[連載]

   11話〜20話( 如 翁 )


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◆その11
 「三位一体の改革」

 つい先日終わったと思ったらまた相撲だ。
 特にテレビ観戦するわけでもないが、15日間なんだかんだとニュースとしてつきあわされる。
 いくら国技とはいえ、年6場所という運営にそもそも無理があるのではないか。
 人気が低迷しているのもスター不在のせいばかりであるまい。
 この翁は経済学などてんで信用していないが、それが「供給過剰による価格の低下」という教科書的な事例であることは認めざるを得ないし、そればかりか近 頃やけに時間が経つのが早く感じられるのは、ひょっとしたら大相撲の回数が多すぎるからではないか、などと本気で疑い始めているのである。
 その昔は、「一年を十日で暮らすいい男」などと羨望された力士であるが、彼らもさぞかしお疲れだろう。
 協会も観客の減少による興行収入減で頭が痛いだろう。
 NHKだって放送時間がもったいないのじゃないか。
 三方一両損状態だ。
 状況打開のため、この際、ライオンヘアのあの方に再度土俵に登場してもらい、「場所数カットなくして人気回復なし!」と絶叫してほしいものだ。
 それが本当の「三位一体の改革」だと思うのだが……。



◆その12
 「翁への挑戦」

 この翁は、毎週日曜日の中央紙に掲載される書評欄を読むのを楽しみにしているが、その静謐なひとときにさざ波を立ててくれるのが同じ紙面の下段広告である。
 かくしゅ出版物の宣伝に混じって、たいてい『三十路の女〜九人の熟女が見せる、人生経験豊富な大人の身体』などという豪華写真集の広告が掲載されているのだ。
 日曜の朝からこんな類の文章を読んでよいものか、と自問自答しながらも、そこはそれ、ついつい字面を追ってしまうのが悲しい性。
 思うに、この手の熟女の写真集を若者が好むはずもなかろうから、PRの対象はおそらくこの翁をはじめとする中高年男性なのであろう。
 需要があるから供給があるのか、はたまたその逆なのかは判断がつきかねるが、高齢化社会を考えるにあたっての重要な問題提起として認識すべきかもしれない。
 と同時に、個人的には、こうした写真集は「翁への挑戦」と受け止めざるを得ない。
 その挑戦を受けて立つか、平和的に争いを避けるか、結構なお値段との相談も併せ、日曜日が来るごとに心乱れる翁なのである。



◆その13
 「三県ガッタイ」

 青森県、岩手県、秋田県の「合体」が検討されているそうな。
 なんでも、2010年を目標にミニ道州制の東北特別県を形成するのだとか。
 市町村合併が進んだ後、広域自治体としての県の存在意義が問われる事態がやってくる、ということが問題意識としてあるらしい。
 しかし、市町村合併の場合もそうだが、こうした制度変更の言い出しっぺはいつも役人である。
 自ら原因となる状況を招いておいて、自ら“改善策”を提起する。
 典型的な“マッチポンプ”と言わざるを得ない。
 「合体」によってそこに住んでいる住民(県民)の生活がどうなるのか、果たして住民にメリットはあるのか。
 そんな視点はほとんど感じられない。
 検討している人間が、県庁職員としての目線に忠実すぎるのかも知れない。
 彼らも家に帰れば、一生活人だろうに……。
 そもそも「ガッタイ」などという、怪しげな言葉が使われていることに疑問を感じるべきなのだ。
 それにしても、三県が「ガッタイ」したら、夏の甲子園大会の代表校はどうやって決めるのだろう。
 それだけが心配だ。



