[連載] | |
41話〜50話( 如 翁 ) |
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◆その41
「越中守」
肥後細川家歴代の殿様たちは越中守を名乗っていたが、これは単なる呼称にすぎず、細川家が今の富山県に相当する越中国を治めていたわけではない。 が、細川家は単なる名乗り以上の、ある文化的遺産を残している。 家祖とも言える細川忠興も越中守を名乗っておったが、忠興が発明し、愛用していたゆえ、その褌は「越中褌」と呼ばれるようになったそうだ。 これは3尺ほどの小幅の布に紐をつけた代物で、今は使う人とてなかろうが、下着とはいえ、当時は“ジャパニーズ・スタンダード”となったのだから大したものである。 一方、津軽の歴代の殿様も越中守を名乗っていたが、こちらは少々分が悪い。 文化年間、当時のゴマスリ家臣が、隣の南部藩に負けじと、若殿様をこれ見よがしの分不相応の輿に乗せて江戸城に登城させたため、幕府の不興を買い、関係者が処分された(閉門)、ということで、江戸市民からも囂々の非難を浴びた。 「ふんどしに 縁あればこそ越中の 門をしめるも こしのあたりぞ」という落首がはやり、津軽藩は逆に大恥をかいてしまったという。 肥後と津軽。褌が取り持つ“歴史的秘話”、とでも言えばよいのかの。 ◆その42
「至福の時間」 世はあげて健康ブーム。この翁もウォーキングやテレビ体操などに余念がないが、もう一つ習慣にしていることがあるのじゃ。 それは毎月発売される健康雑誌の新聞広告を読むことである。 「ゴーヤで痛風発作が消えた」「アワビの粉末でかすみ目が治った」「毎日1個の焼き梅干しを食べたら血圧が下がった」「アボガドを常食すると便秘が治る」「尿の勢い・切れが戻る『おじさん元気食』」。 こんな広告を眺めていると、ついつい時の経つのを忘れてしまうほどだ。 とりわけ、「もう『バーコード』と言わせない! 牛乳焼酎で黒髪が生えた」などという文章を見かけると、それはもうウットリと夢見るように、その文字の連なりに心を漂わせてしまう。 そして瞼の裏には元気溌剌、フサフサと黒髪を風になびかせている自分を発見するのじゃ。 これが翁にとってまさに至福の数分間なのだ。もしかしたらこの「夢見る時間」が体内の免疫力を高め、自分の健康を維持させてくれているのかも知れぬの。 だとすれば、これまで健康雑誌を買って何度も何度も挑戦してはみたが一向に改善されぬ「頭の現実」など、取るに足らぬことなのかも知れぬな。 ◆その43 「未来への贈り物」 戦国時代から大坂城落城のいわゆる元和偃武までは激動の時代であったためか、味わい深い諺が数多く生まれている。 史実に基づく「天下分け目の関ヶ原」や「夏の陣・冬の陣」などは、今でも選挙などの際、よく使われているのではないか。 また、明智光秀謀反の「敵は本能寺にあり」とか、事実かどうかは疑わしいが、上杉謙信が武田信玄を助けた故事にちなむ「敵に塩を送る」や、筒井順慶が日 和見したことに由来する「洞ヶ峠を決め込む」、毛利元就が息子達に諭したと言われる「三本の矢」、北条一族の結論の出ない会議を皮肉った「小田原評定」な どは、日常の様々な場面で耳にする表現である。 その多くは江戸期、庶民の言語感覚によって研かれてきたものであろう。 さて、現代もまた激動の時代である。遠い未来にまで残るような諺が生まれる素地は、十分にあると思うぞ。果たしてどんな言語表現が淘汰されて伝えられていくのじゃろう。 「失われた十年」「バブルの崩壊」「構造改革」「米百俵」「毒饅頭」「牛歩」「野合」…。さあ、政界のみなさん、未来の子孫たちからも、あなた方の力量と創造力が注目されておりますぞ。 ◆その44 「過去だらけの未来」 最近の情報関連技術の進歩の早さには驚く他はない。 この翁など、とてもそのテンポについていけるものではない。 CD、MD、DVD、にパソコン、デジタルカメラ、等々世はまさにIT群雄割拠時代。 それらの機材を使いこなせれば大層便利と思う。 