[連載]

  111 〜 120       ( 鳴海 助一 )


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◆その111
『えらける』(1)
 動詞カ行下一段。えらける。これも珍しい言葉で、意味は、@暴食すること。A好色家のこと。ただし、@の場合は、ただ飯を多く食べるような人は、別に「オーマグラェ(大食家)」といって「えらける」とはいわない。

※ヨベラ、フルマェサエッテ、アンマリえらけダキャケサ、ハラアンバェエグナェシテ。
○昨夜、お祝言へ行って、あんまり食べたら、けさ腹工合が悪くて……。@の場合。

※シルマネ、アンマリえらけるドゴデ、ヨベラ、エノワラシァ、モドスネクダルネ、アマシタデァ。
○昼間に、あんまり、いろんなものを食べすぎるからゆうべ、うちの子供が、吐くやら何するやら…もてあましたよ。@の場合。

※ワガェジキ、アンマリ「オナゴえらけ」シタドゴデエマ、ソゴコゴ、カラダエグナェガテ。
○若い時に、あんまり「女道楽」したから、今の年になって、そこここと、身体が悪がってサ…。Aの場合



◆その112
 『えらける』(2)
 ▲「えらける」の語源も難解である。試みに言うならばまず、「ササメクラス」という言方に見当をつける。この意味は、クドクドおしゃべりする人。む やみに、休みなしに弁じたてている人。そんな場合に、「また、ササメナラシテラェ」という。「ナラス」は「鳴らす」である。「ササメ」は、魚の「えら」の ことである。たとえば、春、ニシンを干すときに、「はらわた」といっしょに、のどぶえのところから、この「ささめ」をとって捨てるのであるが、それはやは り「えら」のことであろう。その「えら」に、かならず関係があるとみた。

 体言に、動詞性の接尾語がついて、動詞となることは、国語の中には極めて例が多い。津軽方言にも例が多い。例えば、「肌」に、この「ける」という接辞が ついて「はだける」となる。この語の意味は「胸をハダゲル・足をハダゲル」または、「垢をハダゲル・鍋をハダゲル・財布をハダゲル」 となるのである。「えら」に「ける」がついて「えらける」となるのは、右と全く同じ。意味は、しきりに「えら」を動かす、魚が水をせわしく呑むさま。転じ てしきりに口を動かして、むしゃむしゃ食うこと……の意味となった。かくの如く結論づけたいのである。現代の若い人達の間に言われる「パクヅグ」と いうのも、関係がありそうだ。「パクパク」は魚の口の形容で、人が食べものに食いつくのにも転用したものらしい。



◆その113
「最終試験」
 昔むかし、この翁がまだ紅顔の美少年だった頃、学校の試験が近づくと、なぜか試験科目の勉強以外のことがやりたくなったものだ。
「僕が今やるべきは、元素記号を覚えるような些末な事ではなく、もっと世の中の役に立つような大きな事なのではないだろうか」などと考えて、理科の教科書 をほっぽり出したり、極めつけは、大学受験の前で、「僕は法律とか経済とか、そんな平凡な学問ではなく、本当は芸術家になるべきではなかろうか」などと芸 術的才能の一欠片も無いくせに夢想したりしたもんじゃ。
 何のことはない。
 単に勉学からの逃避に過ぎず、それを合理化していただけで、その成れの果てが、今の翁の姿、というわけじゃ。
 ところで、ちかごろ、またそれに似たような心理を抱くようになったのは、どうしたことだろう。
 例えば、一つのことに集中できんのじゃ。
 新聞を読んでいても、ああ、洗濯しなきゃならん、とか、庭仕事している最中に、急に本屋に行きたくなったり、とか、どうも腰が定まらぬ。
 単に根気が続かなくなる老化現象なのかも知れぬが、もっと根源的な兆しかもしれない、とも思えるようになってきた。
 つまり、近い将来の「試験」を控えての〈逃避の合理化〉なのではないか、とな。
 何の試験かって? 
 それは「最後の審判」じゃよ。



◆その114
『えんつこ』(1)

 名詞。「嬰籠児」のこと。
 乳児を入れる藁(わら)製の「カゴ・籠」をいう。
 朝炊いた「飯」などを、昼食までとか、晩までとか、冷えないようにするために、鍋から、鉢に移して、そのお鉢を、小さく作ったこの籠に入れて、同じく藁製の蓋をしておくのであるが、これをも「えんつこ」あるいは、「おはじえんつこ」という。
 子供を入れなくとも、「えんつこ」というのは、おかしいようだが、こんなことは外の場合にも例が多い。
 正しい発音は「えいじこ」である。

 ※エマノフトァ、えんつこサヘレバ、アシァマガルテソウヘナェグナッタ。
 ○今の人は、えんつこに入れれは、スネ(脛)が曲がるといって、そんなに入れなくなった。

 これはたしかにそうだ。
 昔は、三、四才になるまでも入れたもので、子供は足がつかれたり、しびれたりするのでどんどん立ち上って泣く。
 すると、十字がらみのように紐か何かでしばるのである。
 夫婦二人きりで、子守りもやとえない貧困な家庭ではほとんどこのようにした。
 特に冬の寒い期間は、こうしておくのである。暖かいのと、危なくないのだけはいいけれど、子供は実にかわいそうなことである。
 現今では、田舎でも、えんこつはあまり用いなくなった。
 コーリか、箱かに入れたり、ねかせたりおんぶしたり。
 えんこつに入れるとしても、小さい時ちょっとだけ。
 筆者は、小?の上に、この脚が曲っているのは、かならず、四才ころまで、「えんこつ」に入れられたからにちがいない。
 母を責めると、母も「ソンダベォン」(そうでしょう)といっている。



