[連載]

   その21〜30


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その21

 『思ひ出』に描かれている、みよさんと葡萄狩りした場所は、現青森銀行駐車場の裏側(東南寄り)にあったということです。
 これは野呂郁三さんの綿密な調査報告によって確認され「太宰散策マップ」に位置付けられています。
 また、増補版『回想の太宰治』「アヤ(中西新吉)懐旧談」に葡萄畑が紹介されています。「ヤマゲンの向かいには銀行と警察署が並び…(略)ヤマゲン のまん前はヤマゲンの畑で、その奥は八幡様、左隣は鳴海医院。この畑の鳴海家よりに馬車小屋、その奥に葡萄畑があった。葡萄畑は3間に2間ほどの広さで ヒバの柱とタルキ2メートルほどの高さの棚が作られていた。…実が熟すころになると侵入して荒らすものを防ぐため、よしずで四方を囲った。黒っぽい紫色 の大粒の葡萄でヤマゲン自慢の一つだった。」とあります。



その22

 作品『思ひ出』には、「私は向かいの畑に葡萄を取りに出かけた。みよに大きい竹籠を持たせてついて来させ た。私は出来るだけ気軽な風でみよにそう言いつけたのだから、誰にも怪しまれなかったのである。葡萄棚は畑の東南の隅にあって、10坪ぐらい大きさに広 がっていた。葡萄の熟すころになると、よしずで四方をきちんと囲った。私たちは片隅の小さいくぐり戸を開けて、囲いの中へ入った。なかは、ほっかりと暖 かった。2,3匹の黄色いあしながばちが、ぶんぶん言って飛んでいた。朝日が、屋根の葡萄の葉と、周りのよしずを透して明るくさしていた。みよの姿もうす みどり色に見えた。(略)…
 みよは、私の渡す1房へ差し伸べて寄越した片手を、ぴくっと引っ込めた。私は葡萄をみよの方へおしつけ、おい、と呼んで舌打ちした。みよは、右手の付け 根を左手できゅっと握っていきんでいた。刺されたべ、と聞くと、ああ、とまぶしそうに眼を細めた。ばか、と私は叱って了まった。みよは黙って、笑ってい た。(略)…
 みよはもう私のものに決まった、と安心した。」と描いています。



その23

 前回紹介した『思ひ出』の中の葡萄狩りの描写を奥野氏は、青春と色彩感、秘めた抒情にあふれ、太宰治の文章で最も美しい場面と称賛しています。
 また、太宰さんがこれほど一人の女性についてときめき、愛情を書いたことはないし、みよは赤い糸に結ばれた初恋の人、宿命的な永遠の恋人であったと解説しています。
 初恋の人と言われる「みよ」のモデル・宮腰トキ(14)が、大正14年ころ、行儀見習を兼ね、長兄夫婦の小間使いとして津島家に住み込んでいます。丸顔で目の大きい清楚な感じのトキは、若き日の入り江たか子に似た素晴らしい美人であったということです。



その24

 初恋の人と言われるみよは、中学最後の冬休みに帰ってみると、いません。後に、みよと叔母と母とが並んで写っている写真が1枚残っています・「…みよ は、動いたらしく輪郭がぼっとしていた。叔母は両手を帯の上に組んでまぶしそうにしていた。私は、似ていると思った」と『思ひ出』の作品を結んでいます。
 遠来の大宰ファンを、ここに案内しますと、「こんな近くに、みよさんとデートした葡萄畑があったんですか…」と、感慨深げに太宰さんをしのんでくれます。



