[青森県内観光] | |
「恵雲と辻風の珍探訪」 |
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その16 | |
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■三十番 大光寺慈照閣A(だいこうじじしょうかく/平川市・旧平賀町)<2日目> |
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○古くから津軽の要衝、大光寺城に思い馳せ
境内の正面に拝殿、奥の院があり、その右手に観音堂があった。 入り口は閉まっていたが、窓越しに中の様子が見える。 祭壇には千手観音の写真が飾られていて、その奥に厨子(ずし)がある。 戸の前で鈴を鳴らし、手を合わせた。 観音堂の横には西国巡礼から持ち帰った霊場の土を納めたという1823年(文政6年)の巡礼記念石碑もあった。 境内には小さな祠(ほこら)も幾つかある。 金の鈴を下げたご神馬は足が悪いのだろうか、胴を下からしっかり支えられ、ニンジンが供えられている。 どっしりとしたご神木には立て札が立っていた。 この皀莢(さいかち)は豆科の落葉高木で幹や枝には茎の変化した刺(とげ)がある。 果実と刺は漢方薬、果皮はサポニンを含み石けんの代用とされたそうだ。 災いを封じる「災勝」に掛けている? 隆々と太い幹がどっしりとした存在感を醸し出している。 ご神木といえば、拝殿の壁には観音欅(けやき)と浴衣姿の子供たちのモノクロ写真が掲げられていた。 大同年間(806-810)観音堂の創建時に植えられたとされる推定樹齢千百余年の老木が1934年(昭和9年)の大暴風で倒れてしまったと記されていた。 その根株跡に昭和37年、観音堂を移したと書かれている。 大同年間の観音堂創建とは坂上田村麿によると伝えられている。 この一帯には11世紀、鎌倉時代から大光寺城が築かれ、曽我氏、安東氏、南部氏と津軽の要衝として城主が変わるたびに何度も合戦をくぐり抜けてきた。 津軽統一を目指す大浦(津軽)為信は、一度は大光寺城の滝本重行の攻撃に敗走したが、翌年の1575年(天正3年)に攻め落としている。 その後、大光寺城には為信の娘・富姫の夫・建広が城主となった。 富姫が若くして亡くなり、供養のため建広が1606年(建長11年)観音堂と薬師如来を安置する「慈照閣」を建立したという。 その後廃城となった大光寺城。弘前城の築城の際に取り壊され、石垣や建材などが運び出された。 弘前城の亀甲門は、大光寺城の追手門を移築したものだそうだ。 今では隣接地が「ファミリー農園」となっている静かな場所だ。御朱印もしっかり頂き、古戦場を後にした (恵雲) 大光寺慈照閣(保食神社) 本尊 千手観世音菩薩 御詠歌:佛法に名を得し今の大光寺 詣る心も後の世のため 〒036-0101 平川市大光寺四滝本62
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