[連載]

  131 〜 140       ( 鳴海 助一 )


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◆その131
 「おぎわ・おぎわだ」(1)

 名詞・形容動詞(名詞と助動詞)。「ぎ」は鼻濁音「杉・すぎ」の「ぎ」のように。これの意味は、@太っ腹。A金銭に執着しない。金使いが荒い。ケチケチしない。心が広い。等々。「おぎら」ともいう。

※アコノオドァ、おぎわだふとだ度後で、アギモヂデモナンデモ、エッピョウダナンテツデ、シホウサマシァネ。
○あそこのうちの親父さんは、気持ちが大きい人だから、秋餅(アキモチ)なんかでも、一俵ほどもついて四方八方へ廻わしますよ。

※おぎわだドゴデサェ、アノオキタラ、エタデネ、サンボモシホモカテキテ、アサマカラカヘデルァネ。ヤパリアルダデァ。
○太っ腹な人だからねェ。あの大きな生鱈(ナマダラ)、一度に三本も四本も買ってきて、毎日朝から食べさせているゼ、なんといっても、やはりお金があるんだねェ・・・・・・。

※アンマリ、おぎわにカガテモ、ツノサェナェヤェ。(ツノスは、継続すること。)
○あんまり、気前よく振舞っても、長続きはしませんゼ。



◆その132
 「おぎわ・おぎわだ」(2)

 ▲「おぎわ」の語源ははっきりしない。あるいは「おおぎは・大際」か。「際」は、古語の「きは(わ)」にあたる。「交際・分際・身分・階級」等の意味。 あるいは「大綺麗・オオギラ」か。これは、綺麗を好む。華美を好む。権勢が盛んだ等の意味。このいずれかにちがいないと思うが如何。
 平凡社大辞典と全国方言辞典には、どちらにも、オギラ=@立派・派手。青森県。A自慢話し。鹿児島県谷山町。とあり。そういえばなるほど、津軽でも 「おぎら」ともいうようだ。北の端の青森県と、南のはての鹿児島県とに残っているということは、注意すべきである。やはり、柳田国男氏の初めて唱えた「方 言周圏論」の説はたしかにあてはまるようだ。この説については、本稿での他の機会に述べる。
 津軽ではまた、このおぎわ・おぎら」とほとんど同じ意味で、「おふぐ・おおふぐ」ともいう。「大福」のことらしい。たとえば「コノ子ハおふぐ デ・・・・・・」といえばその子どもは、友だちなどを集めて来ては、戸棚から何かを取り出して、みんなにご馳走するとか、絵本でもなんでも、心よく借した り見せたりするとか、とにかく、ケチでなく、物をさほど惜しがらない、というような子どものこと。いい意味にも、悪い意味にもとれる。



◆その133
 『おぐりばば』

 名詞。これは、嫁入りの時、お嫁さんに付き添うて、送って行く「女の人」のこと。嫁入りした向こうの家に二日ぐらい泊って、一切の様子を見届けて来る、 という大役(タイヤク)を帯びて行くのであるから、昔から、大ていは嫁さんに最も親近の、しかも相当の年輩者で、かつ、心もしっかりした人がこの任に当た る「ならわし」であったらしい。
 それで「送りばば」というのであるが、後には、若い女の人でも誰でも、昔の呼び名のままに、「送り婆」というようになった。つまり「ばば」は、「老婆」 の意味は薄れて、単に「女・婦人・付き添い女」というほどに変わったもの。例えば、「産婆」という称呼のように。昔は特に、すべて経験がものをいった。一 道の名人・偉人・物識り等は、かならず老年の人に限られていたようだ。「産婆さん」もその通り。ところが、現代は、学問の世の中である。若くてその域に達 する人もザラにある。しかし名称だけは昔のままで、まだ娘さんのような若い女でも「産婆」というのである。「おぐりばば」という津軽の言葉も、まさにその たぐいだというわけ。
 ちなみに、「産婆」の名が、「助産婦」とかと、変わったのはまことによろしい。お産するのを「助ける」という意味らしい。「産婆」といったのでは「無理 に、上手に」または、「自由に産ませる婆」という意味にもとれて、産む方には、如何にも自主性がなく、かつ、悪意にもとれてよろしくない。なお。産婆の津 軽言葉は、「てんがぐばば」というのだが、「て」の部で詳説する。

