[連載]

 211話 〜 220話     ( 佳木 裕珠 )



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◆その211
父子の約束(12)


 昌郎は躊躇いながら聞いた。
「お父さんとの約束ですか?」
「そうです。秀明は、小学校高学年から中学にかけて、不登校でした。たまに登校しても保健室か別室での学習で、皆がいる教室には入れませんでした。不登校の原因は、いじめだったと思います。でも、秀明は自分の意志が弱いからだと言って、自分のことを責めていました。気持ち的に、もっと強くなりたいと。私もお父さんも、無理に秀明を登校させようなどとは思いませんでした。秀明は我が儘で学校を休んでいる訳ではないのです。行かなければならない、行かなくてはダメだと自分でも思っていながら、それでも学校に行けない自分。秀明は自分を追い詰めて苦しんでいました。その気持ちが私達にも伝わってきました。いじめは、先生達にもどうすることも出来ませんでした。だから秀明は、避難する気持ちで、学校を休んでいたのです。私達も休ませていたのです。小学校・中学校は義務教育ですから、不登校であっても、なんとか卒業させて貰いました。ここの学校への進学は、同じ中学から入学する子が誰もいなかったので決めたのです。しかし高校は小・中のようにはいきません。まず登校することが最低条件であることを、秀明も知っています。高校に進学する時に秀明は自分から、4年間で必ず卒業すると父親に約束したのです。お父さんは嬉しそうに、頷いていました。こちらの高校の先生方は勿論、生徒さん達も秀明のことを受け入れてくれ、そして理解して下さったお陰で、病気になるまでは1日も休まずに、そして楽しそうに秀明は登校していました。私もお父さんも、ここの高校に入学させて貰って、本当によかったと感謝しています。でも、病気になってしまって…。折角小学校や中学校の分まで取り返そうと頑張っている秀明が、秀明が不憫でなりません」
感情が高ぶってきたのを押さえようとして、母親はまた言葉を切った。
昌郎は、お母さんが続きを言い始めるのを待った。
少しの時間が静かに流れた。
気持ちを静めてお母さんが言葉を繋いだ。
「親が悲しんでばかりいては、秀明も頑張れないと思い、秀明と一緒に前を向いて歩いて行こうと思いを決めて、私とお父さんは秀明とじっくりと話し合いました。秀明は、前向きな気持ちで、どうにか4年間で高校を卒業して、お父さんとの約束を果たしたいと言うのです。辛い治療に必死に耐えている秀明の姿を見て、しっかり病気を治すことが先決、これからの長い人生の中で1年や2年卒業が遅れても取り返しはつくとお父さんが言ってくれました。でも、秀明は頑張れるところまで頑張ってみたいと言うのです。私達夫婦は、息子の気持ちを大切にしたいと思います。それが実現不可能だとしても、秀明の気持ちを第一に考えようと思ったのです。だから、15日から登校すると、秀明自身が先生に電話をすることも、止めはしませんでした」
母親は、そういいながら、否定的に首を振りながら、更に言葉を繋いだ。
「でも、それは無理だと私もお父さんも思っています。ちょっとでも学校に来ることが出来るような状態の時には、お父さんが車で送り迎えしても、登校させようと思っていますが、それすら無理かも知れないと思います。そのことを先生方に知って頂きたくて、今日お時間を頂きました」
昌郎には、健気な秀明の気持ちがじんじんと伝わって来た。
そしてお母さんやお父さんの気持ちも充分に察することが出来た。
秀明が学校来たら体調のことを気遣いながらも、何時ものように接してあげようと昌郎は強く思った。



◆その212
父子の約束(13)

