[連載]

   161話〜170話( 如 翁 )


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◆その161
 「ひさかたの…」
 その曲を初めて聞いたのは、今からもう半世紀近くも前になろうか。
 まだこの翁が紅顔の美青年であった頃じゃ。
 大学の友人宅に行った時、彼は非常な音楽マニアであったが、「ちょっといい曲を聞かせてやろうか」と言って、当時は高価であったろうオープンリールのテープレコーダーにテープをセットし、回し始めた。
 流れてきたのは旋律がゆらゆらと時空を彷徨い歩いているかのような、なんとも優雅で、繊細なピアノの調べであった。
 あたかも真綿に水が浸透していくように、ピアノのメロディがこの体に染み入ってきたことをはっきりと記憶しておる。
 それがモーリス・ラベル作曲の「亡き王女のためのパヴァーヌ」という曲だと知ったのは、ずっと後のことだったが、翁はこの曲を聞くたびに、なぜか 「ひさかたの ひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ」という紀友則(きのとものり)の和歌を連想してしまうのじゃ。
霞がかった春の陽光の中、まだまだ盛りでいて欲しいのに、何を急ぐのか、それが定めであるかのように、はらはらと舞い落ちていく桜の花びらの様が、せつなくも美しいメロディにぴったりだからであろうか。
 それとも…。
 いずれ、「亡き王女のためのパヴァーヌ」も聞くたびにその美しさを増しているように翁には思えてならんの…。



◆その162
 「人間方程式」

 先日美しい満月を見たとき、久しぶりに(直径×3.14)や(半径×半径×3.14)などの算式を思い出したが、円周率に関し仄聞するところでは、ゆとり教育の一環で「3」で計算してよい時期もあったらしい。
 それではあまりに簡略化が過ぎると思うが、一方、コンピュータで2兆何千億桁まで計算したとか、10万桁まで暗唱した人がいたなどと聞いても「それがどうした」と突っ込みたくもなる。
 何でも円周率「π」というのは「超越数」の一つなのだそうで、自然対数の底「e」(=2.718…)なども同類らしい。
 分数で表せない「無理数」も既に翁の理解の範疇を超えておるが、「代数的数でない数。すなわち有理数を係数とする代数方程式の解とはなりえない数」という超越数の定義を聞いても、数学者というのはつくづく別世界の住民であるな、という思いを新たにするのみじゃ。
 ところで、高校の数学で習った二乗して「-1」になる虚数「i」も不思議な存在であったが、そのπとeとiに関して、(eのπi乗)が「-1」になるという恐るべき「オイラーの公式」がある、とのこと。
 数学音痴の翁にはまるで、「妖怪」×「化け物」×「幽霊」=「人間」とでも言っている方程式に感じられるが、意外にこれはこれでこの世の真理を表す「オキナー(翁)の公式」かもしれぬな。



◆その163
 「来世こそ」

 人は千差万別。
 それが豊かな個性というものなのであろうが、背が高い、低いといった具合に二分法で表現されるあまり有り難くない属性も多い。
中でも極めつけは頭髪が「有るvs無い」という「個性」ではなかろうか。
「無い」、すなわち「禿」とか「薄毛」とか、決して自ら欲したわけではない境遇に置かれている諸氏は、人生なぜにかくも残酷な選別がなされねばならぬのかと、天を呪いたくもなるのではないか。
 さて、このほど約800万人の男性が悩み、何とか縋ろうとしている様々な薄毛治療法について、「日本皮膚科学会」が5段階で評価をしたという。
 中には「強く勧められる」というA評価のものも2つほどあったらしいが、他の多くは「根拠がない」とか「勧められない」との評価らしい。
 半世紀に近い苦しい闘いの末、今日の禿頭状態に至ったこの翁からすれば「むべなるかな」と、妙に納得してしまう結果ではある。
 だが同時に「男は外見ではない」などと強がってみても、「発毛実感コース」等を云々する「なんとか21」の怪しいCMがついつい気になるもう一人の翁がいるのは、心底「成仏」していない証拠であろう。
 しかし、現実を客観的に顧みれば、せめて来世においては、ロマンスグレーの、素敵な爺さんとなる人生を、心穏やかに歩んでみたいと願うのみじゃ。



