[連載]

 61話〜70話( 佳木 裕珠 )


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◆その61
花火(3)


 ねぶたの「曳き手」は、「扇子持ち」が鳴らすホイッスルの音と扇子の動きに従って、ねぶたを動かしたり止めたり、時によっては激しく回転させたりしなければならない。
 曳き手は大体、前に十人、後から押す者十人の二十人ぐらいで構成されている。
 何トンもある重い台車を二時間以上引くだけでなく、所々で台車を激しく回転させたり、観客の目の前まで急接近してぴたりと止めるなど度肝を抜くような迫力ある動きをしなければならない。
 若く屈強な男達でも、街を一巡した後の疲労は並大抵なものではない。
 沿道から、やまさん、シンちゃん、カッちゃんと言う黄色い声援が飛んで来た。
 その声が真治に届いた。彼が声が聞こえる方向へちらりと視線を移すと、生徒会の先輩女生徒達がこちらに向かって手を振っている。
 彼は隣の村山とそのまた隣の克也に声を掛け彼女達のことを教えた。
 その時、扇子持ちのホイッスルが猛々しく鳴り響き扇子を宙に幾度も弧を描いた。この合図は台車を急回転させろという意味である。
 彼等の顔に浮かんだ笑みは瞬く間に消え頬が紅潮した。
 曳き手達は声を揃えて一斉に台車を小円を描くように回転させた。
 国道の沿道を埋め尽くす観客達から「おおー」と言う驚嘆と感動の入り混じった声が上がり、そして盛大な拍手が起きた。
 まるで、ねぶたが生きているようにその動きは生き生きとしていた。
 ピーッ、甲高い扇子持ちのホイッスルが鳴った。
 その途端、急ブレーキをかけたように、ねぶたの回転は急停止をした。
 そして一・二秒後、何事もなかったかのように、ねぶたはゆらリゆらりとまた進行を始めた。
 曳き手は、回転で荒くなった息が静まるのも待たずに、台車を引いて歩き出した。
 山村も真治も克也も、肩で息を切りながら隙のない厳しい表情で前方の扇子持ちを凝視し再び由希達の方へ視線を向けることはなかった。
「山さん達格好いい」女生徒達からそんな声が漏れた。



◆その62
花火(4)


 それぞれ大型ねぶたの列の先頭には、前ねぶたと言う一人二人で引っ張ることが出来る小さなねぶたが露払いとして数台出る。
 そしてその後に数百から千人に及ぶ跳人(はねと)の一団が練り跳ね、それからねぶた本体が伸し歩き、その後に百人以上にも及ぶ囃子方(はやしかた)が続く。
 ねぶたによっては囃子方とねぶたの順序が入れ替わることもある。
 由希達の目の前を1台のねぶたが通り過ぎ、次のねぶたが見えてきた。
 そのねぶたは夜に妖しく浮かび上がり遠目からでも馬に跨る若武者であることがわかった。
 数日前昌郎(まさお)から、彼等のねぶたは荒馬に乗った武者人形であることを聞かされていた由希は、今度のねぶたが昌郎達の囃子方が所属するねぶただとわかった。
 まず二台の前ねぶたが現れ、幅の広い道を右往左往して愛嬌を振り撒いた。
 その後に、対になった高張り提灯(ちょうちん)の中央をいかにも偉そうな運行責任者が歩き、少しの間を開けて大勢の人で膨れ上がり熱狂の坩堝(るつぼ)と化した跳人集団が押し寄せて来た。
 跳人達の乱舞が無数の鈴音を響かせうねる波のように際限もなく繰り返される。
 跳人達をそして見物客達を弥(いや)が上にも熱狂させる囃子が、地を揺らすようにして夜の街を包み込んでいた。
 由希は、スピーカーを通して流れてくる笛の音に耳を澄ました。
 あれは確かに昌郎の笛の音に間違い。
 跳人達が通り過ぎた後に、煌々(こうこう)と輝く馬上の若武者が大見得(おおみえ)を切りながらゆらりゆらりと進行し、目の前を過ぎていった。
 そして、大太鼓を7台載せた台車が先頭を切って囃子方が現れた。
 その台車に括(くく)りつけられたマイク前で昌郎が笛を吹いていた。
「あれ団長じゃない」傍にいた会計が言った。
「何処(どこ)、何処(どこ)」
 と他の女の子達が注目した。
「本当だ。団長だわ」
「格好いいじゃない。山さん達も良かったけど、団長は更に様になっているわ」
「うん、断然笛吹きって格好いいわね」
「男らしい」
 周りの女生徒達がそう囁(つぶや)き合った。
 由希の胸の内に大きな波が打ち寄せた。



