[連載]

 121話〜130話( 佳木 裕珠 )


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◆その121
出会いそして別れ(22)


 吹雪は猛烈だった。
男の昌郎達も強い風に背中を押され足を踏ん張って歩かないと、飛ばされるような状態だった。
 彼等は円陣を組むように体を寄せ合いながら一塊りになって歩を進めた。
由希は少し躊躇(ちゅうちょ)しながら防寒コートの裾を掴(つか)んでもいいかと後ろから昌郎に声を掛けた。
 そうしなければ足下が不安定で転びそうになるのだ。
昌郎は振り向き由希の目を見て大きく頷いた。
横殴りに無数の氷のように硬くて冷たい雪礫が、彼等の顔を容赦なく叩き付ける。
電線が強風に翻弄されて、ヒューヒューという断末魔のような音を立てている。
此の世の果てでもこのような吹雪はないだろうと思うほどの吹雪だった。
 逆巻く雪はベールとなって街の景色を全て白く塗り潰し、すぐ目の前、自分の鼻の先すらも見えなくなるほどだった。
こうなれば、もう感を頼りに道を進んで行くより仕様がない。
こんな吹雪の中では、歩道を歩いているつもりが、気が付くと車道を歩いていて自動車に撥ねられるという事故も起こりうる。
 先頭を歩く昌郎の責任は重大だった。
彼は全神経を前方に集中させたが、由希が掴んでいるコートの裾も気になった。
実際に由希の手が彼の腰に触れているわけではないが、彼を信じ切って付いてくる彼女の手の温もりが、伝わってくるように昌郎には感じられた。
やっとどうにか見える信号機の赤で止まると、由希は心持ち昌郎との間隔を広げた。
 しかし、それは彼女が自分を嫌っているためではなく、女性としての節度と気遣いであることを昌郎は悟った。
コートを掴む手の力は変わらない。
 彼に示す彼女の信頼が、後ろに引っ張られる力で、ひしひしと昌郎に伝わってくるのだった。
 由希に頼られている。その思いが昌郎を奮い立たせた。
山村は何時しか「わっせ、わっせ」と言う掛け声を掛けながら歩いていた。
昌郎達もその掛け声に合わせた。
由希も一緒に声を出した。
彼等は一塊りになって真っ白な吹雪の道を歩いた。



◆その122
卒業 1


 昌郎達が計画した生徒会役員の送別会が暴風雪によって中止になった次の日から、風は止んだものの雪が深々と降り続いた。
 青森市内のいたる所に雪が堆く積まれ、小路は勿論のこと国道などの幅広い道路にも雪が溢れ、交通の妨げとなり市民生活を脅かした。
 生徒達は登下校にも難儀したが、学校は休校にはならなかった。
 休校になって当然という吹雪や大雪でも、ここ青森市で学校は休校になることの方が希である。
 しかし、長く厳しい雪国の冬も、その勢力を弱め此処青森にも春は必ず巡り来る。
 二月下旬、やっと降雪も峠を越えた頃、学校は卒業式の準備に慌ただしい雰囲気に包まれていた。
 昌郎達応援団員と生徒会役員達は、体育館脇の物置小屋に入った。
 そこには大きな津軽凧が保管されている。
 この大凧は、卒業式の日に揚げられる。
 新たなる門出を祝い、卒業式を終え卒業生達が下校する時に、応援団員達が校庭で揚げるのだ。
 それが昌郎達の学校の長年の習わしとなっていた。
 しかしここ数年は応援団員がいなかったので、この大凧は揚げられることがなかった。
 先生方は勿論、同窓会の人達も卒業式当日の大凧揚げが行われていないことを残念に思っていた。
 しかし、今年は応援団員がいる。
 卒業式の日にあの大凧を揚げてくれるに違いない。
 昌郎達応援団に寄せられる期待には大きいものがあった。
 だが、昌郎達四人は凧揚げの経験が全くなかった。
 ましてや大凧となれば、ぶっつけ本番でやって上手く行くはずはない。
 彼等は卒業式の凧揚げを成功させるべく、事前に練習をする事にした。
 しかし、二月中旬まで荒天が続き、練習することができなかった。
 三月一日の卒業式まであと五日と迫った日、今までの吹雪が嘘のように抜けるような青空が広がった。
 昌郎達は、放課後、早速大凧揚げに挑戦した。
 生徒会顧問の辻が町内会長を通して凧の会の方々に練習の指導を頼んでいた。
 寒い校庭で、タオルで頬被りした気の良いおじさん二人が、昌郎達の授業が終わるのを待ちながら、既に運び出されていた大凧の状態を確認していた。
 辻が昌郎達を凧の会の二人に引き合わせた。
 昌郎達は、四人整列して自己紹介をし深く礼をした。
 おじさん達は、「おうおう」と言いながら彼等の様子を見た。
 「さすが、応援団だけのことはあるじゃ」
 「今でも、こったらだ立派な高校生がいるんだな」と目を細めた。
 「わ、葛西だ」
 「わは、高橋だ」
 おじさん達が意気揚々と名乗った。
 「お願いします」
 昌郎達は四人声を揃えて再度深く頭を下げた。
 「おお、早ぐやるべ」
 大凧上げの手ほどきが早速始まった。
 辻も寒い中、付き合うらしい。
 鼻の先を赤くしながら彼等の側にいた。
 「下の方に風がなくても、上の方には結構風が流れているもんだ。まず、こう指を嘗めて」
 そう言いながら葛西さんと高橋さんが人差し指を口に含み、その指を頭の上に高くかざしながら、「まず、おめだち(君達)もやってみれ」と言った。
 昌郎達も彼等に倣った。
 辻も真面目な顔で指を口に含んで高くかざした。
 「どんだ。唾で濡らした指のどっちが冷てえ?」
 葛西さんが聞いた。
 「爪の方です」
 克也が即座に答えた。
 「そうだな。その方向が風が吹いてくる方向だ。煙突からの煙や旗のなびく様子を確かめてみてもいいが、そんなのがない時は、こうやって風の向きをまず確かめる」
 昌郎達は、もう一度指を口に含んでから、頭上にかざした。
 なるほど、風の吹いてくる方向が確かめられる。
 彼等の知らなかった生活の知恵に大きく頷いた。



