[連載]

   51話〜60話( 如 翁 )


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◆その51
 「二重人格」
 マスコミが第4の権力と言われて久しいが、当事者の面々がそうした意識を有しているかどうかは不明である。
 むしろ、市民のため、社会のため、一心に世の不正を追及する「正義の味方」に徹していると言った方が事実に近いかも知れない。
 特に新聞においては、ジャーナリズムを背負っているのは我々だという自負が強いことだろう。
 ところが、この新聞というメディア、人に譬えると「上半身」と「下半身」の分裂が著しい存在だ。
 もちろん新聞社も民間企業だから「営利」という視点が不可欠であることは重々承知しているが、社会正義を標榜する上半身と、広告や販路拡大で利潤の確保に血道を上げる下半身の落差のあまりの大きさに驚くのである。
 その点、マスコミの一方の雄テレビは、「どうせ自分たちは視聴率の世界に生きていかざるを得ない」という自嘲的自覚を有している分、まだ“可愛げ”が感じられる。
 おそらく賢い新聞記者諸君のことだから、その辺の事情は十分承知の上、〈下のこと〉には目をつむりながら正義のペンを走らせているのであろう。
 〈二重人格〉を被い隠しながらの活動というのも大変じゃろうて。翁は同情するぞ。



◆その52
 「大〈棟梁〉」

 アメリカという国は江戸時代の日本とよく似ているのではないか。
 ご存じのとおり、彼の国は50州で構成されているが、各州はそれぞれ憲法を有しており、日本の都道府県など及びもつかぬほどの強い自治権と独立性を有しているそうじゃ。
 州兵まで持っているそうではないか。
 一つの国家というよりも、50の国家の連合体が合意の上、アメリカ合衆国という連邦政府をつくっているというのが実態に近い。
 しかも、ブッシュやクリントンのように、州知事の中から大統領に選ばれるケースも多い。
 この辺りが、260程の藩の連合体で成り立っていて、その中で最も力の強かった徳川家が武家の「棟梁」として将軍職に納まった江戸期の日本と誠に似ているのだ。
 ということは、国家の近代化の過程で、幕藩体制に終止符を打ち、中央集権国家に生まれ変わった日本に比べると、アメリカという国は政治体制的にはまだ〈近代化〉していないのかも知れぬの。
 であるからして、「傍らに人無きが若し」の振る舞いも堂々とできるのではないか。
 どうせなら、この際米国大統領には衣冠・束帯のお姿で国際政治の舞台に御登場いただくのも一興かも知れぬな。



◆その53
 「嚢中(のうちゅう)の錐(きり)」

 「嚢中の錐」とは、即物的には「袋の中にあるキリ」ということだが、キリの先は尖っているから袋を破って突き出る。
 その連想で、賢人や才能のある者は、多くの人に混じっていても直ぐに才能を現すものだ、という意味の故事成語である。
 まったくもって翁とは縁遠い表現であるが、広い世の中には「錐」のような人がおるのだな、確かに。
 歴史上の人物なら、例えば石田三成が該当するのではないか。
 三成がまだ佐吉と呼ばれていた頃、のどが渇いた秀吉に、最初の一杯はぬるめの、二杯目はやや熱めのお茶を供する、という配慮で取り立てられ、その後立身出世していった、という話などはまさに「嚢中の錐」の譬えにふさわしい。
 ところが、現実の社会においては、「錐」のような人が「出る杭は打たれる」でもって疎まれ、むしろ何の取り柄もなくただ阿諛追従(あゆついしょう)の才に秀でた腰巾着(こしぎんちゃく)が出世するという事例も多い。
 そんな輩は袋の中にあって、袋を飛び出すこともなく、ひたすら安住し続けることを願望しているだろうから、いわば「嚢中の餅」と言ってよい。
 となると、「錐」を認める秀吉のような「大気」も併せて重要だ、ということになるのお。



