[連載]

    その31〜40


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その31

 金木町太宰散策道に沿って「太宰ゆかりの地」を紙上で案内して参りましたが、「生家と離れ」を残して一巡したことになります。
 「生家と離れ」については、章を改めて記すことにしまして、今回から散策道以外の「太宰ゆかりの地」を紹介してみます。
 作品『津軽』には、「高長根・修錬農場・鹿の子川溜池・鹿の子瀧」が描かれています。
 『津軽』執筆の依頼を受けた太宰さんは、昭和19年5月12日、小山書店の加納正吉氏のすすめで、津軽取材旅行のため三鷹を出発します。
 5月22日頃、金木の生家に着き、その翌々日、姪の陽子さんとお婿さん、アヤと4人で「高長根」に遊びに行きます。その途中で、修錬農場に立ち寄っています。



その32

「修錬農場」(1)

「農場の入口に、大きい石碑が立っていて、それには、昭和10年8月、朝香宮様の御成、同年9月、高松宮様の御成、同年10月、秩父宮様ならびに同妃宮様 の御成、昭和13年8月に秩父宮様ふたたび御成という幾重もの光栄を謹んで記しているのである。金木町の人たちは、この農場をもっともっと誇ってよい。金 木だけではない、これは津軽平野の永遠の誇りであろう。」と『津軽』に描いています。
 この修錬農場は、金木郷土史に「昭和6年青森県立金木種鶏場として発足し、昭和9年農事経営指導所、同年7月には修錬農場と改称。戦後は開拓増産修錬農 場、営農実習場、農業綜合研究所金木実習農場と変わったが、昭和31年4月、弘前大学農学部設立に当たり、県から国に寄付され爾後大学付属農場として今日 に至っている。」と記述されています。



その33

「修錬農場」(2)

 石碑は、公舎西側の一画に建てられています。高さ4メートル90センチ・幅95センチと立派なものです。南正面には「『慈徳仰愈高』内務大臣末次信正謹 書」(徳を慈しみ仰げばいよいよ高し−人徳を大切にすれば尊敬の念がより一層高まるものである)。西側には「昭和13年12月8日金木町建之」、北碑陰に は、弘前高等学校教授彌富破摩雄撰文による建碑趣意が書かれています(農場資料参照)。
 ここで注目されているのは、農場南西方向から見た岩木山眺望の描写です。「津軽富士と呼ばれている1625メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるとこ ろに、ふわりと浮かんでいる感じなのである。したたるほど真っ青で富士山よりもっと女らしく、十二ひとえの裾を、銀杏の葉を逆さに立てたようにぱらりとひ らいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか透き通るくらいに嬋娟(せんけん)たる美女ではあ る。」と描いています。



その34

「高長根」(高流山)

 「高流れという山の名前も、姪の説によると、高長根というのが正しい呼び方で、なだらかに裾の広がっているさまが、さながら長根の感じとか何とかという ことであったが、これにまた諸説があるのであろう。(略)2百メートルにも足りない、小山であるが、見晴らしはなかなかよい。津軽平野全部、隅から隅まで 見渡す事が出来ると言いたいくらいのものであった。(略)岩木川が細い銀線みたいにキラキラ光って見える…」と描いて、頂上から眺めた、田光沼、十三湖を 詳細に記述し、更に日本海、七里長浜、北は権現崎、南は大戸瀬崎まで一望し、「眼前に展開する津軽平野の風景にうっとりしてしまった。」とあります。
 今から50数年前のことですが、今眺めてもその原風景には大きな変わりはありません。その場所は、大東ヶ丘サントピアホームの裏側から少しのところで す。山道付近まで道路は舗装されていますので、このあと少し無理すれば、頂上まで車で登れます。ただ、私有地のためか、ロープが張られ、掘削されていま す。渡部芳紀中央大学教授(三鷹太宰展監修者)を案内したとき、「すばらしいね、すごいね、ここに展望台があれば、もっとすばらしいでしょうね…」と興奮 しながら走り回り、さかんにシャッターをきりまくっていた姿が印象的でした。



その35

「鹿の子川溜池」

 「あくる日は前日の一行に、兄夫婦も加わって、金木の東南方一里半くらいの、鹿の子川溜池というところへ出かけた。」と『津軽』に描いています。これ は、高長根に遊んだ翌日のことです。ここで注目したいのは、長兄文治夫妻が同行したことです。文治さんは来客のためおくれますが、兄嫁はモンペに白足袋 に草履といういでたちで出かけます。
 その途中で、「『この辺が、大水の跡です。』とアヤは、立ちどまって説明した。…その前のとし、私の家の88才の祖母も、とんと経験が無い、と言っているほどの大洪水がこの金木町を襲ったのである。」と描いています。
その前年の大洪水とは、昭和18年7月13日のことです。午後6時頃から降り出した雨は、未曾有の豪雨で、夜11時頃には大洪水となり、金木川に沿ってい る町内の人々はそれぞれの高台に避難したということです。なかでも田町、小川町、栄町、川端町、三軒町一帯はみるみるうちに泥水が床上にあがり、甚だしき は2階まであがるという大出水であったということです。
また、金木営林署貯木馬からヒバの丸太は何千石も流れ、下流の家に突入し、家を破ってまた流れるという、まったく言語に絶する大洪水であったと郷土史に記録されています。



