[連載]

   111話〜 120話( 如 翁 )


前へ          次へ


◆その111
 「天国と地獄」

 最近柄にもなく、オペラ鑑賞に嵌っておる。
 特に女性歌手が紡ぐアリアなどにはうっとりと聞き惚れ、時の経つのも忘れてしまう。
「トスカ」の「歌に生き、愛に生き」、「フィガロの結婚」の「恋とはどんなものかしら」、「カルメン」の「ハバネラ」などなど、まさに至福の時間、天国気分である。
 そんな中気づいたのが、ソプラノ、メゾソプラノ、アルトという女性歌手の声質には、それぞれ男心をくすぐる独自性があるのではないか、ということである。
 翁のイメージとしては、ソプラノは恋人として言の葉を交わしたい女性として、メゾソプラノは愛人として情熱を語り合う女性として、そしてアルトは母性を体現する女性として、それぞれ立ち現れて欲しい、そんな感じがするのじゃ。
 特に、最近人気のあるソプラノ歌手、アンナ・ネトレプコがお花畑の中を、この儂に逢うために秘めたる思いを囁きながら歩いてくる場面などを想像すると、還暦をとうに過ぎた老体の身も忘れ、体が火照ってしまうほどじゃ。
 よし、よし、と彼女の想いに応えるため、この翁も愛の一節を歌おうとしたその瞬間、「なに何時までも自堕落してんのよ。そんな暇があったら、便所の掃除でもしなさいよ!」というバリトンもどきの山の神の叱責に、現実に引き戻される翁なのであった。



◆その112
 「白馬非馬?」

 はるか昔の中国。
 戦国時代に公孫竜という思想家がおったそうじゃ。
「白馬は馬ではない」という何とも不可思議な主張で今にその名を残しておる。
 その理屈は、「白とは色の概念であり、馬とは動物の概念である。よって、この二つの概念が結びついた白馬という概念は馬という概念とは異なる」というも のであるが、これでは「白馬」という文字と「馬」という文字は字数が違うから異なるものである、と言っているのと同じで詭弁そのものである。
 それが正しいのなら、世の中には一頭の馬も存在しなくなるではないか。
 こんな屁理屈のことを思い出したのは、例の毒入りギョウザ事件が起こったからじゃ。
 袋の外からの毒物混入はあり得ないという科学的な証拠があるにもかかわらず、彼の国の捜査当局は「毒物が我国内で混入された可能性は極めて低い」と宣うておる。
 従業員全員を調査したが、誰一人として疑わしい者はいない、というのが主たる根拠のようだ。
 まあ、事情はいろいろとあるのかもしれぬが、〈隣の大国〉の面の皮は、ギョウザのそれを遥かに上回るぶ厚さのようじゃ。
 もっとも、「白馬は馬に非ず」という論理がまかり通る国においては、「メタミドボスは日本で混入された」と主張するくらいは朝飯前なのだろう。
 さすがは「中国四千年の歴史」じゃわい。



◆その113
 「最終試験」

 昔むかし、この翁がまだ紅顔の美少年だった頃、学校の試験が近づくと、なぜか試験科目の勉強以外のことがやりたくなったものだ。
「僕が今やるべきは、元素記号を覚えるような些末な事ではなく、もっと世の中の役に立つような大きな事なのではないだろうか」などと考えて、理科の教科書 をほっぽり出したり、極めつけは、大学受験の前で、「僕は法律とか経済とか、そんな平凡な学問ではなく、本当は芸術家になるべきではなかろうか」などと芸 術的才能の一欠片も無いくせに夢想したりしたもんじゃ。
 何のことはない。
 単に勉学からの逃避に過ぎず、それを合理化していただけで、その成れの果てが、今の翁の姿、というわけじゃ。
 ところで、ちかごろ、またそれに似たような心理を抱くようになったのは、どうしたことだろう。
 例えば、一つのことに集中できんのじゃ。
 新聞を読んでいても、ああ、洗濯しなきゃならん、とか、庭仕事している最中に、急に本屋に行きたくなったり、とか、どうも腰が定まらぬ。
 単に根気が続かなくなる老化現象なのかも知れぬが、もっと根源的な兆しかもしれない、とも思えるようになってきた。
 つまり、近い将来の「試験」を控えての〈逃避の合理化〉なのではないか、とな。
 何の試験かって? 
 それは「最後の審判」じゃよ。



