[連載]

   その51〜60


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その51

 生家の 正面玄関から入って左側は、旅館時代には下足置き場として使われていました。
 下足置き場の裏側は、八畳ほどの洋風の部屋になっています。
 現在は、鉄格子をはめ込んだ窓枠が入れられ、カウンターが復元されています。
 この洋室をパンフレットには「銀行」と書かれています。今回は、「津島家と銀行」についてまとめてみます。

【金木俯絵図(ふかんえず)】
 大正7年に、太宰さんの父、源右衛門氏が、東京芝愛宕町の東京図鑑社に『金木案内俯瞰絵図』を描かせています。
 「村役場賛助」と書かれた定価10銭のこの絵図には、津島家を中心に据え、その真向かいに「金木銀行」が配置されています。
 この俯瞰絵図によって金木銀行の場所が明確になっています。
 また野呂郁三さんが、「太宰を知る会」に資料として提示した概略図にも、現在の青森銀行金木支店駐車場あたりが「金木銀行」跡であったと実証しています。




その52

「金木銀行」設立

 生家真向かいにあった「金木銀行」はいつ頃設立されたものでしょうか…。
 『青森銀行史』(昭和43年9月)には、「金木銀行」のことが詳細に記録されています。
 また、『ふるさとのあゆみ北津軽』(昭和56年10月)には、金木銀行の古い写真が2枚解説付きで掲載されています。
 これらの資料によりますと、「金木銀行」は、明治30(1897)年7月27日に設立されています。
 この「金木銀行」は、同地方の大地主であり、名望家である北津軽郡金木村津島源右衛門と、その一族にて創立されたと明記されています。
 同31年には中里村古川市三郎及び車力村古川市三郎及び車力村鳴海廉之助らが参加し、資本総額2万円。さらに、同40年8月資本金1万円増加し3万円となり、同42年7月2万円増加し5万円となっています。



その53

「金木銀行」設立A

 「金木銀行」発足当時の組織は「合資会社金木銀行」とし、その後大正8年3月に「株式会社金木銀行」と変更されています。
 初代頭取は創立者である津島源右衛門が、その死亡時の大正12年3月4日まで勤め、津島文治に代わっています。
 昭和8年以降は資本金を50万円増加し、2代目頭取津島文治は解散前年、昭和12年5月に辞任しています。
 この「金木銀行」は明治30年に創業以来、約40数年間に渡って順調な経営を続けてきました。
 しかし、時局の進展につれ、農村地帯の小規模銀行の存在は政策上でも、また経営上でも困難になり、昭和13年8月11日に「第五十九銀行」に買収されます。
 以上の記録でわかることは、津島邸が新築される10年前に「合資会社金木銀行」が津島家の真向かいに設立されていたことです。
 太宰さんが生まれたところの津島家は、県下でも屈指の大地主で、多額納税者であり、併せてこの地方の経済の実権を握る金木銀行の経営者として銀行業務をしていたということです。
 したがって、明治40年に新築された、邸宅内の「銀行跡」説は再考を要すると考えるものです。



その54

「アヤの証言」

 それでは、この洋風の部屋は何に使われていたのでしょうか。『回想の太宰治』(津島美智子著・平成9年)の中に、アヤこと中西信吉さんが、この部屋のことを次のように語っています。
 〈津島家の玄関大戸は開け放しで外が暗くなると閉めて、くぐり戸から出入りします。大戸を入ると左手は「店」で、カウンターまで履物をはいたままふみこ めるようにタタキになっています。小作人が帳場さんと話があるときはここへくるのです。店の向かいは八畳の離れで、旦那が留守になると、あと女子供だけで 不用心だから表で何が起こってもすぐ判るこの部屋にアヤが泊まることになっています。…〉
 この記述の中に、部屋を「店」と言っていることに注目したいのです。最盛期には、300人近い小作人がいたということですから、小作人と帳場さんとの話合いの場が、この店であったということです。
 時の推移によって、利用の仕方や帳場にも変化があり流動的な面もあるでしょうが、中西信吉さんの語りと、その記述には信憑性があります。
 さらに「金木銀行」以前の経緯と背景は、明治3年の「帰農政策」までさかのぼります。「献田」と「家業願済」による「金貸業」の許可鑑札。「対馬商工」として、津島家膨張の基盤を築いた曾祖父惣助の存在を忘れてはならないのです。



