[連載]

 221話 〜 222話     ( 佳木 裕珠 )



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◆その221
母と娘(8)

 律子は救急車で、学校の近くの病院に運ばれた。
母親が付き添って救急車に乗ったが、律子は、母親とは一切口を利かなかった。
彼女の着ていたフリルの付いたメイド風の服は、裾だけではなく彼方此方が切れ無残な恰好になっていた。
母親は、何故こうなったの、どうしたのと娘に強く問い掛けたが、律子は痛みに耐えながら固く口を閉ざし、母親には目も向けなかった。
早速診察が行われた。
律子の足首は、粉砕骨折と言うことで、手術が必要な状況だった。
一・二時間目の授業を終え、昌郎が病院に行った時には、既に律子は手術室に運び込まれていた。
昌郎は母親の気持ちを落ち着かせようと声を掛けたが、母親は昌郎の顔を見ても挨拶の一つも寄越さず、律子の怪我の状況を聞くことも出来なかった。
昌郎はナースセンターに行って、律子の怪我の状況を確かめた。
手術が始まったばかりで、詳しいことは分かりませんがと前置きをしてから、粉砕骨折で足首の前の腓骨そして後側の脛骨にも損傷があり、ボルトやネジ、針金などを使って砕けた骨を固定しているのではないかと丁寧に話してくれた。
そして、もしかしたら靱帯の損傷もあるかも知れませんと付け加えた。
ぴたりとドアが閉められた手術室の前の椅子に、律子の母親と距離を取って昌郎は座っていたが、帰りのホームルームの時間が近付いて来たので、学校に帰ることにした。
「お母さん、私は学校に戻ります。失礼します」
と声を掛けたが、母親は昌郎を睨み付けるようにして見ただけで、返事もなければ礼もなかった。
昌郎は、そんなことを気にせずに病院を出た。
律子の母親の学校嫌い、学校への不信感は異常なほどだったから、彼女からの挨拶など期待することもなかったが、心の籠もった声掛けはしなければならないと昌郎は思った。
学校に着くと早速、状況を長津山副校長に報告した。
長津山は勿論のこと福永や他の教師達も、足首の骨折は大変なことだが、既に手術を受け治療が開始されることに、一先ず安心していた。
クラスの皆も心配していたらしく、帰りのホームルームに昌郎が行くと、律子の事を桑山が皆を代表して聞いた。
状況を説明した。
粉砕骨折で、すでに手術が行われていることを話した。
学校の中で一番仲良くしていた沼崎百合が、ぽつんと言った。
手術成功すると良いね。
低い声だったが、皆にその言葉が伝わった。
「心配いらないわよ。今の医学進歩しているんだから。日本の医療は世界一なんだから。そうでしょ、先生」
芽衣也がそう言った。
昌郎は力強く頷いた。
「そうだ」次々と「大丈夫」という声がクラスの皆に伝搬していった。
最後には皆で「大丈夫、大丈夫」とシュプレヒコールのように言い合った。
昌郎は、胸が熱くなった。
このクラスの担任になった時、皆の気持ちはバラバラだったことを思い出しながら、今は、こんなに繋がりあっていると思えた。
律子の事はこれからだが、昌郎は嬉しい気持ちが沸々と湧きあがってきた。
そして、律子と母親が早く心を打ち解け合ってくれることを祈らずにはいられなかった。