※アノおぐりばば、エエオナゴダナァ・・・・・・。ヨメァ、ゲラエルデバ・・・・・・。(窓の外で、若者たちや、農婦などが、口々にいう。)
○あの付き添いの女の人は、なかなかベッピンだねェ。お嫁さんがマケます(見劣りすがる)よ・・・・・・。ねェ・・・・・・。

※おぐりばば、モドレ(エ)したが。ドシタサマデシバ。(アンバェ、ドウデシバ。)ヨグ、オサマルンタベシ・・・・・・。
○お付き添いさん。お帰りですかイ。どんな様子ですか。(どのようなアンバイですか。)もちろん、めでたく、収まる(治)ようでしょうねェ。

 これは、なかなか意味深(イミシン)である。「おぐりばば」は、二泊三日、大役を果たして、先方の誰かに送られて、意気揚々として帰ってくる。こちらで も、まだ、後片付けやら何やらで、親しい誰彼が残っていて、みんなで待っている。「やァ、ごぐろさま、ごぐろさま……」そして、口々に向こうの様子を聞く のである。「……よぐおさまるンタベシー」は、何もかもみな含めている。婿さまどうだの、ふた親どうだの、家柄がどうの、本家のオドさまがどんな人だ とか、その他……。



◆その134
 「おこおこど」

 副詞。意味は、「炭火がサカン(熾)におこっているさま」のこと。別に「ゴンゴト・コンコド」というのがある。「ゴ」は二つとも普通の濁音。

※ワラハドコバレエデ、スミコおこおこどオゴシテ、「アンジマシグ」アダテラネマ。
○小さな子どもたちばかり居って、炭火をさかんにおこして、「あんじましく」(危げなく、心配なく、平気で、のんびりと、なごやかに)あたっているよ。マァあきれた……。(まあ、感心に……)

※ヨベラ、エゲデオェダシコァ、アサママデおこおこテエタデァ。
○ゆうべ(昨夜)、灰にいけ(埋)ておいた炭火が、けさまで(朝になっても)、そのまま消えないであったよ。

 前期の二つの例にみる「おこおこど」「おこおこテ」の訳語として、「さかんにおこして」「消えないであった」と書いてはみたが、津軽ことばの含む意味内 容は、とても表現尽く得るものではない。良質の木炭が、アカアカとおこりかけてくる様子や、マッカにおこっているさまなど、津軽では、@ごんごんど(大量 の場合)Aおこおこど(やや量が少ない場合)Bこんこんど(陵が普通の場合で、しかもいろりの中や、あたりの様子がキチンとしている場合など)などという が、これなども、津軽独特の言い方で、なんとも捨てがたいウマミのある表現だといえよう。標準語、特に関東以南の言葉では、とうてい言い尽せないものがあ る。これは北国の人々が、寒い冬の間の生活と、炭火(スミビ)や焚火(タキビ)との関係が、如何に密接で、かつ親近性のあるものであるかを如実に示し ている。

▲「おこおこど」の語源は、「炭火がおこる」のおこる(熾・興・起)の語幹「おこ」を重ねていったものとみる。つまり「おこりおこり」の約言ともいえよ う。例えば、「しぶりしぶり・ゴグリゴグリ・ユルリユルリ」などが「しぶしぶ・ゴクゴク・ユルユル」となるようにそれに副詞特有の「と」がつ いて「おこおこと」。濁って「おこおこど」となった。