◆その115
 『えんつこ』(2)

 ▲語源について、まず、「嬰児籠」の「嬰」は、漢土では「胸」と同じ意味であり、「ちのみご乳呑児」」は、胸に抱いて養うから、「嬰児」は、「ちのみご・みどりご」の意味になるのだそうだ。
 次に「かご」は漢字の音では「ロウ」であるが、「コ」というのは、国語のつまり日本風のヨミ(訓)である。 
 この「コ」は「カ・キ・ク・ケ・コ」、つまり五十音図のカ行の「コ」であり、特に「ク・ケ・コ」全く同じですべて、ものが寄り集まり、ひと所にかたまる、というような意味を表わすに用いられる。
 すなわち「コ」は「組む」の語源であり、組み合わせて出来たもの(編んだもの)の意味で、かごすなわち、国語の「かご」のことである。 
「雲・曇・籠(カゴ)・コモル・込(コム)・凝(コゴル)・心(ココロ)」等の「ク・コ・カ・ゴ」皆同じ本元から出来た語である。
 この「コ」の歴史は極めて古く万葉時代には、「籠」は、仮名の「コ」の代用、すなわち、万葉仮名の「コ」として、広く用いられた。
 万葉集開巻第一番の歌のまっ先きに、「籠母与、美籠母乳……」とあるのは有名だが、その外にも、「射等籠荷四間乃」「鳥籠乃山有」など例が多い。
 訓読は「コモヨ・ミコモチ」であり、意味は「かごをね―、美しいかごを持ってね―」であり、後の二つは「イラコが鳥の」「トコの山あり」で、鳥の名、山の名として、現存する鳥と山の名前である。 
 上のように、とにかく「コ」は「かご」のことである。
「手カゴ」「カケゴ」「ネゴ(荷ないかご)」「メガゴ」などの、津軽方言は、皆この「かご」である。「えんつこ」の「こ」も、その「かご」なのであって、津軽の接尾小詞「酒コ・猫コ・ザルコ・ダンブリコ」などの「コ」ではない。



◆その116
 『えんつこしび』

 名詞。えんつこしび。これは「えんつこ」に入れる「しび」、つまり藁の軟かいくずのこと。子供を「えんつこ」に入れるには、底に「サンダワラ」を敷 き、その上に「ワラ灰」を盛りその上に、軟かい「しび」を敷いて、その上に、「おしめ」の大きいのか、小さな「ふとん」などを敷くのであるが、子供が動い たり、あばれたりするから、底の「しび」がはみ出して、あげるときに、よく子供のお尻に、その「しび」がくっついていることがある。(お尻が、おしっこで ぬれたりでなくとも、汗でしめっているから)。青二才とか、小僧とかと、けなしていう場合に、津軽ことばでは「けつサえんつこしびさげでるンたもの」とい うのも、実はそのわけである



◆その117
 『えぐなェかがもらえば、えじだェのふさぐ』

 善くないカカァ(妻・女房)をもらえば、一代(一生)の不作。ということ。
 これは津軽の諺(ことわざ)のうちでも、特にピリットくるものの一つ。
 凶作はまことに恐ろしい。農家はもちろんのこと、国民のだれもかれも、これくらいみじめで、いやなものはない……。しかし、その凶作とても、大ていは一 年ぎりだが、女房の悪い?のには一生苦労する。病弱・無知・浮気・無器量・悪癖など……。反対に、いい女房なら一代の豊作だ。というわけか。



◆その118
 『えしがらわだ』

 石から綿(わた)はとれない。全然出る(取れる)可能性のない場合のたとえ。金払いのわるい人や、ケチな方へ寄付金もらいに行った場合など、「まあま あ。石から綿、というたとえもあるが、あの人ときたら、ほんとにもう、根負けがしたゼ」というような意味によく用いる。漢土のことわざに、「木によりて魚 を求む」というのもあるが、やや似ている。



その119
 『えねかェだじしん』(絵に画いた地震)

 これはちっともこわくないこと。あるいは、さっぱり動かないこと。などの意味に用いる。例えば、中風か何かで、動けないで、口だけ達者なガン固親父の ことなど「えねかェだ地震だね、大丈夫だね、ナモこわくないよ」などと。また重いものを運ぶとき、大ぜいの人夫たちを励まし、力を揃えるために、一人が音 頭をとる。そのハヤシ文句の中で、「ヤーンサーノホェ、-エンヤラヤードセー、エコサカェダジシンダナー・・・」などと叫ぶ。



◆その120
 『えのまェのおにコ』(家の前の鬼ッ子)

 自分の家の近くでは、やたらに強がりを言って元気のよい子ども、家の誰かがみている前では、むやみに虚勢を張る子ども。ところが、家から離れたところで とか、味方の居ない場合には、カラッキシ意気地のない、見かけ倒しの子ども、そんなのを津軽では「えのまェのおにコ」という。主として子どもらの卑罵の語 だが、その辺にザラに居はしまいか?…



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