◆その114
 「最終試験」

 昔むかし、この翁がまだ紅顔の美少年だった頃、学校の試験が近づくと、なぜか試験科目の勉強以外のことがやりたくなったものだ。
「僕が今やるべきは、元素記号を覚えるような些末な事ではなく、もっと世の中の役に立つような大きな事なのではないだろうか」などと考えて、理科の教科書 をほっぽり出したり、極めつけは、大学受験の前で、「僕は法律とか経済とか、そんな平凡な学問ではなく、本当は芸術家になるべきではなかろうか」などと芸 術的才能の一欠片も無いくせに夢想したりしたもんじゃ。
 何のことはない。
 単に勉学からの逃避に過ぎず、それを合理化していただけで、その成れの果てが、今の翁の姿、というわけじゃ。
 ところで、ちかごろ、またそれに似たような心理を抱くようになったのは、どうしたことだろう。
 例えば、一つのことに集中できんのじゃ。
 新聞を読んでいても、ああ、洗濯しなきゃならん、とか、庭仕事している最中に、急に本屋に行きたくなったり、とか、どうも腰が定まらぬ。
 単に根気が続かなくなる老化現象なのかも知れぬが、もっと根源的な兆しかもしれない、とも思えるようになってきた。
 つまり、近い将来の「試験」を控えての〈逃避の合理化〉なのではないか、とな。
 何の試験かって? 
 それは「最後の審判」じゃよ。



◆その115
 「究極の選択」
 尾籠(びろう)な話で恐縮じゃが、さきほど済ましてきたばかりなので、話題とさせていただこう。
「お尻だって洗って欲しい!」という鮮烈なCMでウォシュレットなるものが登場したのは、今から30年近くも前のことであったろうか。
 少々大袈裟だが、そこはかとない快感さえ付随させるその発明はまさに文明史上の革命と言ってよいのではないか。
 というのも人類誕生以来、「その問題」は絶えず我々につきまとい、「そのこと」をどうするか、という創意と工夫が不断に求められてきたからじゃ。
 砂漠の民は砂を「活用」したというし、海洋民族は海水の恩恵に与ったであろう。
 本邦においても川の水や木の葉に負うところも大きかったのではないか。
 俄には信じ難いが、縄や棒にて「処理」したという、思わず顔が歪んでしまいそうな歴史的事実もあったようだ。
 それに比べれば、翁が若かったころに「活躍」した新聞紙などは贅沢品と位置づけられるのではないか。
 それにしても、しまりの悪い翁としては「急場」をいかに凌ぐかについては平素よりよくよく考えておかねばならぬな。
 さもなくば、「神(紙)に見放されたときは、おのが手で運(ウン)をつかめ」という格言を実行に移さねばならぬ羽目に陥るからの。
 いやー、今回は「蘊蓄(うんちく)」にもならぬ話に終始してしまったわい。



◆その116
 「胸中の成竹」

 世の中には想像を絶する才能を持っている人がいるもんじゃ。
 例えば音楽の父と呼ばれているバッハは、生涯に数多くの傑作を残したが、どうやってあのような美しい曲を生み出したのかと言えば、本人によると、頭の中に自然にメロディーが聞こえてくるんだそうな。
 あとは「神様、このような素晴らしい楽想を与えてくれてありがとうございます」と涙を浮かべ感謝しながらそのメロディーを楽譜に写すだけなのだそうだ。
 また、ミケランジェロも、まだ彫り始める前の大理石の中に既に完成した彫像が見えており、あとはその姿を彫り出していく作業を進めるだけだという。
 たまげてしまうわい。
 ところで、昔中国に竹を描く名人がおり、その秘訣を聞かれたところ、まずは心に竹の姿を思い描き、その胸中の竹を熟視しながら一気に紙上に写し取っていくのだと教えたそうな。
 この故事を基に、ものごとを成すに当たり一切の準備が整っていて自信満々、成算があるという状態を「胸中に成竹あり」と言い表すようになったそうじゃ。
 バッハやミケランジェロの場合はこの機微をも遙かに凌駕する事例と言えようが、この原稿自体、何ら当てのないまま書き進めている翁としてはせめて心の中で、いつもアッカンベーをしている邪念に立ち去って欲しいと願うのみなのである。




◆その117
 「白衣高血圧」

 「自律」とはカント哲学の根本を成す概念で、「実践理性が理性以外の外的権威や自然的欲望には拘束されず、自ら普遍的道徳法を立ててこれに従うこと」なのだそうじゃ。
 なんのことやらさっぱりわからんが、もしかすればこんなことではなかろうか。
 翁は少々血圧が高く、定期的に通院しているのだが、自分で測ったときに比べ、病院ではいつも血圧が10ポイントくらい高く計測されてしまう。
 こうした現象は一般的なことらしい。
 つまり意識はしていないのだが、病院という「外的権威」により検査されるという緊張から自然と血圧が上がってしまう傾向があるということなのじゃ。
 うん、わかるような気がするのお。
 しからば「自然的欲望」は、となるが、これがまたちゃんとあるのじゃ。
 診察室で白衣をまとった若い看護婦さんに「はい腕をだして」などと言われ、カバーをやさしく巻かれたりすれば、血圧の10や20上がるのもいた仕方ないとは思わぬか。
 心の奥深くにしまっているはずの「自然的欲望」が図らずも翁の血圧をして上がらしむる、といったところか。
 それにしても、「白衣高血圧」というのは言い得て妙じゃ、などとにやついているようでは「実践理性」が「普遍的道徳法」に従うなどへったくれもないわい。
 情けないのお、カント先生。




