[連載]

   181話〜189話( 如 翁 )


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◆その181
 「なんであの人が症候群」

 最近、なんであの人が、と首をかしげざるを得ない人物が自治体の長に就く、就いている、もしくは就いていた事例が目につく。
 専決処分ばかり繰り返して悶着を起こしては結局リコールの上選挙で敗れたT市長、目的のためには府知事を辞めて市長に立候補する事もあり得ると宣う若い H知事、なかんずく自分で辞職して市長選挙に立候補するとともに、気にくわない市議会の解散を問う住民投票と知事選挙のトリプル選挙を仕掛けた「みゃ あ、みゃあ」弁のK市長がその最たるものであろう。
 これら首長に共通するのは、公約や政治行為は疑問だらけではあるが、住民の人気が高く、選挙に強い、ということ。
 自分のところの首長ではないから、と無関心ではいられない。
 各種メディアや歪んで発達したネット空間を通じて、これら「疑問首長」の行為はインフルエンザのように、当該の地方自治体の範囲を超えてまたたく間に広まっていく恐れがある。
 例えば減税を唱えて当選し、実際減税を行えば“善良なる”市民は誰でも喜ぶであろうが、もし全国全ての首長が減税を唱えて当選すれば我が国はどうなってしまうのか。
 結局は帳尻が合ってしまう将来に禍根を残さぬよう、時には住民に敢えて我慢を強いるのが真のリーダーと思うのじゃが。
国政を含め、“パンとサーカス”だけが目立つ昨今、改めて政治をネタにするテレビ番組の「弊害」を再認識させられるわい。



◆その182
 「三者三様」

 この度の芥川賞は朝吹真理子氏の『きことわ』と西村賢太氏の『苦役列車』のダブル受賞となった。
文学にはあまり関心のない翁ではあるが、選考会では朝吹氏が高いポイントを獲得し、早々と受賞決定、次の投票で過半数を獲得した西村氏も受賞した由。
 しかしながらこの二人、経歴も風貌も両極端じゃな。
 朝吹氏はいかにも良家のお嬢様然(実際そうらしいが)とした才女であるし、片や西村氏は中卒の経歴でアルバイトを転々として食いつないできた生活だったとのこと。
 受賞時のコメントも「これから風俗に行こうと思っていたとき知らせを聞いた」などと破天荒なお方である。
西村氏には申し訳ないが、まさに「美女と何とか」じゃ。
 しかしながら、翁が気になったのは、選評を述べた島田雅彦氏である。
 同氏も若いときから著名な作家であり、実際6回芥川賞候補となりながら、結局授賞できなかった過去を持つ。
 その島田氏が選考委員を代表して選評を述べたとき、どのような感慨が胸をよぎったのであろうか。
 フィギアスケートの採点と同様、芥川賞の選考もポイント制で、一応は点数化がなされるが、結局のところ委員の主観も大きな意味を持つのではないか。
 安易な推測は慎まなければならないが、芥川賞のレベルも時代により変動するものだな、と島田氏が思ったかどうか。
 まあ、今は自らの賞も創設されている太宰治ももらえなかったのだから……。



◆その183
 「それでもなお」

 まさかに、翁が生きている間、このような大災害が発生するとは想像だにしておらなんだ。
今回の東日本大震災は、まさに太平洋戦争以来、最大の国難である。
いまだ被害の全容もつかめぬし、福島の原発も予断を許さない危機的状況が続いている。
この歳にして改めて何事もなく普通に暮らすことの幸せを思い知らされたわい。
 それにしても、大自然の猛威の前には人間という存在の如何にか弱いことか、何と無力であることか。
テレビ画面に映し出される津波の傍若無人の振る舞いには、ただただ恐れおののくしかない。
そして子を亡くした親、親を失った子、配偶者を奪われた人、その光景には表現すべき言葉も見つからない。
その心情を思いやるべき立脚点も見いだせない。
しかし、人間はかくもか弱い存在ではあるものの、同時に屈強な存在であることも信じたい。
 現に、劣悪な環境の中でたくましく生き、前を見据え、活動を始めている人たちもたくさんおられる。
あまたの厄災に打ちのめされながらも、それでもしっかりと生活の場を築き、繁栄を手に入れてきた人類の長い歴史の様相を進行形でしっかりと目の当たりにしているようだ。
翁はキリスト教信者ではないけれども、イエス・キリストが述べたという「苦しいときほど笑え」という箴言(しんげん)を胸に刻みながら、今何ができるのか、何をなすべきなのか、静かに考えてみることにしたい。