◆その123
卒業 2


 学校で保管していた凧は、縦が170センチメートル、横110センチメートルほどの大きさのものである。

「これは、西の内十二枚判の大きさだな」
葛西さんが言うと、頷きながら高橋さんが呟いた。
「うんだ。誰の絵だべ」
葛西さんがそれに答えるように言った。
「多分、高杉のものでねべか」
「高杉?」
「高杉は、弘前出身で中野敬造の弟子だ」
「そうか、中野敬造の描き方に似ている」
葛西さんが高橋さんよりも年齢も凧(たこ)に関する含蓄も上らしい。
丁度落款(らっかん)の部分が破けて少し張り替えられていた。
骨組みにも作者の名前が書かれていなかった。
絵柄には、右上とその対角線にある左下にそれぞれ一人ずつ人物が大きく描かれ、戦っているように見えた。
葛西さんが、この絵柄について説明してくれた。
「これは、牛若丸と弁慶だな」
凧とほぼ同じ背丈の克也が凧の絵を見ながら質問した。
「牛若丸って、あの源義経ですか」
「うんだ。よぐ知っているな」
「はい、父が三厩の出身でそこに義経寺(ぎけいじ)というお寺があるので、知っています」
「そうか、上の方に書かれた丸い髷(まげ)付けた若武者が牛若丸だ。そして下の武者が弁慶。
この二人が京の五条の橋の上でばったりと出会い戦う場面だ」
 葛西さんの話を引き継ぐように、高橋さんが義経と弁慶の戦いの経緯やその後の主従関係そして、平泉での彼等の非業の死について昌郎達に話して聞かせてくれた。
そのような義経と弁慶の物語を知って見ると、凧絵が生き生きと目に映った。
葛西さんが凧の構造について教えてくれた。
 その後で葛西さんと高橋さんが昌郎達四人を見くらべて、背の高い山村と真治を凧を持ち上げて支える方に、昌郎と克也を凧糸を手繰る方に分けた。
「山村君と克也君は、それぞれ凧の両端を持って上に高く掲げる役だ。昌郎君と真治君ははじめに凧糸を持つ方だ。
凧が旨く揚がったら、四人が交代で糸を持ち手繰る」
「はい」
彼等は声を揃えた。
「風がなければ、凧は上がらね。しかし、風があまり強すぎてもダメだな。
この凧だら、木の小枝や葉っぱがさわさわと動くぐらいが丁度いいと思う。まあ、もう少し強い風でも大丈夫だべ。
ただ、細い木の幹が動くようだったら上げね方がいいべ。凧が壊れてしまう」
そう言いながらグラウンドの回りの木の枝を眺めた。
昌郎達も、葛西さんに倣った。
冬枯れの小枝が微かに揺れていた。
「まあ、少し弱い風だが、上がらねことはねべ」
高橋さんが言った。葛西さんが頷く。
山村と真治は凧を持って風下に立つように、そして昌郎と克也は糸を持って風上に立つように指示された。
 しかし、大凧はそうそう簡単には空に舞い上がってくれなかった。
三度目の挑戦の時、凧を持っている山村と真治に葛西さんが大きな声で言った。
「空に凧を放り上げるようにしろ」
山村達が自分も飛び跳ねるようにして凧を空に向かって放り上げた。
それを機に、高橋さんが昌郎と克也に大声で言った。
「走ろ、走るんだ」
昌郎と克也は、雪に足を取られながらも疾走した。
ふわりと凧が空に揚がる感触が腕と手に伝わってきた。
糸がぐんぐんと引っ張られながら伸びてゆく。
 昌郎と克也は、立ち止まり振り返るようにして上空を見上げた。
自分達が紐を持っている凧が、悠々と冬の空に舞い上がっていた。
風に乗って、牛若丸と弁慶が上空で見得を切るように泳いでいた。
村山や克也も口をあんぐりと開けながらそんな凧の雄姿を見上げていた。
長い尾がうねるように左右に揺れ、ブンブンが、その名の通り、ぶんぶんと威勢のいい音を立てていた。