◆その54
 「多神教」
 今回は神様の話。全世界に存在する神はただ一つであると信じるのは「一神教」で、キリスト教やイスラム教はその代表的なものだ。
 それに対し、複数の神々を同時に崇拝する宗教が「多神教」である。
 我が日本は多神教の世界であり、自然現象でも、樹木や動物などの生物でも、また、特定の人間ですら神になりうる。
 例えば、徳川家康は死後、東照大権現となったし、乃木希典も乃木神社に祀られておる。
 まあ、それを言えば、もっと高貴な御方も「神」であったこともあったが、それはさて置き、日本が多神教であったことが、この国をして穏やかな国民性を持つ平和な国家にした理由ではないかと翁は思っている。
 ともあれ、我が国においては「神」は至る所に隠れており、人々と共存しているのだ。
 そういえば、我が家にもちゃんと「神様」がおわすぞ。
 ここだけの話、その神は平素は能面のような顔をしているが、ひとたび気に入らぬことがあると、烈火の如く荒れ狂い、この翁にたたりをもたらすのじゃ。
 その怒りを鎮めるためには、ひたすらのご機嫌うかがいと、高額の貢ぎ物が必要となる。それはそれは恐ろしい「山の神」なのじゃ。



◆その55
 「ついてない話」
 古代の日本は当時の中国から漢字を始め法律や制度など様々な「文化」を輸入したが、賢明にも「宦官制度」は輸入しなかった。宦官とは、ご存じのとおり去 勢男子のことで、それは刑罰の一種(宮刑)として行われたこともあったが、自発的にその処置を受ける者もあった。歴代中国王朝においては、〈安心〉できる 「男」として後宮に仕え、裏の世界から政治を壟断する者が後を絶たなかった。
 「痛いだろうし、大事なところだし、男を捨ててまで、何を好んで」と思うが、ある意味で立身出世の一コースであり、結構希望者もいたらしい。想像するだ におぞましいことだが、中国王朝において宦官が権力を持ち得た所以が、絶対権力者やその奥方の側近くに仕え、情報の独占を図ったり、もしくは歪めたことに あったことを思えば、宦官の果たした役割が、現在の我が国においても全く存在しない、とは言えないのではないかな。
 会社であれ、役所であれ、権力者の側に仕え、いわば「官房機能」を担う部署とは十分類似性があるように思うぞ。翁としては、くれぐれも、そうした地位にはちゃんと〈ついている〉人に座ってもらいたいもんじゃ。



◆その56
 「精進落とし」

 旅ゆけば、駿河の国に茶の香り…。ご存じ清水次郎長伝の一節だが、江戸時代の人たちも結構旅を楽しんだらしい。
 関所に代表されるように、当時は人の移動を制限する政策がとられていたから、庶民の旅行の大義名分として「お伊勢参り」が持ち出された。天照大神を祀っている神宮にお参りすると言われれば、幕府としても許可せざるを得なかったのだろう。
 かくして道中手形を手に、東海道を大勢の「観光客」が往来したが、その本旨はもちろんレクリエーションそのものだった。1日に30qくらい歩きつつ、御 油や赤坂といった宿場に泊まっては「どんちゃん騒ぎ」を繰り返したのでないかな。何でもそれぞれの旅籠には「飯盛女」という「名は体を表さ」ない給仕女が いて〈様々なサービス〉を提供したというぞ。あまりの過剰さに、幕府も一軒当たり飯盛女は二人までと制限したらしいが、「蛇の道は蛇」で効果はなかった ようだ。
 こんな旅が、まあ「精進落とし」なのじゃが、そのDNAは今の日本人にもしっかりと引き継がれているらしい。翁とてあまり偉そうなことは言えぬが、海外観光での醜聞などを聞く度にそう思わざるを得んなあ。



◆その57
 「〈脊髄決裁〉〈大脳決裁〉」

 時たまプロ野球でも見かけるのだが、難しい当たりを超ファインプレーする名手がイージーなゴロをエラーすることがある。
「えっ、何でじゃ」と思ってしまうが、難しいプレーの場合は、脊髄の段階で反射的に対処してしまうからむしろ間違いが少なく、その逆にあまりに簡単な動 作の場合、余計なことを考える余裕ができて、大脳が運動神経に『ちょっかいを出してしまう』ことが、こうしたパラドクスの原因だろう。
 言うなれば、〈脊髄決裁〉で済むところを蛇足的に〈大脳決裁〉してしまう、ということじゃな。
 人間を人間たらしめる大脳も万能ではない、というところが興味深いの。
 こんな話をご存じかな。
 ムカデが何十本という足で歩いている様を見て、別の虫が尋ねたそうじゃ。
 「ムカデさん、ムカデさん。そんなに多くの足をどう操れば、あなたのように上手に歩けるのですか?」。
 聞かれたムカデは、「そうだな」と、足の運びを意識した途端、足がこんがらがってうまく歩けなくなってしまったそうじゃ。
 と、ここまで書いてきて、ちと不安になってきたぞ。
 トイレに行きたいのじゃが、歩き始めるとき、右手と左足の関係はどうだったかの?