そうは思うが、別の観点から考えると、ちと不安に感じることもある。 こうした機材は大量の情報蓄積が可能なのだが、そうした情報というのは要するに「過去」と言ってもよいのではないか。 一世代前までは、「過去」を残すと言っても書籍の他は、せいぜいカメラにテープレコーダーの世界であった。 人は時折写真を見たり、テープを聴いて昔を偲んだ。 ところが今や残そうと思えば、映像であれ音声であれ膨大な分量を保存できる。 理論的には人の一生も記録できるだろう。 こうした状況では淘汰される「時間」はなくなり、過去は肥大するばかりではないか。 それを振り返るだけで精一杯ということにはなるまいか。 その一方で「未来」は痩せ細るだけのように感じるのは老境の身の僻事であろうか。 「過去だらけの未来」というのもあまり想像したくはない世界ではある。 歴史学者にとっては天国かも知れないがの。 ◆その45 「脳の色彩」
近頃「頭の中が真っ白になる」という言い方をよく聞くようになった。 精神的ショックを受けたときの状態を表現しているらしい。 どうやら若者が創り出した言葉のようだが、「頭の中が空っぽ=空白になる」という連想から生まれたのではないか。 自分の経験に照らし合わせてみても、あの一瞬思考が止まってしまう状態を指して決して的はずれな表現ではなく、十分「市民権」を得ることができると思う。 しかし、一方で、「頭の中が真っ黒になる」という『選択肢』はなかったのか、という疑問もあるのじゃ。 「頭の中の『電気』が消えて真っ暗になる」という比喩も「思考停止状態」にうまく合致している、と翁は思うのだが。 まあ、言語感覚が鋭い人には脳の中が実際に白く見えるのじゃろう。 ついでだから、そんな才能の持ち主には、是非ともより豊かな色彩表現を生み出してほしいものだ。 「頭の中が青くなる」、「頭の中が赤くなる」、「頭の中が黄色くなる」等々使える色はまだまだある。 脳味噌がモノクロからカラフルな世界へと変貌するのを楽しみにしておるぞ。 なにせ翁など「頭の中がピンク色になる」くらいしか経験してないからの。 ◆その46 「冥土の旅」
この歳になると、誕生日を迎えても気が重くなるというか、滅入るというか、そんな感慨に浸るのみである。 歳の数だけの豆を食べる消化力も、歳の数だけのロウソクを吹き消す肺活量も既に持ち合わせていない。 着実に進んでいるのは物忘れと老眼そして髪の劣化くらいか。 それにしても誕生日を境にした、数字としての年齢というのも不思議といえば不思議である。 本当は日々連続的に老化が進んでいるはずだが、1年に1回、デジタル的かつ強制的に1つ歳をとらされてしまう。 グラフに描けば階段状に高齢化していくわけで、それがまた「人生は重き荷を背負って遠き道をゆくが如し」という家康の人生訓を連想させてくれる。 まあ、こんな愚痴が出るのは、加齢をおおらかに受け入れる境地に向けての修業がまだまだ足りない、ということなのだろう。 「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」という狂歌の「門松」を「誕生日」に代えて、そう、来年の誕生日あたりから「冥土」への旅を楽しむことにしようか。 ◆その47 「歴史の妙」
今を遡る約3百年前、その後の日本の社会、そして文化に大きな影響を与えた出来事が発生した。 ご存じ赤穂浪士の仇討ちである。主君浅野内匠頭の無念を晴らさんがため、大石内蔵助以下47士、雪の中、吉良上野介の屋敷に討ち入り、見事本懐を果たす、というこの事件は日本史上、最も有名かも知れぬ。 それにしても翁が不思議でならないのは、お家断絶となった播州赤穂藩は、石高わずか5万石、藩士も3百人強の小所帯。 今なら人口4〜5万人ほどの市の市役所といったところ。 この吹けば飛ぶような小藩が、なぜあれだけの大きな、いわばプロジェクトを達成し得たか、ということである。 大石はもちろん、片岡源五、堀部安兵衛、吉田忠左衛門、等々誰もがその名を聞いたことのある勇士たち。 当時の諸藩にはすべからくこのような有為の人材が揃っていたのであろうか。 