◆その164
 「ペンと剣」

 最近新聞を読んでいて気になるのは、一つは御高説を垂れるといった論調の記事である。
 特に経済系の新聞において目に付くのであるが、あたかも自分が一流の学者であるかのように滔々と独自の政策を披瀝している事例である。
 この翁など「それは、あんたがそう思っているだけでしょう」と茶茶を入れたくなるのだが、文章には陶酔感すら窺われるものも多い。
 もう一つは、これは従前よりの傾向かも知れぬが、「我こそ正義。世を正す!」という論調の記事や論説等である。
 表面的には的を射た批判記事のようにも見えるが、読み込んでみると、背景に横たわる多様で複雑な実情をどこまで理解して書いているのか怪しいものも実に多い。
「あなたも完全無欠の人ではないでしょうに」
 とこれまた茶茶を入れたくなる。
「人は宗教の名において最も残酷なことをする」というのはパスカルの言葉であるが、「宗教」を「正義」に置き換えても十分通じるだろう。
「ペンは剣よりも強し」という格言は今や全く別の文脈で読まれるべきではないか。
 実際、ペンは剣以上に人を傷つけ得る。
 であるからして、それだけの「武器」を有する記者の方々には、せめて、例えば「八甲田」などといったペンネームではなく実名で、併せて相応の「覚悟」を持って責任ある記事を書いて欲しい、と願うのは、この翁だけであろうか。



◆その165
 「最小か最大か」

 いやはや、本邦初の本格的政権交代が起きてわずか8ヶ月、どたばた、あたふた、よろよろの末に、とうとうかの宇宙人首相が退陣に追い込まれてしまった。
 そもそも「解」のない方程式を解いてみせます、と大見得を切ったものの、やっぱり解けなかった結果であるからにして、「オウンゴール退陣」と名付けられるべき政変じゃな。
 その後を襲ったのが「イラ菅」こと菅直人首相であるが、その菅首相の主張を聞いて、「おや」と思ったのが「最小不幸社会」の実現という言い回しじゃ。
 その昔、高校の倫理社会の授業で教わった、18世紀イギリスの哲学者ベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉を連想してしまったが、こちらが政 治的フレーズとしては前向きで明るさが感じられるのに対し、「イラ菅」フレーズの方は、ファイティングポーズが似合う首相の履歴にふさわしくな い、奥歯に物のはさまったような、何となくむず痒くなるような言い様に思えるわい。
「不幸を最小化」するか「幸福を最大化」するか、判断の分かれるところではあるが、ある程度経済が発展し、成熟を遂げた日本社会においては内向きの表現も有効なのかも知れぬ。
 いずれにせよ、「最大多数の最小幸福」や「最大不幸社会」の実現だけは勘弁してくれ。
 のお、「イラ菅」首相よ。



◆その166
 「来世こそ その2」

 奈良興福寺の阿修羅像は哀愁を帯びた表情で人気があるが、元来阿修羅は帝釈天との闘争に明け暮れる古代インドの神であり、修羅場とはその血生臭い戦乱の場を意味する。
 ところで、今宮崎県で起こっている口蹄疫騒動は、遠い県のこととは言え、「同情の念を禁じ得ない」などという表現ではとても言い足りぬ厄災であり、何十 万頭の牛や豚が薬殺され、ブルドーザーで掘られた巨大な穴に埋められる様子は、まさに修羅場としか言いようがない。
 飼育農家の方々も胸の張り裂けるような災難事であろうが、牛や豚たちも、無念やるかたない思いで死んでいったのではないか。
 なんでも、仏教においては「六道輪廻」という概念があり、衆生が、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界を生まれ変わり、死に変わりして迷妄の生を続ける、とのこと。
 うち「畜生道」は牛馬などの畜生がほとんど本能ばかりで生き、自力で仏の教えを得ることの少ない世界とされるが、彼らはこの度「修羅場」をくぐったので あるからにして、せめて来世においては、苦しみの大きい世界であるが、楽しみもあり、また、仏にもなりうるという「人間道」に生まれ変わって欲しいもの じゃ。
 それが、本来は、然るべく肥育され、尊い命の連鎖の一環として我々人間のための「食肉」となるはずであった彼らの輪廻の道ではないだろうか。合掌。



◆その167
 「ふしだらがいっぱい」

 今朝新聞の社会面を見ていたら、「○○県警は、18歳未満と知りながら同市内のホテルで女子高生にみだらな行為を行ったとして自衛官Aを県青少年健全育 成条例違反の疑いで逮捕した」という記事と「…調べによると、小学校教諭B容疑者は自宅のアパートで15歳の女子生徒が18歳未満であると知りながら、 いかがわしい行為をした疑い」という記事が並んで載っておった。
 社会的責任ある立場にある者がなんという不届き千万な事件をしでかしたものじゃ、とこの翁、大いなる憤りを覚えたのであるが、ふと「みだらな行為」と「いかがわしい行為」はどこがどう違うんじゃろうか、という疑問を同時に抱いたのも確かであった。
 それらが「反道徳的な行い」であることは論を俟たないのであるが、かててくわえて、以前「わいせつな行為云々」という記事を読んだような気もするし、確か「ふしだらな行為」や「いたずらをした疑い」といった表現もあったような気がするぞ。
となると気になるのが、そもそも新聞記者はこれらの表現を意図的に使い分けておるのかどうか、ということじゃ。
 もし使い分けの基準というものがあるのであれば、それは具体的・詳細的・類型的にどのようなものなのであろうか?
 社会的義憤に燃え上がった翁は、日がな一日、誠もって「ふしだらな」妄想の森に分け入ってしまったのであった。