三々五々、皆は下校していったが、百合は昌郎に話があるのでと残っていた。
皆が帰って誰もいなくなった教室に昌郎と百合が、小さな机を間にして向かい合って座った。
「百合、話って律子の事か」
「はい、律ちゃんの事です。彼女、なんであんなメイド風の恰好をしたか、先生知っていますか」
昌郎は首を振って、知らないなと答えた。実はと、百合が話した。
律子と百合は、冬休み中に原宿へ行った。
今時の若い女の子にしては珍しいのだが、二人とも原宿に行ったことがなかったから、どんなところか行って見ようということになった。
そして、あるコスプレを売っている店に入った時、急に律子が、この服着てみたいと言って手に取ったのが、あのメンド風な服だった。
この服、試着してみて良いですかと言う律子の様子を、30歳過ぎぐらいの店の人がつくづくと見ながら、あなた、この服本当に着てみたいのと逆に聞いた。
はいと答える律子に、重ねるように、どうして着たいのと聞いてきたという。
律子が何となくというと、それだったらやめた方が良いわよと少し強い口調で言い、あなたには似合わないと思う、そうはっきりと言った。
律子は驚いて、その女性を暫くじっと見詰めていると、突然大きな涙を流した。
そして、母親の呪縛から逃れるために着たいのだと言った。
百合は、吃驚した。
双子のように何時も親子二人で行動している律子が、本当は母親からの干渉を嫌だと思っていたことを初めて知ったのだ。
その女性は、店のオーナーだった。
彼女は、少し間を置いて言った。
「分かった。でも、この服を持って行ったら、お母さんに破かれてしまうわよ。だから、ここで預かって上げる。着たくなったら、此処に来なさい。着て街を歩いてみたら、さっぱりするかもね。変な男の子達やおじさん達が声を掛けてきたらどうする。きっぱりと断れる自信がある」
そう言われて律子は、返事に詰まった。
「あなた、高校生だよね」
「はい、高校生で定時制に通っています」
「あら、何処の定時制」
「鈴ケ丘高校の定時制です」
その女性は嬉しそうに言った。
「そう、鈴ケ丘高校の定時制。奇遇ね。私はそこの卒業生よ。ところで長津山先生は、まだ鈴ケ高校の定時制にいる?」
「長津山先生は、副校長です。去年、副校長先生として赴任してきたと言うことです」
「そう。長津山先生らしいわ。一度転勤なさったのね。きっと、先生が希望されて、また定時制に来たんでしょう。私の担任だったのよ、長津山先生。私の大好きな先生。厳しいけれど、優しい先生」
 懐かしそうに、そう言いながら
「あなたがメイド服を卒業したら、先生にお目にかかりたいわね」
としみじみと話した。
百合は勿論、律子もあまりの偶然に驚いた。
「分かったわ。それじゃ、こうしましょう。学校へ行く時に、これを着なさい。私が学校の近くまで送ってあげる。帰りは、タクシーで此処へ帰ってきて着替えて家に帰りなさい。何日間かそうして、気持ちが落ち着いたら、お母さんときちんと話し合うのよ。分かった?」
そのようにしてメイド服での律子の登校が始まったことを、百合が昌郎に話してくれたのだった。
今日も、その女性が律子を学校近くの大通りまで送って来て帰った直後に起きた事件だったのだ。
百合は、その女性に電話をかけて、律子の様子を話しておくと言った。
昌郎は、そうして欲しいと百合に頼んだ。



