[青森県内観光]
 
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あおもり海道の佳景−12

■合浦公園(青森市)

〇津軽の海を思へば

 船に酔ひてやさしくなれるいもうとの眼見ゆ津軽の海を思へば
青森市の合浦公園の海辺に建つ、石川啄木(1886〜1912)の文学碑に刻まれている歌です。
石川啄木といえば、明治期に生き、26歳で夭逝した岩手県出身の歌人です。
過去には、特に函館市に縁が深かったことから、同市の観光ガイド本などで、盛んに紹介されたものです。
が、ここ最近は、すっかり姿を消してしまい、若い人たちには馴染みの薄い文人となってしまいました。
冒頭の歌は、明治40年、青森市からその函館へ、妹の光子とともに渡った際に、詠まれたものです。
この年、石川一族は、両親、妻子、兄妹がばらばらに暮らすことになってしまい、啄木は自身の日記に「一家離散とはこれなるべし」と記しているほどの困窮に陥ります。
合浦公園の波打ち際の松林の中に建つ文学碑は、昭和31年5月4日に建立され、碑文の文字は、その妹の三浦光子さんの筆によるものです。
ちなみに合浦公園の生みの親は、水原衛作、柿崎巳十郎兄弟(姓が異なるのは、水原が造園の師匠である水原清の跡をついで水原姓を名乗ったため)。
明治13年に水原によって計画され、翌14年に着工されました。
しかし、未完のまま18年(1860)に水原が亡くなったことから、実弟の巳十郎がその遺志を継ぎます。
この2人が手がけた造園工事は、私財を投じ、心血を注いだ、筆舌に尽くしがたい苦難の連続であったと伝えられています。
そして、着工から13年後の明治27年にようやく完成、その際に巳十郎は、公園の一切を当時の青森町に寄贈します。
その後は1人の園丁として公園に関わり、大正14年(1925)に亡くなるまでの約40年間、その職をまっとうしました。


砂浜の松の木林の中に建つ石川啄木の文学碑


妹の三浦光子さんの筆跡による碑文


合浦公園内にある水原衛作、柿崎巳十郎兄弟の記念像


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