[連載] | |
61話〜70話( 如 翁 ) |
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◆その61
「エコノミスト症候群」
唐突じゃが、最近経済学者を少々重用しすぎではないか。 経済運営に留まらず、年金問題であれ、道路の民営化の話であれ、経済学者が登場しない場面はない。 彼らは、テレビ、新聞等各メディアで、あーだ、こーだと主張しては、自説の妥当性と正当性を訴える。 修辞の技法としては、数字をふんだんに散りばめて話すものだから、一見、科学的な雰囲気を醸し出しているが、果たして、彼らの主張は信頼に足るものなのか。 経済学が現実の経済の実体を分析し、正しい処方箋を提示することを責務とした学問であれば、そこには当然結果に対する責任が求められるはずだ。 だが、経済学者が見通しを誤ったために責任をとったという事例を翁は寡聞にして知らぬ。 そもそも予測がはずれた理由を〈経済学的〉に説明することも、また経済学者の得意とするところであり、彼らにとっては朝飯前のことなのだろう。 あとは若干の健忘症と顔の皮膚の厚さがあればよいのじゃ。 そんな経済学者の御神託を有り難がる。 まさに日本は〈エコノミスト症候群〉に陥っているとしか言い様がない。 どこかにこの〈病気〉を治してくれる〈名医〉はおらんものか。 ◆その62 「新しい敬語〈系語〉」
言語というものは絶えず変化しているものらしい。 それを進化と呼ぶか、退化と呼ぶかは意見が分かれるところであろうが、最近気になるのは「系」と「的」という言葉である。 前者は10年ほど前からだと記憶しているが、それまでは「理科系」とか「文化系」くらいしかなかった使い方が、例えば「宅地系」だの「歴史系」だのとやたらと用例を増やし始めた。 今も「癒し系」といった言い方で定着している。 一方、後者はここ3〜4年ですっかり「若者系」の市民権を得たように思う。 特に「自分的にはいいと思う」とか「彼女的にはすごい」といったように主語にくっつくのがその特質だろう。 聞いていると何か奥歯に物が挟まったような印象を抱いてしまうが、そこがこの用法のミソなのかも知れぬ。 もし断定しないことが若者世界におけるつき合い方のルールならば、こうした使い方はある種、丁寧語を含めた敬語としての機能を担っているのかも知れない。 まあ、元来「的」の使い方の出発点は、英語の「〜tic」の音訳字にあったことを思えば、増殖もここに極まったと諦観すべきか。 「老人系」の「翁的」には何もいうことはないわい。 ◆その63 「酒池肉林(しゅちにくりん)」
中国古代の暴君として名高い殷の紂王は、その権力にものを言わせて、「酒を以て池となし、肉を懸けて林となし」、そして裸の男女に鬼ごっこをさせ、自らは妲己という愛人とともにその情景を見ながら長夜の宴を張ったという。 これが「酒池肉林」の謂われだが、殷王朝に限らず、財宝であれ、食糧であれ、美女であれ、とにかく集められるだけの<資源>を集めて一気に散財するのが歴代王朝の行動パターンだったようだ。 あの広大な中国大陸の絶対権力者になると、終いには享楽を極めること以外に目標がなくなるのであろうか。 「さすがは4千年の歴史」などと変に感心してしまわぬでもないが、それにしても、「酒の池に肉の林」とはどんな情景なのか。 心乱れぬことはない、と言えば嘘になるが、あくまで清く正しく健康志向の翁にとっては、道徳心の呵責、γ−GTPやコレステロール値、それに血圧上昇や動悸息切れが懸念され、とても「持続可能」な宴とは思えぬわい。 とは言うものの、一晩だけなら<臨席>してみることも吝かではない。 いや、あくまで「恐いもの見たさ」という自然な動機からであり、そこのところ誤解なきよう。 ◆その64 「越後守」 「ふふ。越後屋。お前も悪よの〜」と船宿かどこかで悪代官と悪徳商人が奸計(かんけい)をめぐらせる。 というのは時代劇の定番とも言えるシーンじゃが、何故いつも越後屋(えちごや)なのか。 播磨屋(はりまや)とか近江屋(おうみや)ではいけないのか。 