◆その63
花火(5)


 ねぶたの合同運行2日目、由希はねぶた見物に出掛けなかった。
 母親は、具合でも悪いのかと心配した。
 由希は自分の部屋の窓を開け、遠くにねぶた囃子を聴いていた。
 昨夜から胸の高鳴りがずっと続いているようで仕方ない。
 気持ちを静めるためには、人込みを避けた方がいいと思った。
 ねぶたは見たい。
 いや、ねぶたではなく笛を吹く昌郎を見たいのかもしれない。
 由希は、自分の気持ちが自分でもわからなかった。
 4月には、昌郎のことを単に応援団員になってくれそうな1年生として考えていた。
 だから何の蟠(わだかま)りもなく、1年生の教室まで行って昌郎と会って話が出来た。
 確かに由希が見込んだとおり、彼は友達も巻き込んで応援団員になってくれた。
 そして、ここ数年途絶えていた応援団を見事に復活させた。
 高校総体でも、甲子園予選大会でも、彼等応援団の活躍には誰しもが目を見張った。
 由希は、そんな昌郎をそして応援団を我がことのように誇らしく思った。
 それは、今でも変わりはしない。
 しかし、昨夜、昌郎がねぶたで笛を吹く姿を1年ぶりで見て彼女の胸の中にある何かに気が付き始めた。
 しかしそれは、まだしっかりとした認識ではない。
 由希は、自分の中の霞掛ったようなもやもやとした気持ちを持て余していた。
 どうすればいいのだろうか。
 自分の中の気持ちをはっきりさせなければ、ねぶたを見に行くことが出来ないと思った。
 ねぶた祭り3日目は夜の合同運行に昌郎達のねぶたは出陣しない。
 そう思うと由希の心は少し落ち着いた。
 しかし次の夜も、そして夜間の合同運行の最後の日も、由希は祭りには行かず部屋の窓を開け放し、遠くから微かに流れてくるねぶた囃子の音だけを聴いて過ごした。
 部屋の中に流れ入ってくるねぶた囃子は遠くに聞こえるからだろうか、酷(むご)く物悲しく聞こえた。
 ねぶた囃子が、こんなに哀愁を帯びていたなんて。
 由希はただ賑やかなだけではないねぶた囃子に、初めて気が付いた。



◆その64
花火(6)


 八月七日をナヌカビと呼ぶ。
 その日の朝刊にねぶたの各賞が発表された。
 昌郎達のねぶたが賞を取っていた。
 受賞した五台のねぶたは海上運行に出る。
 海上運行とは、ねぶた祭りの掉尾を飾る花火大会の折、会場となる青い海公園に面した青森湾内を艀に載ったねぶたが、花火の打ち上げに合わせてゆっくりと海上を運行する催しである。
 その昔、ねぶた祭りが終わると川や海にねぶたを流したことに由来するもので、華やかな中にも物寂しい風情ある催しで、これが終わると青森にはもう秋風が吹くとさえ言われ、短いみちのくの夏を惜しむに相応しい味わいがある催し物だ。
 由希は、クラスメイトの戸山政子に花火大会へ一緒に行こうと前々から誘われていた。
 その日の朝、政子から電話が入った。
「由希、今夜の花火大会に一緒に行けるよね」
「そうね」
 あまり乗り気でなさそうな由希の声が返って来た。
「どうしたの、具合でも悪いの」
「全然悪くないわ」
「そう。それだったら決まり」
 政子は約束の時間と待ち合わせ場所を指定して、そそくさと電話を切った。
 具合でも悪いのと聞かれ時、由希は熱っぽさをふと体に感じた。
 昨日も一昨日もあまり眠れなかったから、睡眠不足の澱が体に貯まっているのだろう。
 由希は、熱っぽい原因をそう思って自分に納得させた。
 今夜、花火大会の際に行われる海上運行に昌郎の所属するねぶたが出ることになっているが、岸壁から離れた暗い海の上を運行するねぶたでは、囃子方の姿はほとんど見えないだろう。
 そう思いながら何故か安堵する反面、昌郎の姿を見たいと思う気持ちが彼女の心の中で大きく膨らんでいった。
 彼女は揺れ惑う自分の気持ちを持て余していた。
 早目の夕食はあまり食欲が湧かず、軽くよそったご飯も半分ほど残した。
 昨夜も一昨日の夜もねぶた見物に行かなかったので、今夜は花火大会に行くことで気が急いているのだろうと由希の両親達は思った。



