[連載]

 41話〜50話( 佳木 裕珠 )


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◆その41
六月の空(4)


 由希は、昌郎達4人が応援団幹部、あとの2人は生徒会役員で太鼓を叩くために協力しているのだと紹介した。
 昌郎達4人が応援の全てを取り仕切ることを暗に皆に伝えたのである。
 そして、今年の4月に彼等は初めて応援団員になったことも包み隠さず話した。
 その上で彼等への指導は今年の春に転勤された笹岡先生にしていただき、それは今も続いていると付け加えた。
 そのことを聞いた2年生達が顔を見合わせた。
 あの鬼の笹岡にしごかれたのか。
 驚嘆の声がそこかしこで上がった。
 笹岡は、その厳しさで名物教師と言われていた。
 どんな悪たれでも彼の前では青菜に塩の状態で、到底さからうことはできなかった。
 しかし、その反面、生徒達の人望も篤かった。
 怖い先生ではあったが、愛情の深い人でもあった。
 悪いことは決してそのままにしておかず大きな雷を落としたが、悔い改める気持ちを持てば徹底して援助を惜しまなかった。
 まさに人情の人といってもいい。
 何時の時代でも、年齢に関係なく人情味のある人は皆に慕われるのだろう。
 笹岡はそんな教師だった。
 由希は続けた。
「笹岡先生は、ここにいる4人は応援団幹部として3年間やり抜く力があると話しています。あの厳しい先生からお墨付きをいただいた人達です。1年生でありますが、私達は彼等を応援団幹部として認め、彼等の指揮のもとに全員が一丸となって応援をしましょう」
 2年生達は由希の言葉に引き込まれていた。
 その雰囲気は、笹岡を知らない1年生をも包み込んだ。
 体育館の空気は昌郎達を応援団幹部として認めた。
 何時の間にか笹岡にしごかれたことが自分達の誇りとなり自信となり、昌郎達は胸を張ってステージの上に立っていた。
 勿論真治と克也の膝の震えは止み、彼等の体にも熱い血が漲(みなぎ)っていた。
 俺達は笹岡先生に鍛えられているのだ。
 笹岡の大きな支えを彼等は強く感じていた。



◆その42
六月の空(5)


 昌郎達は、まず自分達の自己紹介を兼ねて基本的な演技を披露した。
「押忍」の掛け声が始まると、体育館の中に照れのような笑いがあちこちに小さく起こった。
 あんなに真面目に背筋を伸ばし、自分の為にではなく他人のために朗々と声を張り上げることは、それをするよりも見ている方が恥ずかしいという心理が人にはあるようだ。
 それは、その行為に慣れていないからであろう。
 しかし、人は真剣に取り組む者を目の前にすれば、その素晴らしさにすぐ気が付く。
 演技が始まって数分後、体育館にいる生徒達は昌郎達の男らしさに見惚れていた。
 10分ほどの演技が終った後、少しの間があってから大きな拍手が湧き上がった。
 1年生達の中には、俺も応援団に入ろうかなという声が聞こえた。
 その後の基本的な掛け声や拍手の練習は思った以上に上手くいった。
 その日の最後は校歌の練習である。
 体育館のステージ下に吹奏楽部のメンバーが集まり、体育館いっぱいに響き渡る吹奏楽団の校歌伴奏が始まった。
 昌郎達は壇上で大声を張り上げ校歌を歌った。
 しかし、居並ぶ生徒達の口が動いていない。
 ステージの上からでもそれははっきりとわかった。
 昌郎は口だけを動かして自分の声を消し耳を澄ませた。
 真治や克也そして山村の声だけは聞こえてきたが、ステージの下からは吹奏楽の伴奏だけしか聞こえなかった。
 よく見ると、1年生は勿論のこと、2年生ですらほとんど校歌を歌っていない。
 幾人かの者が、体育館の前に掛けられた校歌の額に目を凝らしながら、小さく口を動かしてはいるが、あとの者は校歌の額に目を向けていなかった。
 あの時の俺達と同じだ。
 校歌の大切さを彼等は気付いていない。
 まず、自分達の学校の校歌を歌ってもらわなければ応援は始まらない。
 校歌に命を吹き込むことが出来るのは、在校生の自分達だけであることを伝えたいと、昌郎は痛切に思った。



◆その43
六月の空(6)


