[連載] | |
31話〜40話( 如 翁 ) |
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◆その31 「政治の要諦」 何年か前、ある政治家の「政治の要諦は、体をさすっているようで叩いており、叩いているようでさすっている、ということだ」という発言を新聞で読んだとき、翁も歳はくっているが、まだまだ教えられることが多い、と深く感じ入ったものだ。けだし名言である。 昨今の政治の動きを見る際も、この哲理に照らし合わせれば、味わいがグンと増すというものだ。 また、歴史的にも普遍性があるのではなかろうか。 例えば、みちのくの雄伊達正宗に一目も二目も置き優遇しながらも、決して警戒と牽制を緩めなかった徳川家康などはまさに件の「政治の要諦」を熟知していたと言えよう。 ともあれ、古今を問わず、権力の座をめぐる政治というものは、表、裏、斜め、横、それこそ見る角度により異なる色彩を放つ万華鏡のようなものらしい。 また、政治家にとってはそうした腹芸を身につけることが「一寸先は闇」の世界を生き抜いていくための必須の知恵なのだろう。 その点我が家の“家庭内政治”は分かりやすいぞ。 なにしろ老妻の政治指針は、「翁の体をさすっているようで叩いており、叩いているようで叩いている」というものじゃからの。 ◆その32
「もの忘れ」 最近もの忘れが激しい。このままボケ老人になってしまうのかと不安を覚えるほどだ。 これではいけないと『もの忘れで困らない本』なるノウハウ本を買って読んでみた。 それによると、年齢とともに記憶力が落ちるのは、脳が自堕落をするかららしい。 つまり、若いときにものがよく覚えられたのは、とにかく試験をパスしなければならず、いやいやながらも記憶の訓練に次ぐ訓練をせざるを得なかった。 ところが社会人になるとそうした機会がぐっと少なくなるため、緊張が緩んでたちまち脳が記憶の手抜きをするというのだ。 ふむ、なるほどの。 本体が本体なら、脳も脳、といったところか。確かに翁も身に覚えがあるわい。 ともあれ、様々な記憶法や、脳の働きをよくする食べ物、べからず集など様々なアドバイスが載っておったが、一番の収穫はもの忘れは老化の宿命ではない、ということを教えられたことだ。 翁もほっと一安心。 「記憶を鍛える!」という強い信念さえあれば、なんとかボケずにすみそうじゃ。 つくづくこの本を買ってよかったと思ったのだが、ふと見ると本棚にこれと同じ本があるのは一体どういうことなのじゃろう。 ◆その33
「阿波守」 ある人が若くして亡くなった。まわりの人は言った。「彼はいつもビールを飲んでいたからな」。 また、ある人が長生きの末亡くなった。まわりの人は言った。「彼はいつもビールを飲んでいたからな」。 ビールの国ドイツの小話であるが、さすがはこくのある教訓となっている。寿命を延ばすか縮めるかはともかく、ビールは旨い。特に夏の風呂上がりの一杯はこたえられないし、冬のスキーの合間に飲むのも、春や秋の爽やかな風の中でいただくやつも、負けず劣らず旨い。 このビール、何でも古代エジプトでつくられたらしいが、当時は冷蔵庫があるわけでなし、苦くて生ぬるい泡、といった代物だったのではないか。それをここまで洗練された味に育て上げた先人には本当に感謝せねばならぬ。「泡の神」として祀りたいほどじゃ。 そしてこの翁は“阿波守”としてこれからもその恩恵にあずかり、「翁は幸せな一生を送ったね」、「彼はいつもビールを飲んでいたからな」、などと言われたいものじゃ。 ゆめゆめ「翁はトイレが近かったの」、「彼はいつもビールを飲んでいたからな」といったレベルで終わりたくないわい。 ◆その34 「本当のメセナ」
