[連載]

   101話 〜 110話      ( 佳木 裕珠 )



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◆その101
フレンチトースト(6)

 今、陽明は大変な時だと大介は言ったが、その理由を聞いても彼は話さなかった。
もう少ししたら話せるだろうと、謎めいたように話を区切って帰って行った。
陽明は中学の時も不登校気味だったらしいが、本当は学校を休みたくはなかったんだとも大介は言った。
学校に来たかったら、来れば良いじゃないかと昌郎が言うと、大介は「それが出来ないから大変なんだ」と非難するような目を昌郎に向けて応えた。
昌郎は、大介の言っていることが理解できないまま職員室に戻ってきた。
陽明は今、一体どのようなことで大変なのか、学校に来たいのに何故来られないのか、色々と想像してみたが何も思い浮かばなかった。
職員室の自分の机に戻ってから、大きな溜息をついた。
その昌郎の溜息を聞き、隣の机の福永が心配そうに聞いた。
「木村先生、何か悩み事でも?」
 昌郎は隠し立てすることもなく「分かりますか」と応えた。
「分かるよ、木村先生らしくもない大きな溜息をつくから」
「あ、大きな溜息をつきましたか」
向かい側の斜め前にいる絹谷が言った。
「私の所まで、木村先生の溜息が聞こえてきましたよ」
「え、そんなに大きな溜息でしたか」
「木村先生は隠し事が出来ないタイプの人間ね。暗い顔をしているわよ。何か悩み事があるんだったら、福永先生に相談すると良いわ。話すだけでも、気持ちに整理が付くから」
 絹谷の言葉を受けて、福永は真顔で言った。
「役に立つ助言など言えないだろうが、聞くだけだったら出来るよ」
 昌郎は、陽明が今日も欠席したこと、その理由を大介に聞いたら、陽明は学校に来たいのだけれど学校に来られないんだと言ったことなどを福永に話した。
去年、担任だった福永も陽明が学校に来られない理由は「ひきこもり」だと思っていたから、彼が学校に来たくても来られない理由が思い浮かばなかった。
「私にも、陽明が学校に来られない理由は分からないが、大介が言うんだから、陽明の不登校の理由は彼自身の問題ではなく、別なところにあるかも知れないな」
 福永は、済まなそうにそう言った。
 次の日も陽明は学校を休んだ。
そして次の日も。
月曜日に陽明の状況を大介に聞いただけで、あとは陽明のことに触れずにいたが、本当は毎日でも陽明の今の状況を聞きたいと昌郎は思っていた。
金曜日になった。
帰りのホームルームを終えて下校しようとしていた大介に、昌郎は思い切って声を掛け、陽明の状況を聞いてみた



◆その102
フレンチトースト(7)

 一週間続けて休んでいる陽明が、一体どのような状況なのか。
家に閉じこもったままで、何をして過ごしているのだろうか。
昌郎は大介に聞いた。
「家にいる大介は、結構忙しくしているよ」
「忙しくしている?」
「うん、忙しくしている」
「お母さんと一緒にいるんだよね」
「ああ、一緒だよ」
 大介はそう言って言葉を切ると急いで帰って行った。
 陽明の今の状況について、何も分からないまま一週間が過ぎてしまった。
遅く寝たにも拘わらず、土曜日の朝5時過ぎに目が覚めた昌郎は、そのまま起き出し陽明への手紙を書くために机に向かった。
真っ白な便箋に向かっても、何を書いて良いのか定まらない。
書くことは一杯ある様な気がしていたのに、書き始めようとすると、何も思い浮かばなかった。
ただ、頑張れの一言が頭の中を駆け巡っているだけだった。
陽明のような生徒には、頑張れと言ってはいけないと何かの本で読んだことがある。
本人は既に精一杯頑張っているのだから、それ以上頑張らせてはいけない。
その意味は、昌郎にも良く分かる。
しかし、陽明自身が全てを諦めてしまってはどうにもならない。
結局、彼の力を信じることより他はない。
励ますことは、いけないのかも知れない。
しかし、昌郎は陽明にエールを送りたかった。
応援団魂が、そうさせるのだろうかと思ったが、理由は陽明の目の輝きにあった。
口数が少なく、何時も誰かの陰にいて自分を出そうとはしない陽明だが、彼の瞳の奥は静かに輝いていた。
初めは気が付かなかったが、何度か陽明と面と向かって話す内に、昌郎はそのことに気付いた。
陽明には、逆境を乗り越える力がある。
彼の今の逆境の原因は何にあるのか。
それは複合的なもので様々な要因が重なって、陽明が学校に来られないのだろう。
しかし、彼は今の状況を必ず乗り越えられるはずだ。
陽明の瞳の奥にある小さく弱々しいが、まだ諦めてはいないという輝きを昌郎は思い出していた。
昌郎は、白い便箋の上に大きな字で書いた。
「君には、今を乗り越えられる力がある。そう、私は思っている。 木村昌郎」
 たったそれだけを書いた。
そして、その便箋を三つ折りにして封筒に入れた。
たった三十字余り書いただけなのに、とても長い手紙を書いたように感じた。
文字数は少なくとも、そこに籠められた気持ちは大きかった。
どうか、陽明が持っている力で、今を乗り越え欲しい。
昌郎が陽明を思う気持ちは、友達の気持ちではない。
兄でもない。
ましてや親でもない。
もしかしたら、この気持ちは教師としてのものなのだろうか。
教師になって、まだ一月ほどしか経っていない自分に、そんな気持ちが芽生えているのだろうか。