◆その135
 「おごわ」
 名詞。赤飯のこと。「こ」が濁っただけだから、これも方言というほどのものではない。標準語の「おこわ」固いものなど「こわし」と昔からいった。漢字の 「強」をあてる。現代では「こわい」。そこで固いメシのことを「こわめし」という。それに、みやこ風(奥方流)の「お」がついて「おこわめし」、「めし」 が略されて「おこわ」となった。と考えたい。
 これはいうまでもなく、普通の「めし」を炊くのとはちがって、餅米を「コシキ」に入れて、湯気で蒸すのだから、いくらでも固くはできる。この「かたく」 というのを「こわく」というところに味がある。この「こわし」は、例えば「手ごわい相手」「顔がコワ張る」などの「こわい」であり、平安時代あたりでも普 通に用いられた。「……御護りのこはきな(む)めり」(大鏡)。「こはき物の怪」(諸書)。またこれが、津軽で有名な「コァェ」「コワェ」とも同じものと みる。 山登りや仕事や何かでひどく疲れた場合など、「オワェン、コワェデァコワェデァ。」というソレは、この「こはし・強し」であろう。詳しくは 「こ」の部で。
 津軽では「おごわ・こわみし・あじげみし(小豆めし)・へッくワん(赤飯)・いろまま」など、人により場合によって、さまざまにいうようだ。津軽のドンダレバジの文句に、次のようなものもある。
「ボーンノ、十三日ネ、アジゲコワノミシ、テン・ソバー、マーメー・モーヤーシー。ホェーホェド。」
「お盆の十三日には、アズキを入れたおこわと、テンやソバや、豆や萌やしなど、たくさんの供物を仏様に供える……。仏様が喜ぶ、おいらも喜ぶ、ホーェノホェ。」



◆その136
 「おさ」(1)

 名詞。田(水田)一枚一枚のことを「おさ」という。家の中の一つ一つ区切られた一間(ひとま)を、「部屋」というのに似た言い方である。

※コノおさ、エおさダナァ。タェシタ「カベ」カルベデァ、コレダバ……。
○この田は、ずいぶんいい面積だねェ。これ一枚で、大した収穫があるんでしょうよ。この面積だものねェ……。

「カベ」というのは、稲刈りの時に用いる語で、稲束(イナタバ)のことにも、稲島(イナシマ・結立て)のことにもいう。稲島は、方言では別に「ユッタ デ・結立」ともいうが、小さな稲束を十把ずつ結うて立てるからの称呼である。上出来の稲なら、この「ユタデ」二十個で、大てい玄米一俵(四斗・六十キ ロ)はあるとされている。
 ついでにもう少し。この「ユタデ」は、一島・二島(ひとしま・ふたしま)と数える。二百島あれば、玄米十俵の勘定であるが、現今では、乾燥のことなど も考えてか、束ねが小さくなっているから、二十五島ぐらいで一俵とみたらいいか。また、「棒掛け」が盛んになってきたから、伝統古きこの「ユタデ・イナ シマ」等々の名前も、つつましく穂を垂れ、足を揃えて並ぶあの姿も、津軽人の口から、津軽の田圃から、やがては消え失せてしまうだろう。

※コゴァ、おさガズァ、ヨゲダバテ、ナンダテ、シタコァ、ツサェドゴデセァェ、コメアガリダバナェンダ(純然たる老農たちの言葉)
○ここは、おさの数だけは多いけれどもねェ。なにしろ「一人役」としての面積が不足だからサ、米の上り高は少ないんですよ。

 田の反別を数えるのに、一人役(イチニンヤク・ヒトリャク)二人役・三人役・十人役などといったり、現今では、主として一反歩・二反歩・十反歩(一町 歩)などといったりするから、ちょっとややこしいが、これは昔の人が、打つ、砕く、除草、刈り取り等、一日に「一反歩」を仕上げれば、「一人前の男子」 (女は七割ぐらい)の資格があるとかで、大たいそれを「一人役」といった。しかし、実際は、一反歩あるところは稀れで、ところによっては、八畝歩ぐらいの 一人役もある。「シタコァチサェ」とか「シタオキイ」とかいうのはそのためである。「シタ」とは「面積」のこと。
 また、「おさ」がたった一枚で、一人役もあるような広いのを「一枚打ち」といい、「おさ」一枚で七畝ぐらいしかないのは、女や少年たちの一日分の仕事の 量に当るから、「七分おさ」という。「三枚打ち」「五枚打ち」といえば、それぞれ、三枚で一人役、五枚で一人役の広さがある、ということ。用例の「おさか ずが多い」というのは、五枚打ちとか七枚打ちとかの場合である。これは、土地が傾斜であるか、たいらであるかによってできる。おさ数が多ければ「畦畔」が 多いから、米上りが少ないのが普通。「耕地整理」は、この無駄を省くためにも、是非必要になってくるわけだが……。