その55

「太宰治と生家」
 その1

 津島家の出自について太宰さんは、『苦悩の年鑑』に次のように述べています。
「私の生まれた家には、誇るべき系図も何もない。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違いない。私は、無智の、食うや食わずの貧農の子孫である。私の家が多少とも青森県下に、名を知られ始めたのは、曽祖父惣助の時代からであった。」
 とあるように、太宰の生家は、明治の初めころは、それほど津軽に鳴り響いた旧家でもく、新興地主であったといわれます。大地主として県下に実力を示すよ うになったのは、明治38年に没した太宰さんの曽祖父惣助の代からです。曽祖父惣助は、嘉瀬の山中久五郎の次男として生まれ、安政6年(1859)に数え 年25歳で津島家の婿養子になっています。



その56

「太宰治と生家」
 その2
初代源右衛門

 津島家の家系を記している文書には、『檀家累代記・回答書・津島家歴史』の3種類あります。特に明治29年に記された『津島家歴史』によりますと、先祖の中で初代源右衛門あたりから現実的になり、詳細に記録されています。
 初代源右衛門は幼時から商業を好み、7歳で奉公にでます。19歳の時、中里に婿養子に行きますが離縁…。金木に帰り金木川にかかる大橋のたもとに仲買の ようは商法の質流古着商を始めます。「無智の、食うや食わずの貧農」というよりも、才智にたけ、利にさとい、世の流れを鋭くつかむ「農商」であったという ことです。没年は安永7年(1778)とも、天明3年(1783)とも言われています。



その57

「太宰治と生家」
 その3
『代々の惣助』(1)

 初代源右衛門には先妻との間に3人、後妻との間に4人の子供がいます。
 後妻との間に生まれた2番目男児が初代惣助です。野呂喜右衛門の妹(一女?)を妻に迎え、荒物の店を構え、同時に豆腐家業も始めます。
 豆腐、コンニャクを<夜ノ明ケヌ内ニ、五釜位アケルナリ>というように、それらを仕込んだ肴や荒物と共に木箱に入れて背負い、足を棒にして行商に出ます。
 この頃から金貸しもしながら、少しずつ農地を入手したと思われます。嘉永元年(1848)没、75歳位であったと推測されます。



その58

「太宰治と生家」
 その4
『代々の惣助』(2)

 初代惣助の長男永太郎が、「惣助」と改名し、2代目を42歳のときに継ぎます。
 先代と同じく豆腐、荒物等の行商をし、金貸しをしながら、借金のカタに手に入れた農地をしっかり守り、慶応3年(1867)没と記録されています。
 この2代目惣助には3男2女があったのですが、2、3男は早逝、長男惣四郎が跡を継ぎます。
 だが、その惣四郎も若くして安政4年(1857)に世を去ります。
 惣四郎の忘れ形見が太宰の祖母、長女いしです。



その59

「太宰治と生家」
 その5
『曽祖父惣助』(1)

 弘化2年(1845)に2代目惣助の先妻が病死。惣助は、鯵ヶ沢から館山長太郎の娘かねを後妻に迎え、安政元年に惣五郎という長男が誕生。だが、頼りに していた長男の惣四郎が死亡、惣五郎はまだ幼い。そこで金木の大橋家に嫁いだが、女児を出産したところで、夫と死別していた2代目惣助の長女きさが、子ど もと共に津島家にもどって来て婿養子を迎えます。それが山中勇之助、のちの3代目惣助、太宰さんの曽祖父です。
 そのころ、養父惣助数え53歳、後妻かね43歳、その子惣五郎6歳、妻きさ28歳、妻の連れ子よそ8歳。それに惣四郎の遺児いし3歳。若い婿養子の肩に は大変な重みであったと思うのです。25歳の勇之助はひたすら働き続けます。婿養子を迎えて8年たった慶応3年(1867)6月7日、2代目惣助が他界。 勇之助が家督を相続し、3代目惣助を襲名します。数え33歳、明治維新の前の年のことでした。



その60

「太宰治と生家」
 その6
『曽祖父惣助』(2)

 曽祖父3代目惣助は、先代と違って油と荒物の行商を始めます。大きな引き出しがついた木の箱を背負って、食糧の菜種油や、白絞油、びんつけ油、灯油(菜 種油)等の生活必需品の他、櫛、かんざし、足袋のコハゼ等を入れ、さらに呉服(古着)も加えて行商、勿論金貸しもするなど、〈日夜刻苦勉励シテ各種ノ商 業ヲ営ミ、日々繁盛ノ域ニ達シ、〉とあり、明治維新後は村で2番目の資産家、小地主にのし上がっていきます。



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