 昼休み時間、昌郎は学校の図書館で創立30周年の折に作られた記念誌を、脇目も振らず一心に読んでいた。
 そこに校歌がどのようにして作られたかの経緯が書かれている。
 息を詰めるようにして彼はその記事を読んだ。
 戦後間もない頃、まだこの高等学校には校歌なるものがなかった。
 それを淋しく思った生徒達は是非校歌が欲しいと考えて先生達に相談した。
 先生達もその思いは同じだった。
 誰か卒業生の中で著名な人を探し作詞をしてもらおうと学校側では計画したが、生徒達は在校生に公募し、その中から優秀なものを選考して欲しいと要望した。
 先生達は当初、それでは重みがないということで反対したが、生徒達は諦めなかった。
 校歌を作るその時に、生徒として在籍したことの意味は深い。
 自分達にその任が与えられ、校歌を作ろうという機運が高まったのだから、是非とも私達に作詞させて欲しい。
 そして、今勤務されている音楽の先生に曲を付けて頂きたい。
 生徒達は、その思いを文章に認めて校長へ直に持って行った。
 当時の校長はそんな生徒達の熱い思いを汲み、自ら先生方を説得してくれた。
 応募された作品を見て最初は反対していた先生方も、その質の高さ、そして思い入れの深さに息を飲んだ。
 どの作品も甲乙付け難いほどの秀作揃いであった。
 その十数編の応募作の中から選ばれたのが、今日歌い継がれている校歌である。
 そして、この歌詞に曲を付けるに至っては、もう一つの予期せぬドラマがあった。
 当初、作曲を担当することになっていた音楽教師が、突然脳梗塞で倒れ帰らぬ人となったのである。
 年が改まった1月の職員会議の折、誰に作曲を頼むかを教師達は話し合ったが人選に苦慮した。
 その時一人の若い教師が提案した。
 いっそ作曲も生徒にさせたらどうだろう。
 彼等には、きっとその力もあるはずだ。



◆その44
六月の空(7)


 自分の学校の校歌が、当時の生徒によって作詞され作曲されていたこと、そして更には作曲に名乗りを上げたのは作詞者の親友であったという、その事実に昌郎は強く胸を打たれた。
 あいつが書いた詩に俺が曲を付けたい。
 その思いが愛校心と相俟って素晴らしいメロディーが歌詞についたのである。
 校歌に「見よ学友の清き姿」と言う一節がある。
 正にそれは真実の言葉であり曲であったのだと昌郎は感じた。
 この日本に数多の高等学校がある中で作詞だけならば未だしも、作曲も在校生によってなされた校歌は稀有だろう。
 正に自分たち生徒の校歌と言ってもいいだろう。
 このことを是非皆に知ってもらいたい。
 そして誇りを持って高らかに校歌を歌ってもらいたい。
 今この学校に籍を置いている自分達がこの校歌を愛して歌わなければ、一体誰が歌うというのだ。
 校歌に新たな命を吹き込み輝かせるのは、今此処で学ぶ自分達の大切な使命であり責任である、昌郎は心底からそう思った。
 2回目の応援練習の日がきた。
 体育館はざわついていた。
 辻がステージの上から生徒達を静めた。
 そして入れ替わって昌郎達4人がステージに上がった。
 蛮声を張り上げた応援練習が始まると誰もが思っていたが、横一列に並んだ4人の中から、昌郎がマイクの前に進み出て話し始めた。
「今日は、皆さんにまず校歌の練習をしてもらいたいと思っています。先日の応援練習の時、校歌を歌ってもらいましたが、残念ながら殆どの人が歌っていませ んでした。校歌なくして応援は始まりません。応援の基盤は校歌にあるのです。校歌は、その学校に集い学ぶ者達を励ます音楽であります。本校の生徒となった からには、私達はしっかりと校歌を歌い継いで行かなければならないのです。本校の校歌を作詞・作曲したのは、驚くことに私達と同じ年齢の戦後間もない当時 の生徒でありました」



◆その45
六月の空(8)