(注)大昔から津軽地方で用いてきたであろうと思われる、田作り畑作りの専門語?については、機をみて一括して説明を試みたいと考えている。詳細はその折に。



◆その137
 「おさ」(2)

 ▲「おさ」の語源について。永いこといろいろ考えてはきたが、未だに自信ある解答はできかねている。以下試案(私案)を一例あげてみる。(異説は一切省略)

 @まず「田」の語源について。「田」は漢字だから、その昔は「デン」または「テン」であり、その意味は、耕地の区切られた場所である。我が国では、主として水田のことに用い、「た」とよんだ。
 A漢字の「デン」に当たるものを、我が国上古において、なぜ「た」といったか。種々の説があるようだが、結局、「足る」であるらしい。太古より「稲」 は、人の生命を全うするに「足る」もの、その稲の生育するところだから「た」といったと。これはほぼ信じてよいだろう。「人民」という漢語に、大和言葉で は「おほみたから」という語を当てているが、その「たから」は、「田族・たうから」つまり「田」を耕やす部族の意味である「うから」は、「やから」とも通 じ、「同胞」であり「同族」である。上代国家では特にこれを尊んで、「大御宝」と呼んだ。「たからもの・宝物」の「たから」ももちろん「たうから・田族」 がその語源である。漢字にも「男」は「田の力」とかく。その他……。如何に「田を作る」ことが重要視されたかが分かる。後世「土百姓」などと、一体誰が言 い出したか……。
 B次に、「田作り」にとって、最も大事な季節は、なんといっても「五月の田植え時」であろう。前にも述べたが、田植え時の特殊な「物の名」に、サツキ・ サナエ・サヲトメ・サミダレ(五月・さ苗・さ乙女・五月雨)などがある。これらの語頭の「サ」は、そもそも何の意味であるか。(これには諸説フンプン たるものあり。近年出た安田徳太郎氏の説では、「さる・猿」の意味なるよし。)「サ行」「タ行」の五音相通の理から考えて、この「さ」はたしかに「た」の 意味なりと断言したい。詳細は省略。結局「五月」は「田の月」だということになる。「田の苗」「田の乙女」。「さみだれ」の「さ」は「五月」にあたる。 「みだれ」は「水垂れ」のこと。よって「五月の雨」「田の月に降る雨」ということになる。
 Cそこで「おさ」、正しくは「をさ」は、「小田」である、という結論が得られそうだ。「小」は「小さい」とか、「美称・愛称」とか、または単に語呂・語 調のための接頭語である。「小野・小山・小山田・小暗い・小夜・小高い」等の「小」に同じ。津軽の水田の「おさ」は、「小田」であると、私なりに結論づけ ておく。なお平凡社大辞典には、オサ=方言。田一枚をいう。(茨城県新治郡・静岡県・岐阜県・山県郡)とあり、津軽とも青森県とも出ていない。



◆その138
 「おさじ」(1)

 名詞。おさじ。意味は、@馬鹿もの。Aおろか者。Bロクでなし。つまり、卑罵の呼び名である。

※アレモ、ツトおさじダハデ、アンマリ、アデネサナェホジァエャェ。(もちろん陰で言う場合)
○あいつもねェ。ちとオッチョコチョイだからサ。あんまり当てに(期待)しない方がいいゼ。

※コレモマダ、ワネニデ、おさじデドゴデ、ナンボカェリキデモワスエデ……。コレ、コノヌタサマ、ドウダェダバシテ……。(自分の娘を他人の前で叱る時)
○この娘(こ)もまた、わたしに似て、おろか者だからねェ。何回きいても忘れて……。この縫うたザマ(着物など)……。どうなんです、いったい……。




◆その139
 「おさじ」(2)

