[連載]

   111話 〜 114話      ( 佳木 裕珠 )



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◆その111

フレンチトースト(16)
 今、陽明は大変な時だと大介は言ったが、その理由を聞いても彼は話さなかった。
もう少ししたら話せるだろうと、謎めいたように話を区切って帰って行った。
陽明は中学の時も不登校気味だったらしいが、本当は学校を休みたくはなかったんだとも大介は言った。
学校に来たかったら、来れば良いじゃないかと昌郎が言うと、大介は「それが出来ないから大変なんだ」と非難するような目を昌郎に向けて応えた。
昌郎は、大介の言っていることが理解できないまま職員室に戻ってきた。
陽明は今、一体どのようなことで大変なのか、学校に来たいのに何故来られないのか、色々と想像してみたが何も思い浮かばなかった。
職員室の自分の机に戻ってから、大きな溜息をついた。
その昌郎の溜息を聞き、隣の机の福永が心配そうに聞いた。
「木村先生、何か悩み事でも?」
 昌郎は隠し立てすることもなく「分かりますか」と応えた。
「分かるよ、木村先生らしくもない大きな溜息をつくから」
「あ、大きな溜息をつきましたか」
向かい側の斜め前にいる絹谷が言った。
「私の所まで、木村先生の溜息が聞こえてきましたよ」
「え、そんなに大きな溜息でしたか」
「木村先生は隠し事が出来ないタイプの人間ね。暗い顔をしているわよ。何か悩み事があるんだったら、福永先生に相談すると良いわ。話すだけでも、気持ちに整理が付くから」
 絹谷の言葉を受けて、福永は真顔で言った。
「役に立つ助言など言えないだろうが、聞くだけだったら出来るよ」
 昌郎は、陽明が今日も欠席したこと、その理由を大介に聞いたら、陽明は学校に来たいのだけれど学校に来られないんだと言ったことなどを福永に話した。
去年、担任だった福永も陽明が学校に来られない理由は「ひきこもり」だと思っていたから、彼が学校に来たくても来られない理由が思い浮かばなかった。
「私にも、陽明が学校に来られない理由は分からないが、大介が言うんだから、陽明の不登校の理由は彼自身の問題ではなく、別なところにあるかも知れないな」
 福永は、済まなそうにそう言った。
 次の日も陽明は学校を休んだ。
そして次の日も。
月曜日に陽明の状況を大介に聞いただけで、あとは陽明のことに触れずにいたが、本当は毎日でも陽明の今の状況を聞きたいと昌郎は思っていた。
金曜日になった。
帰りのホームルームを終えて下校しようとしていた大介に、昌郎は思い切って声を掛け、陽明の状況を聞いてみた



◆その112
フレンチトースト(17)

