[連載]

  391 ~ 400       ( 鳴海 助一 )


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その391
 「きちャさて」
 名詞。きちャさて。
これは津軽方言のうちでも面白い語らいで「明々々後日」のこと、つまり、今日(きょう)を一日目として、五日目の日のことである。
標準語では、「きょう」「あす」「あさって」「しあさって」と、四日目まではあるようだが、五日目はない。
また、その四日目の「しあさって」も、方言では、「やなさッて」という。
その「あさって」「やなさって」という「さって」の語呂が、津軽の「きちャさッて」の「さって」と同じだから、多少シャレて、あるいはモジッて、とうとう「五日目」の意味に借用することになったものにちがいない。
なお更に、シャレで六日目のことを「のめくて」ということもある。
「のめくる」は、「のめる・つんのめる」つまり、前方へのめってころぶこいう意味の方言であるが、五日目の「きちゃさる」も前述のように、何かものに、突っささるようにころぶ意味もあるので、そして、語呂も似ているので、このような言い方をし、このような意味にも用いるに至ったものだろう。
いかにも低俗なことながら、しかし、その地方その社会で通用しているとなると、いちがいにケナスわけにもいくまい。
もう一つ、七日目のことを、「おぎで」などともいうが、こうなると、チト嫌気がさす。ふざけるにもほどがある。
「のめって」「起きて」という「シャレ」であろうが……。
結局津軽の、将来の日数を数える方法としては、きょう(今日)あす(明日)あさッて(明後日)やなさッて(明々後日)きちャさッて(五日目)のめくて(六日目)おぎで(七日目)となる。
これらの語源や、他県の方言については、「や」の部で詳しく述べるつもり。



その392
 「きどぐね」
 名詞。きどぐね。これは、「ゴロ寝」「丸寝」の意味。
つまり、普段着のままで寝ること。
ただし、何かの都合で、普通の睡眠時間にでもまる寝をすることもあるが、そんな時には、この語をあまり用いない。
居眠りとか、短時間の昼寝とか、とにかく一時的な場合に多く用いるようだ。

※ワラシァきどぐねシテラェ、カジァフガヘルァ。
○子どもがウタタネ(仮寝)をしているよ。ハゼ(風邪)ひかせるゼ。

※ババ、コダジサハッテ、きどぐねシテ、ナガナガ、ネネエガナェネナ。ワガェフトンドァ、サダダベネナ……。
○祖母(老母)が、コタツで仮寝をして、よういに寝所(ね床)へいかないのサ。若い人たちが(お嫁さんなど)、さぞ困るでしょうネ。朝は早いのに……。
これは、往々にしてありがちなことで、老人が嫌われる原因の一つであろう。
老人は眠くないのに、さらに若い人達に、少しでも多く仕事をさせようとか、若い者たちの睦ましいのがねたましくてとか、そんな魂胆があってのことだったら、いよいよ嫌われる。
狭い家屋では大へんだ。
家庭のイザコザも、案外こんなところに原因があるもの。心すべきことにこそ……。

▲この「きどくね」の語源については、他県の方言と比較することによって、手掛りが得られそうだ。
①イドゴネ=転寝。うたたね。(新潟・鹿児島外)
②イドゴロネ=居所寝の意。ごろね。うたたね。(群馬・埼玉・静岡・岐阜・愛媛・高知等)
③キドゴネ=(青森・秋田・宮城・福島・千葉等)
④キドゴロネ=(盛岡・仙台・東北一帯・栃木等)
⑤マルタネ=着物を着たまま寝ること。(鳥取県)

 また、平凡社大辞典には標準語として「きどこね」=着所寝。著所寝。とある。
この例により、②の「居所寝」は、意味もよく分かるし本元とするに妥当だが、「き」の頭音が疑問となる。
その点では、④及び大辞典の説がよい。
しかし、意味が多少はっきりしない。
さすがの大言海も、「着所寝ノ意ニテモアルカ」と断定しかねている。
今は、「着所寝」の転訛だ、とみておく。
なお、「ゴロ寝」も、「キドコロネ・イドコロネ」の「キド・イド」が略されたものか、「ゴロリ」と横になる等の「ゴロリ」の「ゴロ」か、また、「ゴロリ」の語源は(恐らくギ態語ではあろうが)何か、ということについても、再考の余地がある。