 1月15日、その日の職員打合せが終わった後、秀明から電話があった。
秀明は15日から登校したいと冬休み明けに電話を寄越してくれていたが、今の電話は、具合が良くなく登校出来ないということだろうと、昌郎は即座に思った。
事務の所沢の机横にある電話に出ると、昌郎は敢えて気軽に明るい声で秀明に話し掛けた。
「秀明、どうした」
 秀明は、力強さのない細い声で、やはり、具合が良くなくて学校には行けないと弱々しく言った。
しかし、弱い声だが暗さはなかった。
無理をして声の調子を明るくさせているのかも知れないと、昌郎は思った。
学校に来られないことが、そんなに一大事なことではないという様子の声で、昌郎は言った。
そうすることで、秀明の気持ちも楽になるだろうと思ったからだ。
「オーケー。秀明、無理をする必要は全くないよ。健康に戻る事が一番だ」
「先生。有り難うございます」
秀明の声の調子がもう少し明るくなった様に感じる。
昌郎は、次の登校を促さなかった。
そして、治療に専念することを優先するように念を押し、学校のことは元気になってから考えようと伝えた。
そうしますと弱々しい声だが、底に明るさが含まれている声で秀明は答えた。
彼は出席日数が足りなくて、多くの教科の単位が取得できず、3年に進級できなくなる事を覚悟しているのかも知れない。
そのような潔さが秀明の言葉に籠められているように昌郎は思った。
電話を切る時に秀明は、クラスの皆にも宜しく伝えて下さいと、さばさばした声で言った。
「伝えておくよ」そう言い終えて受話器を置いた。
昌郎は自分の机の前に戻ると、何故か切ない気持ちが涌いてきた。
小柄で痩せっぽっちな秀明、病気で更に一回り以上小さくなった秀明。
小学校・中学校では、謂われなきいじめに苦しんだ秀明。
それでも必死で自分なりに振る舞って来たであろう秀明。
そんな汚れのない秀明が、どうして難病になるのだろうか。
理不尽さを感じた。
そして何処にぶつけたら良いのか分からない憤りも込み上げてきた。
しかし、それは考えても詮無いことだということも分かっている。
だからこそ、老若男女、どんな時でも、人を慰め癒やすことは人間同士の繋がりの中にしかないのだ。
その為にこそ親がいて、家族がいて、仲間がいて、教師がいるのだろう。
教師とは、単に知識を教えるだけの仕事ではない。
人を励まし、癒やし、その人なりに頑張るための支えになることこそ、教師としての最も大事な役割だと、昌郎は強く思うのだ。
その日、定時制の始めのホームルームの前に、寅司が職員室に顔を出した。
職員室の先生達が、寅司に励ましの声を掛けたくれた。
その声に寅司は何時ものような明るい顔で「有り難うございます」と言いながら頭を下げた。
そして昌郎の机の所に来て、長い間、休ませて貰いましたが、今日から何時ものとおり登校しますと、やはり笑顔で言った。
寅司の悲しそうな表情を想像していた昌郎は、そんな彼の表情にホッとした。
しかし、それとは反対に少し違和感も覚えた。
あんなに慕っていた父親が亡くなって、悲しくないはずはないだろう。
それなのに寅司は笑顔を作っている。
彼のその笑顔に昌郎は違和感を持ったのだ。
寅司が職員室から退出した後で、彼が落ち込んでいないことに先生方は安心したと言った。
しかし、昌郎は、そんな寅司のことが逆に心配だった。
始めのホームルームに行くと寅司は明るい顔で、皆と話していた。
クラスの者達も、以前と変わらない寅司に安心しているようだった。
しかし、昌郎には、明るく振る舞う寅司に一抹の不安を感じた。
始めのホームルームを終えて、職員室に戻る前に昌郎は寅司に、放課後教室に残っていて欲しいと伝えた。



◆その213
父子の約束(14)