その25

 大正5年4月、太宰さんこと津島修治は、金木村大字金木字菅原19番地にある金木第一尋常小学校に入学しました。その跡は、現金木病院駐車場中央付近です。太宰会フィールドワークの際、中西昭治さんがその場所を確認しています。
 それに先立って、大正3年の学齢前の満5歳ころから、この小学校に通っていたということです。津島家の向かいの金木銀行奥の1室に、小学校訓導で、5つ 上の姉あいの担任であった三上やゑ先生が、母と弟と一緒に間借りして住んでいます。当時やゑ先生は、叔母きゑさんと親しく、終始津島家に遊びに訪れていた ということです。母タ子(たね)、修治、叔母きゑ、先生と4人で写した写真が残っています。やゑ先生の勧めかは定かではありませんが、学校側の特別配慮に よって、タケさんに連れられて、自宅から5,6分のところにあった小学校に通ったということです。



その26

 学齢前ながら教室の一隅に机と椅子が与えられ、年上の児童と席を並べて授業を受けたようです。
 学校の祝祭日の式などがあるときは、井桁絣(いげたかすり)の筒袖の着物に、縞の馬乗り袴をはき、うしろに2本リボンの垂れた水平帽をかぶって参列したということです。
 学齢前の通学は、2年間続いたようですが、入学直前の2ヶ月余を五所川原に分家した叔母きゑの家で過ごしています。



その27

 作品『思ひ出』に「やがて私は故郷の小学校へ入ったが、追憶もそれと共に一変する。(略)同じ頃、叔母とも別れなければならぬ事情が起こった。それまで に叔母の次女は嫁ぎ、三女は死に、長女は歯医者の養子をとっていた。叔母はその長女夫婦と末娘とを連れて、遠くの町へ分家したのである。私もついて行っ た。(略)私は叔母に貰われたのだと思っていたが、学校に入るようになったら、また故郷へ返されたのである。」と、描かれています。
 すでに2年前から通っているのですから、小学校への入学には、さしたる感激も感慨もなかったと思われます。しかし入学当初から、周囲が目を見張るほどの 秀才ぶりを発揮し、とくに作文には独自の才能を示したようです。実際知識の量ばかりでなく、頭脳の明敏さに、教師も本気で感嘆したということです。



その28
 5年生のとき、川口豊三郎先生が担任します。
 川口先生の「太宰備忘」ノートが研究資料として太宰会に提供されています。
 それによりますと、学科は各科とも優秀で1年から卒業まで首席で通したということです。特に作文がうまく、素材も着想も平凡ではなく、職員室で先生方に読んで聞かせたということです。「将来の希望」を書かせたアンケートに「文学」と回答したとあります。



その29

 太宰さんが小学校5年生のとき担任となった川口豊三郎先生の「太宰備忘」には、生活面では、変装用具を使った劇ごっこ遊びや、先生の教科書に玩具でインクのように見える仕掛けをしたり、いたずらも相当あったようです。
 級友の話では、喧嘩もときどきやったということです。学年がもっと下の頃は、よく「かちゃく(ひっかく)」ので、あだ名は「猫」とつけられたようです。
 また、こっけい、おどける事も人一倍であったということです。
 このように遊びにおいても、企画力・演出力に富んだ、お茶目で健康ないたずらっ子であったということがわかります。



その30

 川口先生の「太宰備忘」ノートは、太宰治研究者宛の下書きとして記録されたものです。小学校時代の貴重な資料として、太宰治年譜に位置付けられています。
 このほかのエピソードとして、大橋勇五郎さんが語る「ほし餅」事件が有名です。
 金木郷土史(昭和15)による小学校の沿革は、「明治8年5月創立、八幡宮境内に校舎を新築し、金木小学校と称す。同19年4月、学制改正により金木尋 常小学校と改む。同35年8月、字菅原19番地(旧御蔵屋敷)へ移転新築。同36年6月、金木第一尋常小学校と改称」とあります。また、金木第二尋常小学 校は川倉字七夕野56、金木第三尋常小学校は蒔田字桑元3が所在地です。
 大正11年3月23日、6カ年間の通信簿は常に実力どおりの「全甲」で首席を通し、男子34名、女子22名、計56名の総代で、金木第一尋常小学校を卒業しました。



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