[連載]

 151話〜158話( 佳木 裕珠 )



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その151
エール 2

 俊五郎が上京する日は、大学の合格発表があってから三日後だった。
彼も彼の回りの人達も、俊五郎の合格はほぼ間違いないと踏んでいた。
そして、それはそのとおりの結果で、上京の準備は既に大方済んでいたのだ。
下宿先も東京にいる伯父が決めてくれていた。
早い時期に上京し大学の応援団の練習に参加するのだという。
昌郎が夕食を終えた頃、俊五郎から電話が入った。
「俺、明日の夕方青森を出発する」
電話でそう告げられ、あまりに急なことで昌郎は驚いた。
「え、明日ですか」
「うん。明日の夕方だ」
「何時の列車ですか」
俊五郎は、列車の時刻を告げなかった。
「ところで、荷物を整理していたら、木村君にあげたい本が出てきたんだ。良かったら今から俺の部屋まで来ないか。今の今の話だから、都合がつかないかも知れないが」
昌郎は即答した。
「いえ、行きます」
昌郎は、両親に事情を話して外出した。
俊五郎の部屋は、ほとんど片づいていた。
部屋の隅に大きなスポーツバッグが置かれている。
彼は、その荷物一つを持って上京するのだと言いながら話を繋いだ。
「実は、木村君に貰って欲しかったのは、参考書じゃないんだ」
手渡された本は新書版の本だった。
題名は「応援ということ」。
それは真新しい本で帯まで付いていた。
「先輩、これって新しい本じゃないですか」
「うん、やはり分かるか」
「分かりますよ。捲った後もありません。先輩、わざわざ買ったのですか」
「うむ、やはり分かるか」
「はい、分かります」
実はと言いながら、俊五郎はスポーツバッグの中から一冊の本を取り出した。
それは、昌郎の手の中にある本と同じ物だったが、そちらの方は随分と読み込んでいて、各所に付箋が貼られているものだった。
「これは、俺が高校に入った時に出会った本で、今まで何度も繰り返し読んだ本だ。それも、これと同じ本だが、注文して今日やっと届いた本だ」
「注文までしてくれたんですか」
「まあな。木村君にも是非読んで貰いたいと思ったんだ。と言って、こんなに読み古して付箋を付け、マーカーで印まで付けているし、俺にとっては一時も手放せない本だから、貸すわけにもいかない。でも、是非木村君にも読んで貰いと思った。高い本じゃない。遠慮せずに貰ってくれないか」
俊五郎は一瞬照れくさそうに笑った。躊躇いがちに受け取った本をじっと見つめてから、昌郎は顔を上げ礼を言った。
「先輩、有り難く頂戴します。しっかりと読ませていただきます」
「そうしてくれるか。有り難う」
「お礼は、俺から言わなければいけない。先輩、本当に有り難うございます」
その本を押し頂くようにして、昌郎は頭を下げた。
「俺は勿論、読まさせていただきますが、山村達や後輩達にも読ませたいと思います」
「そうしてくれると、一層嬉しい」
俊五郎は嬉しそうに何度も頷いた。
「この本の中に、こんな内容の言葉が出てくるんだ」
彼は、本を見ないでこう話した。
「応援には、下心があってはならない。勝ち負けを優先させてもいけない。そして、悪意を持って応援してはいけない。と言う言葉だが、下心と悪意のことについては読んで直ぐに納得したが、勝ち負けを優先させてはいけないと書いてあるところが、なかなか俺には理解できなかった。俺達は応援した人に勝って貰うために応援するのだと、ずっと思っていた。そして、応援してくれた人が勝ってくれれば、とても嬉しかったからな」