その393
 「きびちョ」
 名詞。きびちョ。これは「急須・きゅうす」「きびしょ」のこと。
小さな土びん。お茶こし。「きびちょ」は「きびしょ」の訛り。
「きびしょ」は、方言辞典にも載っているが、ほとんど全国的であり、標準国語としても、さしつかえないようだ。
「急須」というのは、「急ぎの場合に、すぐ簡単に用いることができる便利なもの、という程度の意味で名づけられたものらしい。
「須」は「用いる」という意味もあるが、どちらも「急須」という名称のできた原因にはなるようだ。ただし、「急焼」などの文字を当ててある場合もあるので、確信はない。
「きびしょ」の語源も不明。
他県の方言には、「かんす・すが・ちゃだし・ちゃびん・ちゅかちょか・ちゃじょか・てじゅか」等があるが、「きびしょ」の正体は、容易につかめない。識者の教示を切に乞うものである。



その394
 「きまぐ」
 動詞。(ガ行四段)。きまぐ。怒る。叱る。
叱りつける。怒なりつける。叱られた相手の方からいえば、「きまがれる・きまがえる」となる。

※アノオナゴセンセァ、タェシタきまぐケァ。
○あの女の先生は、大へん叱る先生だよ。

※エジンジエッパェ、ワガェモンドバきまェデル。
○一日中、しょっちう奉公人を叱りつけている。

※ミンナカェガナェバ、アスマダきまがえる。
○全部書いていかないと、あすまた先生に叱られる。

※シゴドノワゲデ、チョモマダ、オヤジネカテ、きまがえダ。
○仕事のことで、きょうもまた、ダンナに叱られたよ。

※オドァモドレバ、ウッテ、きまがヘルハデナ。
○おとうさんが帰れば、うんと叱ってもらうからネ。

 ▲「きまぐ」は、動詞として、「が・ぎ(い)・ぐ・げ」と活用するが、「きまがえる」は、「へる」(正しくは「せる」)という使役助動詞が接続したものである。
ところが、方言では、その助動詞も大分意味を失って、全部で一つの動詞のようになってしまうのが多い。
近年、標準語の方でも、この傾向は大いにある。
さて、「きまぐ」の語源として、まず「いきまく・息巻く」と見当をつける。
その「いき」は、漢字の「気息」「息」にあたるが、呼吸する「気・息」は、太古の国語では、例のギ声語の「い」であったらしい。
「き」は、その「い」がカ行に活用した「いく」の連用形の「いき」であろう。故に、漢字の「息ソク」も「いき」と読み、「生・活」も動詞として「いく」と読むのである。
「いのち」なども、漢字の「命」をあてるが、実は「いのうち」つまり「いき」のあの間の意(あるいは「いき」の続くうち)である。
「いきほひ」も、「い」を張るの意。
くどくなったが、人間の最も大事な「気息」のことだから、参考までに。
命・生・活・勢・息・意気・威・い歯み合う・言・云等々、この「い」に関係ある語は極めて多い。人間は、身体的にも、精神的にも、運動が急に、または感情がたかぶると、かならず呼吸が急迫する。「息巻く」が、やがて、「叱る・怒る・どなる」等の意に転じるのも当然である。
結局、「きまぐ」は、標準語の「いきまく」の略訛としておく



その395
 「きまげる」
 動詞ガ行下一段活用。きまげる。
これは、1.腹が立つ。腹だたしい。2.残念だ。無念だ。
3.恨めしい。にくらしい。4.くしゃくしゃする、等の意味である。
「がる」がついて「きまげがる」ともいう。
それでもう一つ。5.くやしい。くやしがる。

※スモトテ、マゲダェジャきまげるテ、ミシカナェ。
○相撲をとって、負けたのが残念だといって、ご飯も食べないよ。(きまげがって=くやしがって)

