その151
 「哀れ人身御供」

 ダム、ダム、ダム、ダム、ダ、ム、ダ、ムダ、ムダ、ムダ、無駄、無駄、無駄…
 近頃、「無駄」という概念が大いに注目を集めている。
 ご存じ、行政刷新会議が鳴り物入りで始めた「事業仕分け」によってである。
 政権交代後、初の当初予算編成において各省庁の要求を積み上げたところ、何と95兆円まで膨れ上がってしまったことから、この事業仕分けによって「無 駄」な事業を廃止し、3兆円ほど切り込もうと、「必殺仕分け人」が衆人環視の下、鋭く役人達を追求する様はまさに「人民裁判」さながら、であるが、この初 の試みにマスコミとともに国民は溜飲を下げ、歓迎しているようだ。
 翁など馬齢を重ねてきた者から見れば、「世の中そんな簡単に割り切れるものではなかろうに」と思うのであるが、政権交代という名の「革命」が起きたときには、ちょうどフランス革命の時のマリー・アントワネットのような「生贄(いけにえ)」が求められるのであろうか。
 リストアップされた事業達こそ哀れであるが、ここで、ふと我が腹を見てみれば、積年の暴飲暴食の帰結としての脂肪が幾重にも重なっておる。
 これこそ「無駄」な肉ではないのか。
 まさに事業「仕分け」の対象ではないのか、と意気込んでみたものの、江戸時代、死体解剖のことを「腑分け」と呼んでいたことを思い出し、すっかり興ざめした翁であった。



◆その152
 「トキのように」

 上野の東京国立博物館で開催されていた「皇室の名宝展」を見に行く時の事じゃ。
 公園の噴水近くの広場に何百人という中高年の男達が整然と座っておった。
 いったい何じゃろう、と訝しく思ったのだが、秘宝展を見た帰りに、その疑問は解けた。
 彼らは慈善団体が行う「炊き出し」を待って並んでいた、いわゆるホームレスだったのである。
 カレーライスであろうか。
 各人は一皿ずつ受け取り、おもむろに自らの場所へ向かい、黙々と食べておった。
 果たして、ねぐらはどこなのか。
 仕事は全くないのか。
 冬はどう過ごすのか。
 わずか百メートルほどの空間内での「皇室の名宝」との落差に暗澹たる思いに陥った。
 数年前まで、我が国に「貧困」はない、と言っていた政府が、先般「相対的貧困率」を初めて公表した。
 その数字は15.7%、7人に1人が貧困状態だというのである。
 アメリカなどとともに世界のワースト4にあるという。
 ついこの前まで、世界に冠たる豊かな国だと思っていた、この日本がである。
 どこで道を踏み違えたのか。
「昔、日本という経済大国があったそうな。じゃが、その繁栄は60年しか続かなかったそうじゃ。国民に職なく、誰も子供を生もうとせず、人口もあっという間に減ってしまい、その国で絶滅したトキのように絶滅したそうじゃ」
 ということにならぬとよいがの。



◆その153
 「虎と猫」
 さあ、今年は寅年。
 昨年の丑年は日本経済も浮揚感を欠き、まさに牛歩のような状況であったが、騎虎の勢い、とまでは言わぬが今年は力強い成長を期待したいものじゃ。
 さて、虎と言えば、最強の動物ということもあり、ことわざや格言によく登場する。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」や「苛政は虎よりも猛し」などがその代表例だが、味わい深いものとして「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」というものがある。
 虎は日本に生息せぬ故、昔はその猛々しい姿を想像するよすがとしては、大陸から持ち込まれた虎の皮しかなかったであろう。
 円山応挙が描いた虎の絵など、どこか猫のようで愛嬌が感じられるのも、現物を見ることのできなかった制約から来るのであろうが、それはそれで十分に芸術足り得ているのではないか。
 ところで、虎といえば「タイガー」、タイガーと言えば「タイガーウッズ」とくるが、一体全体今回の騒ぎはどうなっておるのじゃ。
 ツアーで渡り歩くそこかしこに現地妻でも囲っており、それが愛妻にばれてしまった、ということなんじゃろうか。
 いずれ翁の甲斐性の遠く及ぶところではないが、少なくとも「虎の尾」を踏んでしまった時はしばらく「猫」のようにおとなしくせにゃならぬ、ということは長い夫婦生活上よく理解できるの。