◆その222
三月弥生の小さな星空

 2月に入るとすぐ、4年生の卒業を懸けた考査が始まった。今年度の4年生は9名。彼等にとっては高校生最後の試験となる。よくぞ彼等は4年間頑張ったと昌郎はつくづくと思う。彼等が1年生の時は13人いたらしいが、途中退学が3人と通信制への転出が1人いて、結局9名が4年生まで持ち堪えた。割合で行けば約30%が抜けたことになる。この退学・転出者のパーセントは全日制では高い数字だろうが、夜間定時制では、さして高いパーセントではない。願わくは、入学した生徒全員が、無事に卒業出来ることが望ましいだろう。しかし、夜、学校に通うことは、世間一般に考えているよりも努力が必要だし、容易なことでない事を、昌郎は、この1年で良く分かった。日中何もせずに、夜、学校に来る生徒は殆どいない。彼等は日中に何らかの仕事を持っている。また、家の中での役割を持っている。その典型的なものが、ヤングケアラー。昌郎が受け持つクラスの杉原陽明の母親は精神的な病で、母一人子一人の彼が母親を支えなくてはならない。色々な公的支援を受けられるようになり、以前より彼の負担は軽くなった。しかし、彼の存在なくして母親が生きて行けない状況は今でも変わらない。沼崎百合の母親は全盲で左足も不自由。そのために彼女の介助が欠かせない。そんな百合の救いは、その全盲の母親が、とびきり明るいことだ。だからこそ母親を思う百合の気持ちは一層強いのだ。大工の長山寅司、土木作業員として働く南隆也や村井譲。販売登録者の資格を取るためにまず必要なのは高卒。その為に45歳の桑山琴絵はドラッグストアーで日中フルに働きながら、夜、学校に通っている。花戸玲はファミレスで働いて家計を助ける。大西芽衣也はコンビニ勤務。学校では我が儘一杯に振る舞っている彼女だが、仕事場のコンビニでは、店員として客ににこやかに接し、気遣いもある対応をしている。職場訪問をした昌郎は良い意味で驚いた。夢に向かって頑張っている者もいる。飛田康男は、ストリートミュージシャンで歌手を目指し、下校してから街角に立つ。何時も陽気の良い日ばかりではない。雨の日もあれば、雪の日もある。風の強い日も。暑い中、寒い中、ひたすら彼はストリートで1人歌い続けている。自分には、到底そんなことは出来ないと昌郎は思う。小枝万里はバイトをしながら劇団に入って俳優になることを夢見ている。なかなか役が回ってこなくても、彼女は諦めることなく劇団に通う。町井大介は、新聞配達をしながらボクシングジムに通い、プロのボクサーになるために懸命に努力している。過酷と思われるようなトレーニング。それでも彼は歯を食いしばる。親の考えに翻弄され、過干渉に悩む中、定時制を選んだ高田律子や千谷栄大。彼等は、定時制に通いながら、自分と向き合い、自分を自分自身で構築し始めている。中学の時のいじめがトラウマとなって、同じ中学の生徒達が入学しない定時制高校に入学した小山田秀明。彼が定時制で初めて学校生活を楽しみ始めた矢先、骨肉腫という難病に冒された。しかし彼は懸命に病と闘っている。準一は、全日制進学校からの転校生。優秀な兄と比べられながら、必死に背伸びしてきた彼だったが、進学校の授業について行けなくなり、定時制に転校してきた。転校して来た当初、彼は定時制の生徒達を見下していた。定時制なら、勉強しなくても自分が一番成績が良いに決まっていると思い上がり、授業にも身が入らずにふて腐れていた。そんな彼よりも成績の良い者がいることに驚くと同時に、腹立たしく思いながら彼は焦り出した。何処にいようと努力している者がいる。そのような人達に接することで彼は少しずつ変わっていった。そして彼は定時制で学ぶことを誇りに思い始めていた。この鈴ケ丘高校定時制から、一般受験での大学入学を目指し始めた。彼の目は活き活きとしてきた。夕方、彼が登校する時、下校する全日制の生徒達と擦れ違う。最初、それが耐えられなかったようであったが、今は胸を張って擦れ違っている。何処にいたって努力する者に道は開ける。彼は、昌郎にそう言った。

 卒業式は、全定一緒に行われる。しかし、日中に行われるので定時制の在校生は誰も出席できない。そんな在校生のために鈴ケ丘高校の定時制では、卒業式の夜に「卒業証書披露式」が行われる。卒業生達は、その披露式を自分達の本当の卒業式だと思っていた。授与された卒業証書を在校生や恩師に披露する場であるが、副校長の式辞、在校生の送辞、卒業生の答辞が行われる。半分しらけた気持ちで全定一緒の卒業式に臨んだ定時制の卒業生達は、晴れがましい気持ちを胸に、この式に臨んだ。
「これが、俺達の本当の卒業式だ」
4年生達は口々にそう言った。長津山副校長の式辞を真剣に聞き、在校生の送辞や卒業生の答辞に彼等は涙した。苦しい4年間が全て報われる式だった。卒業生9人が、式場となった会議室に入場すると拍手が湧き起こった。卒業生達の胸に飾られた在校生が作った造花が誇らしげに揺れた。昌郎は、胸が熱くなった。小さな壇上に立派な花が飾られている。それは、昌郎の親友源藤凌仁が学校に贈ってくれたものだった。

今の世の中、まだまだ定時制高校の存在をマイナス面だけで捉えている人が多い。しかし定時制の生徒達には、それぞれのやむにやまれぬ理由があり目的があって定時制入学を選択したのだ。全日制に入る選択肢もありながら、敢えて定時制に進学した者もいる。学ぶ場の一つとしての定時制高校と考えるべきであり、もっと定時制の利点を活用するべきだと昌郎は思う。

 卒業証書披露式の感動に、在校生は何時までも浸ってはいられない。学年の総まとめの学年末テストが始まった。卒業証書披露式が土曜日だったので、次の月曜日は振替休業日となり、火曜日から金曜日までの4日間が学年末テストに当てられいた。生徒達は、誰もが真剣に取り組んでいる。そんな張り詰めた彼等の姿を、昌郎は好ましく思って受け止めた。皆、頑張れ、学業やスポーツに専念できる学校生活ではないが、それぞれが自分の信じる道を必死になって進む彼等の姿こそが、最高に輝いていると昌郎は思った。