かねてより不思議に思っておったのだが、翁なりに解釈してみれば、「えちごや」という語呂がよいのと、やはり「三越」の知名度が影響しているのではないかの。 そもそも三越というのは、伊勢松坂出身の三井高利が17世紀後半に江戸に開いた呉服店だが、その屋号の由来は高利の祖父高安が六角氏に仕える武士であった時に越後守を名乗っていたため、それにちなんで三井越後屋、すなわち三越と名付けたことによるらしい。 三越はその後も栄えて、デパートの元祖となり、現在も東京の地で商売をしているのはご存じであろう。 ということで、数ある地名に基づく屋号の中から「越後屋」がドラマに引用されるのではないか。 ただし誤解なきよう言っておくが、越後屋という屋号を名乗る店舗は無数にあり、三越がドラマに登場する悪徳商人というわけではないぞ。 まあ、だいぶ前にそれらしい経営者がいたこともあったような気もするがの。 ◆その65 「袋とじ」 昔々のことになるが、親が購読していた主婦向けの雑誌を隠し読むのが、密かな楽しみであった。 特に、袋とじされた部分は、子ども心にもなにやら<機密文書>を盗み見るような気がして、そのスリルにワクワクドキドキしたもんじゃ。 今思えば、当時はそこに何が書かれていたのか、よく分かっていなかったに相違ないのだが、怪しい<解説図解>などが好奇心を掻き立てたのだろう。 翁の<知的探検>の始まり、と位置づけてよい。 さて、その袋とじが数年前から週刊誌に登場するようになった。 いわゆる「裸もの」であるが、購買意欲をそそるための戦術、と同時に立ち読み層の取り込み策か。 このわしも、けして出版社の作戦に載せられたわけではないが、ついつい買ってしまうのは、まだまだ修行が足りないということじゃろう。 毎度の事ながらふたを開けてみれば大した中味ではなく、一杯食わされたと反省するのが落ちなのだが、ミシン目にハサミを添え、静かに切り開いていくと き、幼年時代の密かなるときめきを思い出す、そのための代金と考えれば、300円くらいは安いものだ、と思い自分を納得させているのである。 ◆その66
「義務教育の本旨」
大した財産があるわけではないが、毎年雪解けの頃になると確定申告の書類づくりに呻吟する毎日が続く。 税務当局から送られてくる手引き書とにらめっこしながら、電卓を叩くのは老体には辛い作業である。 Aの金額がいくらいくらの場合、次ぎの表で計算します、とケース毎に計算式が異なったり、この欄の数字はJマイナスNです、などと突合が指示されたり、頭の中で火花が散ってしまう。 だが、よく考えてみれば、国民総出でこうした手引き書を読んで、必要事項を計算し所要額をはじき出しているというのは、国民の読解力の正確さと計算能力の高さをまざまざと示すものではなかろうか。 まさに日本の教育、なかんずく義務教育の大いなる勝利だ。 確かに、場合分けして計算させたり、その結果を確定申告書の一覧表に転記させたり、というのは、数学の問題を計算して解答用紙に書き込むという行為とそっくりではないか。 さすが国家というのは、気宇壮大なビジョンに立脚してその政策を展開するもんだ、と感心してしまう。 一方、哀れなのは我々庶民。 義務教育を受ける権利と納税の義務が共犯関係にあった、と思うのは皮相な見方じゃろか。 ◆その67 「巧妻に拙夫」 世の中ままならぬことが多いことを「巧妻は常に拙夫を伴いて眠る」と、男女関係になぞらえた中国の表現がある。 つまり、才色兼備のよい女は、できの悪い男と寝ているものだ、というやっかみ半分の言葉なのだが、翁にはこの機微がよ〜くわかる。 なにせ我が半生、女性との巡り会いにおいては、連戦連敗の日々であったからの。 しかも不思議なことに、惹かれるタイプの女性ほどこちらには目もくれず、「拙夫」を選んでおったのだから、同感の意を強く持つのも当然だ。 こうした構図には肯かれる男性諸君も多いかも知れない。 だが、その心情については深く心に秘めておいた方がよいぞ。 というのは、我が身の不幸を嘆き、「巧妻に拙夫」を納得することは、「巧夫」が「拙婦」に甘んじている、ということを暗黙の内に認めることにもなりかねず、<災害>を未然に防ぐためにも気をつけた方がよかろう。 