◆その168
 「そしてみんな無くなった」

 読者諸兄もそんな経験はないだろうか。
 街を歩いていると、「おやこんな建物が新しく建ったのか」と気づくことはままあるじゃろ。
 一方、先日、散歩の折のことだったが、ある更地になった土地が目に入ってきたとき、はてここには何があったんだっけ、どんな建物が建っていたのかしらん、としきりに思い出そうとしてもどうしても思い出せなかった。
 だんだんそんな事が増えてきたようで、これも頭が呆けてきた証左だろうか、とため息が出てしまう。
 何でも脳細胞は一日平均約10万個減っていくそうじゃが、「どんな建物?」もそれらの脳細胞と共に漆黒の闇の中に消滅していってしまったんじゃろか。
 しかし、つらつら考えてみるに、「出来たものには気づくが無くなったものは思い出せない」というのは、もしかすると数ある「思い出せない」もののうちの ほんの一部であって、本当は「無くなった」ことにすら気づいていないうちに記憶の網からこぼれ落ちていってしまう「建物」の方が圧倒的に多いのではないだ ろうか。
 これは誠に危ない話ではある。
 自覚なき脳縮小の世界と言ってよいのではないか。
 もしそうだとすれば、近い将来、翁の脳味噌の中は、一面見晴らしのよい「更地」だらけになってしまうかもしれんな。
 もっとも、そのときの翁が「更地」という認識を有しているかどうか、はなはだ疑問ではあるが…。



◆その169
 「歴史は繰り返す?」

 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が好評である。
 物語は「薩長同盟」締結の局面へと差し掛かり、いよいよ佳境に入ってきたようだ。
 薩摩藩や長州藩等々利害が対立する様々な勢力が打倒徳川幕府という一線で協力し合い、事実「同盟」の2年後に幕府を崩壊せしめたのが明治維新であった が、新たに政権を担った有力者たちが一致団結して国政を切り盛りしていったか、といえば実態は不協和音の連続であり、その帰結たる最大の出来事が明治10 年に勃発した「西南戦争」であった。
 明治政府の方針に異を唱え、ふるさと薩摩に引きこもっていた維新最大の功労者である西郷隆盛に対し、その側近である桐野利秋や村田新八、篠原国幹たちは 「西郷先生、このままではせっかく新生なった日本国はだめになってしまいます。この国難を救えるのは先生しかおりません。西郷先生、是非とも立ち上がって ください。御出馬を、御出馬を」と盛んに嗾け、ついに重い腰を上げた西郷が、「今般政府へ尋問の廉これあり、云々」という趣意書をもって鹿児島を出立した のが西 南戦争の始まりであった。
 280年の長きにわたった徳川幕府から国家権力を奪取したまではよかったが、新たな支配勢力ゆえの権力闘争もまた不可避だったのである…。
と、ここまで書いてみて何か最近、よく似たような出来事が起こっているような気がするのは、単なる思い過ごしじゃろうか?



◆その170
 「ハンティング」

 先日近くの公園を散歩していたときのこと。
 近づいてきた女性2人づれの1人が、いきなり大きな声で「あれ。そっくりだ。もしかして…」とこの翁に声をかけてくるではないか。
「一体誰にそっくりなのか」と訝りながらも、ほぼ同年代のやせた女性の顔をまじまじと見てみると、なにやら昔中学校の同窓生にそんな女性がいたような気も して、「もしかして△△中学の卒業生ですか?」と返答したところ、「そうではないけれど、もしかすれば私の娘とお宅様のお子様が同級生で、その関係で顔を 覚えているのかしら。ちなみにお子様は今どちらに。お元気でお過ごしですか?」とたたみ掛けてくるではないか。
 その辺りでワシの顔に怪しむ色が浮かんできたのを見て取ったか、女は「実は娘が、大変不幸な境遇にありまして」と切り出し、やおらバッグから「御先祖様を敬う会」とかなんとか書かれた紙切れを取り出したではないか。
 何のことはない、宗教の勧誘だったのじゃ。
「いやいや結構」と立ち去ったが、あのまま話を聞いていたら、「お子様に災いが及ばぬように云々」とか続けたんじゃろ。
 あの爺さんならひっかかるかもしれない、と見くびられたようでしばしの間、癪であったわい。
 それに比べれば、自転車で近づいてきて「チョット、ヨロシイデスカ」と話しかけてくる妙なヘルメットをかぶった二人組の米国人の伝道師がとっても誠実に見えてくるわな。



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