その36

「鹿の子川溜池」(2)

 「今度は鹿の子川に沿ってしばらくのぼり、…ちょっと右へいったところに、周囲半里以上もあるかと思われる大きな溜池が、それこそ一烏鳴いて更に静かな 面持ちで、蒼々満々と水を湛えている。この辺は、荘右衛門澤という深い谷間だったそうであるが、谷間の底の鹿の子川をせきとめて、この大きな溜池を作った のは、昭和16年、つい最近の事である。溜池のほとりの大きい石碑には、兄の名前も掘り込まれていた。」
 現在、溜池のほとりに2基の石碑が建てられています。東側の石碑が当時のものです。正面には、「昭和十二年十二月起工、昭和十六年五月竣工『鹿の子川溜 池』鹿の子川耕地整理組合」。碑陰には、評議員の中に津島文治の名もあり、昭和16年8月建立となっています。また西側石碑の正面には「築堤三十周年補強 工事竣工記念」とあり、碑陰には「…幾度か旱害(かんがい)による危機を免れ得たことを思う時、築堤に想を練られた先輩各位に感謝し顕彰したい…昭和四十 年十月建之」とあります。



その37

「鹿の子川溜池」(3)

ここで太宰さんはビールを飲みながら、ピクニックを満悦しています。そして小学校2,3年の時、高山遠足での失敗談を語り皆を笑わせます。そこへ兄が ピッケルをさげて現れます。そして皆で溜池の奥の方へ歩いていきます。「兄は、背中を丸くして黙って歩いている。兄とこうして、一緒に歩くのも何年振り であろうか。十年ほど前、東京の郊外の或る野道を、兄はやはりこのように背中を丸めて黙って歩いて、それから数歩はなれて…私は…めそめそ泣きながら歩い た事あったけれど、…私は兄から、あの事件についてまだ許されているとは思わない。一生、だめかも知れない。…」十年前のあの事件について、正面きって兄 に許しを乞うことができずにいる太宰さんが、読者にむかってその複雑な心情を物語っています。



その38

「鹿の子瀧」

 「水の落ちる音が、次第に高く聞こえて来た、溜池の端に、鹿の子瀧という、この地方の名所がある。ほどなく、その5丈ばかりの細い瀧が私たちの脚下に見 えた。…右手には屏風を立てたような山、左手は足元から断崖になっていて、その谷底に瀧壺がいかにも深そうな青い色でとぐろを巻いているのである。」と描 きながら、ここでも兄を意識しています。「兄はピッケルを肩にかついで、ツツジの見事に咲き誇っている箇所に来るたんびに、少し歩調をゆるめる。」そ して末尾の文章に、「兄は黙って歩き出した。兄は、いつでも孤独である。」と結んでいます。家長としての兄への心遣いと、畏敬の念が伺われます。
 この「鹿の子川溜池」は、喜良市側から青森に山越えする道路(県道2青森・屏風山内真部線)の途中に見られます。さらに、そこからおよそ5百メートル上流の幽谷に「鹿の子瀧」が、女性のようなやさしい姿を見せてくれます。



その39

『魚服記(ぎょふくき)』の舞台(1)

『魚服記』は、太宰さん25歳の昭和8年3月、「海豹」創刊号に掲載され、大きな反響を呼んだ初期の短編小説です。故郷津軽の自然や伝説が背景になっています。
 その梗概(こうがい)は、「馬禿山の裏側に10丈近くの滝が落ちている。15歳の娘スワは、その滝の傍にある炭小屋に父親と二人で寝起きしている。しん しんと寒い静かな晩、スワが眠っていると、山人(やまふと)の来訪、初雪の舞い込む夢幻的雰囲気 、うとうとしていると突然体に疼痛(とうつう)、次いで 酒くさい息を感じた。スワは降りしきる雪の中を滝に向かって歩き、『おど!』と低く言って投身した。気がつくと小さな鮒に変身していたが、やがて滝壺にむ かっていって、たちまちくるくると木の葉のように吸いこまれた。」と、民話風な語り口で書かれています。
 原稿用紙およそ18枚という短い作品ですが、内容が豊富で、種々の問題を内包し、完成度の高い珠玉の好編と言われています。フィクションであることを承知しながらも、今回はその舞台と地名について詮索してみます。



その40
『魚服記(ぎょふくき)』の舞台(2)

『魚服記』の書き出しは、「本州の北端の山脈は、ぼんじゅ山脈というのである。せいぜい3,4百メートルほどの丘陵が起伏しているのであるから、ふつうの 地図には載っていない。…」とあり、いかにも架空の地名のように思われます。「ぼんじゅ」のやまなみは、津軽山地の南部にあり、梵珠山(468m)馬ノ神 山(549m)などが連なり、北部では金木町東端に位置する大倉岳(677m)がそびえています。ふつうの青森県地図には載っていますが、それを「ぼん じゅ山脈」と平仮名まじりで書くことによって、いかにも現実離れした民話風の雰囲気を思わせるところに、太宰さんの周到な計算が伺われます。



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