◆その124
卒業 3


 卒業式当日は、朝から曇り空だったが雪にはならなかった。
風は上空で高い木々の小枝が静かに揺れる程度に吹いていた。
大凧(おおだこ)を揚げるにはふさわしい風のようだと昌郎達は思った。
卒業式が終わり卒業生達がこの学舎を去る時まで、このような風の様子でいて欲しい。
彼等四人は心の中で強くそう願った。
卒業式は予定どおり午前十時から始まった。
 昌郎達は、十時半に式途中で退場し凧揚げの準備を開始する予定である。
そのために体育館後の上部に設けられたギャラリーの隅で式に参加した。
特別来賓を式場である体育館に案内し校長が自席に着いた。
いよいよ卒業生の入場である。
タイースの瞑想曲が静かに流れる中、厳粛な面持ちで制服の胸に小さな花を付け卒業生達が入場して来た。
昌郎は、卒業生達に目を凝らした。
彼がいるギャラリーからは、式場に入ってくる卒業生の背中しか見えない。
昌郎は必死になってその背の中から由希の姿を探した。
彼女の姿は入場する卒業生達の中程にあった。
顔は見えなかったが、後ろ姿でも由希だとハッキリとわかった。
彼女はいつものように凛とした姿勢で入場してきた。
昌郎の胸が何故か高鳴った。
その鼓動が山村達に聞こえないかと心配し彼の頬は自然と紅潮した。
 しかし、山村達も息を凝らして卒業生の入場に見入っていて、そんな昌郎の様子に気付くことはなかった。
卒業生は体育館の中央に作られた通路を通って、その両側に並んでいる椅子席に左右に分かれて入って行き、自分の席に座るのである。
由希は答辞を読む都合上、出入りし易い通路に面した席に着いた。
昌郎には彼女だけが特別に明るく輝いて見えた。
彼女の所だけにスポットライトが当たっているようだった。
全ての卒業生が着席したのを確認してから、教頭がおもむろに司会のマイク前に立ち開式を宣言し、いよいよ卒業式が始まった。
「国歌を斉唱いたします。全員ご起立下さい」
重々しく歌われた国歌斉唱が終わり、卒業証書の授与となった。
一人ひとりの名前が呼ばれ、返事と共に卒業生は立ち上がる。
呼名は横並びで行われていったが、由希だけは、座席の順序に沿うことなく少し離れた席で立ち上がった。
 長い時間を掛けて卒業生全員の名前が読み上げられると、一組の名簿一番の男子生徒が代表で壇上に上がり、校長から卒業証書を授与された。
引き続き校長の式辞となり、来賓二人の祝辞がそれに続いた。
式は予定どおり進み、祝辞が終わるのを見計らって辻が昌郎達に目で合図をおくった。
「行くぞ」
彼等は無言で頷き静かに体育館を後にした。
卒業式の終盤で由希が答辞を読む。
昌郎は、由希の答辞を聞きたかったが、それは叶わなかった。
仕方がないと昌郎は思った。
自分には、卒業生の門出を祝って大凧を揚げる役目がある。
それは、由希への大きな餞ともなるはずである。
彼の体は、大凧揚げに奮い立った。
風は大凧には頃合いであった。
 まだ雪の残る校庭で、凧の会の葛西と高橋が昌郎達を既に待っていた。
「この大凧には丁度いい風だな」
葛西さんが昌郎達に言った。
「さあ、気合いを入れて、凧を揚げるべ」
高橋さんが昌郎達四人を鼓舞した。
よしやるぞ、彼等は声を掛け合った。
式は着々と進んでいる。
後二十分もすれば卒業式が終わり、そして程なく卒業生達が学舎を後にして生徒昇降口から一斉に出てくるだろう。
その時、自分達が揚げた大凧が、北国の空高く舞っていると思うと、昌郎達の気持ちは自然に高ぶっていった。
大凧が無事に大空に上がりますように。
昌郎達は祈った。