◆その65
花火(7)


 花火大会へ行く人達でごった返す青森駅前で、由希と政子は待ち合わせた。
 政子は約束の時間よりも五分ほど早めに約束場所に着いた。
 まだ、由希は来ていなかった。
 しかし、さほどの間も置かずに由希が姿を現した。
 二人とも約束通り浴衣だった。
 下駄をカラカラと鳴らしながら、彼女達は人の流れに任せて青い海公園へと歩いた。
 薄墨を流したように暮れなずんで行く水面の上の空に、轟音と共に一発の大きな花火が開いた。
 それを皮切りに九千発にも及ぶ花火が間断なく打ち上げられた始めた。観客の歓声は途切れることなく続いた。
 7時半近くになると、既に夜の帳が降り切った漆黒の青森湾内に、艀に載ったねぶたが滑るように入って来た。
「来たぞ、来たぞ」と観客達は一層大きくざわめき出した。
 丁度真ん中三番目に昌郎達のねぶたが、華やかに打ち上げられる花火を背にしながら岸壁の方へ近づいて来た。
 その景色はあたかも、波の上を天馬を蹴立てて若武者が進むようだった。
 ゆらゆらと揺らめきながら妖しくそして美しく際立つねぶたは、海の中から現れた怪士(あやかし)のような凄みのある美しさだ。
 彼女の耳にスピーカーを通して笛の音が届いた。
 あれは紛れもなく昌郎の吹く笛の音だと思った。
 笛を懸命に吹く昌郎の姿が鮮明に心の中に蘇った。
 そしてその時、由希の瞳から不意に大粒の涙が一粒零れ落ちた。
 スターマインが一斉に弾けた。
 その花火の轟音を縫って聞こえて来るねぶた囃子の笛の音に、由希は昌郎を色濃く感じていた。
 此の世の全ての音を掻き消して笛の音だけが由希に届いた。
 彼女は初めて、自分は昌郎を好きなのだということに気が付いた。
 恰も一瞬の間に花火が開くように。
 一粒の涙の後、繋がるように止めどなく涙が流れ出して彼女の頬をしとどに濡らした。
 これが、恋と言う物なのかも知れない。
 彼女の胸は、その思いに激しく揺れた。
 隣にいる政子は、夜陰に紛れた由希の涙に気付かなかった。



◆その66
本当の気持ち(1)


 ねぶた祭りの終わった8月8日の朝、由希は珍しく母親の光恵に声を掛けられて起きた。
 枕元の時計を見ると既に8時を回っていた。
 昨夜、政子と花火大会を見に行き8時半少し前に家に帰って来た時、由希はとても疲れていた。
 自分でも気が付かないうちに心の奥に芽生えていた昌郎を特別に思う感情が、華やかな花火と哀愁に満ちたねぶたの海上運行の笛の音に誘発され涙となって表出したことに、彼女自身とても困惑していた。
 しかし、昌郎を慕う自分の感情には何の偽りもない。彼を思うだけで胸が切ない。
 昌郎への愛情は、高みに達して花火のようにぱっと開いた。
 だが花火のように瞬時に消えてしまうことはなく、逆に彼女の全て包み込んでしまったのだ。
 海上運行のねぶたが湾内から消えた時が、由希の体力の限界だった。
 彼女は隣にいる政子に具合が悪いから先に帰ると声を掛けた。
 花火を見上げていた政子は、由希の顔に視線を移した。
 暗い中でハッキリと見えないが由希の顔色が悪いことは十分にわかった。
「由希、顔色よくない。花火も終わりだから私も一緒に帰る」二人は、人混みを掻き分けるようにして花火大会の会場である青い海公園から抜け出した。
 由希は家に着くと、シャワーも浴びずにベッドに入り、そのまま浅い眠りに落ちていった。
 今見てきたばかりの花火が次々と夜空に花開く中をねぶたが通り過ぎて行く。笛の音が鳴り響いている。
 その中で由希は誰かを探し続けていたが、海上を流れて行くねぶたの傍には誰もいない。
 ねぶたの後ろ側を見たいと思うが海の上のことでそれは叶わなかった。
 寂しさのあまりに彼女は泣き出していた。
 遠くで母親の声が聞こえた。
 彼女は目覚めてホッとした。
 しかし体がだるかった。
 起きて学校へ行かなくてはいけない。
 今日は文化祭の開祭式と閉祭式のことを、生徒会の役員達と話し合う重要な日だ。
 由希は、自分を鼓舞して起き上がった。