その152
エール 3

「試合における我々の応援は束の間のものだ。そして試合での勝ち負けも一瞬のものでしかない。勝った瞬間そして負けた瞬間から、それは既に過去の出来事になってしまうんだ。それじゃあなぜ戦うんだ。よく言われることだが、挑戦することに意義があるんだ。俺達はどうしても勝つことに執着し、負けた時には意気消沈してしまう。まあ、負けて喜ぶ人は誰もいないよな。でも、負けることも必要なんだよ。負けることは悪いことじゃない。負けたことで腐って自分を否定してしまうことがいけないんだ。一つの負けは、その人の全ての負けじゃない。だから、勝つことだけのために応援するんじゃないんだ。負けても応援したことに意義があるんだ。そして真の応援とは一人ひとりの生き方への応援ではないのかと思ったんだ。それは、小さくても良いから何時までも心のどこかに残る応援。人生の節目節目にその人の励みとなる応援ではないか。勝って欲しいと思うこと自体、それはそれで良いんだ。しかし、矛盾しているようだが相手に負けて欲しいと思って応援してはだめだとも思うんだ。もし、相手チームに応援する人達がいなければ、我がチームと相手チームの両者を応援するべきだと俺は思った。そんな応援団でありたいと思うんだ。負けた者がいるからこそ勝った者がいるということを決して忘れてはならないと思う。それに気付いたのは、木村君達のあの無声・無音のエールの記事を読んだ時だった」
「え、あの応援」
「そうさ、あの応援さ。君達の敗者に贈ったあの無言・無音の応援で、この本に書いてある『応援は、勝ち負けを優先させてはならない』と言う意味が朧気ながら分かるような気がした。まだまだ、この言葉の真意を掴んではいないだろうが、今までとは違った視線で応援と言う活動を考えるきっかけになった。だから、木村君達に是非この本を読んで貰いたいと思うんだよ。この中にはもっともっと応援と言う行為の素晴らしさが書いてある。それも知って貰いたいと思うんだ」
一冊の本を挟んで昌郎と俊五郎は色々なことを語り合った。
あっという間に九時になっていた。
昌郎の家では九時半が高校生の門限と決められていた。
それは兄達の高校時代も同じだった。
俊五郎は、その門限のことを知っていた。
「木村君そろそろ、帰らないと門限に遅れるぞ」
「あ、そうですね。先輩と話したいことがもっとあります。それは、俺が大学に入ってからにします」
「少し間があるな」
俊五郎は笑った。
「ところで先輩、明日は何時の列車ですか」
「見送りに来るなんて言うんじゃないだろうな」
「明日は土曜日ですから、山村達も誘って見送りに行きたいと思います」
「それだけはやめてくれ。俺の高校の後輩達にも、それだけは強く断っているんだ。だから列車の時間は教えられない」
少し考えてから昌郎は頷いた。
「それではそうします。でも東京に着かれたら新しい住所を教えて貰えますか。手紙を書きます」
「手紙か」
「はい、手紙です」
「携帯の番号を教えてくれと言われたことはあったが、手紙を書くから住所を教えてくれとは初めてだ。分かった東京に着いたら一番に君に手紙を書くよ」
一冊の新書文庫を持って昌郎は家路についた。
心が満ち足りていた。
しかし、その時刻に東京で、晴天の霹靂とでも言うべき、思いも寄らぬことが起きていたのである。
そのことを昌郎が知ったのは、俊五郎が上京した次の日の午前中のことだった。



その153
エール 4

 由紀は、仕事を終えて夜の九時少し過ぎに退社した。
彼女は日比谷公園を右手に見ながら日比谷通りを真っ直ぐ進んだ。
そして外堀通りにぶつかる交差点を渡らずに左折し、新橋の駅に向かった。
いつもどおりの道順である。
前方に新橋駅と駅前広場に置かれたSLが見えた。
由紀は、ガード手前の交差点を青信号になったのを確かめてから渡った。
金曜日の夜とあって多くの人が行き交っていた。
今日は金曜日だものねと彼女が思った矢先、前を歩いていた幼稚園ぐらいの男の子が急に振り向いた。
そして母親と繋いでいた手を放して、由紀の方へ駈け戻ってきた。
彼は、手に持っていた何かを落としたらしい。
由紀の少し前にそれが落ちていた。
男の子が大好きなキャラクターが描かれたカードらしい。
男の子はそれを見つけ拾おうとしたが足が縺れたらしく、あっと思う間もなく転んでしまった。
男の子の母親が駆け寄ってくる前に、由紀がしゃがんで男の子を抱え起こした。
「ぼく、大丈夫?」
彼女がそう声を掛けた時だった。
スクランブル交差点の歩行者信号がまだ青なのに、一台のバイクがガードの方から猛スピードでスクランブル交差点の中に突っ込んで来たのだ。
パトカーのサイレンがそのすぐ後に迫っていた。
バイクはパトカーの追跡から逃れるために赤信号を無視して交差点を渡っている人波の中に進入してきたのだった。
「危ない」「きゃー」人々は大声や悲鳴を上げながらバイクから逃げ惑った。
しかし、しゃがんでいた由紀は、咄嗟にその場から離れることが出来なかったのだ。
彼女は男の子をきつく抱きかかえたままで、バイクに撥ねられた。
バイクは由紀とぶっかった反動で横転して止まった。
運転していた青年は数メートル先に投げ出された。
男の子の母親が悲鳴にも似た声を上げ子どもの名を呼びながら、由紀の方に駆け寄った。
パトカーが追いつき、路上に投げ出されたバイクの青年を警察官が捕まえた。
男の子を抱いていた由紀は、ほとんど即死状態だったが、最後まで男の子をきつく抱いて守っていた。
母親が駆け寄ってきた時、由紀はまるでそのことを知って安堵したように、男の子を強く抱きかかえていた腕の力を緩めた。
男の子は、由紀に庇われて奇跡的にも怪我の一つなく無事だった。
そして由紀の懐から男の子は抜け出して母親にしがみつき火が点いたように泣き出した。
男の子の手の中には、彼が大切にしていた一枚のカードがしっかりと握りしめられていた。
由紀は背中と後頭部をバイクの車体でしたたかに打たれ、上体と後頭部から夥しい血が流れ出して道路を濡らした。
しかし、衣服は乱れず顔にも傷一つなかった。
更に数台のパトカーがサイレンをけたたましく鳴らしてその場に到着した。
黒集りの人混みの中で、由紀だけが何が起きたか分からないと言うように、少し微笑んだ顔で横たわっていた。
すぐそばのガードレールの上を、山手線の内回りと外回りの二台の電車がすれ違うように通過していった。
都会の喧噪の中で由紀は一人の男の子の命を救い、そして自分の短い人生を終えた。