 上野動物園の東園からモノレールに乗って西園に着いた陽明は、母親に手を引かれながらペンギンを見てフラミンゴの檻に向かった。
生まれて初めて見るフラミンゴの美しい羽の色に、陽明は何故か強く引き付けられた。
なんて綺麗な羽の色なんだろう。
遠くの空を彩る夕焼けのような色を見ていると、とても幸せな気分になった。
父親が死んでから慌ただしく過ぎた一ヶ月余り。
父親の死を十分に理解できぬ間に、今度は母親のお腹の中から赤ちゃんが消えてしまった。
悲しい出来事が、自分の周りで立て続けに起きていることを、小さいながらも肌で感じた。
そして母親の悲痛な姿に接しながら、自分も悲しい気持ちで過ごしてきた。
何故、お父さんが死んでしまったのか。
どうして自分の弟か妹になるはずのお母さんのお腹の中の赤ちゃんがいなくなってしまったのか、どんなに考えても幼い陽明には理解することが出来なかった。
ただ、お母さんがとても悲しんでいることだけは幼い陽明にも分かった。
だから彼の心もずっと晴れなかった。
しかし、フラミンゴの美しい羽根を見た途端、なぜだか分からないが幸せな気分になった。
そんな幸せな気持ちにずっと浸っていたかった。
陽明は長い間、フラミンゴを見続けた。
この美しい鳥を見ていると、きっとお母さんも幸せになれるだろう。
陽明はそうも考えた。
しかし母親にとってフラミンゴは周知の鳥で、その羽の色に魅了されることはなかった。
「さあ、キリンも見ましょう」と、陽明の手を引いて母親が歩き出した。
後ろ髪を引かれる思いで、陽明はフラミンゴの檻を離れた。
しかし、キリンやカバを見ていても、陽明の心の中にはフラミンゴの羽の色が強く刻まれていた。
陽明は知らず知らずに母親の手を離れて、またフラミンゴの檻の前に辿り着いた。
母親は、動物に視線を向けながらも、実際には動物を見てはいなかった。
心の中が空っぽだった。
ふと、我に返った。
そして陽明がいなくなっていることに気が付いた。
さっきまで自分の傍らにいた子どもが、忽然として消えていた。
母親にはそう思えた。
神様は、私から今度は陽明まで奪い取るのだろうか。
母親は気が触れたように周りを探し始めた。
そのころ、陽明は母親を探しながらイソップ橋の方へ歩き出していた。
幼い子どもには、いま来た方向が分からなくて、人波に流されるまま闇雲に歩いた。
モノレールから見たイソップ橋、その橋を渡ると母親と一緒に歩いた道程に戻ることが出来る。
そこでお母さんは待っている。
幼い陽明にとって少し傾斜のきついイソップ橋を急いで渡り始めていた。
一方の母親は、冷静な判断がつかなくなり、転げるように歩き回わって我が子を探した。
西園にも出入り口がある。ここからそう遠くない。
母親は、生きた心地も無く右往左往しながら西園の出入り口に来た。
もしかしたら、動物園の外に出てしまったのかも知れない。
出入り口の前の道路は車の往来が激しい。
一歩でも車道に出れば、車に轢かれてしまう。
そう思うと気が狂いそうになる。
母親は半狂乱状態になって、我が子の名前を呼び続けながら動物園の外に駈け出した。



◆その113
フレンチトースト(18)

 陽明は、イソップ橋を渡り東園のモノレール乗り場に来た。
相変わらず沢山の親子連れが列をなして乗車の順番を待っていた。
みんな満面の笑みで、幸せそのものだった。
そんな彼等の表情を見ると陽明の気持ちは少し明るくなった。
お父さんは、何処か遠いところへ行ってしまったらしい。
もう二度と会えない遠いところ。
死ぬと言うことは、そういうことらしい。
でも僕にはお母さんがいる。
この行列の中にきっと僕を待っているお母さんがいる。
陽明は、列の間を潜り抜けるようにしながら、母親の姿を探した。
しかし、いくら探しても母親の姿を見付けることは出来なかった。
 母親は陽明の名を呼びながら、動物園を出て不忍通りを道なりに水上音楽堂まで来た。
頭の後で束ねた彼女の髪は、さんばら髪になってしまったが、それにも気が付かず眼を皿のようにしながら必死に探し続けた。
こんな所まで、幼い子が歩いて来るはずはないと思いながらも、もしかしたら、もしかしたらと水上音楽堂の前を過ぎ、不忍池の端を小走りで弁天堂の方へ向かった。
行き違う人達は、彼女のただならぬ様子に、或る人は道をよけ、或る人は通り過ぎた彼女の後姿を振り返って眺めた。
しかし、彼女には奇異な眼で自分のことを見る他人のことなど全く目に入らなかった。
ああ、どうしよう。あの子が此の世から消えてしまったら、私は一体、どうしたらいいのだろう。
また、私の愛しいものが失われて行く。弁天堂の横を抜けて再び動物園の西園の中に入った。
そんな彼女の横から、突然、高校生と覚しき男子が声を掛けてよこした。
「すみません。もしかしたらお子さんを探していませんか」
え、彼女は驚いてその男子を見た。
「突然に声を掛けてすみません。実は迷子を預かっているのですが。まだ、お母さんが見付かっていません。もしかしたらと思って」
その男子の話も半分で、彼女は何度も何度も首を縦に振りながら、そうです、そうです、私の子どもがいなくなったんですと繰り返した。
気が付くとその男子の他にもう一人高校生ぐらいの男子がいた。彼が聞いた。
「お子さんのお名前は、ようめいちゃんでしょうか」
目の前に光が差したような気持ちで母親は答えた。
「ええ、陽明です。杉原陽明です」
「お母さん、ようめいちゃんなら東園の迷子相談所で、お預かりしています」
「え、東園の方ですか。こっちの西園ではないんですか」
「東園のモノレールの乗り場にいたようめいちゃんを、或る方が迷子のようですと言って、迷子相談所に連れてきてくださったのです」
母親は、我が子が無事だったと知った途端に、全身の力が抜けてしまうようだった。