◆その14
 「自治体恋愛模様」

 青森県においても市町村合併論議が熱を帯びている。
 どことどこがくっつくとか、いったん設置した協議会から離脱したとか、離合集散、常ならぬ状況だが、報道などにおいて、そうした動きはしばしば男女の関係になぞらえられる。
 「熱烈なプロポーズ」とか「相思相愛の仲」「片思い」「破綻」といった類だ。
 けだし、合併を結婚にたとえるのが分かりやすく、また人々の関心を引きやすいからであろう。
 確かに、合併を巡る動きには男女の恋愛に通ずる機微があるようだ。
 モテモテの自治体もあれば、どこからも見向きもされない自治体もある。
 浮気性な自治体もあれば、なかなかに身持ちの堅い自治体もある。
 自治体恋愛模様は実に複雑だ。
 ところで、合併が結婚に擬せられるとしたら、いくつかのタイプに分類できるかも知れない。
 まずは「恋愛結婚」、これはわかる。
 次は「見合い結婚」、これもありうるだろうな。
 では、「政略結婚」、う〜む意味深じゃ。さらに「足入れ婚」、今でもあるのかの。
 最後は「できちゃった婚」、何のこっちゃ?



◆その15
 「数学頭」

 その昔、少年だった頃、同級生に必ず数学の得意な生徒がいたものだ。
 そんな生徒は「数学頭」と呼ばれていたな。
 みなさんも覚えがおありだろう(おっと、あなたが「数学頭」だったら御免なさいよ)。
 なんで、あんな難しい方程式がすらすら解けるのか、なんで、あんな補助線を引くことを思いつけるのか、数学が大の苦手であったこの翁には誠に不思議であり、また心底うらやましかったものだ。
 「自分も数学頭になりたい」という虫のいい願いはもちろん叶えられるわけもなく、学生時代を通して数学の点数は低空飛行を続けたものであった。
 社会人になって、直接数学とつきあう機会がなくなっても、相変わらず論理的思考というか、縦横きっちり合った考え方というか、いわば数学的思考は不得手なままで、会社でも企画書づくりや交渉ごとなどで苦労したものだ。
 挙げ句の果て、今では若い医者から「では100から7つずつ引き算してみてください」と問われ、何とか正確に計算するのがやっと、という情けない状態じゃ。
 ああ、我が人生に悔いあり! 本当に数学頭になりたかったわい。
 まあ、その代わり「はげ頭」にはなれたか。



◆その16
 「ムラ社会のルール」

 何故朝刊の最下段に横長のコラムがなければならないのか。
 近頃とみに不思議に感じるようになった。
 例えば、朝日は「天声人語」、讀賣は「編集手帳」、毎日は「余録」、東奥日報は「天地人」、というように、中央紙、地方紙とわず判で押したように同じパターンである。
 なんでもこのスタイルは明治35年に「大坂毎日」が始めた「硯滴(けんてき)」に由来する伝統的なしきたりらしい。
 推察するに、各新聞社はワンパターンであることは重々承知しつつ、毎日同じ場所に“店”を広げているのであり、それは彼らがジャーナリズムというコミュニティー(ある意味でムラ社会)の住人であることを外部に誇示する手段となっているのではないのか。
 であればこそ、それは第一面に、重々しく鎮座しなければならないのであろう。
 同時にムラ社会の内部では、その文筆の冴えを競ってお互い鎬を削っているというのが実情なのだろう。
 それにしても、ほとんどが800字前後、6節から成り立っているところなど、厳格かつ古風なルールが内輪では存在しているらしい。
 ほとんど五言絶句などの漢詩ワールドである。
 とてもこの翁などの及ぶところでないわい。



◆その17
 「アイソなし」

 タクシー業界の話。聞くところによると、一般的にタクシ-1台あたり人口500人が適正経営規模らしい。
 例えば、青森市の場合、人口約30万人だから600台くらいがほどよい台数となるが、実際には約1000台走っているというから、相当の過当競争状態にあるわけだ。
 本来こうした状況は競争原理が働いてサービスの向上に結びつくはずなのだが、何故か青森では話が逆で、返事はしないは、お礼は言わないは、といったドライバーの態度に苦情が絶えないのが実情。一言でいえば愛想がないということだろう。
 そこで翁(おきな)からの提言。
 まずタクシー協会が「アイソ」なる地域通貨を発行し、広く普及させる。
 そして、乗客は接客マナーに満足したら、料金に加え、1アイソをドライバーに渡す。
 ドライバーは会社でアイソを現金化する。
 1アイソ百円くらいが妥当か。
 これにてドライバーの愛想はよくなり、ホスピタリティーの向上も間違いなし。
 文化観光立県宣言の青森県も大喜びだろう。
 えっ、換金のための財源はどうするか教えてほしい?
 あいにく愛想なしなもので、そんな七面倒くさい質問には返事したくないわい!