同じ頃、昌郎は俊五郎先輩から貰った本のことを、早速由紀に手紙で伝えようと思いながら歩いていた。
ふと見上げた空に細い三日月が輝いていた。
少し霞んだ月があまりにも美しくて彼は立ち止まって眺めた。
しみじみと月を見たことなど生まれて初めてだった。
心なしかその月の光が濡れているように感じた。
弾んだ昌郎の心に何かが忍び込んで来た。



その154
エール 5
 日曜日の十時頃だった。
昌郎は由紀への手紙の続きを書いていた。
応援団マネージャーの睦子から昌郎の家に電話が掛かってきた。
昌郎の父親は同業者の集まりに出かけていた。
二人の兄達は昨日から安比のスキー場に一泊二日でスノーボードをやりに行っている。

母親は洗濯や掃除に余念がなく、電話が掛かってきたことすら気が付かなかった。
階下に降りて昌郎は受話器を取った。
そこに聞こえてきたのは、睦子の緊迫した声だった。
そして由紀の死を伝えられた。
「え、まさか」昌郎はそれ以上言葉が出なかった。
睦子も姉から、たった今聞いたばかりで、とても信じられないと言った。
睦子の姉の戸山政子は、由紀と中学・高校と同じ学校そして六年間クラスも同じ。
大の親友であった。
その政子へ由紀の母親から連絡が入ったのだと言うのだ。
昌郎は由紀の死を到底受け容れることなど出来ないと思った。
しかし、その話は十分に信じられる所から流れてきているのだ。
「嘘だ。由紀が死んだなんて嘘だ」昌郎は、そう叫びたかった。
しかし、由紀の母親からの話であれば、それは動かしようもない事実だ。
由紀の母親が、そんなことを冗談で言うはずもなければ、取り間違う筈もない。
また、政子先輩が嘘を付くはずもない。
そして、そんな大事なことを睦子が聞き間違う筈など決してあり得ない。
だが、それは間違いであって欲しい。
嘘であって欲しい。
聞き違いだったと言って欲しい。
昌郎は睦子からの電話が切れたあとも、その場に放心して立ち尽くしていた。
暴走してきたバイクに撥ねられ、ほとんど即死状態で由紀が死んだその時間は、自分が俊五郎先輩の所を辞した頃だ。
そして由紀が死んでしまったことも分からずに、家に帰えり風呂入った後で、彼女への手紙を少し書き始めていた。
十一時過ぎ頃だっただろうか、寝る前にカーテンを少し開けて窓から月を眺めたことを思い出した。
そんなことなど今まで一度もなかったのに、その時に限って、帰り道で見たあの月をまた見たくなったのだ。
少しカーテンを開くと細い三日月が真っ正面に見えた。
細いその朧月の光は回りの夜空を燻し銀のように輝かせていた。
三日月がこんなにも美しく輝くことを、昌郎は生まれて初めて知った。
その時、何故か知らないが思いもよらず涙が一筋自分の頬を濡らした。
不思議な気持ちだった。
何故自分は涙を流しているのだろうか。
何か悲しいことでもあるのだろうか。
自分の心に問いかけてみたが、答えは見付からなかった。
しかし、胸の中が無性に淋しい思いに満たされていた。
胸騒ぎだったのかも知れない。
不思議な気持ちだった。
睦子からの電話を切り、昌郎は緩慢な動作で二階の自室に戻った。
電話で何を聞いたのか分からなかった。
彼はまた机の前に座った。
そこには書きかけの由紀への手紙があった。
「俊五郎先輩から一冊の本を貰いました。『応援ということ』と題した本です。奥の深い本だと思います。早速読んでみます。貴女にも読んで貰いたいと思います」
そう書いて昌郎は万年筆を置いた。
由紀に読んで貰いたくても、それはもう絶対に叶わぬこととなってしまったのだろう。