もう一点、留意しなければならないのは、この翁も含め、みなさんの場合も端から見ればやはり「巧妻は常に拙夫を伴いて眠る」という表現がぴったりだ、と思われている可能性もなきにはあらず、ということじゃ。 世の中ままならぬからのお。 ◆その68 「職の変遷」 世の中いろいろな職業がある。 最も古くからある職業は「プロスティチュート」などと言われてもおるが、それはさておき、職業も生物の進化の如くいろいろ枝分かれしたり、<突然変異>が生まれたり、と複雑化、多様化してきたらしい。 そんな中、まさに人の命を扱うだけに医学に係る職業というのも人間くさい歴史を有しているようだ。 古代においては医学は呪術と渾然一体だったらしいし、宗教と不可分な時代も長く続いたようだ。 とりわけ外科においては、その起源が「毛づくろい」にあり、怪我の治療は、化粧や、整髪などと同じ分野として扱われる時代が長く続いたという。 現在街のあちこちで見かける床屋のねじりん棒は、その名残で、赤は動脈、青は静脈、白は包帯のシンボルということだ。 外科という科目が医学に位置づけられたのは19世紀初頭とのこと。 もしかするとねじりん棒は外科医院の前でくるくると目眩を起こすように回っていたかもしれない。 それにしても、現在の医学界も政医やら、算術医やら、迷医やら、多種多様な棲息模様だ。 なかにはシャーマンのような医者もおるが、そんなのは先祖帰りとでも言えばよいのかの。 ◆その69 「是々非々」 「板垣死すとも自由は死なず」とは暴漢に襲われた板垣退助が発した言葉として有名だが、政治家にとって言葉というのは、まさに自らの存在を主張する最大の武器と言えよう。 また同時に大事な商売道具でもある。 政策への同意を求めるのも、政敵を攻撃するのも、危機を乗り越えるのも、最後は「言葉だ」という気がする。 そんな政治の言葉の中には「古典」と評してもよいような表現も多い。 例えば、「淡々と」「粛々と」「愚直に」「多とする」「汗をかく」「いかがなものか」といった言葉はよく耳にする。 が、最もよく登場するのは「是は是。非は非」という相手と一定の距離を置きたいときに用いられる表現ではないか。 背景として、そうした緊張感のある政治局面が多いということにも起因しているのかも知れないが、いずれ、頻用される言葉にはそれなりの「効用」が認められるからこそ、歴史を越えて生き延びてきたのであろう。 言葉というのは思考そのものだから、本来であれば、リーダーたる政治家の言葉ももっと千差万別、多種多様でよいと思うのだが、まあ、「ファイアー」と叫んでいるだけよりは、「是」とするべきかのお。 ◆その70 「過去だらけの未来」 最近の情報関連技術の進歩の早さには驚く他はない。 この翁など、とてもそのテンポについていけるものではない。 CD、MD、DVD、にパソコン、デジタルカメラ、等々世はまさにIT群雄割拠時代。 それらの機材を使いこなせれば大層便利と思う。 そうは思うが、別の観点から考えると、ちと不安に感じることもある。 こうした機材は大量の情報蓄積が可能なのだが、そうした情報というのは要するに「過去」と言ってもよいのではないか。 一世代前までは、「過去」を残すと言ってもせいぜいカメラにテープレコーダーの世界であった。 人は時折写真を見たり、テープを聴いて昔を偲んだ。 ところが今や残そうと思えば、映像であれ音声であれ膨大な分量を保存できる。 理論的には人の一生も記録できるだろう。 こうした状況では淘汰される「時間」はなくなり、過去は肥大するばかりではないか。 それを振り返るだけで精一杯ということにはなるまいか。 その一方で「未来」は痩せ細るだけのように感じるのは老境の身の僻事であろうか。 「過去だらけの未来」というのもあまり想像したくはない世界ではある。 歴史学者にとっては天国かも知れないがの。 老婆心ながらTOP |
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