◆その18
 「象牙の塔」

 今回は大学の話。
 最近大学にも評価制度が導入されているようだが、我が青森県に存する各大学はどんな按配なのだろうか。
 翁は特に最初に設立された公立大学に大いに注目している。
 というのも、管見ながらその大学に関しては本来の設立の主旨であるところの地域貢献の度合いがはなはだ小さい気がするからだ。
 現象としては大学の先生方が地域社会から隔絶した場所にお隠れになっている印象が拭えないのである。
 “顔が見えない”といってもよいだろう。
 東京から“通勤”している先生も多いらしいが、それだけが理由ではあるまい。
 つまるところ、我々田舎の住民と交わることを潔しとしない方もおられるのではないかの。
 まあ、学者の世界というのも複雑らしいが、青森でのステータスを維持するために敢えて地域住民と距離を置くというのであれば、それは自分たちが常日頃抱いている意識の裏返しと思われても仕方あるまい
 むしろ翁などは、先生方が“山”から下りてこないのは、もしかしたら馬脚を露すのを恐れているからではないか、と密かに推測しているのである。
 「象牙の塔」もなかなか大変じゃ。



◆その19
 「官」それとも「民」

 歳をとると、些細なことが気になってしようがない。
 よく県や市町村の報告書などで使われる「官民一体」とか「産学官」という表現もその一つ。
 どこが気になるかというと「官」という字の扱いである。
 おそらく地方自治体では「官」を「行政」という意味で何気なく使用していると思うのだが、正確を期せば「官」を名乗れるのは国家だけなのである。
 地方自治体の職員はあくまで吏員であり、官員ではない。
 そもそも来歴を遡れば、かつて諸国の上に君臨していたのが「官」であり、諸国の“末裔”である都道府県や、さらに明治以降に誕生した市町村は、むしろ「民」と位置づけられるべき存在なのだ。
 よって、これまで地方自治体が「官民」などと表現してきたことは自らを国家に近いものと認識してきたことの証とも言える。
 だが、この翁は、これからの地方分権時代においては、県や市町村はむしろ「民」であるという意識を持って「官」=国に対峙していく覚悟が求められると思うぞ。
 まあ、世の中知らない方が幸せということもあるから、あまり目くじらを立てるのもどうかと思うが、老婆心ながら、あえて小言を述べた次第。



◆その20
 「仁義なき闘い」
 新聞の広告欄というのはなかなかに面白い“劇場”だ。
 特に週刊誌などマスコミ系の広告は記事以上に楽しませてくれる。
 例えば週初めは、週刊現代vs週刊ポスト、そして週の後半は、週刊文春vs週刊新潮、という取り組みが組まれ、両者がっぷり四つの状態だ。
 地方紙などでは、その広告が同じ紙面の下段に隣り合って掲載されている場合も多い。
 お互い〈不倶戴天の敵〉だろうから、別の頁に載せればよいものを、と思ったりもするが、場所を提供する新聞社側としては、出稿料もほぼ同じだろうし、両者を異なった扱いにするのも、痛くない腹を勘ぐられるようで、いやなのだろう。
 かくして消極的理由をもってライバル同士が〈仲良く〉並び、どちらの「裸」が素晴らしいか、週初めから競い合う状況と相成るわけだ。
 まさに、高度の政治判断。
 しかし、その新聞社にしてからが、系列の週刊誌間の争いは熾烈だ。
 週刊朝日の広告が毎日新聞に載るのも、その逆のケースも当たり前。
 が、どうせなら、この際読売新聞がその広告を朝日新聞に掲載して殴り込みをかけるなど、徹底的に仁義なき闘いを繰り広げて、この翁を楽しませてほしいものじゃ。




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