◆その154
 「ちょんまげ外交」

「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四杯で 夜も眠れず」
 ご存知嘉永6年、開国を求めるペリー艦隊の初来航時、たった4隻の蒸気船で周章狼狽の体となった江戸の様子を詠んだ狂歌である。
 米国の要求にどう対処すべきか。
 幕府も頭を悩ませたが、結局のところ、言を左右にして、時間を稼ぎ、うやむやにしてしまおう、という策が案出された。
 しかし翌年再度来航したペリーの砲艦外交に屈し、我が国は長い鎖国の扉を開いたのであった。
 このときの幕府の作戦は「ぶらかし」と呼ばれている。
 久しぶりにこの言葉を思い出したのは、普天間飛行場移設をめぐる鳩山政権の対応が妙に江戸幕府の「ぶらかし」策と重なって見えるからじゃ。
 県外もしくは国外に移設する方針なのか、それとも結局は現行辺野古案とするのか、一方でオバマ大統領に会えば「トラスト・ミー」と囁き、他方で連立与党に「重大な決意がある」と言われれば県外・国外移設に重心を移し、ぶれることはなはだしい。
 その間時間だけが過ぎ去っていく。
 もしかすると総理は本心から「ぶらかし」策が有効だと考えているのかも知れぬな。
 そう思うと、「宇宙人」殿の頭にちょんまげが乗っているように見えてくるから不思議なもんじゃ。
 しかし、また怖〜い「黒船」が襲来するかも知れんぞ。



◆その155
 「新ゴールドラッシュ」
       
 
 今日もまた雪、雪、雪じゃ。
 もういい加減にしてくれい、と念じながら山の神の命ずるがままに雪下ろしやら雪かきやら、老体に鞭打って奮闘の日々。
 雪の降らない地方の者から見れば、雪はロマンチックで美しい存在に思えるかも知れんが、ここ青森にとってはまさに「雪地獄 父祖の地なれば 住み継げり」じゃ。
 今も雪かきしながら考えておる。
 そもそも明治政府がこんな場所に青森市という県庁所在地をつくったのが間違いだったのではないか。
 八戸あたりに県庁をおいておけば、多額の除排雪経費やら交通渋滞による時間的ロスやら雪に伴う事故やら、社会的経済的コストはずっと少なくて済んだろうに。
 そして、今の青森市は人口1万人程度の町としてつつましく存在していたろうに…。
 もしくはじゃ。
 青森市に降る雪に、ほんの0.00001%くらいの砂金が含まれていたら、話は全然違う展開になるわな。
 全国から金を求めて大勢の亡者どもがやってきて、「雪寄こせ」と雪をば奪い合い、専用のザルに次々と雪を溶かしては有るか無しかの微量の砂金をすくい取る作業に寝食忘れて没頭し、そして屋根の雪も、道路の雪もたちまちに無くなっていく…。
 いかん、いかん、あまりの重労働に思考が迷走してきたようじゃ。
 しっかり雪かきせねば、な。ふ〜。



◆その156
 「遅かりし…」

 先日朝刊を読んでいたときのことじゃ。
 下段の広告欄にぐぐっと目が引き寄せられた。
 そこには「○○本舗専属アドバイザー」という肩書きで、グラマラスな美女が翁を挑発するように見つめているではないか。
 彼女は一体何をアドバイスするのじゃろうと、訝しんだが、「如意××」という、1日たった2粒で「自信とパワーをつける!」という効能を読めば、だいたい想像もつくというものだ。
 それ以来、何故かしら同類の広告が向こうから勝手に目に飛び込んでくるようになった。
「す、すごい元気なんです!」
「彼、昨日飲んだらしいの」
「草食系男子よ、立ち上がれ!」
 などなどたいていは艶めかしい美女の写真とともに大きな面積でアピールしておる。
 朝っぱらからこんなものを読んでよいものか、と迷いもするが、そこは、ほれ、「魚心あれば水心あり」というか「蛇の道は蛇」というか、読者諸兄もお分かりだろうて。
 そしてついつい、広告効果の誘導するがまま値段を確かめ、申し込み方法などにも目を通し、〈費用対効果〉などに想いを巡らせ・・・、とその辺りまで来て、いつも我に帰るのじゃ。
 そもそも「現役引退」のこの翁が、そんなものを飲んで一体何に〈挑戦〉するというのか。哀れ、この翁、「遅かりし由良之助」を自覚する日々なのである。



◆その157
 「以上? 以下?」

 最近、なるほどと感心して聞く言い回しがある。
 主に政治の世界で使われるのだが、「それ以上でもそれ以下でもない」というもの。
 読者諸兄も聞いたことがあろう。
 例えば、「その件につきましてはあくまで私的な事情によるものであり、それ以上でもそれ以下でもございません」といった具合じゃ。
 この表現のキモは、等号や不等号の記号をイメージさせることによって、言葉の座標空間にしっかりと位置づけられているかのような数学的厳密性を醸し出すことにある。
 それにより、私の発言は厳密なものですよ、決してぶれてはいませんよ、と取り繕うわけである。
 しかし、これは完全にレトリックの問題であって、「以上・以下」は発言内容の信憑性を何ら担保するものではない。
 むしろ、怪しい、後ろめたい、本当は言いたくない、ことを開き直って言う場合に誠に便利な表現として重宝されているのではないか。
 よって、老婆心ながらこの表現が使われる場面に出くわしたら、眉に唾をつけて聞いた方がよかろうて。
 現にわしも今キャバ何とかから家に帰るとこなんじゃが、「香水の匂いをつけて帰宅したことは全く身に覚えのないことであり、それ以上でもそれ以下でもございません」てな公式見解で何とか山の神からの尋問を乗り切りたいと考えてはおるのじゃが…。