 自校の校歌が、自分達と同じ年齢の戦後間もない当時の生徒によって作詞・作曲された経緯を昌郎は切々と語り、それは10分にも及んだ。
 しかし、その間誰一人として私語する者はいなかった。
 彼が話し終えた後、束の間の静寂があった。
 昌郎達4人は、マイクを囲むようにして立ち、声高らかに校歌を歌った。
 1年生の彼等がそらでしっかりと歌えるのに、自分達は曲も曖昧で短い歌詞すら疎覚(うろおぼ)えである事実に、2年生達は心の中で恥じた。
 1年生も、まだ入学してから2ヵ月も経っていない同じ学年の彼等が音吐朗々(おんとろうろう)と校歌を歌う姿に見惚れた。
 彼等が歌い終わると、吹奏楽の演奏もバーンという大音響と共に終った。
 体育館の中に耳鳴りのような静寂が一瞬の間流れた後、突如として大きな拍手が鳴り響いた。
 体育館に居並ぶ生徒達の誰もが、自校の校歌がこんなにも素晴らしいものだったのかと胸を熱くした。
 透かさず生徒会役員達が、校歌の歌詞と楽譜が書かれたプリントを前と後ろから配った。
 ざわついてはいたが、程なく全員にプリントが渡った。
 その頃合を見計らって、吹奏楽部が校歌の前奏を演奏した。
 皆は一瞬驚いたが、歌詞が始まる時には歌い始めていた。
 最初は自信無げに小さな声だったが、壇上で歌う昌郎達に釣られ程なくして、その歌声は大きくなっていった。
 校歌は3番まである。
 その3番に入った頃には、ブラスバンドの演奏に負けない程の大きな声で体育館に居並ぶ生徒達が校歌を歌っていた。
 自分達がこんな風に朗々と校歌を歌えることに誰もが陶酔していた。
 校歌がこんなにも素晴らしいものだと彼等は初めて気付いていた。
 校歌が終わった。
 誰からともなく「もう一度」という声が掛かると、津波のように「もう一度」の声がシュプレヒコールのように体育館に木霊した。
 そして再び校歌が歌われた。



◆その46
六月の空(9)


 生徒会顧問の辻は、体育館に沸きあがる校歌の大合唱を聞きながら、感動すると共に内心忸怩(じくじ)たる思いを抱いた。
 最近いや大分前から、何処の高校でも生徒達が校歌を歌わなくなっている。
 卒業式の校歌斉唱でも、ほとんどの生徒達は口を閉じて歌おうとしない。
 いくら先生達が言っても効き目がない。
 口をパクパクとさせて歌っているようなふりをしたり、小声でも歌う方はまだ良い方で、校歌が始まると白けた風に立っているだけの生徒もいる。
 流行の歌は歌っても、ふん、校歌なんて歌っていられないよ。
 そんな雰囲気が生徒たちの中に席捲(せっけん)していた。
 そんな生徒達を先生達も持て余し気味である。
 無理矢理口を抉じ開けることも出来ない。
 生徒達に手でも触れれば、生徒も親達も騒ぎ立てる。
 今は音楽は選択性。
 その子どもの特性を生かすと言うお題目で、自分の好きなものを選択させる。
 昔は否応なく人間として日本人として必要なものを教えられた。
 それは決して不幸なことではなかった。
 高校時代にほとんど興味のなかったことでも、その基礎を教えられたことで、社会に出てから多くのことに興味を持つことができた。
 そして自分の生活が潤った。
 以前、音楽は全員が学んだ。
 その授業の中でみっちり校歌を教えられた。
 そして校歌を歌うテストがあった。
 そのテストに合格しなければ音楽の点数が貰えなかった。
 しかし、校歌を覚えてなんと心が潤ったことか。
 ことあるごとに全校生徒が校歌を歌って心を一つにした。
 式でもそして修学旅行のバスの中でも。ああ、この学校の生徒でよかったと思った。
 卒業してもう何十年も経つのに、ふと気が付けば校歌を口ずさみ若き日の純粋な自分に出会っていることがある。
 校歌とはそのようなものである。
 今目の前で起こった校歌の大合唱に遭遇しながら、辻は教師として校歌の素晴らしさを生徒達に説けずにいた自分に恥じていた。



◆その47
六月の空(10)