◆その67
本当の気持ち(2)


 文化祭の話し合いを終えて家に帰って来た由希は、2階の自室に入ったまま階下におりて来なかった。
 いつもなら着替えを済ませ、一階に来て夕飯の手伝いをしてくれるのに、どうしたのだろうと光恵は思った。
 しばらく待ったがやはり下りてくる気配がない。
 光恵は2階に声を掛けた。
 しかし、数回声を掛けても返事がない。
 光恵は心配になって2階に上がった。
「由希、入るわよ」
 そう声を掛けて部屋のドアを開けると、由希は制服のままベッドに倒れ込んで苦しそうな息をしていた。
「由希、どうしたの」
 急いでベッドの傍に寄った。
 由希は薄目を開けて
「ああ、お母さん。具合悪いの」
 と弱々しく答えた。
「朝から具合が悪そうだったものね」
 光恵は由希の額に手を置いて驚いた。
 酷く熱い。
 早速体温を計ると39度以上の熱があった。
 普段は声を掛けなくとも自分から起きてくる由希が、今朝は珍しく声を掛けられた。
 食欲もなかった。
 登校させなければ良かったと光恵は後悔した。
 由希を抱きかかえるようにして車に乗せ病院へと向かった。
 風邪だと診断され点滴を打ち薬を処方して貰って帰って来た。
 薬の所為もあるのだろう。
 由希は食事も摂らずに夕方から昏々と眠り続けた。
 そして翌日の早朝に由希は充分に寝た足りた気分で目が覚めた。
 嘘のように熱が退けていて、体が軽くなったような爽快な気分だった。
 母親がやってくれたのだろう。
 枕は氷枕になっていて、保冷剤をタオルで包んだものが額の上に載っていた。
 氷もまだ充分に入っているところを見ると、明け方近くまで看病してくれていたことがわかった。
「お母さんありがとう」
 由希は胸の内で礼を言った。
 起き上がるとふらふらした。
 まだ完全に回復はしていないのだろう。
 今日は学校へ行くのを止めようと思いながら由希はまたベッドに横になった。
 目を閉じると昌郎の顔が大きく浮かんで来た。
 今日は久し振りに彼が生徒会活動に出てくる日だった。
 由希は、自分を鼓舞して起き上がった。



◆その68
本当の気持ち(3)


 ねぶた祭りも終わり昌郎達応援団は、久し振りに練習を再開した。
 11時頃、練習を終えて昌郎達4人が生徒会室に顔を出した。
 先輩達からねぶたの合同運行で見たと言われ、様になっていたと褒められた。
 彼等は悪い気はしなかった。
 由希がいなかった。
 風邪をひいて休むと連絡が入ったと言うことだ。
 何気なさを装ってはいたが昌郎の落胆は大きかった。
 勿論由希の風邪も心配だった。
 お調子者の真治が聞いた。
「風邪どんな具合なんですか」
「明日は学校に来られると、お母さんが言っていたからそんなに心配はないと思うわ」
 会計の女生徒が答えた。
 昼過ぎに再び目覚めた由希の体調は、自分でも不思議なくらいすっかり回復していた。
 彼女は起き上がると部屋の窓を大きく開け、椅子に座って外の景色を眺め続けた。
 そこから家々の屋根越しに八甲田の連なる山々が眺められる。彼女の最も好きな光景だった。北国の透明な夏の光を浴びながら八甲田連峰は淡く輝いている。
 昨日までのあの夏の暑さはすっかり姿を消し、窓から入ってくる風は秋の気配を色濃く含んでいた。
 青森ではねぶたが終わると秋風が立つと昔から言われているが、本当にそうだと涼しい風を頬に感じながら由希は思った。
 今となっては、昌郎への思いを打ち消すことはもう出来ない。
 そのことを彼女は充分に承知していた。
 自分は彼の何を好きになったのだろう。
 由希は真剣に考えた。
 彼の何気ない仕草の中に見える純粋さ。
 好きなことに真剣に打ち込む情熱。
 初めの頃は、無意識のうちに昌郎のそんな所に惹かれていた。
 だから、何の拘りもなく真っ直ぐに彼に会って応援団のことを頼むことが出来た。
 もし、あの時自分の昌郎に対する気持ちに気が付いていたなら、あのようなことは到底出来なかっただろう。
 約束と責任を果たそうと懸命に努力し耐え抜く昌郎の姿。
 男らしさ。
 由希は彼に対する自分の本当の気持ちをしっかりと認めることが出来たのだった。