◆その125
卒業 4

 卒業式は順調に進んでいた。
お定まりの内容で美辞麗句を駆使した、少し饒舌に過ぎる二人の来賓祝辞が終わった。
極度の緊張感で早口に読み上げられた新生徒会長の送辞は、出席者をはらはらさせながらも、つつがなく済んだ。
いよいよ答辞の番である。
司会者が「卒業生代表答辞」と告げた。
由希は落ち着いた声で返事をして立ち上がり、ゆっくりと壇上に向かった。
体育館にいる全ての視線が彼女に注がれた。
登壇する前に、彼女はまず特別来賓席に一礼し次に校長に一礼した。
そして壇上に上がり演台の前に立った時である。
体育館のスピーカーからプチンという短く鋭い音が流れた。
水を打ったようにしんと静まりかえった式場でその音は異様に高く響いたが、その他には何の変化もなかった。
由希が答辞の一声を発した。
驚くことに、彼女は認めた物を持たずに答辞を始めたのである。
 しかし、もう一つびっくりすることが起こっていた。
彼女の声をマイクが拾わないのである。
一瞬、式場に小さなざわめきが起こった。
先程、スピーカーから出たあの音は、アンプが故障した時の音らしい。
司会者が慌てて自分が使っていたマイクを叩いた。
しかし、その音すらマイクは拾わなかった。
体育館にある音響装置が基幹から故障したことを皆が悟った。
式場にざわめきの波紋が広がっていった。
そして壇上にいる由希に衆目が集まった。
彼女は、自分の声をマイクが拾わなかったことを知った。
 そして教師達が右往左往する様子を見て、アクシデントは壇上のマイクだけではないと悟った。
一体彼女はどうするのだろう。
体育館にいる卒業生は勿論のこと保護者や来賓達は心配と好奇の入り交じった視線で、壇上の由希に注目した。
由希は演台の前で微動だにしない。
彼女が直立して動かないのは、進退窮まったからだろうと同情の目が注がれ、ざわめきが一段と大きくなった時である。
由希は、マイクを横に除けると明快な声で、答辞を始めたのである。
その彼女の一声が、式場のざわめきを一瞬にして消した。
彼女は高らかに声をあげた。
どうやらマイクなしで、そして原稿も持たずに答辞をするらしい。
参加者一同が口を塞ぎ、驚異を持って彼女を見つめた。
静まった式場全体に由希の声が朗々と響き出した。
彼女は決して大声で叫んではいない。
 しかし、由希の声は体育館の隅々まで届いていた。
大きな声でないからこそ、みんなが聞こうとして耳を峙てたのかも知れない。
このような場面になってすらマイクなしで、しかも原稿も持たずに答辞を続ける彼女の言葉に心動かされて、聞き入ったのである。
由希は明確な言舌で、適所で言葉をしっかりと句切りながら答辞を続けた。
答辞は決して長いものではなかった。
しかし、由希の答辞は彼女自身の言葉で語られていた。
若々しい将来への夢、そして先生方や保護者また仲間達や在校生に対する感謝の念に満ちた溢れた瑞々しい内容であった。
それは教師の手の入ったことが明白な行事の羅列でまとめられたような答辞とは一線を画していた。
そしてなによりも大きなアクシデントに直面しながらも落ち着いて対応し、マイクを使わずに生の声で、しかも原稿を持たずに成し遂げた答辞は、聞く人達の胸に大きな感動を呼び起こした。
答辞は静寂の中に溶け込むようにして終わった。
数秒の後、会場から思わず拍手が湧き起こった。
その拍手は徐々に音を増し体育館一杯に広がり隣接するグラウンドまで届いた。