 帰りのホームルームを終えると、クラスの皆は家路についた。
先程までのあの騒々しさはあっという間に消え、校舎は深閑となった。
そのギャップの著しさが静かさを強調していた。
1階の職員室は別にして、2階の教室は二年生のクラスを除き、全ての照明が消されている。
教室の前半分だけ照明をつけた教室の中で、寅司と昌郎が小さな机を挟んで向き合って座っていた。
夜は深まっていたが、先程までいた生徒達の温みが、教室の中に漂っているようで、外套を着ている二人は、寒いとは感じなかった。
「寅、お父さんが亡くなられて、淋しくなったね」
昌郎は、そう話し出した。寅司は、小さく首を振った。
「ここ二年間は一緒に住んでいないから、そんなに淋しいとは思っていないんだ」
 そう答えた寅司は、伏せていた目を上げ笑顔で昌郎を見た。
昌郎は、そんな寅司の目を数分間じっと見詰めた。
寅司も笑顔のままで昌郎を見ていたが、ふと、視線を外して、自分の足元を見た。
それも束の間のこと。
寅司は、また笑顔を昌郎に向けた。
「何か、話したいことはないか」
静かに昌郎はそう聞いた。
別にないというように寅司は、また首を横に振った。
昌郎は、由希を失った時のあの大きな悲しみを思い出していた。
あの時、自分は心底から悲しかった。
痛みを伴うほどの悲しみだった。
それを乗り越えて来られたのは、不可逆的な時間の流れの存在だった。
心に大きな痛みを伴う血を流さんばかりの死別の悲しみは、過ぎ行く時間の中で、思い出を美しく彩りながら、少しずつ少しずつ和らいで来た。
しかし、由希の思い出の煌めきは増すことはあっても消えることは決してない。
恋人との愛、友情、親子愛、兄弟愛など様々な愛の形があるだろうが、愛する人との死別に直面した時、人は震える程に悲しみを吐露し涙を流すことこそ大切なのではないのかと、昌郎は思った。
その行為は苦しみでしかない。
しかし、悲しみの感情を無理に押さえずに、そのまま出すことによってしか、悲しみを浄化する方法はないのかも知れない。
浄化されても悲しみは悲しみのままなのだが、その悲しみを受け入れながらも、知らず知らずの内に気持ちが前向きになり、時間を経てふと気付くと、愛する人の死を、実際のこととして受け入れられるようになる。
昌郎は、由希の死から立ち直ったのは、愛する人を失った悲しみをそのまま受け入れ、そのまま発露したからだと、今になって思えるのだった。
自分と寅司の場合、死別した対象は初恋の人と父親との違いはあるが、どちらも自分にとって、とても大切な人であることに変わりはない。
愛する人を失うことの人間としての悲しみに違いはないだろう。
そう考えると、寅司の悲しみは半端な悲しみであろう筈はない。
そんな大きな悲しみを自分の内に塞いでしまうことは、決して良いことではないような気が、昌郎にはするのだった。
寅司は、もっと父親が死んだ悲しみの感情を出しても良いのではないか。
いや、出すべきだと思うのだった。
「寅、自分はこう思う。お父さんを亡くした悲しみを、自分の中に押し込めるのではなく、もっと悲しみを表に出しても良いのではないかと思うんだ。今の寅を見ていると、お父さんを亡くした悲しみを隠そうとしている様に感じるんだ。悲しいという感情は、何も恥ずかしいことじゃない。愛する人を亡くすことの深く大きな悲しみは、皆に共通する感情だ。だから寅、何も無理することはない。お父さんを失ったその大きな悲しみを表に出して良いんだ」
 寅司は、昌郎の話を下を向いたまま無表情で聞いていたが、話しの途中から顔を上げて昌郎を見詰めていた。
昌郎の話が途切れた。
昌郎は寅司の顔をみつめた。
深閑と沈んだ教室の中に、突然、轟音のような響が谺した。
それは寅司の号泣する声だった。
二人の間にある机に突っ伏して寅司は泣いた。
今まで、ずっと押さえていた父を失った大きな悲しみが、昌郎の言葉で、彼の心に溢れ出したのだろう。
昌郎は立ち上がって寅司の傍らに行き、彼の大きな泣き震えている背中を摩った。
「寅、うんと泣け、泣いて泣いて泣き疲れるまで泣け、愛する父親を亡くした悲しみも、吐き出すんだ。無理することはない。悲しみを無理に抑えることなんてしなくて良いんだ」
昌郎は、そう繰り返しながら、寅の逞しい背中を、子どもをあやすように摩り続けた。




◆その214
母と娘(1)

 天涯孤独となった寅司を見ると、昌郎は胸が詰まった。
しかし、昌郎にはどうすることも出来ない。
その歯痒さが更に切なかった。
寅司には夢があった。
父親と一緒に自分達の家を建てること。
その父親が亡くなった。
寅司は、父親が死んだ悲しみを忘れようとして、必死に何事もなかったように振る舞った。
父親の死に対して泣くことを封印してきた。
勿論、涙も流さなかった。
しかし、それでは、父親の死という大きな悲しみが、本当に癒やされることはないと昌郎は思った。
父親の死に真っ直ぐに向き合い、悲しみを吐露してこそ、彼は救われる。
昌郎は、愛する由希を失った時の自分の心境を思い出して、そう思った。
父親の死を受け入れ、素直に悲しむことが必要だと寅司に話した。
寅司の心情を良く理解した上での温かいその言葉が、弱っている寅司の琴線に触れたのだろう。
彼は、父親が亡くなってから初めて涙を流した。
そして昌郎の存在を忘れてしまったように身も蓋もなく号泣した。
昌郎は、寅司の号泣を静かに見守った。
それで、寅司の悲しみが全て癒やされることはないが、時の経過とともに父親の死が少しずつ浄化され、彼自身の心の支えとしての父親が、寅司の中で生き続けて欲しいと昌郎は切望した。
寅司は休むことなく、今まで通り学校に来た。
落ち込んでいることは手に取るように分かった。
クラスの皆は、少しでも早く寅司が悲しみから抜け出せるようにと気を配った。
それには、慰めの言葉より、今まで通りに接することが一番だと、彼等は思っていた。
クラスの皆は、何かしらで深く傷付いたり悲しみのどん底にいた経験を持っていた。
だからこそ、取って付けたような慰めよりも、ごく普通に接してくれることの心地良さを知っていた。
昌郎も何気ないようにして、寅司の様子を注視した。
そして、深く落ち込んでいる時には、何気ない一言を掛けようと努めた。
 冬休みが明けてから1週間ほど経った頃、4年生の担任で2年生の数学を担当している絹谷に、高田律子のことを聞かれた。
「木村先生、最近、高田さんに何か変わったことでもありましたか」
そう聞かれた昌郎は、律子のことについては何も思い当たる事がなく、逆に絹谷に聞いた。
「別に、何も変わったところはないと思いますが、何か律子のことで気になることでもありますか」
「そう、それなら良いんだけれど。彼女、今まで化粧をして学校に来たことがなかったのに、この頃、薄くだけれど口紅をつけているし、ファンデーションも塗っているわ」
昌郎は、そんなことに、全く気が付かないでいた。第一、ファンデーションなるものがどんなものであるかしら分からない。
「ファンデーションって、何ですか」
「男の人だから、分からないのね。ファンデーションは、色白に見せたりする化粧品の事よ」
「ああ、そうですか」
とは言ったもののやはり、律子がそんな化粧をしていることに気づいていなかった。女性ならではの気づきだと昌郎は感心した。
「絹谷先生、流石ですね。私には、全く分かりませんでした。今日、律子の様子をじっくりと見てみます」