◆その58
 「運命の分かれ道」

 スーパーのレジでも、小用の便器でもそうだが、複数の選択の中から並ぶ場所を決める時というのは一種の運命の分かれ道ではある。一番短い列を選んで 並ぶことがベストチョイスとは限らない。運勢の悪い日には、直前でトラブルが発生し、「ああ隣に並んでおればよかった」と臍を噛むこともある。人間の できていない翁など、場合によっては、そんなことで待たされる理不尽さに腹立たしくなることもある。
 そんな中、確かJRの仙台駅が嚆矢だったと記憶しているが、「フォーク並び」という非常に合理的なルールが存在することをご存じであろうか。まず一列で 並び、途中から空いた箇所に進むというやつじゃ。コストかからず、トータルでの待ち時間を最小化できるこの手法は数学的で、まさにこれぞ「人間の知恵」と 言えるものじゃな。
 さて、翻って思うに、我々人間があの世行きの切符を〈手に入れる〉ときはどう並んでいるのだろう。おそらくは「フォーク並び」ではなく、並ぶ場所で運不 運が決定される「普通並び」のような気がするの。とすれば、翁が今並んでいる列はどうなのじゃろう。願わくば〈待ちの長い〉列であってほしいものじゃ。



◆その59
 「度量なし」

 今回も並ぶ話。よく、現金自動支払機で、一度に何回も何回も手続きをする人がいる。一つの通帳の記帳をして、じっと眺めた後で現金を引き出し、これで終 わりかと思うと、そのお金をまた別の通帳の口座に振り込んで、やれやれと思いきや、今度はおもむろに別のカードを取り出してまた現金を引き出す。
 挙げ句の果て、ようやっと終了して立ち去る際、一言の挨拶もないばかりか、「怪しい爺だな」といった目つきで睨んでいく奴さえおる。
 やはり一回の手続きを終わったら順番を待っている者に譲り、再度並び直すというのが、社会的なマナーではないかと思うのだが、いかがなものだろう。
 ついでに、男女共同参画社会にあって誠に言いにくいことながら、経験上こうしたケースは女性に多いような気がするが、何か理由があるのだろうか。
 いずれにせよ、こうした輩の後に並んだ時には、その日の運勢を呪いたくなってしまうわい。
 まあ、それくらい大目に見るという度量があればよいのだが、人間のできていない翁など、こうした場面に遭遇すると、土日に自分の金を引き出すのに手数料を取られる事に対するのと同じくらい腹が立ってしまうのじゃ。



◆その60
 「我ながら」

 今回は「老婆心ながら」の60回目。60回というと、還暦を連想するが、翁も数年前に目出度く通過したわい。何でも60才のことを「耳順」とも称するら しい。人の言葉を素直に聞き入れられるようになった年齢、という意らしいが、まだまだその境地に達しておらん。「老婆心」はまだまだ衰えてはおらぬぞ。
ついでながら、翁の次の目標は「人生七十古来稀なり」という杜甫の詩に由来する「古稀」。そしてできれば、「喜」の草書体が七十七に見えるからという「喜寿」は軽くクリアしたいもんじゃ。
ついでながら希望を言わせてもらえば、「米」の字を分解すると八十八になるからという「米寿」には辿り着きたい。その上で、もし可能であれば、「卒」の異 体字「卆」が九十に見えるからという「卒寿」を狙わせてもらう。さらに許してもらえるなら、「百」の字の「一」の部分をとると「白」になるからという「白 寿」を何とかいただきたい。
最後は、まあ、あり得ないとは思うが、万が一の可能性を期待して、110歳以上生きることは珍しい、ということに由来する「珍寿」をゲットしたい。
あ〜あ。我ながら足るを知らない爺とは思うわい。



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