 高校総体開会式の前夜、昌郎は気持ちが昂ぶっていた。
 心を落ち着けるため窓を開けて夜空を見ると降る様な星空だった。
 昌郎は目の中に星達を宿して布団に入った。
 開会式当日は抜けるような青空だった。
 陸上競技場は熱気に包まれ、若い力に満ち溢れていた。
 昌郎達の学校の生徒達は、メインスタンド右方に陣取った。
 その真ん前に昌郎を中心として真治、山村、克也の4人が並び横に太鼓打ち2人が控えた。
 彼等は学生服でその肩には真っ白な襷を掛け、頭にはこれまた真っ白な鉢巻きをしていた。
 どちらも丈長く彼等の尻の下までその端は届いた。
 開会式前の陸上競技場は興奮の渦が巻いていた。
 スタンドを埋める各高校はそれぞれ応援を始めた。
 華やかなチアガールが人々の耳目を引く。
 バンカラ風の袴姿の応援団も自信満々で目立った。
 そこかしこで太鼓が響き渡り応援合戦の幕が切って落とされた。
 昌郎達は、まず三三七拍子から始めた。
 数百人の生徒達が息を合わせ一糸乱れず手拍子を取った。
 次にフレーフレの掛け声と共に校名の名乗りを上げた。
 そして吹雪と名づけた演技に入った。
 これは昌郎達が考え作り出した演技で都合5分を要した。
 それからいよいよ、太鼓と昌郎達の指揮だけで数百人の生徒が校歌を歌うのである。
 昌郎は声を発した。
「これより若き血潮の誇りを掛けて校歌を披露いたす。生徒諸君、ゆめゆめ気持ちを抜くことなく一心に歌え」
「押忍」
 微妙な間を取って太鼓が打ち鳴らされた。
 ドンドンドンドーン。「おお、いざ」
 昌郎達が腕を振り上げ一小節を歌った後に、全生徒が一人の乱れもなく校歌を歌った。
 勿論誰一人として歌詞など見ていない。
 スタンドを埋め尽くした高校生達が一斉に昌郎達の方へ視線を向けた。
 数百人の無伴奏の校歌斉唱は、晴れ渡った蒼色の六月の空へと朗々と響き渡った。



◆その48
新名物(1)


 高校総体が終わった直後から、昌郎達は野球の応援の準備に入った。
 毎年7月上旬に甲子園予選を兼ねた県大会が始まる。
 それまでには既に1月を切っていた。
 野球の応援には吹奏楽が欠かせない。
 その吹奏楽部の部長根上から、今年はねぶた囃子(はやし)を応援の中に入れたいと言う話を聞き、由希は昌郎のことを思い出したのである。
 ねぶた囃子による応援は、再生された応援団の大きな課題であった。
 吹奏楽部のねぶた囃子演奏は既に出来上がっていた。
 青森っ子は、骨の髄までねぶた囃子が染み込んでいる。
 特に昌郎は囃子方に入って毎年ねぶた運行に参加しているから、ねぶた囃子はもう体の一部となっている。
 そんな昌郎からみれば、ブラスバンドでやるねぶた囃子は若干ニュアンスが違った。
 それは和楽器と洋楽器の違いで致し方ないと思った。
 しかし、リズムは同じだ。
 応援演技を考えるにはそれほど苦労はないと考えていたが、それは甘かった。
 ねぶたにはねぶたらしい動きがある。
 そして応援には応援らしい型が必要である。
 それらを上手く組み合わせることは容易なことではなかった。
 しかし、だからこそ遣り甲斐があるとも言えた。
 昌郎達は吹奏楽部のねぶた囃子を繰り返し聞き演技の型を考えた。
 吹奏楽の演奏には何も落ち度もないが何か物足りない。
 メロディーは七節ともねぶた囃子どおりである。
 しかし、勇壮さあと華やかさに欠けていた。
 何故だろう。
 その理由は、太鼓の音の違いとしゃんしゃんと言う手振り鉦(てぶりがね)の音がないことが原因だと気付いた。
 洋楽器の太鼓と和太鼓では根本的に響きが違う。
 更に和太鼓でも、応援団で使う長胴太鼓とねぶたで使う桶胴太鼓の音色も違う。
 ねぶたにはやはり桶胴太鼓の音が相応しい。
 ねぶた囃子の応援の時は桶胴太鼓を是非使いたい。
 昌郎は、父親に頼んで囃子方から三尺の桶胴太鼓を借りてもらうことにした。
 そして華やかさを出すために手振り鉦の演奏も加えることにした。



◆その49
新名物(2)