◆その126
卒業 5


 体育館から湧き上がった盛大な拍手の音がグラウンドまで届いた。
一体何が起こったのだろうか?
昌郎達は顔を見合わせた。
しかし、そのことよりも時間が気になった。
昌郎が腕時計を見た。
十一時少し前である。
いよいよ、凧(たこ)を揚げる時が迫っていた。
 割れるような拍手の中、由希は壇上から降りた。
彼女が自席について着席するまでその拍手は続いた。
答辞の間に、急遽ポータブルの拡声器が体育館に運び込まれていた。
由希への賛辞の拍手がようやく鳴り止み、司会者はその拡声器を使って式を進行した。
「校歌斉唱 教職員、生徒起立」
卒業生と在校生そして教師達が立ちあがり、ピアノ伴奏に合わせて校歌が歌われた。
応援活動でさんざん歌った校歌である。
生徒と教職員が一つになって体育館の中に囂々と響き渡るように校歌が歌われた。
生徒達も教職員も泣きながら。
その力強い校歌に来賓や保護者達は再び感動した。
 今時の高等学校の卒業式で、このように教師と生徒が一緒になって力強く、そして愛校心に満ちた校歌を歌う所は少なくなっている。
一昔前の高等学校の卒業式を彷彿とさせるものがあった。
 卒業生が退場する時に流す予定だったCDの代わりに、音楽教師がショパンの「別れの曲」をピアノで演奏した。
生のピアノ演奏は心籠もった温かみがあり、期せずしてそれがまた感銘を深かくした。
放送設備の故障にも関わらず、先生達の機転と的確な行動、そして何よりも由希の落ち着いた対応で、卒業式は感動的なものとなった。
そして、予定通り十一時にはつつがなく終わったのである。
突然のハプニングを乗り越え、例年とはまた違った心に残る素晴らしい卒業式となった。
その一番の貢献者は、由希であると誰しも認めるところだった。
「彼女が答辞で良かった」
校長をはじめとする教職員は勿論のこと、式場にいた来賓や保護者の誰しもがそう思ったに違いない。
そして在校生達は、眩しい光に包まれた者を見るような眼差しで由希を見るのだった。
 大凧を揚げるためグラウンドにいた昌郎達や辻は、卒業式後半のハプニングと由希への賞賛を知らなかった。
彼等は大凧を揚げて卒業生を送り出す使命を成し遂げることに緊張していた。
朝から曇っていた空は、そのまま晴れることはなかったが雨は降らず、大凧揚げに都合の良い風が上空に吹き渡っていた。
十一時十分、昌郎達は凧の会の葛西や高橋に協力してもらい大凧揚げに挑んだ。
 グラウンド用の鉄製の演台に上がり、山村と真治が大凧を更に高く掲げた。
昌郎が紐を持ち克也が補助した。
葛西と高橋が同時に声を発した。
「凧を抛り上げろ。そら、走れ」
山村と真治は天に大凧を抛った。
それと同時に昌郎と克也が全力で走り出した。
大凧はぐうんと抵抗して、昌郎の腕に大きな負荷をかけた。
しかし、それは凧が大空に舞い上がる合図でもある。
昌郎は風の抵抗をまともに受けた大凧に引きつけられながらも克也に支えられながら難渋して走った。
 少しすると凧が空高く上がって行く感触が昌郎の腕に体に伝わってきた。
走る速度を落として昌郎と真治は止まった。
そして凧が上がっている方に体の向きを変えた。
見上げた曇り空に凧は誇らしげに舞い上って昌郎達を引っ張っていた。
昌郎と克也は全身の力を振り絞って凧糸を引っ張っり操った。
大凧は天上にあった。
牛若丸と弁慶はブンブンと唸りながら、我が所を得たりと気持ちよさそうに大空を舞っていた。