最近のテレビ番組の乱れには日頃温厚な翁も腹が立つ。 悪ふざけしているタレントのような連中を映すだけの番組が番組として成り立っているのが不思議でならない。 そんな番組を喜んで見る方も見る方だが、民放も視聴率さえ稼げばいいというのでは情けないし、そもそも公共の財である電波を使用する資格もなかろう。 さすが悪質な番組にはテレビ局に苦情が寄せられるようだが、一向に改善されないところをみると、ここらで申し立ての矛先を変えてみる必要もあるのではないか。 翁は、民放以上に、劣悪番組のスポンサーにのうのうと収まっている企業が責められるべきだと思うのじゃ。 「そんな下劣な番組で儲けて恥ずかしくないのか」という批判の声をその企業に届けることが一番効果的ではないか。 場合によっては商品の不買運動という“一揆”も必要かも知れない。 おそらくそれしか魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちの巣窟である「テレビ界」を変革する方法はないと思うぞ。 いずれにせよ、メセナだの、パトロネージだの言う前に、社会的存在としての企業が自ら悪質番組にブレーキを掛けることこそが本当の意味での「芸術・文化の援護活動」ではなかろうか、な。 ◆その35 「自律神経失調症」 最近、行政、特に県などの地方自治体の世界において「評価」とか「点検」といった作業が流行っているらしい。 納税者の立場からすれば、税金が有効に使われているかどうかチェックするための手続きなのであれば大歓迎だが、必ずしもそうでない面もあるようじゃ。 「為にする評価」と言っては失礼かも知れぬが、先進的な自治体がやっているから、うちもやってみるか、といった程度の動機で始められたものも多いような気がする。 「評価」するためには時間も労力も必要であろうし、「評価」のやりすぎはかえって税金の無駄遣いにもなりかねない。 それに「評価」「評価」と言うことで住民に対する責務を果たしたような顔をされるのも迷惑な話だ。 翁はむしろ一定の予算の中で、10センチでもいいから道路を、1メートルでもいいから新幹線の鉄路を延ばすことこそが行政の仕事ではないか、と思うぞ。 くれぐれも本末を転倒させてほしくないものじゃ。 なんでも人の神経には交感神経と副交感神経があり、後者は抑制的な働きをするというが、お役所も“副交感神経”の“跋扈(ばっこ)”を程々にしておかないと、“自律神経失調症”になってしまうぞ。 ◆その36 「なすべき時間」 生まれるときに親を選べないように、人は死ぬとき死に方を選べない。 人生の最初と最後がどうにもままならないのだ。 誠につらい定めである。 近頃知人の訃報に接することも多くなり、その都度この定めを深く思い知らされる。 ところで、聞くところによると、欧米ではガン死はそんなに悪い死に方ではないと考えられているそうだ。 “その時”までに、ある程度なすべきことをなす時間が与えられるかららしい。 それに対し、日本ではどちらかと言えば“ぽっくり”逝きたいと考える人が多いようだ。 それを願う「ぽっくり寺」まであるというからの。 全く彼我の死生観の違いとしか言い様がないが、この翁は、根っからの日本人のようで、やはり“ぽっくり”派である。 さらに理想を言わせてもらえば、朝、老妻がいつものようにガミガミ言いながら布団を引っ剥がしてみたら床の中で死んでいた、というものじゃ。 そのためなら「なすべきことをなす時間」はいくらでも返上してよい。 まあ、いずれにせよ、いつの間にかこの連載を見かけなくなったら、「ああ翁もあの世に行ったか」と、線香の1本でもあげてもらえば嬉しく思うぞ。 その37 「山高ければ」 最近、世の中何かとメリハリが少なくなった、と思いはせぬか? 例えば気象だ。夏は夏らしく暑く、冬は冬らしく寒く、という季節の本分が失われているように思う。 昔は四季の移ろいが、もっとくっきりしていたように思うが、一体どうなっているんじゃろ。 それから経済だ。 翁には低迷し続けているとしか思えぬのだが、そうではなく、ちゃんと好景気と不景気が繰り返されているらしい。 そういえば、いつ景気が上向くのだろうと思っていた最中に、実は「景気後退期に入った」という記事を読んで唖然としたことがあったような気がするの。 昔は、景気の善し悪しは翁のような素人にも実感できたものじゃが、一体どうなっているんじゃろ。 