[青森県内観光]

「恵雲と辻風の珍探訪」

 

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その34

■十四番 弘誓寺観音堂(ぐせいじかんのんどう/中泊町・旧中里町)<6日目>

○僧侶・戒淳(かいじゅん)と地元民の手で復興された愛ある観音堂

 今日の旅程は次の尾別にある観音堂でおしまい。
国道339号沿線には札所が集中しているので巡りやすいが、近い地域だからか境内の風景、観音堂の歴史や建物のつくりなどが似ていて、個性の違いが見つけにくいのが難点だ。
 観音堂の手前にある「尾別老人憩いの家」を目指す。駐車場に車を止めると、神明宮の拝殿が見えた。敷地内には児童公園が併設されており、ブランコが風にゆれていて、晩春の夕暮れ時、やさしい気持ちになる。
 ここもまた長い階段。
手すりは実用的な銀色の鉄パイプ製なので、情緒はないが頼りがいがある。
階段を数えると106段。中腹の道端に西国三十三観音であろうか、石碑の観音様たちが並んでいる。
古い時代の仏様なのか、周りの牧歌的な風景と馴染んで、おだやかなお顔に見える。
木の根が這う参道を登ると、アルミ戸のついた木造の観音堂があった。
脇にある灯篭の頭が落ちてしまっている。
堂内は他の札所と似ているが、正面にこんな但し書きが貼ってあった。
「かんのんさまをおがむにはローソクとせんこうをたてて手を合わせてじゅうずをかけておがんでください。けっして手をたたかないように。(以下略)」。
宗派によっては、寺でも拍手で参拝するところがあるというので、親切に参拝方法を示しているのだろうが、ではこの祭壇脇に飾られている、五円玉で形作られた鳥居の額は何だろう。
地元民の寄進だと思うが、紛らわしくはないかな。
江戸時代以前からあったとも言われるこの観音堂は、慶安元年(1648)胡桃館下に再建されてから有名になり、延享年中(1744〜47)以降、札所に加えられたとされている。
明治の廃仏毀釈で観音堂は取り壊されて神明宮となり、住民の反対にも関わらず、本尊は弘前の最勝院に移されてしまった。
ここに救世主が現れる。
明治34年、山梨県出身の青年僧・海野戒淳(うんのかいじゅん)。
彼は全国を行脚中で、住民の気持ちを察して本尊の千手観音を取り戻し、仮堂を建て、観音画を売って資金集めをするなどお堂の再建に尽力した。
戦争の召集などで何度かこの地を離れるが、留守中に住民たちも復興運動を続け、小さなお堂を建て、彼の描いた観音画をもとに、三十三観音の石像を作った。
後に円海と改名した彼は、昭和21年尾別に永住し、昭和28年に弘誓寺を建てた。 
先ほど斜面の中腹で見かけた石仏群、なかなかいいお顔だと思っていたら、戒淳が下絵を描いて、地元民が作ったという協同作品なんだ。
山梨県の人なのに尾別で永眠とは、この地への愛を感じる。
御縁って不思議なものだ。  
(辻風)



弘誓寺観音堂
本尊 千手観世音菩薩
御詠歌:萬世を祈り祈りて今こゝに 千手の誓い頼もしのみや
〒037-0304 北津軽郡中泊町大字尾別胡桃谷198
TEL0173-57-3338














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