◆その184
 「せめてもの教訓」

 こりゃ「あ“かん”」、本当に「遺“かん”」、当面「浮“かん”」、ほんまに「え“かん”」、ざわっと「悪“かん”」。
人の悪口は言いたくないが、我が国の最高責任者であるのだから、公憤として申し述べてもよかろう。
戦後最大の国難であるこの度の大震災に当たって、かくもレベルの低い首相の手に復旧・復興・再生を委ねなければならないというのは、日本国にとってもう一つの〈国難〉と言ってもよいのではなかろうか。
この人物は市民運動家の市川房枝氏の選挙参謀を務めたことを契機に政界入りしたようだが、(若い頃は)見た目の良さと激しい〈口撃〉でのし上がり、政局の混迷もあってとうとう一国の総理までのし上がってしまった。
既にリセットはできないのであるから、せめてこのもう一つの〈国難〉から国民は教訓を学ぶべきである。
一つ、企業でも役所でもよいから組織を経験した者を政治家として選ぶべき事。
二つ、年齢やルックス、不確かなイメージで政治家を選ぶべきではないこと。
そしてこれが最も重要と思うのだが、三つとして、代案のない批判ばかり展開している者は信用してはならないこと。
欠陥のない制度・システムなど存在しないのだから批判はいとた易い。
しかし、社会の維持・創造は批判によっては代替できないのである。
おっと、この最後の教訓はマスコミ、とりわけ新聞にも十分当てはまるやも知れぬな。



◆その185
 「杞憂」

 古代中国に「杞」という小さな国があったが、その杞に「天が落ちてきたらどうしよう」と心配でおちおち眠れず、食事ものどを通らない男がいたそうな。
「天は空気と同じで落ちてきたりはしないものだ」と諭されても納得しなかったという。
ご存じ、取り越し苦労を意味する「杞憂(きゆう)」の逸話である。
ところが、この度絶対落ちるはずのない「天が落ちて来た」ような事態が発生した。
5重の防御システムに守られ、絶対に安全であると国民が信じ込まされてきた原子力発電の事故である。
実際に起きてしまった厳然たる事実の前では“想定外”という理屈は何の意味もなさない。
結局は“想定内”での安全神話だったのであり、ひとたびそのタガが外れるや、東京電力のエリート技術者たちが試みた対策の中には、土嚢を積んだり、新聞 紙やおがくずを流して汚染水を止めるとか、入浴剤を流して流水の経路を調べるとか、およそ科学技術の粋を集めて構築されたという原発システムには全く似つ かわしくない、原始的で滑稽な行動もあった。
今回の厄災の根底には、やはり自然に対する畏怖の念を忘れた科学の「思い上がり」があるのだろう。
大自然の中では何が起きるかは人知の及ぶところではないようだ。あの3月11日以降、「杞憂」は「天が落ちてきたらどうしよう」と心配した「杞」の国の男の正しさを称える故事成語に生まれ変わるかも知れぬな。



◆その186
 「むがしっこ 原子力編」

 むがし、むがし、日本さゲンシリョグ村っていう裕福だ村があったんだど。
そのながでもいぢばん金持ぢのトーデンってうぢっこあって、太郎、次郎、三郎、四郎、五郎、六郎って六人兄弟いだんだど。
その兄弟、ちっちぇどぎはおどなしくて、親の言うごとも聞いで、うぢの手伝いもちゃんとやってらどごで、だんだん親だぢ油断して、兄弟の躾けば疎かにしたんだど。
とごろが、あるどぎ村の中で、でったらだ事件あって、そればきっかげにして兄弟だぢ、「自我」に目覚めでまったんだど。
したっきゃ、ほれ、その兄弟、五郎と六郎は、まだいがったんだばって、太郎ど次郎ど三郎ど四郎は、殴るわ、蹴るわ、癇癪おごすわ、いやがらせするわ、って、暴れ放題、手つけらいね乱暴者になってまったんだど。
親だぢ、どせばいがわがねぐなって、村長さ相談したっきゃ、その村長「おめだぢまいねんだね」って、たんだ怒鳴るだげだし、家庭教師の先生だぢさ「あんた だぢの教育方針どおり育でだのに…」って愚痴ったっきゃ、「おらだぢ、所詮は他人だね。自分の子どもだんだはんで、あんただぢの責任だっきゃ」って、ほお かぶりしたんだど。
そのうぢ、よその町や村さも迷惑かげるようになって、ゲンシリョグ村、仲間はずれにされでまったんだど。
それがらどしたがって? 村誌さそのあどの記録っこねえどごで、残念だばって、全くわがねんだじゃ。
どっとはらい。