◆その103
フレンチトースト(8)

 土曜日の早朝の住宅街は、まだ目覚めていないが商店街に出ると、日中ほど多くはないが人と車の行き来があった。
参宮橋の駅前にある郵便ポストに陽明宛の手紙を投函した。
薄い封筒だが、投函すると重い気持ちが軽くなった気がした。
そして身体も軽くなったように感じた。
昌郎は、久し振りに走りたいと思った。
遠回りして部屋に帰ろう。
彼は走り出して、参宮橋の駅前を通り過ぎ坂道を登った。
登り切ったところで左折した。
主要道路は朝にも拘わらず車が切れ目なく往来していた。
久し振りに走ったせいで、直ぐ息が上がった。
大学を卒業してから、まだ一月半ほどしか経っていないのに、体力が落ちたなと感じた。
しかし、呼吸を整えながら走ると、胸の中に朝の新鮮な空気が入ってきて身体が急に軽くなったように感じた。
スニーカーを履いた足が歩道のアスファルトをリズミカルに蹴る振動が全身に響き、気持ちを高揚させた。
今度は走ることが心地よいと感じていた。
東京の街の空気は汚れていると言うが、日常的にそんなことはないと思う。
東京には緑がふんだんにある。
大小の公園や緑地帯、街路樹そして家々の庭木など季節を感じさせる植物が一杯ある。
青森が雪に閉ざされている冬でも東京には山茶花が咲き、椿が笑みこぼれる。
夏は、北国では育たない夾竹桃が赤や白の花を咲かせる。
秋には金木犀の香りが街を包む。
上京して初めて嗅いだ甘やかな香りに昌郎は感動した。
そして今は木々や草花の匂いが濃く漂っている。
昌郎は新緑の匂いを嗅ぎながらマイペースで走り爽快感を楽しんだ。
7・800メートルほど行き甲州街道に出て左折した。
東京オペラシティ前の交差点をまた左折した。
そして数百メートルほど走ってからもう一度左折して住宅街を縫うようにして部屋に着いた。
1.5qほども走っただろうか。
身体が汗ばんでいた。昌郎は早速シャワーを浴びた。
少し温めの温度でゆっくりと全身を洗った。
まるで生まれ変わったような気分だった。
朝食は、何時ものように納豆と生卵をご飯にかけ、昨日の夜、帰宅途中のスーパーで買ったコロッケとサラダをおかずにした。
満腹になると急に眠くなった。
何時もより早く起き、ジョギングまでしたからだろう。
後片付けもしないままベッドの上に横になると、すうっと引き込まれるような感覚で昌郎は眠りに落ちていった。
眠ってからどれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
夢の中で、コトンと言う音を聞いたような気がした。
それは眠りから彼を目覚めさせるほどのものではなかった。
寝足りたような気分で昌郎は目覚めた。
ベッドの上で手足を思う存分伸ばした。
そして暫くの間横になったまま、ぼんやりとしていた。
幸福感が彼の身体を満たした。
昌郎は起き上がりテーブルの上を片付けて、洗い物の茶碗などを入口の横にあるキッチンの流しに運んだ。
その時、靴脱ぎ場に落ちている白い封筒が目に入った。
夢の中で聞いたコトンと言う音は、ドアのポストに入れられた手紙の音だったと分かった。
その封筒を手に取ってみた。
たどたどしい文字で宛名が書かれていた。
誰からだろう。
裏を返すと、思いもよらない陽明の名前があった。