 ▲「おさじ」は、津軽でもずいぶん珍らしいことばである。手許のどの文献にも見当たらない。しかし津軽では今でも、中年以上の人たちを中心に、大ぶん広く用いられているようだ。その語源については確言は出来ないが、以下参考までに若干申述べてみたい。
 1をさ=これは「おさ」で、「長・かしら・頭首」などの意味がある。かの土佐日記(千余年前、紀貫之著)の正月十八日の記事の中に、「……この歌どもを、少しよろしと聞きて、船のヲサしける翁(船頭をしている老人のこと)、月頃の苦しき心やりに詠める」云々とある。
 2をさをさし=これも現代仮名遣いでは、「おさおさし」とかく。意味は「長長氏」、つまり、「おとなびている」とか、衆に勝れているとか、かいがいし・ はかばかしなどの意味にもなる。伊勢物語(千余年前、在原業平の作か)の第百七段に、「むかし、あてなるをとこありけり。……されど若ければ、文もヲサヲ サシからず、ことばもいひ知らず……」云々。
 3をさなし=「おさなし」で、現在はもっぱら、「幼・稚・若」の意味に用いるが、上代国語では二様の意味があった。その一は、前条の「おさおさし」の否 定・打消しに似た意味。つまり、「おさおさしからざる」さま、すなわち「未熟者」「おろか者」「不肖」ということになる。第二の意味は現代と同じく、「幼 少・若・稚」。
 第一の用例=宇津保物語(千年前・作者不詳)の国護中の二十三に「はかなきことを、心一つに思ひて、はかなくなる時は、いとをさなしや。よう心し給へ。」云々(たいへんバカゲたことだ。の意。)
 第二の用例=同書の俊陰、四十に「いかで、これやしなわんと思う心つきて思へど、さるをさなきほどなればなでうわざをもえせず」云々。(幼少の意。)
 以上のことがらによって、多少の疑点もなきにあらねど、津軽の「おさじ」の語源は、3の、第一の意味における「をさなし」であろう、と結論づけたい。な お「をさなし」の解釈で、諸説のある、かの竹取物語(一千余年前、作者不詳)の、「かぐや姫昇天」の条に「……なんぢ、をさなき人……」云々とあるが、こ れは、「月の世界からやって来た「王様」らしき人が、竹取の翁に呼びかけた言葉の一句で、「……ヤイ、汝、おろかな奴め……」と、私は訳す。つまり、天人 が下界の翁を罵倒して呼びつける文句だとみる。月の世界の人が来るのを防ぐとて、数千の武士たちが、翁の家の周囲に集まっているという、前の文章から、ど うしてもさように解される。津軽ことばの「おさじ」は、たしかにこの「をさなし」の訛りにちがいないと、私は断言したい。
ついでにもう少々。それは、右の、「おさじ」に似た標準語的な語の「おたんちん」である。「のろま」とか「間抜け」とかの意。また諸国の方言にも、
@オタンポ(信州上田市付近)Aオタンケツ(長野県東筑摩郡)Bオタンコナス(群馬県舘林郡・東京都・相州高座郡)Cオタリヤ・オタリン(愛媛県大州 町・信州上田市付近等)Dオタラ(神奈川県中郡)Eオタライサン=薄のろ。お馬鹿さん。(壱岐島)Fオタラケ(静岡県田方郡)(以上大辞典)等があり、津 軽の「おさじ」の含む意味と、不思議なくらい一致しているが、これらとの関係については、未だに何らの手掛りを得ないでいる。他日に俟つ。



◆その140
 「おじ・おんじ」(1)

 名称(人称)。「兄」に対して「弟・次男・三男」のことだが、「兄」や「長男」を「オヤガダ」という、その「おやがた」に対する「おんじ・おじ」である。

※オヤガラ、タッタ、エヤシギコモラタバェダ、おんじかまどダバテ、アノおんじモおンばモ、シンボデカヘグドゴデ、エマダキャ、オヤマゲラガシダゲ、モゲデシマエシタネ。
○大家(本家・ほんけ)から、たった「いえやしき」をもらったばかりの、新しい家庭(分家した、新しいカマド)だけれども、あのオジさんも、オバさんも、倹約で勤勉で、よく稼ぐから、今ではもう、本家を負かすほど、裕福になってしまいましたよ。

※アノおじァ、トソリクサェハデ、ドジァ、オヤガダデ、ドジァおどとダガサ、ワゲァ、ワガラナェ。
○あのオジさんが、ふけ(老)て見えるから、どちらが兄きで、どちらが弟さんか、ちょっと区別がつきませんものねェ。



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