◆その127
卒業 6


 大凧(おおだこ)が空高く舞い上がってから間もなくして、卒業生や保護者達が玄関から出てきた。
曇天にもめげず、威勢のいい音をならしながら空高く上がった大凧を見上げ、卒業生や保護者達はおおと思わず驚嘆の声を発した。
そして、大凧のブンブンという威勢の良い音に背を押されるように、今となっては既に懐かしく思える学舎に、青春の貴重な思い出を残して、次々と母校を後にして行くのだった。
浪が退くように卒業生達が帰って行った。
昌郎達は大凧を無事に上げることが出来た満足感に少しの間、放心したように手元に下りた大凧を見詰めた。
 そして大役を果たした格別の思いを胸に抱き、来年も又卒業式の日にやるぞと心に決めながら大凧を倉庫にしまうのだった。
葛西と高橋は帰える時、昌郎達を「良くやったぞ」と満面に笑みを浮かべながら誉めてくれた。
そして辻は、心から彼等の労をねぎらった。
凧揚げに専念しなければならなかった昌郎は、卒業式を終えて帰って行く由希を見送ることが出来なかった。
それが心残りだった。
しかし、自分達が揚げた大凧を見上げて、由希はきっと喜んでくれたに違いない。
そう昌郎は自分に言い聞かせた。
大凧の片付けを済ませてから、昌郎達は生徒会室に向かった。
大凧揚げが大成功だったことを一緒に喜びたいと思う気持ちから、生徒会長や執行部の生徒達が、昌郎達が来るのを待っていた。
 それともう一つ、由希が放送機器が故障したにもかかわらず、マイクも使わず生の声で、それも原稿も持たずに素晴らしい答辞をやり遂げ、誰からともなく拍手が沸き上がって体育館一杯に鳴り響いたことを昌郎達に伝えたかったからでもある。
熱に浮かされたように、生徒会の生徒達が口々に由希のことを絶賛した。
昌郎達は、そこで初めてグラウンドまで響いてきたあの拍手の意味を知ったのである。
昌郎は驚きながらも、由希への賞賛が我がことのように誇らしく、そして嬉しかった。
その高揚は家に帰ってからも彼の心を満たし、大凧揚げの成功と相俟ってとても嬉しく幸福な思いに包まれるのだった。
 三月中旬の土曜日に、由希は就職で上京することになっていた。
卒業式が終わってから、昌郎は彼女と一度も会っていない。
会いたいと思う気持ちが昌郎の中で募った。
しかし、昌郎には由希と会わなければならない口実は何も見付からない。
ただ会いたいと言う自分の一方的な思いだけで、由希に連絡を取るなどという考えは、昌郎には毛頭なかった。
 そんなことは高校生としてするべきでないと思っていた。
単なる友達であるならば、もっと気楽に連絡を取り合えたのだろう。
しかし、由希を友達ではない存在として意識し始めている自分の存在に気付いた今は、彼女の気持ちも確認しないまま自分から一方的に連絡を取ることに大きな抵抗感が出てきていた。
由希が東京へ出発する日、生徒会役員と応援団が青森駅まで彼女を見送りに行くことになっていた。
由希と会えるその日を、昌郎は一日千秋の思いで待った。
しかし、東京へと旅立ち今度いつ会えるかわからない由希を見送ることは、昌郎にとって大層辛いことでもある。
由希に会える喜びそして遠く離れる辛さが昌郎の心の中で音を立てるように鬩(せめ)ぎ合っていた。
彼女に会えるという束の間の喜び、そして長い別れか、もしかしたら二度と会えないかも知れないと言う寂寞(せきばく)とした悲しみ。
考えまいとしてもいつの間にか、この両者が彼の心の中で渦を巻いて混濁(こんだく)としていた。



