[青森県内観光]
「 写真エッセイ─あ お も り 心 象 百 景 」
写真・文 山内 正行(編集者/青森市在住)
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あおもり心象百景 その7


合浦公園─Ⅰ 波乱の歴史

 合浦公園の歴史を遡ると、これがなかなか波乱に満ちている。
そもそも、その誕生からして難産だった。
 公園の生みの親は水原衛作、柿崎巳十郎兄弟(姓が異なるのは、兄の水原が造園の師匠水原清の跡を継いで水原姓を名乗ったため)。
水原によって合浦公園は明治13年(1860)に計画され、翌14年に着工された。
 しかし、水原は未完成のまま18年に亡くなったため、実弟の巳十郎が兄の意志を継ぐことに。
この2人が手がけた造園工事は、私財を投じた筆舌に尽くしがたい苦難の連続であったという。
 それでも着工から13年後の明治27年に完成し、巳十郎は公園の一切を当時の青森町に寄贈した。
巳十郎はその後、園丁としてかかわり、大正14年(1925)に亡くなるまでの約40年間、その職をまっとうした。
 敗戦後は、進駐軍によって接収され、公園内にはカマボコ兵舎や将校の住宅が建設された。
昭和25年(1950)には競輪場と市営野球場が完成するものの、その時点でも公園総面積の3分の1はまだ接収されていて、29年12月になって完全に青森市側に返された。
競輪場はその後、競輪を罪悪視する世論の高まりや周辺住民への騒音などの問題が生じて、58年に青森市新城平岡へ移転となった。
 このあたりで波乱の歴史は、ようやく落ち着くのだが、一方で燦然と輝く歴史的快挙も忘れてはなるまい。
 それは合浦公園が、日本プロ野球史上初の完全試合達成の地であるということ。
昭和25年6月28日、市営球場のこけら落としとして行われた巨人対西日本戦で、巨人の藤本英雄投手が西日本を4─0で抑えてパーフェクトを達成。
試合時間1時間19分、記録は内野フライ3、外野フライ6、内野ゴロ11、三振7だった。

 
日本プロ野球史上初の完全試合達成を伝える記念碑



桜の木も多く花見の名所でもある(4月中旬)


合浦公園の創設者である水原衛作、柿崎巳十郎兄弟を顕彰する胸像


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