◆その104
フレンチトースト(9)

 思いもかけていなかった杉原陽明からの手紙に、昌郎は心底から驚いた。
そして、その驚きには喜びと同時に大きな不安が入り交じった複雑な感情が同居していた。
昌郎は封を切るのを躊躇った。
もし手紙の内容が、学校を辞めるなどと言う悪い知らせだったらどうしよう。
手紙を届けないでくれと書かれていたら…。
良いことは思い浮かばなかった。
その反面、封を早く開けたいという気持ちも強くあった。
流しのシンクに運んだ使った食器をそのままにして、昌郎はテーブルの前に座り、逸るような気持ちを抑えながら陽明からの手紙の封を切った。
紙の裏を向けて三つ折りになった便箋が一枚だけ入っていた。
封筒からその便箋をゆっくりと取り出した。
そして開いた。便箋の上半分ほどに横書きで小さく拙い文字が遠慮するように並んでいた。
その手紙は、唐突にこう始まっていた。
『先生のフレンチトーストが食べたいです』
そうして更に予想もしていなかった言葉が続いていた。
『今度の日曜日に先生の所に遊びに行きたいと思っています。大介も一緒です。11時に小田急の参宮橋の改札口にいます』
 こちらの都合も聞かずに、もし私に用事が入っていたのならどうするつもりなのだろう。
そう思いながらも嬉しさが込み上げてきた。
きっと陽明は、担任としての私を信用してくれているのかも知れない。
消印を見ると投函したのは一昨日の木曜日となっていた。
陽明は、少なくとも土曜日までには確実に私の所に手紙が届くと信じていたのだろう。
そして今回だけは、自分の我が儘を許して貰えるだろうと思ったのだろ。
改行してから、こう認められていた。
『母さんが、今度の土曜日から病院に入院します。だから多分、来週の月曜日から学校に行くことができると思います。学校に行けることがとても嬉しい。学校に行きたいと、何時も思っているんです』
 なぜ母親が入院したら、陽明が登校出来るようになるのか、昌郎にはその意味が掴めなかった。
そして、学校に来たいと思っているのに、何故、彼は学校を休んでいるのか。
昌郎は疑問に思った。
今度の日曜日に陽明がここに来た時、その理由を教えて貰えるかも知れない。
今は、あれこれと考えても仕方がない、日曜日に陽明がここに来てくれた時に、彼がその理由を教えてくれるかも知れない。
昌郎はそう思った。短い陽明の手紙の文末に、昌郎が手紙を書いて送ってくれたことへの感謝の言葉が綴られていた。
『先生、手紙、有り難うございました。先生の手紙にとても励まされました』
そして小さな字で自分の名前を書いて手紙は終わっていた。
小学生のような文字で書かれた文面は短くてたどたどしかったが、昌郎は何度も何度も読み返した。



◆その105
フレンチトースト(10)