◆その118
 「疑問だらけの世の中」

 夏の季節、ラジオから聞こえてくるのは甲子園の熱戦と、夏休み子ども科学電話相談じゃな。
「水の中の金魚は窒息しないんですか」とか、「トマトは何故赤くなるんですか」といった子ども達の素朴な質問に専門の先生方が優しく答えるあの番組である。
 いつぞやの「家の裏山のお猿さんたちはいつ人間になるんですか」という進化に絡めた質問は傑作じゃったな。
 回答者も答えに窮しておったわい。
 そこで翁も童心に返っていくつか尋ねてみようかの。
「大人の人は二日酔いの時、もうお酒など見たくもないと言うのに、何故またすぐ飲み始めるんですか」
「郊外に大学や、いっぱい大きなお店ができているのに、コンパクトシティだって自慢している市があるのはどうしてですか」
「どこに行ったら居酒屋タクシーに乗ることができるんですか」
「日本は食料自給率が低いって心配しているのに、どうしてお米づくりを制限しているんですか」
「裁判官になるような立派な人がどうして部下の女性にいやらしいメールを送ったりするんですか」
「分厚い電話帳の配布を断れば、電話代は安くなるんですか」等々。
 こうしてみると、世の中、疑問だらけじゃが、誰か「翁ちゃん、それはね…」って優しく、明快に答えてくれんものかの。



◆その119
 「三方一両得?」
 先日東京のAさんから聞いた話じゃが、Aさんの子供が足を痛めたので街の薬屋から千五百円くらいの湿布薬を買って手当てをしたという。
 ところがその話をAさんから聞いたBさんが「ばかだなあ。医者に行けばタダなのに」と咎めたという。
 なんでも、好景気の東京では税収が豊かなので、中学生まで医療費を無料にしているのだそうだ。
 事実、医者に行けば経費はかからず、得をするし、またお医者さんも好都合らしい。
 というのも、目の前の患者から治療代等を払ってもらうわけではないので、例えば3日分も出せばよい薬を多めに10日分くらい処方し、薬局の売り上げと、ひいては自分の儲けを伸ばすことができるというカラクリらしい。
 三方一両得といったところか。
 その結果、家の中が薬だらけになり、結局ゴミとして捨てることも多いそうだ。
 Aさんも「いかがなものか」と疑問を呈しておったが、こんなモラルハザードが罷り通るようでは、日本の将来は暗いと言わざるを得んの。
 一方で、道楽的に銀行を設立し、経営が行き詰まって4百億円も追加投資する自治体があれば、他方で、本来子供達のために学校の図書を購入すべき経費を、泣く泣く校舎の修繕に流用せざるを得ない自治体があるという実態。
 これも貧乏自治体の「自己責任」なのじゃろうか。



◆その120
 「画竜点睛(がりょうてんせい)」

 先般の防衛省不祥事の際、新聞に面白い記事が掲載されておった。
 それは陸海空そして内局から構成されている防衛省の一体性のなさを解説したもので、それぞれの組織がお互いを揶揄し合う表現を紹介しておったが、陸上自 衛隊は「用意周到 動脈硬化」、海上自衛隊は「伝統墨守 唯我独尊」、航空自衛隊は「勇猛果敢 支離滅裂」、そして内局は「優柔不断 本末転倒」とのこ と。
 なかなかに言い得て妙じゃが、これで我が国の防衛は大丈夫なのか心配になってくるわい。
 それはそれとして、翁もこれに倣って各省庁の有り様を表現するコピーを考えてみた。
 財務省は「理路整然 面従腹背」、国交省は「公共尊崇 国土荒廃」、農水省は「食産奨励 米作崩壊」、総務省は「地方分権 我田引水」、厚労省は「課題 山積 無為無策」、社保庁は「能力皆無 魑魅魍魎」、文科省は「総合学習 学力低下」、外務省は「米国追従 唯々諾々」、宮内庁は「古色蒼然 時代錯 誤」、内閣府は「公家集団 泡沫組織」、経産省は「存在希薄 昔日望郷」、環境省は「地球温暖 拱手傍観」、警察庁は「初志貫徹 馬耳東風」、法務省は 「天地悠久 頑迷固陋」、東京地検は「国策捜査 戦々兢々」といったところか。
 どうじゃ。
 えっ、なんじゃと? 「自画自賛 画竜点睛」だってか…。





 老婆心ながらTOP
前へ          次へ

トップページへ