◆その215
母と娘(2)

 絹谷から律子のことを聞かれたその日、始めのホームルームの時間に、それとなく昌郎は、律子の様子をみた。
そう言われれば、冬休みの前より、少し垢抜けた感じがする。
律子と彼女の母親は、目鼻立ちがよく似ていた。
その上、体型もほぼ同じ。
少し母親の方が肉付きが良いのだが、服は共有できる様で、律子は母親の服を着て学校に来る事もあるらしい。
母親も、洋服を娘と共有出来るようなものを、意識して買っているのかも知れないと思われた。
高校一年の時、つまり去年の秋頃、隆也と譲がスーパーマーケットで、律子が母親と一緒に買い物をしているところを見ていて、その日、彼女が学校に来た時、昼に母親が着ていたワンピースを着ていることに気が付いた。
若い律子には多少地味な色合いと形の服だったが、彼女はなんとも思わず、正に外出着として着ているらしい。
初め隆也が気が付いて「律子の服、昼間、あいつの母ちゃんが着ていた服じゃないか」と譲に話した。
譲は確かめるように律子を見て「そうだ、間違いなく、あの服、律子の母ちゃんが着ていたものだ」と答えた。
その日から、隆也と譲は、二人の間で律子の事を話す時「おばちゃん」と呼ぶようになった。
それが男子の間で広まって、おばちゃんと言えば、律子の事を差す呼び名になっていた。
流石に女子の中では、誰も律子を「おばちゃん」とは呼ばず「りっちゃん」と呼んでいた。
男子も律子に直接「おばちゃん」などと呼ばなかったから、男子の間で自分のことを「おばちゃん」と呼んでいることを、律子は知らないようであった。
或る日、隆也と譲が「おばちゃんがさ、母ちゃんと二人で歩いているところを偶然見たんだが、あの母子、本当によく似ていてさ、後姿なんて、まるで双子みたいだったよ」と昌郎に話したことがあった。
昌郎は「おばちゃん?」と訝しげに問うと「律子だよ。高田律子」と言いながら「律子母子は服を共有して着ているほど仲の良い母子だけど、律子には地味過ぎだよな、青春なんだからさ、もっと可愛い服着たらいいのにな」などと話していた。
そう言われれば、確かに律子の服装は、何時もおばさんぽいなとも思っていたが、律子が気に入って着ているんだから、それは彼女の自由。
他人がとやかく言うことでもない。
昌郎は律子の服装に、その程度のことしか思っていなかった。
しかし、絹谷から律子の微妙な変化について聞いたあとで、律子の着ている服を見ると、以前とはどことなく趣が変わっているように感じた。
今までに律子がフリルの付いた服を着ているところを一度も見たことがなかったのに、その日はスカートの裾に、フリルが付いていた。
確かにそれは律子の変化といえるだろうが、彼女も今時の若者の一人。
今流行っている服を着たいと思うことだってあるだろうから、特に気にするようなことじゃないだろうと、昌郎は思った。
しかし三日後、昌郎は勿論、クラスの皆も吃驚するような恰好で、律子は登校してきた。フリルの一杯付いた短い丈の黒い服。
これってメイド喫茶の制服? 誰もがそう思った。