「山高ければ谷深し」というが、気象も経済も「山が削られ谷が埋められている」といった状態なのだろうか。 ところで、気象と経済については、もう一つ類似性を挙げることができるのではないかな。 気象庁の予報官も経済学者もその予測が当てにならないということじゃ。 どちらも罪が深いが、自分の理論で経済が何とかなると考えている経済学者の方が、その鼻の“高さ”の分、罪はグンと深いの。 ◆その38 「魔女狩り」 その昔、中世ヨーロッパでは魔女狩りという誠に恐ろしいことが行われておったそうじゃ。 当初は宗教的な意味合いが強く、男女問わず異端と思われる者を宗教裁判にかけ、魔女と判断するや火あぶりの刑で殺してしまったという。 次第に、気に食わぬ者を魔女に仕立て上げて無理矢理葬り去る「私刑」の色彩も帯びていったらしい。 その判定方法の中には、魔女の疑いのある者を、川に投げ込み、そのまま沈んでしまった者は“幸い”魔女の疑いは晴れたが、浮かび上がってきた者は魔女とみなし絞首刑に処す、という誠に理不尽なものもあった。 その頃のヨーロッパに生まれなくて本当によかったと思うが、邪魔者は容赦なく成敗するという行為は、大は世界の某超大国から、小はそこら辺の悪ガキどもまで、現在もしっかり残っているわい。 まして、魔女狩りに通じる心理である「あの人は○○だ」というレッテル張りなど日常茶飯事だ。 してみると人間というのは、つくづく進歩せぬものだと思う。 が、一方で、大きな声では言えぬが、今の世の中、回りを見渡してみると得体の知れぬ“魔女”のような輩が大勢いる、と思えるのも確かではあるな。 ◆その39 「小人閑居して」 「小人閑居して不善をなす」。 凡人は暇があるとろくなことをしない、というのが大意の、この故事成語ほど翁を反省の境地に導くものはない。全くもって赤面の至り。 もう少し詳しく言えば、まず、君子になれなかったことへの後悔と、その上にこの格言の「見通しの正確さ」に脱帽するという二重の意味での赤面の至り、なのである。 まことに、我が半生、閑居・不善、閑居・不善の繰り返しであったわい。 まあ、翁は残り少ない人生だから、いずれ社会に貢献などできないが、日本の将来を担う子ども達には、この格言の意義を活かしてほしいものじゃ。 老婆心ながら言わせてもらえば、「ゆとりある教育」などと称して子ども達の勉強時間を減らすことが果たして本人達のためにも、また社会のためにもプラスになるのだろうか。 大半の子どもの場合、「小人閑居して不善をなす」ことを“強いて”しまうのではないか。その結果、翁のように「後悔先に立たず」状態になっても、それは本人の責任として割り切るべきなのか。 いや、翁はそもそも教育政策を司る何とか省のお役人にこそ、この故事成語がぴったり当てはまる、と思っておるのじゃ ◆その40 「左右考」 先日久しぶりに結婚式に招かれてふと思ったこと。 高砂の席に向かって左側に新郎が、右側に新婦が座っているが、これには特別な意味があるのだろうか。 左翼とか右翼とかに関係あるのだろうか。やはり外に出てゆく夫は急進的で、家庭を守る妻は保守的なのだろうか。 それとも、一方に味方することを左袒するというが、夫が妻に味方するということを表しているのだろうか。 いやいや、やはりこれには格の問題が関係しているのじゃろう。 昔々、左大臣と右大臣という役職があり、左に位置する左大臣の方が格が上だったそうだ。 そういえば国会議事堂も優越する衆議院が向かって左側に位置しておるしな。 男女共同参画社会においては言うも憚られるが、新郎新婦の並びには、こうしたことに通ずるものがあるに違いない。 じゃが、一方で右が格上だと言う説もあるぞ。 中国では高い官職から低い官職へ落とすことを左遷と称している。 また、右に出る者がいない、などと言うしな。 それとも…。 その時、ふと気づいたのじゃ。 翁の今の“惨状”を思えば、夫婦生活を始める儀式における格論争など何の意味も持たない、ということに。 哀しいのお。 老婆心ながらTOP |
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