 昌郎は、10時半に部屋を出た。
参宮橋の駅までは10分ほどで行ける。
約束の11時よりも20分も早く駅に着けば、電車を降りて改札口を出てくる陽明と大介を迎えることが出来る。
昌郎は、そう考えて少し早めに部屋を出た。
彼の部屋の方から来ると、駅前の商店街は少し上り坂道になっている。
その坂道を多くの人達が下ってくる。
参宮橋は『国立オリンピック記念青少年総合センター』の最寄り駅で、なだらかな坂を下りて左手に曲がり踏切を越えると、その施設が道路の向かい側に見える。
そして歩道橋を渡るとすぐ正門がある。
この施設は、その名前のように、1964年に開催された東京オリンピックの際の選手村だったところを改修し、1966年1月から青少年教育施設として研修生の受け入れや施設の貸出を行っている。
この施設は、青少年や青少年教育関係の指導者が一堂に会して様々な活動や研修そしてスポーツイベントなどが出来る施設で、その為に毎日多くの若者達が参宮橋の駅で乗り降りする。
平日は勿論のこと、学校が休みの土・日曜を活用した研修や活動も盛んに行われている。
日曜日のその日も、電車を降りた若い人達が、駅の方から坂道を下だりセンターに向かって歩いていた。
昌郎は、その人の流れとは逆に参宮橋の駅を目指した。
駅前に差し掛かった時、人波が途切れ改札口が見えた。
まだ、陽明と大介は来ていないようだ。
乗降客の流れが、束の間途切れていた。
昌郎は、ゆっくりと改札口に近付いて周りを見渡した。
切符の自動販売機の右奥で彼の視線が止まった。
俯いて顔がはっきり分からないが、痩せて少年のような体付きと大きな眼鏡を支える黒いフレームは、紛れもなく陽明だった。
しかし何時も一緒にいる大介がない。
離れた何処かにいるのだろうかと周りを見たが、大介らしき姿はなかった。
まさか、陽明一人でここまで来たのだろうか。
そうだとは俄に信じられなかった。
ふたたび俯いている男子に目をやると、昌郎の視線に気が付いたように彼は顔を上げた。
そして、昌郎と目を合わせた。彼は、正しく陽明そのものだった。
陽明は、こくりと首を下げてから恥ずかしげに小さく笑った。
昌郎にとって陽明の笑顔を見るのは初めてのことで、笑顔を返すよりも驚きの表情の方が先に浮かんだ。
昌郎は、足に根が生えたように立ち尽くしている陽明に近付いて行きながら、ようやく微笑みを返した。
「待ったか」
昌郎が陽明にそう言葉をかけると、ちょっと前に着いたばかりと小さな声で応えた。
「そうか、良く来たね。ところで、大介は一緒じゃなかったの」
「大介は、練習で忙しいだろうから、僕一人で来ることにしたんだ」
「陽明が一人で待っていたから、びっくりしたよ」
「すいません、吃驚させて」
 陽明は、本当に済まなそうに頭を下げた。



◆その106
フレンチトースト(11)

 薫風自南来(薫風、自から南より来たる)
5月の爽やかな風が、肌に気持ち良く吹いてきた。
それだけで何故か幸せな気分にさせてくれる。
寒くもなく暑くもない。
青空から優しい日の光が降り注ぐ中を、昌郎と陽明は並んで歩いた。
何かから解放されたように穏やかに歩いている陽明には、以前のような重苦しく暗い雰囲気はなかった。
歩き出して間もなく、陽明が独り言のように小さな声でポツンと言った。
「先生、手紙有り難うございました」
 昌郎は明確に聞き取れず、何?という風に陽明に顔を向けた。
陽明は、同じ言葉を繰り返した。
今度は、はっきりと聞こえた。
昌郎は、そう言われて嬉しさよりもホッとした気持ちになった。
そして手紙を読んでくれたことに対して感謝の念がわいた。
その反面、少し気恥ずかしい思いをした。
「いや、読んでくれて有り難う。大したことも書けずにすまない。ところで昨日も陽明に手紙を出したんだが、まだ届いていないだろう」
「その手紙は、まだ送られてきていません。今日帰ったら届いているかも」
「今回の手紙も、大したことは書いていないから期待しないでくれ」
 何時しか、昌郎の陽明に対する言葉は、兄のように打ち解けたものとなっていた。
 十分ほどで、二人は昌郎の部屋に着いた。
「殺風景な部屋だけど、遠慮なく入ってくれ」
ドアを開けて招き入れると、陽明は遠慮がちに中に入りながら、興味津々と言った感じで部屋の中を見回した。
そんな陽明をテーブルの前に座らせ、冷蔵庫の中からサイダーを取り出した。
「ちょっとサイダーでも飲んでから、昼飯にフレンチトーストを作ろう。陽明はフレンチトースト作ったことある?」
陽明は、首を横に振った。
「フレンチトーストと言っても、俺の作るものは、とても簡単でシンプル。材料は、食パンと牛乳と砂糖と卵だけ。それからバターだけど、俺はマーガリンを使う。陽明にも簡単にできるよ。まずはサイダーを飲んでからだ」
二人は手早くサイダーを飲んでから、小さな流しに並んで立った。
説明を要するまでもないぐらいに簡単で手早いが、手順に従って昌郎は作り方を話しながらフレンチトーストを作った。
プラスチックのボールに卵を割って入れる。
次に牛乳そして砂糖。分量は適当。
それに浸した食パンをマーガリンを溶かしたフライパンで焦げ目が付くまで焼いた。