◆その216
母と娘(3)

 律子には、何らかの心境の変化があると、彼女のメイド風な黒尽くめの服装を見て昌郎は思った。
クラスは勿論、先生方、そして50人程しかいない定時制の生徒達は、律子の服装の変化に驚いた。
「高田さん、この冬休みに何かあったことは確かね。急に、今までの地味な感じだった彼女が、突然に秋葉原の喫茶店でバイトしているような服を着て学校に来るんだから。服装の変化だけなら良いんだけれど、私生活の大きな変化がありそうだと思う」
絹谷は昌郎に心配しながら、そう話した。
「そうなんです。今日の律子の服装を見て、驚かない者はいません。クラスの皆も驚いていました。クラスのお母さんと慕われている桑山さんが律子に、とても可愛い服で良く似合うけれど、以前とは全然違うから何か心境の変化でもあるのと聞いてくれたんだけれど、心境の変化なんて何にも無い、ただ着てみたかったのと言っていたと、自分に話してくれました」
「そう。でもあのような服を着たいと思うようになっただけでも、大きな変化ね。彼女の母親は、何とも思っていないのかしら。双子みたいに仲の良い親子だから、母親も高田さんの服装に理解を示しているんでしょうね。それとも」
「それとも?」
「ええ、それとも彼女が、あんな服装で学校に来ていることをしらないのかも」
「知らないって、そんなことあるでしょうか」
「そうね。例えば、家を出るときには今まで通りの服装で、学校に来る前に着替えているとか」
「でも、何故、あんな服装に」
「もしかしたら、相手がいるのかも知れないわね」
「相手というと」
「付き合っている相手よ」
「まさか、あの律子がですか」
「そう思うのも、理解できるわ。でも、生徒達は、日々変化しているのよ。若い時には、様々な事に興味を持つわ。それは人との付き合いでも同じこと。ましてや、思春期のあの子達にとって、一寸したことで人を好きになることなんて、珍しいことじゃないわ。木村先生だって、高校生の時、憧れた人と出会わなかった? その人が、どんな人かで、自分に大きな影響力を与えるわ。それが、良い影響なのかどうか。そんなこと考えることなどない。それが青春なんじゃないかしら」
絹谷の言葉に、昌郎は充分に納得出来た。
自分は、高校時代に由希に出会った。
彼女から受けた影響は、自分の日々の中で大きな存在となり、進路を決める時にも大きく作用した。
由希との出会いは、今の自分に繋がっている。
自分にとって由希との出会いは、毎日の心の拠り所だった。
彼女が亡くなった今でも、心の支えになっている。
青春時代に誰と出会うか。
それは、大きな意味を持つ。
昌郎は絹谷の言葉に納得していた。
「兎に角、明日、高田さんが、どんな恰好で来るかしら、様子を見てみましょう」
絹谷は、そう言った。



◆その217
母と娘(4)