◆その128
卒業 7


 由希の上京の日が、いよいよ明後日に迫った日である。
学校から帰宅して偶然に確かめた郵便受けに一通のちょっと大き目な茶封書が入っていた。
誰への郵便物だろう。
昌郎は自分に届いたものだとは思わなかった。
何気なく表書きを見た。
そこには住所の横に昌郎の名前が書かれていた。
昌郎には、全くと言っていいほど手紙や葉書は来ない。
手紙をやり取りする必要もなければ、手紙を書くことも大の苦手である。
そんな彼には一年間のうちで数枚の年賀状が届くぐらいのものである。
一体誰からだろう。
首を傾げながら昌郎はその封筒を裏返した。
そこに書かれてある名前を見て、彼は自分の目を疑った。
そこに、由希の名前が書かれてあったのだ。
誰かが悪ふざけをしたのではないか。
初め彼はそう思った。
 昌郎は忙しなく封筒を裏返したり表に戻したりしながら、そこに書かれた自分の名前と由希の名前を繰り返し見つめた。
それを見れば見るほど、由希からのものであることの確信が強くなって行った。
未だ郵便受けに入っていたと言うことは、家族の誰もこの封書を見ていないことになる。
昌郎は悪いことをした訳でもないのに、慌ててその封書を鞄に押し込み何気ない風を装って、いつもの通り奥に「ただいま」と声を掛けた。
そして、普段ならまず顔を出す茶の間にも寄らずに自分の部屋へと急いだ。
ワンテンポ送れて母親の「おかえり」と言う返事が返ってきた。
 昌郎は、着替えもせず椅子に座わり、心急きがら由希からきた封書を開けた。
昌郎の鼓動は早くなり、何故か知らず知らずのうちに顔が火照った。
そこには、三つ折りにされた便箋と松任谷由実の「ついてゆくわ」のマキシシングルCDが入っていた。
彼の知らない曲だった。
このCDを聞くのは手紙を読んでからにしよう。
昌郎は、三つ折りにされた便箋を幽かに震える指で開いた。
 薄い水色の便箋に美しい字で綴られた由希からの手紙は、彼への感謝の念で満ち溢れていた。
それらの言葉の一つ一つが、昌郎にとって夜空に瞬く星のように美しく輝いて見えた。
『突然、手紙を送り本当に申し訳ありません。
木村君にお礼を伝えたくて、この手紙を書きました。
直接会ってお礼を言いたかったのですが、その機会もないまま今日になってしまいました。
木村君も覚えていることと思いますが、あなたが入学して間もなく、突然木村君の教室まで押し掛けて、応援団員になってくれないかと唐突にお願いしました。
とてもびっくりしたことと思います。
あの時の木村君の驚いた顔を私は今でも忘れません。
しかし、そんな唐突な私のお願いを木村君は受け容れてくれました。
 そして、更には友達までも誘って一緒に応援団員になってくれました。
応援団の経験などまったくないあなた達にとって、あの厳しい笹岡先生の指導は本当に大変だったと思いますが、よく頑張り僅かの間に見違えるような応援団員に成長したことに、私はただただ驚き感心しました。
そして、本校の宿願でもあった待望の応援団が復活したのです。
それからのあなた達応援団の活躍ぶりは目を瞠るものがありました。
木村君達の努力と前向きな行動で、復活間もない応援団なのに、ねぶた囃子の応援、幻の応援歌の復活、様々な場面での応援活動、文化祭などでの演技発表等々、この一年間で様々な成果を上げられました。



◆その129
卒業 8


 由希の手紙はまだ続いた。
『一年前まで様々な場面で歌われた校歌は、声も小さく覇気がなく、歌っている一もほんの一握りでした。
ところがどうでしょう。今では全校生徒が、声高らかに元気よく誇りを持って歌うようになりました。
 それは、木村君達応援団員の力に拠るところが大きいと思います。
卒業式で歌われた校歌は、体育館全体に力強く響き渡り、私の胸を熱くしました。
今までにない程の堂々として力強くそして高らかに歌われた素晴らしい校歌でした。
本当に本当に誇らしく思いました。この学校で学んで良かった。
そして、木村君に応援団員になって貰って本当に良かったと、私は校歌を歌いながら強く思いました。
そしてもう一つ。
 卒業式を終えて学校を後にする時に空高く舞っていたあの大凧。
ブンブンという威勢の良い音が、なんと晴れがましく心に届いたことでしょう。
今でも私の耳の奧にあの勇ましい音が響き、就職して故郷を離れる私の心を強くしてくれます。
本当に本当にありがとうございます。
感謝の念で一杯です。
私は生徒会長として、学校のために何もできませんでした。
でも、木村君に応援団をお願いしたことだけは学校の役に立ったのではないかと自負するところです。
 これからも山村君や真治くんそして克也君達と、我が校(母校)のために応援団活動を続けていってください。お願いします。
私は、今度の土曜日に此処青森を離れて東京へ行きます。
自分で決めたことであり、憧れでもあった職場でこれから働くことになるのですが、正直言ってとても不安なことも事実です。
でも木村君達の歌う応援歌を思い出すだけで、これから歩んで行く道程を恐れず前向きに歩いて行ける力を得ることが出来ます。
私にとっても最大の応援歌です。
本当にありがとうございます。心より深く感謝しています』
 由希からの手紙の一番最後に、十桁の数字と東京での住所が書かれていた。
昌郎は、穴のあくほどにその数字と住所を何度も読み返した。
それは由希の携帯電話の番号と新たな住所である。
その数字と住所に寄り添うようにして『上京する折でもあったら連絡してください』と言う添え書きが小さく慎ましやかに書かれてあった。
だが「さようなら」の五文字はどこにも書かれていない。
それは、また会えるというメッセージだと彼は思った。
 由希から手紙を貰っただけでも舞い上がるほど嬉しい。
その上、彼女の携帯電話番号と住所まで書かれていた。
昌郎にとってそれは奇跡に遭遇したような驚きであり喜びでもあった。
CDについてのコメントは、手紙の中に何も書かれていない。
昌郎は、テレビやラジオから流れてくるユーミンの曲を今までに何度も聞いたことはあったが、CDを買ってまで聞いたことはなかった。
勿論「ついてゆくわ」の曲は聞いたことがない。
どんな曲だろう。
イヤホンを耳に当ててから、そっとCDをプレーヤーに差し込んた。
透明感のある穏やかな前奏に続いてユーミンの少しハスキーで憂いを帯びた歌声が流れた。
昌郎は目を閉じた。
そして聞き入った。
美しいメロディーにのせられたその歌詞は、生まれ育った故郷を離れ、単身東京へと旅立つ由希の気持ちを歌っているように昌郎には感じられた。
これから幾度とぶつかるであろう困難に挫けることなく、自分の夢について行くと歌うユーミン。
それは正に由希の今の心境を歌っているのだろう。