まだ、由紀の死を受け容れてはいない。
しかし、それは単なる冗談や嘘ではないことも分かる。
無理矢理に分かろうとしている。
あれは、嘘だったと誰か言ってくれないだろうか。
一言でいい。
そうすれば由紀は蘇る。
しかし、それはもう叶わない。
そう思った瞬間、強い悲しみが昌郎を襲った。彼は、滂沱の涙を流しながら声を殺してベッドに泣き崩れた。



その155
エール 6

 昌郎は、壁際にあるベッドに頽れるように倒れた。
両手で自分の口を塞いだが、嗚咽は止まらず胸を突くように更に激しくなった。
息苦しさを必死に堪えながら、昌郎は溢れ出る嗚咽を噛み殺した続けた。
暫くすると波が引くように胸が静かになった。
夢なのだろうか。
自分は悪い夢を見ているのだろうか。
しかし夢ではない。
早春の三月の陽射しが目映いばかりに窓から差し込んでいる。
緩慢な動作で起きあがり、窓辺に近付いてガラス窓を開けると、金属のように輝きながら冷たい空気が遠慮なく部屋に入り込んで来て、彼の体温を奪って行った。
寒いとは思わなかった。
それ以上に心が冷えていた。
書きかけの便箋が、その冷たい風に遊ばれて幽かに揺れていた。
その時である。
突然強い風が吹き込んできた。
あっと言う間にその便箋が舞い上がった。
昌郎は目を見張って便箋の行方を追いかけた。便箋は舞うようにして一旦天井まで上がってから、ゆっくりと昌郎の目の前に降りてきた。
彼は、両手でそれを受け取った。
由紀からの返事がその便箋に書かれているかも知れない。
受け取った便箋に昌郎は視線を走らせた。
しかし、そこに由紀の返事など書かれているはずもない。
それが現実だった。自分は夢など見ていないのだ。
これは現実なのだと今更のように、今吹いた一陣の風に教えられた。
彼は果てしもない悲しみに嗚咽し続けた。
そして嗚咽の後に彼を襲ったのは途方もなく大きな虚無感だった。
それを繰り返した。
どれほどの時間が過ぎていったのだろうか。
昌郎は、抜け殻になったような体をベッドの上に丸めていた。
何も考えられなかった。
自分が光の中に雲散霧消してしまったようだった。
虚ろな耳に階下からの声が聞こえて来た。
「昌郎、昌郎、山村君達よ」
母親のその声で彼は我に返った。
「居眠りでも、しているんじゃないかしら。部屋にいるから、どうぞ上がって」
失礼しますと言いながら山村達が階段を上がってくる様子が分かった。
昌郎は、自分が便箋を握っていることに気付いた。
急いでベッドから起きあがり、その便箋を机の中に仕舞い込んだ。
「まさ、入るぞ」
山村達がそう言いながら部屋に入って来た。
昌郎は、部屋の入り口に背を向けて窓を閉めていた。
その後ろ姿を山村達は立ったまま見つめ、掛ける言葉を探しあぐねて部屋の入り口に立ち尽くした。
窓を閉め終えた昌郎は、いつまで経っても振り向かなかった。
彼等の間に長い時間が流れたように感じた。
堪えきれずに克也が呼びかけた。
「まさ」
昌郎の肩がぴくりと動いたように見えた。
「まさ」
今度は真治が声を掛けた。
昌郎の背中が小刻みに震え出したのが分かった。
山村は昌郎に静かに近付くと、そっと彼の背に手をやった。
震えが大きくなった。
昌郎の嗚咽が聞こえた。
山村達はぐっと胸に堪えた。
「まさ」
克也と真治も昌郎に近付き、そして山村のように昌郎の背に手を触れた。
昌郎は振り向いた。
彼の目は真っ赤に充血していた。
そして堰を切ったように慟哭した。
そんな昌郎を山村達がきつく抱きかかえた。
昌郎は絶え絶えに声を漏らした。
「由紀が、由紀先輩が」
「まさ、分かっている。とことん泣け」
山村が言った。
彼等は昌郎と由紀のことを知っていた。
そして、今までそっと見守っていたのだ。
「由紀が死んだ」
昌郎は迸るように泣いた。
飲み物を持ってきていた母親は、部屋の外で昌郎が叫んだ言葉を聞いて絶句した。
週に一度は必ず送られてくる由紀からの手紙を見て、昌郎と彼女の淡い交際を知っていた。
母親は、我が子が突き落とされた悲しみの深さを知った。