 律子は次の日の金曜日も、メイド風な服装で登校し、下校のチャイムが鳴り終わるか終わらないうちに急いで帰っていった。
放課後に、律子と話をしたいと思って昌郎は、始まりのホームルームと一時間目の間の時間に、彼女に声を掛けたのだが、急いで帰らなければいけない用事があるからと断られた。
それじゃあ、月曜日に時間を取って話そうと言うことになった。
しかし、律子の返事は今一つはっきりしなかった。
 土曜日、やり残した仕事があったので、昌郎は午後から学校に行った。
そして夕方6時頃まで仕事をして帰宅した。
誰もいない職員室は暖房を入れていなかったので、外套を着て仕事をした。
幸い暖かな日で寒くは無かった。
しかし、陽が暮れると、流石に冷え込んできた。
パソコンを打つ指先が冷たくなったのを潮時に、昌郎は仕事に一区切りつけて帰宅した。
次の日の日曜日は、久々に大学で応援団を一緒にやって来た親友源藤凌仁と会う約束があった。
彼は実家の花屋を継いでいて、日曜日だけが休み。
凌仁の都合に合わせて、会う時は何時も日曜日の日中だった。
花屋の朝は早い。
夜更かしなど出来ないから、夜に飲みに出掛けることはしなかった。
街で昼食を食べ、コーヒーショップでお茶をして話に花を咲かせ、互いの買い物に付き合うような日程だが、それだけで充分に楽しかった。
昌郎も凌仁も社会人となって初めての正月を過ごした。
大分学生気分も抜けたなと彼等は話した。
その分、大学時代が遠くなったように感じられ、あの頃のことが懐かく思い出された。
去年は、慣れない仕事に右往左往して大学の学園祭に行けなかったが、今年は、後輩達の顔を見に学園祭へ一緒に行こうという話しで締めくくり二人は別れた。
久し振りに仕事のことを忘れて凌仁と楽しむことが出来た。
人は出会う人によって、その後の人生が大きく左右されると昌郎は思った。
もし由希と高校時代に出会っていなければ、応援団活動をしていなかった。
彼女と出会ったから応援団の素晴らしさを知ることが出来、それによって色々な人と出会い、様々な経験が出来た。
そして大学に入って凌仁と出会うことが出来たのだ。
昌郎は由希との出会い、応援団との出会い、凌仁との出会いに心から感謝していた。 
教師と生徒は偶然の出会いであると言って良いと思う。
入学する高校を選ぶ時、先生を選んで応募する訳ではない。
学校を選んで高校に入学する。
また、自分の学力で入れるところを選ぶ。
あの先生がいるからあの学校に入るというのはほとんど希である。
体育系の推薦などで入る高等学校では監督やコーチを選んで入学することもあるだろうが、それはほんの一握りで、他はどのような教師と出会うか入学するまで分からないのだ。
教師側も、その点では生徒と一緒である。
偶然の出会い、それは正に縁。
だからこそ生徒との出会いを大切にすることは教師の使命でもあろう。
昌郎はそんなことを考えながら心地良い眠りに就いたのだった。



◆その218
母と娘(5)

 月曜日、いつも通り14時からの職員打合せを終え、一月下旬から始まる4年生の学年末試験の内容を検討している時だった。
職員室の戸が荒々しく開けられて一人の女性が入ってきた。
事務主査の所沢がどちら様ですかと問うと、職員室全体に聞こえるような大きな声で、木村先生にお話しがあってきましたと名前も言わずに用件を言った。
昌郎は、問題作成の手を休めて顔を上げ、その女性を見た。
高田律子の母親だった。
直ぐ立ち上がって律子の母親を入口に出迎えた。
「高田さんのお母さん、さあ此方にどうぞ」
と、先生達の事務机の前にある応接用のソファーに招いた。
昌郎の落ち着いた応対にも拘わらず、律子の母親は荒い鼻息でソファーに腰掛けると、廻りに先生達がいるのも気にせず、昌郎がどのようなご用件でと言う言葉の途中から、大声で怒鳴るように言った。
「先生、一体うちの律子に、どんな仕事を言いつけているんですか。先週から昼前には学校に行き、夜は11時頃でなければ帰宅しないし、一昨日と昨日の土日も朝早くから学校に行くと言って出掛け、今日も昼前に家を出ました。
学校で、どんな仕事をさせているのか、見せて貰おうと思って今日は来たんです。さあ早く、律子のいるところへ案内して下さい。
律子の母親が言っていることの意味が分からなかった。
腑に落ちなかった。昌郎は聞き返した。
「律子さんが、何か学校で手伝いをしているというのですか」
「先生が、律子に何か手伝いを頼んだんじゃないんですか」
「私は律子さんに、何も手伝いを頼んだことはありませんし、他の先生方も、何も頼んでいないと思いますが」
「都合が悪いからと言って、嘘を言わないで下さいよ。律子が、木村先生に頼まれて、手伝っていると言っているんですよ。毎晩遅くまで、そして土日も手伝わせるなんて、どういうことなんですか。生徒だからといって、いいように使っているんですか」
 職員室の皆が聞いていた。
長津山が席を立ってソファーの所まで来た。
律子の母親は、長津山に向かって、副校長として監督不行届ではないかと声を荒げた。
「監督不行届と言われましても、そのような事実はないことは確かです。お母さん、何か捉え違いをしているのではないでしょうか」
「私が、間違っていると言うの。嘘をついていると言うの」
「いや、母さんが嘘をついていると言うのではなく、何かの理由があって、律子さんが、そんな言い訳を言っているのではないでしょうか?」
「うちの律子が、母親の私に嘘をついているとでも仰るんですか。律子に限って、私に嘘をつくはずは、断じてありません。私達母娘は、何でも話し合える仲の良い親子なんです。だから律子は、小さい時から私に嘘をついたことなど、ただの一度も有りません。母親の私が保障します」
 自信たっぷりにそう言い切る母親は、律子の事に関して自分の知らないことは何も無いと思っていた。
我が子といえども、成長し一個の人間として確立して行く段階で、子どもは少しずつ親離れをして行く存在だと言うことを、律子の母親は認めていなかった。
「律子さんは、まだ学校に来ていません。お母さん自身で、校舎の何処でも結構ですから、確かめてみてください。施錠している教室もありますから。木村先生が鉤を持って同行しますので」
そう言って長津山は、昌郎を見た。
昌郎は、事務の所沢の所に行ってマスターキーを借りて、律子の母親を「さあ、確認しましょう」と促した。
律子の母親は、勢いたって立ち上がった。