※アノ「カガァ」、オヤジネカテ、ナニホドきまげるモエシガサワガラナェ。
○あの「おかみさん」は、亭主のために(酒と女)どんなに、つらく、くやしい思いをするか分かりません。

※ダェダテ、きまげるコトァアレバ、シゴドサナェ。
○誰だって、腹立たしいことがあれば、仕事ができないよ。くしゃくしゃする時は、口も言いたくない。

▲「きまげる」は、前回の「きまぐ」と語源が同じなようにも、一応考えられるが、別のものらしい。
これは、「きもが焼ける」の略転であるとみる。
「きもがつぶれる」「きもがねじれる」等のきも「胆」である。
「断腸の思い」の「腸」も同じこと。
きもがやける=きもやける=きまける=きまげる。
津軽の方言では、「きまげる」の一つ以前の「きもやげる・きもやぐ」というのが現に用いられている。
意味はほとんど同じである。
要するに、「きまぐ」と「きまげる・きもやげる」とは、語の成立過程も、語源も異なるものだと断定しておきたい。
「断腸の思い」というような、痛烈な心情を訴えるには、津軽ことばでは、「腹ノゴンジョァネンツケルンタデァ」という。
「五臓が、ねじ切れるように切ない」という意。
表現の形式や方法には相異あっても、むしろ、標準語以上に、微妙なところまで、強く、深く、こまかに、そして、最も適切に、人間の感情を表現できる語源をもっているということには、毎度のことながら全くただ驚くばかりである。
「切れば血が出る」ようなことば、とはむしろ方言の上にこそ言うべきことではなかろうか。



その396
 「きもつぐし」
 転成の名詞。きもつぐし。
1.苦労する。2.つらい思いをする。3.心が千々(チヂ)に砕ける。等の意味。

※コドモドァエグナェドゴデ、アノオヤダジァ、シヌマデ、きもつぐしシテクラシァネナ。
○子供達が、みんな素行が悪いので、あそこの親たちは、死ぬまで苦労して(心を痛めて)暮しますねェ。

※クヮンゴクヮイサ、ソラテエタモエバテ、モドリァフトリァ、ヨッテエノガナェドユ、ワラシァ、アギガテナダドユ、ワモナモ、きもァつぐえデシマタデァ。
○観桜会へ、親子揃って出掛けたはいいが、帰りは、ひとりで(夫・亭主)酔っぱらって動かなく(歩かない)なるなら、子どもらが厭きがって(疲れ・眠い)泣くやら……、わたしはもう、根も力も、尽きてしまいましたよ。
この「きもァつぐえる」は、「きもが尽きる」の訛りである。
「尽く」は、自動詞が「つきる」で、他動詞が、「つくす」だが、「きもつぐし」はその他動詞からできたもの。
「つぐえる・つぎる」は、その自動詞からできたもの。
ということになる。
▲「きも」は「心」と同じ。「きもに銘じて……」なども、「心に深くきざみ込む」である。
「つぐし」は「つきし」で、「尽」の漢字をあてる。「力を尽す」の「つくす」である。
「ありったけ」「おわりまで」「無くなる」「いや果て」等の意。そこで「きもつぐし」は、「心をいろいろと痛める」「心や気をつかい果たす」「苦労のありったけをし尽す」というような意味になる。

古今集巻四秋上に、
題しらず  よみ人しらず
木の間より もりくる月の影見れば
心づくしの 秋はきにけり
とある。夏木立の茂りも、いつしかまばらになって、木の間から洩れくる月の光も、なんとなくも哀れである。
気苦労の多い秋は、早くもやってきたのだなァ……。
上の古今集の歌の「心づくし」が、津軽の「きもつぐし」の意味とピッタリ。
標準語の方では、たとえば、「……母の心づくしの手料理で……」というように、「真心こめて」とか「誠意をもって」とかの意味に変わった。
また別に、昔から「力を尽して働く」とか、「八方手を尽して探し歩いた」とか、「親に孝行を尽くす」とかの言い方も、もちろんあったが……。
津軽の「きもつぐし」は、このままの意味で、なくしたくないコトバの一つである。