その156
エール 7

 金曜の夜遅く、由紀と同じホテルに勤めている美子から、由紀が死んだと加藤家に連絡が入った。
余りにも突然のことで由紀の両親は己の耳を疑った。
一体何が起きたと言うのだろうか。
思考が止まったまま、大きな不安に苛まれながら時間だけが過ぎて行った。
自分達の娘が、そんなに簡単に死んでしまうなどとは、とても考えられなかった。
何かの間違いに違いない。
明日になれば、あれは間違いでしたと一報が入るに違いない。
それしか考えられない。
そうに決まっている。由紀が元気に生きていることを確かめに行かなければならない。

自分達に出来ることは、上京し由紀と会うことだけだ。
高ぶる気持ちを持て余し眠れぬ一夜を過ごした由紀の両親は、夜明けを待ち青森駅から朝一番の特急列車に乗り、八戸で新幹線に乗り換えて東京に向かった。
そして、自分達の娘が紛れもなく、この世を旅立った事実を突きつけられたのであった。

大きな事故で死んだにも拘わらず由紀の顔には一つの傷もなかった。
それは、抱きかかえた男の子に守られた結果だとも言えた。
由紀は、抱きかかえた男の子が被っていた毛糸の帽子にしっかりと顔を寄せ、子どもの全てを守ろうとしていたのだ。
そして、その姿勢のお陰で彼女の顔は無傷のままでいたのだった。
由紀の両親は、変わり果てた我が娘の姿と穏やかな笑みすら湛えたような美しい顔を見た。
今にも、ぱっと目を開けて「お父さん。お母さん。驚かせて、済みません。ほら、私はこんなに元気です」と言い出しそうなほど、彼女の顔は生き生きとしていた。
「由紀、お母さんびっくりしたわよ。さあ、起きなさい」
母親の光恵はそこに横たわっている娘に声を掛けた。
由紀は、目を閉じ微笑んだままで何も答えない。
「由紀、聞こえている?お願いだから起きて頂戴。ねえ、起きて頂戴、由紀」
藁にも縋る思いで、必死になって娘に呼びかける妻の細い背中を夫は後から強く支えた。

彼も、娘の死を信じられなかった。
信じたくもなかった。
二人は、愛しい娘が黄泉の国から蘇ることを強く望んだ。
しかし、由紀はぴくりとも動かない。
「由紀、どおしたの。どおしたのよ」
光恵は声を上げて呼びかけた。
しかし、答えが返ってくるはずはなかった。
「由紀、起きなさい」
母親は、美しい寝顔に手を触れ、ハッとしたように手を放した。
何と冷たいのだろう。
光恵は恐る恐るもう一度、由紀の頬に触れた。
今度はしっかりと。
その頬は氷にでも触れたような冷たさで、手が凍えてしまうと思うほどだった。
その感触で、光恵は自分の娘の死を否応なく受け容れさせられたのである。
母親は頽れるようにして娘の遺体に縋り付き、堰を切ったように声を上げて泣き出した。

そんな妻を支えながら夫もまた、突然すぎる最愛の娘の死に悲痛の涙を流し続けて男泣きするのだった。
由紀の亡骸は東京で荼毘に付されてから青森へと帰ることになった。
光恵は、火葬の日を決める段になってから我が儘を承知で、その日取りを一日延ばして貰った。
そして、親戚の者に頼んで青森から一枚の着物を届けてもらった。
その着物は、朱色地の紋綸子にカトレアの花を金糸で刺繍した中振り袖で、光恵が成人式の時に着た着物であった。
生前の由紀は、この着物を大層気に入って二十歳になったら自分もこの着物を着て成人式に出席したいと言っていたものだ。
光恵は、この中振り袖を由紀に着せて見送りたいと思った。
火葬場には、彼女の両親と大叔母の美子、そして上京して間もない俊五郎の他、数人の親類・同僚・直属の上司達が付き添った。