◆その107
フレンチトースト(12)

 昌郎が説明をしながらフレンチトーストを作っている間、陽明はほとんど話をしなかった。
ただ、黙々と昌郎の指示に従いながら手を動かしフレンチトーストを作っている。
寡黙な陽明らしいと思いながらも、陽明の身体の中から、この作業を楽しんでいるという雰囲気が伝わってきた。
学校では感じたことのない陽明の寛いだ表情に、昌郎は安堵していた。
六枚切りの食パン三袋、18のフレンチトーストを作った。
野菜はキュウリとトマト、スープはインスタントのオニオンスープというメニューで昼食にした。
 昌郎に促されて、陽明は遠慮がちにフレンチトーストを箸で摘まんで口に含んだ。
二・三度噛んで彼は下を向いたままじっとしていた。
そんなに長い時間ではなかったが、昌郎は、フレンチトーストが陽明の口に合わなかったのではないかと心配をした。
自分の思い出と味覚を彼に押しつけてしまったのかも知れない。
そう心配した時、陽明は顔を上げて昌郎の方を向いた。
そして静かに言った。
「先生、旨い。こんな美味しいもの食べたの何年ぶりだろう」
 昌郎は、彼が気を遣いそう言ってくれているのだろうかと半信半疑になった。
しかし、陽明は盛んに口を動かし1枚のフレンチトーストを平らげた。
そして、もう1枚をとって、また食べ始めた。
そんな姿を見て、昌郎は陽明が本当に美味しいと思って食べてくれていると感じた。
「陽明、遠慮しないで一杯食べてくれ。こんなに作ったから俺一人で食べきれない。どんどん食べてくれ」
 陽明は、はいと言いながらもぐもぐと口を動かし続け、サラダも食べ、スープもお替わりをした。
まだ、中学生だと言っても皆納得するような細く小柄な陽明が、無邪気にフレンチトーストを食べているところを見て、昌郎は嬉しくなった。
陽明、遠慮せずに腹一杯食べろよと心の中で話し掛けながら、昌郎もフレンチトーストを食べた。
大学1年の応援団の夏合宿の最終日前日に、夜食に先輩が作ってくれたフレンチトーストを思い出していた。
あの時の先輩も、俺達1年生がかぶりつくようにして食べている様子を見ながら、今の俺と同じような慈しみのある気持ちになっていたのだろう。
人間、苦しい時ほど美味い物を腹一杯食べることで、どんなに励まされるか知れない。
あの時のフレンチトーストは涙が出るほど旨かった。
その味は今でも忘れない。
腹が空いていれば、考えも悲観的になる。
満腹になると、物事を前向きに考えられる。
どんなにあの時、勇気を貰っただろうか。
大学四年間、応援団を続けられたのは、同じ応援団で苦楽を共にした親友源藤凌仁の存在と、あの勇気を与えてくれたフレンチトーストを作った先輩に出会えたからだ。
俺のフレンチトーストは陽明の心を少しでも満たし得ただろうか。



◆その108
フレンチトースト(13)