「百花為誰開」(百花は誰のために咲くのか。そんなことはどうでも良い。花は無心に咲くからこそ尊く、そして美しい)
 昌郎は、今は亡き由希が、高校を卒業して上京する時、教えてくれた言葉を思い出していた。
「私は、ホテルの仕事を天職だと思って、無心に働きます」
そう言い残して由希は東京に向かった。そして一年が経った時、彼女は車に轢かれそうになった男の子を助けようとして、此の世から消えてしまった。人生で初めて本気で好きになった2歳年上の由希。彼女が教えてくれた言葉が、今胸の中で花開いていた。この鈴ケ丘高校の定時制に通う生徒達は、誰の為とも自分の為とも思わずに、ただただ無心に藻掻いている。それは何物にも替え難いほどに尊く美しい。昌郎は、彼等にエールを送ることこそ、教員という立場の自分の大きな役目だと思った。

 学年末の追試期間が1週間ほど設けられている。先生方は、生徒達を決して投げ出さない。しかし、甘やかしもしない。教科によっては不合格になることだってある。その緊張感が、生徒達に奮起する力を与える。昌郎が担任する2年生の中にも、数人の追試対象者がいた。彼等は盛大に愚痴りながらも、必死だった。先生方は、良い成績を望むのではなく、彼等の前向きに取り組む気持ちを期待していた。そして彼等の努力を最大限に認めた。社会では、どんなに努力しても報われないことが沢山ある。しかし、投げ出したらお仕舞い。今は報われずとも、努力を続けていればこそ、思い描く形は違ったとしても、いずれ何処かで花が咲きそして結実する。そんなメッセージを彼等に送ることが教育の原点なのかも知れない。教師は、時には自分の失敗や不甲斐なさを見せながらも、生徒達と一緒に歩み続ける。
追試期間の1週間が終わった。在校生全員が進級できることになった。秀明は、新学期には学校に復帰できる見通しが付いていた。律子は、杖を突きながらだが、登校が出来るようになっている。まだ母親との関係はぎくしゃくしているが、それは時の流れが癒やしてくれるだろうと昌郎は思う。

春分の日が過ぎて、いよいよ終業式の日を迎えた。クラスの皆が、無事に3年生になれることが、昌郎にとって一番嬉しかった。彼等には、課題や問題が一杯ある。それは、自分も同じこと。未曾有の被害を及ぼした東日本大震災から一年が過ぎた。昌郎の教員一年目が過ぎようとしている。人生、何があるか分からない。しかし、立ち上がるのは自分。歩むのも自分。そんな自分同士が繋がって更なる力となる。学校は、生徒達が立ち上がれる場所でなければならない。昌郎は、そう思う。終業式を終えて生徒達が帰って行った。先生方も一段落したという面持ちで早々に帰宅した。誰もいなくなった学校に昌郎は1人残った。生徒達の先程までのざわめきが嘘のように消え去って、耳鳴りがするほど深閑としていた。生徒達のことを思うと自然と笑みが昌郎の頬に零れた。彼の心は満ち足りていた。帰り支度を整えて、昌郎は職員室の電気を消した。昇降口の非常灯がぼんやりとまわりを照らしていた。校舎の外に出て施錠した。そんな昌郎に暖かな夜風が優しく吹いた。彼は、一つ大きな溜息をついて、上を見あげた。校門の横に植えられた桜の木が大きく枝を伸ばし、街の灯に照らされて八分ほど咲いていた。何処の夜桜よりもきれいだと昌郎は思った。暫く桜の花を眺めてから、更に視線を上に転じた。そこに四角に切り取られたような濃紺の夜空があった。初め単なる黒い空間だと思っていたが、じっと目を凝らすと街の明かりに遠慮しながらも、無数の星が瞬いているのが分かった。見詰めるほどに、星の輝きがはっきりとしてきた。見あげた空はビルに囲まれた「小さな星空」だったが、無限に広い宇宙へと続いていることを感じ取ることが出来た。昌郎は首が痛くなるくらい長い間、その小さな星空を眺めた。そして満ち足りた心で帰路に着くのだった。

  完 (令和4年3月30日  能ヶ谷にて)




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