その157
エール 8
 せめて、火葬の際に執り行われる斂の式には顔を出したいと、総支配人の五高応援は言っていたが、どうしても抜けられない急用が入って、それは叶わなかった。
由紀は、青森から届いた朱色地の中振り袖をまとい棺の中に横たえられた。
薄化粧を施された美しい顔の回りは、スイトピーやストックそしてフリージアなど早春の花々で飾られていた。
無情にも棺の蓋が閉められた。
半紙で作られた白い四華の花が痛々しいほど際立つ空間の中で、いよいよ棺がかまどに入れられる時が来た。
有無をも言わさぬ鈍く重々しい音を立てながら、かまどの扉が閉じられた。
そして、轟音と共にかまどに火が付けられた。
母親の光恵は、声を上げてその場に泣き崩れた。
それを懸命に支えながら由紀の父親も男泣きに泣いた。
彼等には泣くことしか方途がないのだった。
 火葬が済んだ。
悲しみに堪え、両親は娘の部屋を片付けた。
机の上に応援団らしい男子生徒の小さな写真が飾られていた。
由希が上京する時、青森駅のホームまで見送ってくれた高校生達の中にいたのだろうが記憶にない。
由紀に好きな人がいたことを両親は初めて知った。
机の引き出しの中から書きかけの手紙を見つけた。
筆まめに手紙をくれる娘だったから、自分達宛の手紙だろうと思いながら、両親は片づけの手を休めて書きかけの手紙を読んだ。
読み始めてからすぐ、それは自分達に宛てられた手紙ではないことに気付いた。
「いつも、昌郎さんからの手紙を嬉しく読んでいます。青森の雪も大分解けてきたことと思います。東京にいるとあの青森の雪が懐かしいです。四月からはいよいよ三年生ですね。俊五郎先輩と同じ大学への進学を決心したようですが、昌郎さんなら、きっと目的を達成します。私から心を込めてエールを贈ります」
親とは別な意味で大切な人を見つけていた我が娘に彼等は初めて出会ったのだった。
両親は食い入るように、その写真を見つめた。
 三月下旬、東京は既に春の陽気で、桜の開花まであと一週間ほどだろうとテレビやラジオが伝えていた。
東京駅新幹線ホームは温かな春の陽光に包まれていた。
美子と俊五郎に見送られて由紀の両親は列車に乗り込んだ。
ホーム側の窓際の席に座った母親の膝の上に、慈しむように由紀の骨箱は抱かれていた。

「由紀ちゃん、青森に帰るのよ」
光恵が膝の上の骨箱にそっと話し掛けた。
隣の座席の父親は、じっと骨箱を見つめていた。
発車のベルが鳴り響いた。彼等は顔を上げホームに立つ美子と俊五郎に深々と頭を下げた。
ベルが鳴り終わった。
新幹線は十時五十六分に定刻通りゆっくりと動き始めた。
窓外で美子が小さく手を振った。
俊五郎は深く頭を下げた。
列車は徐々にスピードを上げて行く。
列車が遠ざかるのに比例して、美子の手の振り方が大きくなっていった。
そして俊五郎も大きく手を振った。
二人の姿があっという間に視界から消え去った。
窓の外には、麗らかな光を浴びた大都会東京の街並み広がった。
我が娘が一年間過ごした東京の街を、両親は車窓にじっと眺めた。
彼等の胸には大きな穴がぽっかりと空いていた。
その空虚な空間に、またじわじわと悲しみが貯まってくる。
それが満杯になった時、激しい悲しみに襲われ涙が止めどなく流れ出すのだ。
涙を流し切るとまた心に空洞が出来る。
そこに再び悲しみが堆積してゆき満杯となって悲しみが涙と共にまた溢れ出すのだった。

気が付くと、終点の八戸が間近に迫っていた。



その158
エール 9(最終回)

 八戸駅では十分ほどの乗り換え時間があった。
新幹線を降りた人達は乗り換え口に急いだ。
夫に荷物の全てを持って貰い、光恵は由紀の骨箱だけを胸に抱えて移動した。
回りの人達は、彼女が抱えているものが骨箱だと気付き通路を開けるようにして道を譲ってくれた。
そんな知らない人達の気遣いに彼等は驚きながらも、見ず知らずの人達の温かな情に有り難さを感じ丁寧に頭を下げた。
列車が三沢を過ぎて野辺地に差し掛かると、空一面に黒く厚い雲がかかり、そこから雪が降り出して来た。
青森県内の天気は、野辺地あたりを境にしてがらりと変わる。
浅虫温泉に近付くに従って風が激しさを増し、雪は横殴りに列車の窓を叩き付けた。
浅虫温泉を過ぎると次は青森である。
光恵は由紀の骨箱にそっと囁いた。
「もうすぐ、青森。あなたが生まれ育った青森の町よ」
かたかたと骨箱が鳴ったように感じたのは、列車の震動だったのかも知れない。
父親も無言で頷いた。
十五時二十二分、特急列車は滑るようにして青森駅のホームに辿り着いた。
この列車は青森駅でUターンして海峡線に乗り換え青函トンネルを通って函館まで行く。