◆その219
母と娘(6)

 定時制の校舎は3階建てになっている。
まず、玄関を入ると直ぐ横にある職員室を出て、隣の図書室兼会議室の鍵を開け、昌郎は律子の母親に室中を確かめて貰った。
勿論、律子が居るはずもない。
しかし、律子の母親が納得することが必要だ。
入口の所から室内を見回せば誰もいないことが分かるのに、律子の母親は中に入り込み壁沿いを一巡して確かめていた。
彼女のその行動に、昌郎は一種の粘着的な異様さを感じた。
図書室兼会議室の隣は保健室。
普段は、ほとんど使用していない。
不思議なくらい、この定時制の生徒達は保健室を必要としていない。
彼等は、心身共に意外とタフなのかも知れない。
それは、中学までの生活の中で育まれた忍耐力なのかも知れない。
そして、今までの学校生活よりも、この定時制高校での生活が、ある意味で快適なのかも知れない。
教員になって1年に満たない昌郎には分かりようもなかったが、文化祭の折、担当する2年生の生徒達の生活に少しだが触れることができた事によって、彼等の力強さや現実への対応力等を知ることが出来た。
それが、保健室をあまり必要としないことと結びついているのだろうか。
養護教諭が常住していないことも関係しているのかとも昌郎は思っていた。
保健室の鍵を開けて中を確認して貰う。
律子の母親は、狭い部屋に入りぐるっと見回した後、しゃがみ込んで膝を突きながらベッドの下を覗き込んだ。
その姿には、何か悪意のようなものすら感じた。
階段を上がって2階の一番手前は生徒会室。
そして1年生から奥に4年生までの教室が並んでいる。
生徒会室も、通常は鍵がかけられている。
鍵を開けて中に入る。
文化祭の時の飾りや運動会の道具が部屋の隅に雑然と置かれ、部屋の真ん中にある大きな机には、筆記用具やコピー用紙、教科書、ノートなどが散乱していた。
母親は、「まあ、掃除、整頓が行き届いていないこと」と言いながら、昌郎を睨んだ。
昌郎は、済みませんと小さく頭を下げた。
教育的な指導が行き届いていないと言うことだわと、聞こえよがしの独り言を言った。
律子の母親は、ぐだぐだと独り言を言いながら歩いていた。
その独り言は、全て学校批判。
独り言を聞こえよがしに言い続けている。
彼女の癖なのだろうか。
家の中でも、そうなのだろうか。
そうだったら家族は大変だろうなと、昌郎は強く思った。
この部屋にも勿論律子はいない。
1年生から4年生の教室の一つ一つに入いり、律子の母親は、清掃用具を入れる縦長のロッカーの中まで確かめた。
その姿にも彼女の病的なしつこさが色濃く表れていた。
3階は音楽室、理科室、調理室の3部屋が並んでいる。
3室とも普段は施錠されている。
3階では一番奥の音楽室から確認した。
音楽室にはアップライトピアノがあるくらいで、その他には机と椅子が並んでいるだけ。
部屋に入って一瞥しただけで、律子が隠れることが出来るような所がないと母親は判断したらしい。
すぐ隣の部屋の確認へと移動した。
理科室と調理室には準備室があり、そこにも隈無く入り込んで調べ、実験台や調理台の下までも丹念に調べていた。
しかし、律子はいない。
いるはずも無い。
しまいにはトイレの中まで入って、個室の一つ一つのドアを開けて確認した。
それも女子トイレだけでなく男子トイレまでも。
個室のドアを開ける時は「律子、隠れていないで出ておいで、お母さんですよ」などと声を掛けるのだった。
2・3階のトイレ、そして最後は1階にある職員用のトイレの中まで調べた。
しかし、当然、律子は何処にもいなかった。
職員用のトイレを調べ終わっても、娘の姿を見出せなかった母親は、腑に落ちないという風に昌郎の顔を睨んだ。
そして職員室にも寄らずに玄関口に立って靴を履き出した。
靴を履き終えると、昌郎に背を向けたそのままで、一言の挨拶もなく帰って行った。
昌郎は、呆気にとられて、律子の母親の後姿を見送った。
「木村先生、ご苦労様」
昌郎は後からそう声を掛けられて振り向いた。
教頭の長津山も立ち去る律子の母親の後姿を見ていた。