◆その69
本当の気持ち(4)


 由希は生徒会の活動を一日休んだけで、翌日からまた学校へ出た。
 お盆の13日から3日間は生徒会活動も休みとなる。
 その期間は進路指導部の先生達もお盆休みに入るので、それまでに応募企業の目処を付けておきたいという気持ちも由希にはあったのだ。
 生徒会の仕事を午前11時で切り上げ、由希は求人票の検索など就職活動に時間を当てた。
 そして12時半までには帰宅するようにして8月12日までの3日間を過ごした。
 そのような行動は昌郎と会わないための方策でもあった。
 夏休み中の応援団の練習は毎日11時まで。
 それから彼等は生徒会室に顔を出して生徒会活動の手伝いをしてくれる。
 昌郎達が生徒会室に来る前に由希は進路資料室に向かった。
 生徒会活動は毎日1時頃までやる。生徒会の皆が帰る時間とかち合わないように由希は配慮して帰宅した。
 そしてお盆を迎え15日までの3日間の休みとなった。
 今は昌郎と出来るだけ会わずにいよう。
 そして、その間にしっかりと自分の気持ちを整理しよう。
 そう由希は心に決めたのだった。
 昌郎を好きだと言うことに変わりはない。
 しかし今は、その気持ちの儘に行動することなど到底出来ない。
 自分は高校3年生。
 就職先を決めなければならない時期である。
 また、生徒会長として十月に行われる文化祭に向けての準備も進めなければならない。
 一方の昌郎はまだ高校に入ったばかり。
 これからの高校生活の過ごし方一つで彼の将来は大きく左右されるだろう。
 是非とも、彼には希望する進路を達成して欲しい。
 好きだとか嫌いだとか、そんなことで彼を振り回してはいけない。
 今は、自分の気持ちを彼に伝えるべき時ではない。
 由希は、そのことを自分にきちんと納得させることが今最も大切だと思った。
 その為には、心を落ち着けなければならない。
 由希はお盆の3日間、自室に籠もって結論を出した。
 昌郎とは、今まで通りに接して行こう。
 由希はそう胸に誓った。



◆その70
進路決定(1)


 由希には、就職に関して一つの希望があった。
 それは、憧れ尊敬している遠縁の美子が勤務している東京のTホテルへ就職することだった。
 美子は、由希の大叔母にあたる人の娘で、三十代後半にしてTホテルの管理部門で敏腕をふるっていた。
 英語が堪能で、そのホテルで開催される国際会議などを担当する程の才女だった。
 この美子がどういうわけか、由希の母親の光恵と仲が良く、年に一度は青森を訪ねて加藤家に何日か泊まって行くことが慣わしになっていた。
 しかし、彼女は青森にいる間、何処へ何を見に行くと言うこともなく、ぶらりと青森の街に出てみたり合浦公園に行くぐらいで、後は光恵とおしゃべりに興じて帰って行くのである。
 折角青森に来たのだから、弘前や十和田湖にでも行けばよいのだが、光恵さんとおしゃべりをすることが一番の骨休みになると言うのだった。
 東京にいれば毎日が臨戦状態で気を抜く暇もなく慌しい。
 せめて青森ではぼんやりと過ごしたいと美子は言うのである。
 そんな彼女に光恵の方も大して気を使うこともなく接し、それがまた美子には居心地がいいらしい。
 光恵も美子の来青を心待ちにしていて、彼女が来れば夜更かしで話すのだ。
 翌日は、寝不足だ寝不足だと言いながら、家事が一段落する夜になると、二人はまた話に夢中になった。
 由希も高校生になると、母親と美子のそんな会話に入り込み、女3人の話は夜更けても尽きなかった。
 そんな話の中で、美子の仕事のことを聞かされ由希は興味を抱いた。
 そこで去年の修学旅行の中で就職活動を兼ねた自主行動の折に由希は、政子と他数人の友達を誘って美子が勤めているTホテルに職場見学をさせてもらうことにした。
 銀座のすぐ近くにあるTホテルは、世界の一流人が出入りする華やかな職場だった。
 そこで見た美子の颯爽とした姿に由希は心を動かされた。
 彼女は、迷うことなくTホテルの採用試験を受けることに決めた。



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