いや翁には、この赤穂藩だからこそ可能だったと思えるのだ。 が、そうなると赤穂藩というのは「忠臣蔵」という一大叙事詩を創作するためにのみ生まれた藩ということになる。 そこが歴史の妙であり、また悲しさである、と自らを納得させればよいのであろうか…。 ◆その48 「ました」 この青森に何十年と生きてきて、未だによく理解できない言い方がある。 「おはようございました」という朝の挨拶である。 若い人はあまり使わないようだが、年輩者は身に覚えがあるじゃろ。 何故「おはようございます」ではなく「ました」と過去形を使うのだろうか。 昼近い時分の遅い朝の挨拶として区別しているわけでもないし、昨日の挨拶を一日遅れで言っているわけでもない。 いくら考えても分からないのじゃ。 翁はこれを聞くと、現在と過去が交錯し、脳味噌がよじれるような気分になってしまうのだが、唯一の解釈を披露すれば、「おはようございます」だと朝初め て会っての言葉という感じがするのに対し、「ました」だと、既に朝の気分のようなものを確認できている雰囲気があるのではないか。 例えば家族の場合、一つ屋根の下で寝ていたのだから、挨拶の前に既に朝は共有できており、だから過去形でかまわない、ということも言える。 となると、「おはようございました」は、挨拶する者同士、既に親しい間柄であることのサインも同時に送っているということか。 う〜む。恐るべし青森の言葉! まあ、これは深読みにすぎるかの? ◆その49 「隙間の効用」 翁は城が好きで、機会をみつけては各地の城郭を見て歩くのだが、その都度、石垣の素晴らしさに感嘆してしまう。 「野面積み」「打込みハギ」「算木積み」など、その技法にも多数あるのだが、どうすればあんなに堅牢に、かつ美しく組み上げられるのか、その技術水準の高さには驚くばかりじゃ。日本の技として誇ってよいぞ。 ところで、組織論が好きな日本人は石垣全体と個々の石に、組織と人間の関係を見い出す。 「人は石垣、人は城」という武田節の一節はまさにその典型であるが、ある大企業の就職面接の場で、担当者が学生を前に石垣に関する蘊蓄を披露したそうである。 なんでも、「石垣はすべてぴったり積めばよいというものではない。石と石の間の隙間も安定のためには必要なのだ」てなことを話したらしい。 その時、一人の学生が放胆にも「私をその隙間として採用してください」とアピールしたとのこと。そのせいかどうか、目出度く採用されたその学生は後に社長に上りつめたという。ご本人の回顧だから自慢話っぽくもあるが、隙間が必要というのは聞きやすい話じゃ。 翁もこの社会においてはそこにしか位置づけてもらえないからの。 ◆その50 「屯田兵(とんでんへい)」
昔、秀吉政権以前は、武士と農民の区分ははっきりせず、平時は田畑を耕しながら、一朝事あらば槍刀を携え、合戦に出かけるという兼務型が一般的だったらしい。 その後、江戸期には身分制が強化されて両者は峻別されたが、明治に入ると北海道に農業兼営の屯田兵が配置され、国土の防備と開拓に専念した。 こうしてみると、兵隊さんと農業というのは結構〈相性〉がよいようだ。 さて、現在、地方の農村地帯は農産物価格の低迷や後継者難など様々な問題を抱え、過疎化が進み、全く活力を失っている状況にある。 このように国の農業機能の維持が困難になっている一方で、食糧自給率は40%前後と、イギリスやフランスなど諸先進国中でも最低レベル。もし世界規模での食料危機が発生したら輸入に依存している日本などひとたまりもないのではないか。 そこで翁から老婆心ながらの提案なのじゃが、自衛隊の諸君を農村部に配置し、農業にも従事しながら国防や災害に備えてもらう、という案は如何なものだろう。 地域の活性化、農業振興、自衛隊の平和利用、八方丸く収まるのではないか。 まあ、少々時代錯誤のような気もしないではないが、の。 老婆心ながらTOP |
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