その397
 「きみ」
 名詞。きみ。唐もろこし。
唐きび。棒状の幹に密集して熟す。
長さ三十センチ内外。初秋の頃食べる。
素朴ながら風味絶佳なりとも言える。
その「とうもろこし」を、津軽では大てい「きみ」という。
おそらく「黄実・キミ」が本元であろう。
例の、マ行・バ行相通の理由で、「きび」と一般に言うようだ。
津軽の「きみ」は昔のままの発音を伝えている。似たようなことに、「気味悪い・いい気味だ」等の、「きみ」がある。
これは標準語の方で「きみ」、方言では「きび」。
ちょうど、もろこしの「きみ」と反対である。
音韻現象としては、どちらも正しいのに、地方的だということで「きみ」「きび」は方言「きび」「きみ」は標準語、というわけである。「蛇」の「へみ」は、どちらも「へび」という。
方言では「へべ」と訛るが、とにかくバ行である。
なお、古代国語の訓みに、バ行とマ行と、どちらが古くから多く用いられ、どちらがその転音であるかということについては、もとより知る由もないが、その一語一語については、多少手掛りが得られないでもない。
例えば「けむり」(煙)は、上代においては「けぶり」であった。
万葉集を初め、他の古文献にも、「気不利」「気夫利」とあって、明らかにバ行の「ブ」であったことが分かる。
また、天皇・大君の意の「すべらぎ・すめろぎ」等は、上古に「須売呂伎」「須米良」「須女良」とあって、はじめ「スメラ」とマ行であったらしい。
それが、「統べる」の意もあるによって、「スベラ」と転じたもの。
こういうわけで、マ行・バ行の先後はなく、ただ、その語によって、互に相通するという現象は、各時代各階層において表われていた、といえるだけである。
「とうもろこし」を「きみ・きび」、漢語の「気味」を「きび・きみ」、「集める・アツベル」「さむらい・さぶらい」等々、要するに、地方的なものは、方言・訛語と呼ばれるのである。
再三述べたが、漢音でも「末バツ・マツ」「末ビ・ミ」「無ブ・ム・武ブ・ム」「米ベイ・マイ」のように、バ行とマ行は相通する。



その398
 「きみンつか」
 転成の名詞。きみンつか。
これは、気が短い人。
気短か。短気。短慮。せっかちな人。
形容詞の「長い」「短い」等が、名詞に転成されて用いられる場合は、その語幹の「なが」「みじか」だけで用が足りる。
その際方言では、「なんか」「みんつか」のように、「ん」をよく入れる。
これは津軽方言の特徴で、どの語に限ってともいわれないが……。
「なんがェ橋だ」。「みんつかェ針だ」。
「みんつか」の「つ」は、これも津軽方言の「ザ行・タ行」の混用のため。
「わずか」が「わんつか」となる如く。
ところで、この「きみんつか」の語について注意すべきことは、標準語においては、「気が短い人だ」というべきところを、「きみンつか」だ、といって、全く「短気」「短慮」と同じような「形容動詞」としても用いるということである。

※ナンダテ、オラェノアニァ、きみンつかダドゴデ、ハヤコボシデサダダネ。
○なにしろ、うちの長男は、短気なもんだからねェ、「コブシ」が早くて困るよ。(母の言)
上の「ハヤコボシ」は、口を言うより早く、すぐ「なぐりつける」癖の人をいうのだが、津軽でも、おもしろい言い方の一つ。
その癖はよくないが、その言い方が奇抜である。
ゴジャゴジャと、弟たちがたくさんある家庭では男の子らのワンパクに、母や祖母などは、あきれて手がつけられない。

そんな苦労を察して(善意に)、長男はいつも母・祖母の味方をする。
(心の中で)もの固い、しっかり者の長男は、とかく無口ではあるが、行動は、弟たちの模範とするに足りる。
しかしながら、長男としての立場から、また、真に弟たちの将来を考えての親心から、これを善導する意味で、時には、早いとこ「ゴツン」とやらかす。
口々にわがままをいって、母たちを困らしているところへ来て、何も言わず、いきなり「ゴツンゴツン」とコブシをくらわす。
その顔には憎悪の念はミジンもない……。母も祖母も、その心の内を知らぬわけでもないが、表面は長男をたしなめることになる……。
この用例は、まさにそのような場合の言い方である。
「きみンつか」「ハヤコボシ」「なぐる」――どちらもよいことは言えぬが……さりとて……。
なお津軽では、「短気」とももちろん言うが、その外に、同じ意味の「タンパラ」というのもある。