◆その220
母と娘(7)

 午後5時半から、その日最初のホームルームが始まる。
その時間まで来なければ遅刻となるのだ。
5時10分を過ぎたあたりから、生徒達が登校してくる。
何時もの登校風景が始まった。
5時20分を過ぎた頃だった。
甲高い女性の叫び声が聞こえた。
「何か、外が騒々しくないですか」
昌郎が隣の机の福永に声を掛けた。
ちょっと様子を見てみようか。
福永が昌郎を促して二人で外に出た。
その時、悲鳴のような声が、校門の横から間近に聞こえた。
昌郎と福永は顔を見合わせて、声のする方向へ走った。
 そこにいたのは、メイド風のなりをした律子と、以前律子も着ていたような地味な服装の母親だった。
二人は、どちらも怒りの形相を露わにして睨み合っていたが、昌郎と福永の姿を見ると、律子は学校に背を向けて走り出した。
「律子、待ちなさい」
母親は大声で呼び止めながら、娘を追いかけて駈けだした。
昌郎達も彼女達の後を追った。
律子は大通りに出ると、丁度近付いて来たタクシーを止めて乗り込もうとした。
必死の母親は、律子に追いつくとメイドのようなスカートの端を強く掴んだ。
「律子、あなた何やっているの。こんな恰好をして。お母さんの目を盗んで、一体何処で着替えたの」
悲鳴のようにそう叫びながらスカートを掴む母親の手を、律子は振り払うように何度も何度も叩きながら叫んだ。
「何を着たって私の自由よ。もうお母さんの指示には従わない。離してよ」
憎悪を含んだ声で投げつけるように律子は言った。
しかし、母親は掴んだスカートを離すはずもなかった。
道行く人達が、この騒動の様子を興味本位で眺めて通り過ぎていった。
車道を挟んだ反対側の歩道を行き交う人達の中には、立ち止まってこちらの様子を見ている者もいた。
スカートの端が切れる音がした。
その音が、律子の激しい抵抗に更に油を注いだ。
「何するのよ。大事なスカートが破けるじゃないの。お母さんなんか大嫌い」
その言葉を聞いた母親もまた、更に強くスカートを引っ張った。
「律子。あなた一体どうなったの。どうなってしまったの。どうして狂ってしまったの」
狂ったという言葉に、律子が敏感に反応した。
そして凍り付くような視線で母親を見据えて言った。
「狂った。誰が狂ったのよ。お母さんが狂っていたのよ」
母親は、娘の言葉を聞いて、更にエスカレートした。
「私が何時狂っていたと言うの。律子、私が何時狂ったというのよ」
そう言いながら、母親は更に強くスカートを引っ張った。
スカートが本当に破けて体から剥ぎ取られてしまうと思った瞬間、律子の抵抗する力が一瞬抜けた。
そしてタクシーに乗り込もうとして片足を車の中に入れた律子は、不自然な体型で道に転げ落ちてしまった。
それと同時に、律子の母親も尻餅をつくような恰好で道に転び、掴んでいた手の力が抜けてスカートから離れた。
昌郎と福永が、彼女達に追いついて止める間もない短い時間におきたことだった。
あっ危ない!
昌郎と福永は同時に、そう声を発しながら転げ落ちた律子と転んだ母親に駆け寄った。
タクシーの運転手も慌てて車を降り、落ちた客の様子を見に来た。
「痛い」
呻くように律子が声を発した。
「痛い。痛い」
「高田、大丈夫か」
「お客さん、大丈夫ですか」
「何処が痛いんだ」
そう聞く昌郎に、律子は自分の右足を指差した。
右の足首が変な形で曲がっていた。
律子の母親は、娘のその右足首を見ると、ほとんど悲鳴のような声を出して叫びながら、昌郎や福永を押し分けるようにして娘に取りすがり、痛む娘の足首を摩ろうとした。
その瞬間に律子が
「痛い、触らないで」
と叫んだ。母親は弾かれたように、娘から身を離した。
昌郎は福永に言った。
「救急車を呼びましょう」
「そうだ、そうしよう」
福永が携帯を取り出して、手早く救急車要請の連絡を入れた。
律子の母親は、娘の苦痛に耐えかねる顔を、放心したように気力を無くした状態で眺めていた。




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