 細く小さな身体の陽明だったが、フレンチトーストを5枚も平らげ、オニオンスープもお替わりをした。
食べ終えるとすぐ、陽明は使った食器を流しに片付けて洗いに入った。
食後ゆっくりしてから後片付けをしようと昌郎は言ったが、陽明は、これくらいの洗い物なら直ぐに終わるからと洗いの手を休めなかった。
「家でも食器洗いをしているのか」
「はい、食事の後片付けは勿論、食事のしたくも僕がやっています」
「お母さんは、働いているのかな」
「いいえ、働いていません」
 じゃあ何故、陽明が食事の支度から片付けまでをするんだと聞きたかったが、彼の母親は精神的に不安定な状況が続いているらしいと聞いていたから、それは止めた。
そんな昌郎の内なる質問を察知でもしたかのように、陽明が言った。
「僕の母は、精神的にとても不安定なんです。些細なことでも、くよくよしてしまうんです。外に出て買い物をすることも出来ないくらいの対人恐怖症なんです。だから、食事の材料を買いに行くのは僕。必然的に食事のしたくも、そして後片付けも僕がやります。食事だけじゃなく、洗濯や掃除も僕がします。母は家の中にじっとしているだけでも、疲れ切っているんです」
 初めて陽明の口から、彼の母親の状況を聞いた。
昌郎はどんな返答をすれば良いのか戸惑った。
陽明の母親の状況は、学校で見る彼の姿と重なった。
しかし、今の陽明は少し違う。
やはり、外見は線が細くてひ弱な印象だが、内面から滲み出る覇気を感じた。
一体、今の彼の何が、そう感じさせるのだろうか。
「先生、僕、明日から学校に行きます」
 突然、陽明が言った。
昌郎は、敢えて学校の話題をしなかった。
陽明からの手紙では、『母さんが、今度の土曜日から病院に入院します。だから多分、来週の月曜日から学校に行くことができると思います。学校に行けることがとても嬉しい。学校に行きたいと、何時も思っているんです』
と書いていた。
なぜ母親が入院したら登校出来るようになるのか、昌郎にはその意味が掴めなかった。
「僕の母さんは、とても寂しがり屋なんです。僕が傍にいないと、とても悲しがるんです。それは、僕が小学生だった頃からずっとです。僕は一人っ子です。家族は母と僕の二人きりです。母さんを家に一人残して出掛けることなど出来ません。時々一人でいても大丈夫だという時があります。その時に僕は学校へ行っていました」



◆その109
フレンチトースト(14)

 陽明は自分のことを振り返るようにして、訥々と話し出した。
昌郎は聞き役に徹した。
陽明が小学1年生になったばかりの時、突然の事故で父親が亡くなった。
父親は、化学薬品を作っている工場で働いていた。
熱心で真面目な勤務ぶりが認められて31歳で主任になった。
母親は、第二子を妊娠していた。父と母そして陽明は、慎ましやかながら幸せな日々を過ごしていた。
しかし、突然、その平和な暮らしが壊れてしまった。
或る日、工場の機械がトラブルを起こした。
原因を探るために主任になったばかりの陽明の父親が、何時もは入らない地下の機械室に降りていった。
そして帰らぬ人となったのだ。
死因は地下に溜まっていた有毒ガスによる窒息死だった。
余りに突然のことで、その知らせを聞いた陽明の母親は、何が起きたのか理解できなかった。
しかし、病院で夫の死に顔を見た瞬間、後戻りの出来ない事の重大さ、悲惨さに思い当たった。
そして泣き叫んだ。
夫の死体に縋り付いて号泣する母の姿を、幼い陽明は鮮明に心に焼き付けた。
その泣き声は、病院の霊安所内に響き渡り部屋の外にまで聞こえた。
どのくらいそんな状態で泣いたのだろうか。
ふと、母親が泣き止んだ。
そして病院関係者や会社の人達に深々と頭を下げ、陽明の手を引いて部屋を出ようとした。
看護師さんが、何処に行くんですかと聞くと、少し恥ずかしそうにして「夕ご飯の支度をしなければならないので家に帰ります」そう答えたのだった。
突然、夫を亡くしたという現実を受け入れられずに、今の悲惨な現実から逃避しようとする精神状態なのかも知れない。
家に帰って待っていれば、夫がいつも通りの元気な姿で会社から戻って来ると思っているのだろう。
その場にいた人達は、彼女の精神的なダメージが非常に大きいことを知った。
彼女は余りの悲しみに体調を崩し、その影響で流産に至ってしまった。
その事によって、更に彼女の精神は蝕まれていった。
父親が亡くなってから一月余りが過ぎた。
今まで、ずっと家に閉じこもっていた母親だったが、連休中に陽明を何処にも連れて行かないのは可哀想だと思ったのだろう。
その日の朝に突然言いだして、陽明を上野動物園に連れて行った。
幼い心で、父親が死んでもう帰ってこない存在になってしまったことをぼんやりと認識しているが、動物園に行ける楽しみに陽明の心は満たされた。
ゴールデンウィークも終盤の5月4日のことだった。
その日は動物園が無料開放される日だった。
その事を母親が知っていたかどうかは分からない。
多分偶然だったと思う。
そんなことを母親が考える余裕などなかった。
陽明は、毎年5月4日は上野動物園が無料開放だと言うことを長じてから知った。
陽明と母親は、上野駅の公園口改札を出て動物園に向かった。
電車も上野公園も、そして動物園内も親子連れでごった返していた。
殆どが両親と一緒の親子連れだった。
動物園に行くまで思いも掛けなかったが、その事が皮肉にも、母親と陽明の心に影を落とす結果になってしまった。