青森駅で降りる乗客はそれほど多くはなかった。
由紀の骨箱を持ってホームに降り立つと、雪が下から吹き上げるようにしてホームの中まで入り込んでいた。
慣れているとは言え、光恵夫婦は一瞬たじろいだ。
その横殴りの雪をまともに受けながら、学生服の一群がホームに整列していた。何事だろう。
光恵達夫婦はその光景に瞠目した。
一体、何があるのだろう。
驚いて立ち尽くす光恵達の前に、一人の若い女性が駆け寄って来た。
「おばさん」
骨箱に目をやりながら彼女は既に涙声だった。
「ああ、政子ちゃん」
由紀の親友の政子だった。
「おばさん」
政子はそれ以上何も言えずただ光恵に縋って泣くだけだった。
「お姉ちゃん」
睦子が進み出て頽れそうな姉を支えながら控えめに言った。
「おじさん、おばさん。お帰りなさい。私達応援団員全員が由紀先輩を出迎えに来ました」
「え、出迎えに」
「はい。私達、由紀先輩にエールを贈りたいと思って来ました」
応援団顧問の辻も光恵達の前に歩み出た。
「この度は…」
その次の言葉が続かない。
辻は大きく一つ息をしてから言った。
「本校の応援団と生徒会役員達が、是非、加藤さんの冥福を祈りエールで出迎えたいと言うのです。どうか、彼等の申し出を受け容れていただけないでしょうか」
辻のうしろには数十人の高校生達が整列していた。
その中央に由紀の部屋に飾ってあった写真の男子生徒がいることに光恵達は気が付いた。

由紀が生まれて初めて好きになった男子生徒だった。
由紀の机の中にあった書きかけの手紙、それはこの男子生徒宛のものだった。
若者らしい清いつきあいであることは、由紀が大切に保管していた何十通もの昌郎からの手紙でも分かった。
光恵達は、それらの手紙を見て深い悲しみの淵にいながらも、大きく救われていた。
我が娘にも心ときめく青春の一ページがあったのだ。
「辻先生、有り難うございます。由紀はどんなに喜ぶか知れません」
父親はそう言いながら辻に頭を下げ、そしてその後にいる昌郎達一群の生徒達に深く頭を下げた。
母親の光恵も、夫と一緒に頭を下げた。
骨箱の中で幽かな音がした。
また風に巻かれるように雪が激しくホームに入り込んできた。
朝の東京駅とは全く違う青森駅の光景だった。辻が昌郎に声を掛けた。
「よし、加藤君の御霊にエールを送れ」
昌郎が一歩前に進み出た。
由紀が好きだった高校生だと思いながら、男子生徒を見つめていた光恵は、記憶の中に蘇った一人の男子生徒を思いだした。
あの時の男の子だ。
それは、二年ほど前のことだった。
入学したばかりの男子生徒が応援団員となり、明日までに校歌を覚えなければならないから由紀に教えて欲しいと父親と一緒に尋ねて来たことがあった。
その時の男子生徒だった。
あの時はまだ幼さの残る顔をしていた。
しかし、今では、その面影を残しながらも立派な若者になっている。
感動にも似た気持ちで光恵は昌郎を見つめた。
横殴りの風が雪を巻き上げて昌郎の横顔に雪の礫を激しくぶつけた。
しかし昌郎には、その雪礫の痛さも冷たさも感じなかった。
彼の心の痛みに比べれば、それは些細なことだった。
雪降る駅で、そのエールは始まった。
「それでは、加藤先輩の御霊に、心を込めてエールを送らせていただきます」
昌郎の声は震えていた。
しかし途切れることはなかった。
「加藤〜〜先輩〜〜、お帰りなさい、加藤〜〜先輩有り難うございました〜〜」
途中から昌郎の声は上擦ったが、最後までしっかりと言い終えた。
続いて山村が叫んだ。
「御霊〜〜安らかんことを〜〜祈ります〜〜」
その言葉に克也と真治が更に声を重ね二度繰り返された。
そして「そうれ」と言う山村の合図で、「加藤先輩お帰りなさい。加藤先輩御霊安らかに」と拍手の嵐で重ねエールが繰り返された。
由紀の骨箱を運んできた特急列車白鳥十五号は、青森駅で後戻りするように函館に向けて出発しようとしていた。
函館まで行く乗客達は、ホームで繰り広げられている応援エールに驚きながら窓越しに眺めていた。
出発のベルが鳴った。エールは、その音を掻き消すかのように続いた。
何時しか昌郎の瞳から涙が溢れ頬をしとどに濡らしていた。
嗚咽で声が上手く出ず途中で言葉が途切れた。
両隣にいる山村と克也そしてその隣の真治は昌郎の嗚咽に気付き、その嗚咽を掻き消すように精一杯に声を張り上げた。
由紀へのエールは勿論のことだが、彼等は昌郎にも懸命にエールを送っていたのである。