◆その114
フレンチトースト(19)

 一刻も早く、我が子に会いたい。彼女の気持ちは急いた。
「お願いします。私を、その迷子相談所まで連れて行ってください」
歩いてなどいられなかった。
彼女は東園の方へ小走りで向かった。
二人の男子も、彼女に合わせて走り出した。
彼等は、急なイソップ橋を渡り人混みを縫うようにして走った。
息が切れた。もう走れないと母親は何度も思った。
しかし、あるだけの力を振り絞って、よろめくようにしながらも駈け続けた。
モノレールの乗り場の前を過ぎ、休憩場所の横を抜け、売店の脇を通って広い通路に出た。
「おかあさん、あそこです」男子達が指差した。
その迷子相談所のテントは中央入口を入った左側、パンダの飼育舎の前にあった。
日本赤十字社東京都支部は毎年、都内の高校生達に呼び掛けてボランティアを募りゴールデンウィークの期間中、毎日二・三十人で迷子の対応にあたっていた。
迷子相談所は東園と西園の入口付近にテントを張って設置されていたが、悲しみのどん底にいた彼女には、そのテントすら目に入らなかったのだ。
そういえば、パンダを見終えて飼育舎から出て来た時、出口で高校生ぐらいの人達が、迷子札なるものを配っていたことを、ふと思い出した。
しかし、大きな悲しみの中で、子どもが迷子になるかも知れないと言うことすら、彼女は考えることが出来なかったのだった。
迷子相談所のテントの中で、数人の女子高校生に囲まれながら、ビニールボールを持って陽明が遊んでいた。
母親は、我が子の名前を呼びながらテントの中に走り込んだ。
テントの中にいた高校生や指導者と覚しき人達が、一斉に母親を見た。
陽明も顔を上げた。そして母親の姿を見付けた。
手に持っていたボールが下に落ちた。そんなことは、どうでも良かった。陽明は母親の方に向かって突進した。
母親はしゃがみながら大きく手を広げて、陽明を自分の胸に迎え入れた。そして、強く強く抱きしめた。
「よかった。よかった。あなたを迷子にさせてしまったお母さんを許してね」
彼女の声は泣き声に変わっていた。
陽明も、身を捩るようにしながら母親の胸の中で泣きじゃくった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
言葉にならない言葉で、陽明も母親に謝っていた。
「もう決して、あなたを見失わないから、陽明も、母さんの傍を決して離れないでね。お母さんは、あなたがいないと、生きていけない」
小さな胸に、悲痛に響いた母親のその言葉は、陽明の中に深く、そして強く焼き付いた。
僕は、もうお母さんのそばを離れない。そう彼は心の中で誓ったのだった。

陽明は昌郎に、迷子になったその時のことを話してくれた。
彼の目は心なしか潤んでいた。
「僕は、その時、決心したんです。母さんが望むだけ傍にいてあげよう。母さんを悲しませないようにしようって。だから…」
陽明が何故、学校を休んでまで母親の傍にいようとしたのか、その訳が分かった。
昌郎は、その話を聞いて心が震えた。目頭が熱くなった。そして思わず鼻水を啜った。
「陽明、分かった。君の気持ち、痛いほど良く分かった」
「先生、有り難う。母さんの病院は夜の面会はないんだ。だから、夜は母さんの傍にいられない。母さんも、そのことを理解してくれている。だから僕は、夜、学校に行く」
そして、母さんが退院して家に帰ってきたら、先生に教わったフレンチトーストを作ってあげたいと、はにかんだような笑顔で話すのだった。



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