◆その110
フレンチトースト(15)

 人波に流されながらも中央ゲートからスムーズに園内に入れた。
既に多くの来園者が、動物園内に犇めいていた。
母親の心は憔悴しきっていた。
我が子の悲しみを癒やさなければならないのに、そのことすら忘れてしまい、陽明の手を引きながらも呆然として動物園の中を歩き始めた。
パンダがいる施設の前に長蛇の列が出来ていた。
最後尾にプラカードを持っている職員がいたが、1時間ほど並ばなければ、中には入れないという。
熱い日差しの中で1時間も並ぶのは辛いと思いながらも、折角上野動物園に来たのに、陽明にパンダを見せずに帰るのは出来ないと、母親は自分に言い聞かせて、その列に並んだ。
陽明達の周りは殆どが親子連れで、それも片親ではなく両親が一緒の親子連れだった。
陽明達の後にも次々と親子連れが並んでいる。
母親は、その状況に接して心の塞がる思いがした。
あの人が生きていれば、私達だってあんな風に幸せなのに、今は、自分とこの小さな子どもだけ、お腹の中にいた子どもを流産させてしまったという自責の念すら彼女の心に湧き上がり、熱い日差しの中で立ち眩みがするほど身体も心も衰弱し切っていた。
我慢できずに母親はしゃがみ込んだ。
そんな母親を幼い陽明は気遣い「お母さん、どうしたの病気なの」と言いながら小さな手で彼女の背中を一生懸命に摩った。
しゃがんでいる間にも列は、どんどんと前の方に進んでいく。
母親は「どうぞお先に」と言いながら立ち眩みに注意して、ゆっくりと立ち上がった。
前よりは幾らか楽になったように感じた。
「もう大丈夫よ」笑顔を取り繕って子どもに話し掛けた。
陽明は安心したというふうに笑顔を返して寄越した。
私はこの子を守って行かなければならない。
私が弱くてどうするの。
彼女は憔悴しきった自分を鞭打ち鼓舞した。
長い時間待って漸くパンダを見た陽明は、目を輝かせて喜んだ。
ああ、待っていて良かった。
母親はほんの少しだけ気分が晴れる思いをした。
パンダのエリアを出た所に、高校生らしき人達がお揃いのピンクのチョッキのようなものを着て並んでいた。
そして口々に「迷子札をお持ちください」と呼び掛けていた。
親とはぐれた時に子どもの名前と親の携帯電話の番号を書いたものを持っていれば、迷子になった子どもを見つけ出すことが容易になる。
その為の迷子札を配布しているのだ。
その札にはパンダの絵が描いてあった。
陽明は、その丸くて可愛い札が欲しかった。
しかし、母親は迷子札に目もくれず、陽明の手を引いて動物園の奥の方へと歩いて行った。
心と体が憔悴しきっている彼女には、迷子札の呼び掛けすら聞こえなかったのかも知れない。
シロクマを見たり猿山を見たりしながら、モノレールの駅の前に来た。
やはり此処にも、長蛇の列が出来ていた。
お山の方の東園と不忍池端の西園を結ぶ、乗車時間にすれば数分の距離を往復するモノレールだが、子ども達にとっては魅力的な乗り物である。
陽明も乗りたいと思った。
母親が引く手を少し引っ張り返してみると、そんな陽明の気持ちを察したのか、母親はモノレールに乗ろうかと聞いてくれた。
陽明は目をキラキラさせて大きく頷いた。



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