◆その158
 「綸言(りんげん)は…」

 だいぶ昔のことじゃが、津軽出身のある女優さんがテレビで「子供の頃はトランプ遊びの時、出だしょんべ、ひっこまねじゃ、なんてやんちゃなことを言ってました」と述べておった。
 品のよい女優さんだったので、少々驚いたのだが、確かに「出た小便は引っ込まない」わな。
 ところで、引っ込まないのは小便だけではなく、言葉もそうじゃ。
 いったん口から出てしまった言の葉は、もう撤回することはできない。
 弁解しようが、真意は別なところにある、などと取り繕っても手遅れである。
 この翁も、不用意な発言でいかほど失敗したことか。
 今思い出しても汗顔の至りじゃが、「汗」と言えば「綸言汗の如し」である。
 一般人の発言でもそうであるから、ましてや偉い方々、なかんずく一国の総理などは、いったん発した言葉は、出た汗が二度と体内に戻らないように決して取り消すことができない、ということをよ〜くわきまえねばならない、という格言じゃ。
であるにもかかわらず最近、一国の総理の、「戦ってください」とか「起訴されないことを望みます」など、不用意な発言を耳にする機会が多い。
 それはそれとして、この格言、「綸言尿の如し」でも十分リアルで説得力を持つと思えるのじゃが、なんぼ古代中国においても、品のない表現は憚られたんじゃろうな。



◆その159
 「年年歳歳」

 この翁、昔からどうも春が苦手じゃ。
 物憂いというか、元気がでないというか、気分が沈みがちなのである。
 その理由を思ってみるに、春は出会いと別れの季節、というが、己の人生顧みれば別れの記憶の方が勝っているということもあろうし、会社勤めのときは人事異動、それも多くはうれしくないそれに際会するのも春であった、ということも影響しているのかもしれない。
 長い冬が終わり、日差しが輝き始め、さあこれから花の季節だ、と周囲が浮き立つような雰囲気の中、我が身ひとりが憂鬱に陥るというのも辛いものがあるが、もしかすれば意外に春が苦手という御仁も多いかもしれぬ。
 何でも、春はホルモンバランスが崩れ、精神状態に芳しくない作用を与えるという説を聞いたこともあるしな。
 そういえば、その昔西行法師が「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と詠んで、その望みが叶ったという話が人口に膾炙しているが、それについて西行が単に美しい花とともに身罷りたいと願ったのだ、という単純な解釈は底が浅いかもしれぬな。
 いずれ、花が咲く様は毎年変わらないが、人は毎年移ろわざるを得ない…。
「年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」という厳然たる事実を思い知らせてくれるのが春なのじゃから。



◆その160
 「キジの儀式」

 たまたまある尼さんの書かれた文章を読む機会があった。
 こんな話じゃ。
 ある日、お寺の壁に誤って雄のキジがぶつかり死んでしまった。
 その亡骸の周りを、雌のキジがコーコー鳴きながら回っている。
 やがて雌は雄のくちばしの付け根をコツコツとつつき始めた。
 「コーコー、起きなさい」
 と言わんばかりに。
 それでも何の反応もないと、今度はトサカやほおの毛をくちばしでくわえ持ち上げようとする。
 が、雄の瞳は閉じられたまま。
 ついに雌は雄の体に駆け上がり必死にコーコー鳴きながら、ひとしきり激しく頭を咥えてひっぱった。
 音に聞くキジの情愛とはこれほどのものか、と尼さんは雌の姿が涙で見えなくなってしまったそうだ。
 雌はやっと事の次第を理解したのか離れては近より、それを数回繰り返した後、姿を消した。
 が、尼さんがその亡骸を葬ってやろうとしたとき、雌はもう一度戻ってきて、尼さんがすぐ側にいるにも拘わらず、ある決心をしたかの如くに、力強く雄に近づき二度、三度そのくちばしをつつき、そして今度は声も出さず、振り返りもせず、去っていったそうだ。
 あたかも命がけの今生の別れの儀式のように…。 
 と、まあこんな筋じゃが、翁も深く感じ入るところがあった。
 そうじゃな、この文章を山の神の目に触れるところに置いておこうかの。



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