その399
 「きまェ・きまェコ」
 名詞。きまェ。きまェコ。これは、主として空間的な「すき・すきな(隙・隙間)」のことである。
時間的な「暇・閑」や、時間があいた、手がすいた、等には用いないようだ。
※エゲンダきまェコガラモ、カジャハテクルァネ。
○どんな小さなすき間からでも、風が入ってくるよ。
これは、冬寒くなると、夏の中気がつかないでいた、戸や壁の、どんなスキマからも風が入ってくるというのである。
※タタミァ、ツトきまェアグ(開く)ンタデァ。
○ここの畳は、少しすき間ができるようだねェ。
※イダノきまェコガラ、カジェコァ、シーシテラ。
○板敷きのすき間(板の合わせ目)から、冷たい風がスウスウと吹き上げてくるゼ。(板の割れ目)
▲「きまェ」の「まェ」は、一音節に発音する。つまり「mae」を一度に発音すれば、純正?の津軽発音とする。「手前・気前・うまい・こまかい」等の「テマェ・キマェ・ウマェ・コマェ」のように。この「きまぇ」の語源としては、まず、「木目・肌理」が考えられるが、やはり「すきま」であろう。辞典にも、「隙間」=スキマ・スキメなどとあるから、その「スキメ」の「ス」が脱略したものであろうと思う。全国方言辞典二五一頁には、「きめ」=隙間。すきま。「障子のキメから風がくる」。秋田県鹿角郡。とある。「スキメ」とあるのは、標準語の辞典だから「マェ」とは書かなかったのだろうし、秋田方言の「キメ」の「メ」も、実際の発音は、かならず「mae」の一音節にちがいない。普通の「エ段」の「メme」ではあるまい。なお、「すきま」と同じ意味の「ひま」の語源は、空間的にみれば「へま・隔間」。時間的にみれば「ひま・日間」というのが通説であるが、どちらも捨てがたい気がする。「暇・閑・隙間・空間・透き間」等は、皆同族語として考えられるようだ。



その400
 「きりごみ」
 名詞。きりごみ。食料の名。
主として、春ニシンを小さく切って、塩とこうじ(麹)で漬けたのをいう。
たらやいかなどで作ったものは、「たらのしおがら」「えがのしおがら」という。
「しおから」は、「塩辛い」という形容詞の語幹が、そのまま名詞になったもの。
「しおから」は、安い時に一度にたくさん買った魚を、永くもつための一種の貯蔵法であり、経済的でもあるが、ケチな大やけなどで、奉公人の三度の食事に、毎日続けてそればかり出すということもあって、よく陰口をいわれたものだ。
今はそうでもなかろう。「きりごみ」や「しおがら」は、甘く辛くして、他のおかずに添えてちょっとした香味料ぐらいにして食べるがいい。

▲「きりごみ」「しおから」の類似の語を、他県の方言に求めてみよう。
①アマワタ=しおからのこと。福島県の東部地方。
②タタキ=カツオなどの塩辛。仙台。大阪。
③ヒシコ=イワシの塩辛。和歌山県。
④キリゴミ=(イ)牛肉の切れ端。大阪府泉北郡。
(ロ)塩辛・いかの塩辛。青森県上北郡。岩手県釜石
⑤イチャガラシュ=いかの塩辛。南島。
⑥モミカ=塩辛=塩辛。三重県度会郡(塩もみの意か)
以上のような名称があげられるが、②の「タタキ」は津軽では「ハダギ」というが、塩辛の意味にはあまり聞かない。
④の「キリゴミ」は、前述のように津軽では、「にしん」で作ったものに多くいうようだ。「いか」は「塩辛」という。



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