特急列車は北に帰る渡り鳥のように悄々と遠ざかっていった。
そして横殴りの雪降る駅で由紀に捧げた昌郎達のエールが終わった。
 仲間達と青森駅で別れて昌郎は一人家に戻った。
彼は、夜の帳が下りてから再び青森駅に来た。
そして夕闇の中に浮かび上がるホームに一人立った。
先程までの強い風が嘘のように静まって屋根のかかったホームに雪が吹き込むことはなかった。
雪は静かにそしてゆらゆらと漆黒の夜空から落ちて来ては青森駅を優しく包んだ。
淡い春の雪である。
線路や枕木に届く前に雪は姿を消してゆく。
一年前、このホームで上京する由紀を送り、そして今日この同じホームで由紀を迎えた。

しかし、迎えたはずの由紀は何処にもいなかった。
由紀は、今降っている雪のように、この地上に届くことなく消えて行った。
そんなはずはない。
由紀が帰ってきた痕跡が駅舎の何処かに必ずあるはずだ。
昌郎は、出迎えたはずの由紀の痕跡を辿るために、もう一度この駅に来たのだった。
しかし、当然の事実として由紀の痕跡は何処にもなかった。
彼は呆然として、人影の途絶えた長いホームをぼやけた視線で見つめた。涙は尽きることを知らず、彼の頬を濡らし続けた。
「由紀、一体何処に消えたんだ。俺は、これから誰に宛てて手紙を書けばいいんだ。俺の夢を誰に話せばいいんだ」
そう何度も何度も見えない由紀に語りかけながら、青森駅のホームに立ち尽くしていた。

そんな時だった。
屋根のかかったホームの中に佇んでいた昌郎の頬に、揺らめきながら大きな綿雪が一ひら降り落ちてきた。
それも丁度涙の上に。
彼は、上を見上げた。
そこにはホームに連なる長い天井があった。
不思議に思った。
風もないのだから、ホームに雪が吹き込むはずはない。
天井に穴が空いているわけもない。
昌郎は冷たくなった頬を拭い、指先についた涙の滴をじっと見つめた。
その時である。
今度は、彼の手のひらに一際大きな綿雪がゆらゆらと舞い落りて来た。昌郎は再び上を見上げた。
やはり屋根がかかっている。
ホームの外に目を転じた。
そこには、ホームから漏れる明かりを浴びながら春の淡雪がひらひらと舞っている。
しかし、その雪をホームへ入り込ませるような風は吹いていない。
昌郎は再び手のひらを見つめた。
そこには確かに大きな綿雪が解けもせずに乗っていた。
「あ、これは由紀だ」
昌郎はそう思いあたった。
「由紀」
大きな綿雪をじっと見つめながら昌郎がそっと呼びかけた。
雪が六角形の光を放ちきらきらと輝いた。
由紀に会えたと思った。そして由紀が言った。
「ただいま。私は今、貴方のもとへ帰ってきました。素晴らしいエールで出迎えてくれて有り難う。貴方の手紙で教えて貰っていたけれど、立派な応援団になっていて本当に嬉しかった。あのエールで私はもう充分です。これからは、私が貴方のそばにいてずうっとずうっとエールを送って行きます。さあ、涙を拭いてください。応援団長に、涙は似合わないわ。さあ、涙を拭いて、元気に歩き出して。姿は見えなくても、私は何時も貴方のそばに居るから」
 そう伝えながら、雪が静かに手のひらから消えていった。
 春の淡雪の中に浮かび上がった雪降る駅で、昌郎は由紀の魂を出迎えた。
そして、由希のエールをしっかりと胸に刻みながら呟いた。
「由希、明日からはもう泣きません。だから、もう少しだけ泣かせて下さい。この雪降る駅で」







佳木裕珠先生の次回作は
「小さな星空」



「A-Get通信」読者の皆さまへ
佳木裕珠


 株式会社小山内バッテリー社提供のケータイ通信マガジン「A-Get通信」(携帯・スマートフォン・パソコンでご覧頂けます)に7年にもわたって連載させて頂いた小説「雪降る駅で」は12月で最終回を迎えました。

 この最終回に先立ち、嬉しいことに「雪降る駅で」は10月1日に単行本として泰斗舎(青森市)から出版して頂き、私から巣立って行きました。
この小説の舞台は、全日制高校です。

「雪降る駅で」は最終回となりましたが、引き続きA-Get通信に新たな連載小説を掲載させて頂くことになりました。

今度の物語の舞台は、夜間定時制高校です。
 私の教師生活の振り出しは、夜間定時制高校でした。
そして、定年を迎えたのも定時制高校でした。
そこには心を揺さ振るような様々なドラマがありました。
そして、輝く青春、煌めく人生がありました。
 今度連載させて頂く小説の題名は
「小さな星空」〜夜間定時制高校に学ぶ人達に贈る〜。

これからも、この小説「小さな星空」を読んで頂ければ、この上もない幸せです。

(東京都町田市在住)








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