◆その130
卒業 9


 由希から送られて来たCDを繰り返し繰り返し聞いている内に、昌郎は胸が熱くなっていた。
この曲の歌詞のように、どんなことがあっても由希には夢に向かって頑張って欲しい。
彼女ならば絶対に素晴らしいホテル人に成れるだろう。
そう思うと同時に、その歌詞の中には、彼女から自分に向けたメッセージも綴られていると思った。
それはもしかしたら独り善がりかも知れないと思いながらも。
歌詞の中にある「大事な人」。
自分は彼女にとって「大事な人」なのだろうか。
そうあって欲しい。
そう思うだけで今まで感じたこともないような切なさに胸が軋んだ。
自分は彼女が好きなんだ。
これが人を好きになるということなのだろうか。
 この切なさと苦しさ、そして彼女を思うだけで満ち足りてゆく優しさと悲しさ。
生まれて今までに一度も味わったことのないような感情、自分のことなのに自分でも説明ができない不思議な気持ち。
そんな心の中に渦巻く浪に翻弄されている自分がいた。
由希にとって、この自分が大事な人であって欲しい。
そんな思いで、昌郎はその曲を何度も何度も繰り返して聞くのだった。
 土曜日の午前、上京する由希を見送るために生徒会役員や応援団員の昌郎達が青森駅に集まった。
 新幹線はまだ青森まで来ておらず、「はつかり」で八戸まで行って東北新幹線に乗り換え東京へ行く。
入場券を買いホームまで見送りに出た彼等は、記念写真を撮ることになった。
連絡橋からホームに下りた所に、バレーボールほどの大きさの青森ならではの真っ赤なリンゴを形取った飾りがある。
その下で記念写真を撮ることになった。
由希と彼女の両親を中心に、彼等を囲むようにして後輩達が半円を作った。
初め昌郎がシャッターを切り、後で山村と変わることになった。
昌郎は、少し離れた位置からデジカメの画像を覗き込んだ。
その真ん中に由希がいる。
彼女の姿が画面の中で一人特別に輝いていた。
駅で会った時、二人は何も話さなかった。
勿論あの手紙のことには一言も触れなかった。
 しかし、互いに意識していることは昌郎も由希も感じていた。
昌郎は今の高校生には珍しく携帯電話を持っていなかった。
親との約束で高校を卒業してから携帯電話を持つことになっているのだ。
由希とは電話での連絡より手紙が良いだろう。
彼女が新しい環境に慣れた頃に手紙を書こうと昌郎は思った。
そんな由希がファインダーの中にいる。
シャッターを押す彼の指先が震えた。
みんな楽しそうに笑っている。
ピースなどとポーズをとる者もいる。
 そんな中で由希だけが真顔で、どこか淋しそうに此方を見ていた。昌郎を見ていた。
もう一枚、もう一枚と言いながら昌郎は、シャッターを切り由希の姿を目の奥に刻んだ。
山村と交代して昌郎が写真の輪の中に入った。
今まで山村が立っていた場所は由希の右後ろの方で、彼はそこに立った。
掃き清められたように北国の空から雪雲が消え、淡い陽射しが穏やかに降り注ぐ三月にしては暖かな日だった。
 記念写真を撮り終えると、由希は見送りに来てくれた人達に深々と頭を下げてから電車に乗り込んだ。
彼女の母親は目を充血させてながらも何も言わなかった。
父親も無言だった。
窓際に座った由希へガラス越しにそれぞれが声を掛けたが、昌郎は見送りの輪の後ろに立ってた。
彼女に掛ける言葉が見付からない。
発車ベルがホームに響き渡り、それが鳴りやむと同時に電車のドアが閉まった。
ガタンと電車が動いた。
一瞬、昌郎と由希の視線が合った。



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