◆その187
 「起きたことと起きること」

 この翁、数学はからきし苦手なのじゃが、そうは言っても日常生活上どうしても数学的なものとの付き合いは避けられない。
例えば天気予報の降水確率じゃ。
その数字を見て傘をもっていくかいかないか、の判断材料にせねばならない。
それにしても今日の雨の確率が50%と言われても、判断に迷うことしきりである。
ところで、例えばサイコロを振って、偶数・偶数・偶数…、と5回連続して偶数の目が出た場合、次の6回目の数字は偶数か奇数か、と問われるとどう考えたらよいのか。
偶数が5回も連続して出たのだから、そろそろ奇数ではないか、とも思えるし、5回も連続して出たのだから次も偶数ではないか、とも思えるが、正解はそれぞれが2分の1の確率で同じなのだそうだ。
つまり過去にいくら珍しいこと(偶数が5回連続で出る)が起こっても未来はそれに引きずられはしない、つまり過去の確率と未来の確率は別物、ということのようだ。
となると気になるのは最近すっかり定着した「千年に一度の」という表現をどうとらえるか、ということである。
東日本大震災は千年に一度の大地震と言われるが、では次に同程度の大地震が起きるのはいつなのか?
何となくあと5、6百年は起きないような気がするが、先の教えから言えば、明日起きるのも千年後に起きるのも同じ確率ということではないか?
 あとは神仏に祈るしかない、ということじゃな。



◆その188
 「しみん、って何?」

 この翁、青森市に住んでいるから、青森市民なのじゃが、「市」に住んでいなくても「市民」である、という人種が我が国には存在するらしい。
官僚や国、自治体などの「悪の権力」に対峙する「絶対的善」を体現する「正義の味方」を自任しているのがその特徴である。
その活動を「市民運動」と言うらしい。
また、その世界に属していることをもって「市民派」と称するらしい。
おそらくは西欧における概念を持ち込んだものと思われるが、何となく格好がいいわな。
ただ識者によれば、あちらの世界の「市民」は「責任」とか「義務」、「公共」と表裏一体のものであるにも関わらず、日本に輸入された「市民」はいいとこ取りのご都合主義なのだそうだ。
まあ簡単に言えば、自分のことは棚に上げて、「悪の権力」に文句をつける、苦情を並べる、不平を言う、ことこそが「市民」の役割であると大いなる誤解をなされているらしい。
オンブズなんとか、もその類と思われるし、中には「プロ市民」という「専門家」までいるのだそうだ。
一部マスコミもそうした輩の肩を持つから「市民」たちもますます蔓延るわけだ。
しかして、その実態はほとんどクレーマー、不平屋と変わらず、便所を「ラバトリー」と言い換えているようなもんじゃな。
そして、今の日本の「最大不幸」はそんな「市民派」を標榜する政治家が政権のトップに居座っていることじゃて。



◆その189
 「悲しき“運び屋”」

 だんだん「冥土の旅」が近づいてくると、哲学にはとんと無縁のこの翁も何故人間は老化し、そして最後は死ななければならないのか、そこに何か意味があるのだろうか、などと「生」の意義を考えることが多くなった。
ものの本によると、男の遺伝子と女の遺伝子の合体によって子ができるという「有性生殖」こそが、我々が「かけがえのない自分」である理由であるとともに「命に限りがある原因」でもあるそうな。
なんでも、皮膚や内臓などを形づくる体細胞は無限に細胞分裂を繰り返せず、分裂ができなくなるとその臓器は「死」を迎えざるを得ない。
それが肉体としての「死」を意味するわけだが、一方精子や卵子といった生殖細胞は老化せず、若いままで「互いの出会い」に備えているのだそうだ。
生物学的には生殖細胞こそが主役であり、体細胞、すなわち我々の肉体はその主役をガードし、未来へ伝えていくための単なる“運び屋”にすぎないという。
人間以外の動物はその営みを粛々と継続しているのに対し、大脳を発達させ、「思考」するに至った人間だけが、その“運び屋”たる役割に不満を持ち、死を忌避するようになったのだそうで、それが「宗教」の始まりだともいう。
出来は別として、一応二人の子を成したこの翁、すでに生物としての役割は終わったということじゃな。
あとは体細胞が何度分裂できるか、「余生」の長さはそれ次第ということか。



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