 ねぶた囃子の応援に桶胴太鼓を使うことと手振り鉦も入れることを、昌郎達は吹奏楽部の部長・根上に提案した。
 根上は昌郎達の意見に即座に賛成してくれた。
 早速吹奏楽部の練習場に大きな桶胴太鼓が運び込まれた。
 根上は、この太鼓をパーカッションの生徒に叩かせて欲しいと昌郎に言った。
 勿論そのことに昌郎は異存がなかった。
 太鼓の叩き方の指導は昌郎が引き受けた。
 パーカッションの生徒は昌郎達と同じ1年生で、中学校の時から吹奏楽部で大太鼓や小太鼓を叩いてきた男子生徒だった。
 普段から打楽器に触れているその生徒は流石に呑み込みが早く、数日の内に桶胴太鼓の叩き方の順序を覚えた。
 後は強弱と微妙な間合いであるが、活気が身上の応援演奏でそれは全然気にする必要はない。
 後は回数をこなすことだ。
 吹奏楽と桶胴太鼓の演奏に華やぎを添えるためには、手振り鉦は少なくとも3人以上は欲しい。
 真っ先に昌郎の頭の中に浮かんだのは由希のことだった。
 昌郎が中学一年の時、彼の父親や兄達と一緒に、由希のいる町内会に囃子を教えに行ったことがある。
 その折、由希は手振り鉦をやっていたことを思い出した。
 しかし、夏休み直前に体育祭があり、この行事も生徒会が中心になって企画運営しなければならない。
 生徒会長である由希は、応援に協力したくとも協力できるような状態ではないことは、昌郎にも十分にわかった。
 ならば鉦は俺等4人でやろう。
 昌郎は、そう決心した。
 手振り鉦は、小さなシンバルのようなもので手に持って叩いても(手振り鉦は擦るとも言う)、体は自由に動かせる。
 ねぶた本番の囃子では、飛んだり跳ねたりしながら手振り鉦を叩いている人も多くいるのだ。
 手振り鉦を叩きながら応援演技をすることは十分に出来ると昌郎は考えた。
 山村そして真治や克也も、快く昌郎の意見に賛成した。
 昌郎は父親に言って手振り鉦を4つ揃えてもらった。
 彼等の練習に手振り鉦の特訓も加わった。



◆その50
新名物(3)


 まずエールを送った後で、これから行うねぶた囃子による応援の口上を述べる。
 そしてそれに引き続いて吹奏楽で囃子を一回りしたのち、二回り目から桶胴太鼓を入れ、それに併せてオーソドックスで重々しい応援演技を行う。
 続いて三回り目に昌郎達の手振り鉦を叩いての演技に移る。
 鉦を入れた部分を何回りか繰り返した後、試合経過を見て終る。
 応援の筋書きとしては、そのような方向で考えた。
 昌郎達は知恵を出し合って口上の草案を作った。
 そしてそれを笹岡に見てもらうことにした。
 笹岡は、彼等が作った口上の草案をじっくりと検討した後で、自信を持ってこれで行けと言ってくれた。
 笹岡のその言葉で彼等は自信を得た。
 笹岡は、こう続けた。
 演技と振りは俺に相談するな、お前等が考えたものを実践しろ。
 それが良いか悪いかは、応援の盛り上がり方でわかるはずだ。
 悪かったら作り直せ。
 良く出来たなら更に工夫を加えろ。
 常に満足するな。
 お前達の応援団の名物演技を作りたいなら、その繰り返しで行け。
 そうすれば、年を経て後輩達に受け継がれ、そして歴史を刻みながらその時代その時代に生きて行く、名物が出来るはずだ。
 その言葉を伝える時の笹岡の目がきらりと光ったことに山村達は気付かなかったが、昌郎だけはそれを見逃さなかった。
 笹岡先生が涙した。
 その涙の意味を昌郎は察することが出来た。
 先生は俺等の応援団としての成長を心から喜んでいてくれているのだ。
 あの厳しい鬼の笹岡先生が。
 口上の後に続く応援演技を必死になって考え、これからもずっとこの学校の名物として引き継がれていくようなものを作ろう。
 そのためには只単に見てくれだけではなく心の籠った格調の高い演技を作り上げてゆかなければならない。
 その後で激しい跳ねを入れた応援に移るようにしたい。
 昌郎達の構想は出来た。
 金曜日の夜から月曜日の朝まで三日三晩、彼等は学校の合宿所に籠って、ねぶた囃子の応援演技を練り上げた



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